86) 2周目 気づき
リアはルーキスの書斎にいる。マヴロ病に関する書物を借りにきたのだ。リアは白いワンピースを着て、黒い髪を『髪飾り』で右肩のあたりでゆるく結んでいる。ルーキスは黒いスーツを着て、リアと同じく癖っ毛の黒髪で、相変わらず常に難しい顔つきだ。
「少し待っていなさい、シンシア」
ルーキスは書斎にリアを残して部屋を出る。
(お父様の部屋に、はじめて入ったわ)
リアは、きょろきょろと書斎を見回す。大きな書き物机の周りや本棚のあたりを、物珍しそうに歩き回ってみる。
ルーキスの机の上に、新聞が置かれている。新聞なんて、リアはほとんど触れたことがない。ウィローもロアンも読まない。リアにとっての新聞といえば、旅の途中に、配っていた新聞をもらって、それをウィローが魔術で加工して動物の人形を作ってくれて面白かった思い出があるくらいだ。
(お父様は新聞を読まれるの?)
魔物なのに? と思ったが、元々は辺境伯の仕事もしていたわけだから、世の中の動きには興味があるのかもしれない。
しかしルーキスの机の上にある新聞は、ひと月ほど前の日付だった。なんのために置いてあるのだろう。
リアの目に「魔病」という文字が飛び込んでくる。ちょうどルーキスが読んでいたページのようだ。リアは新聞の読み方がわからず、(こうかな?)と首を傾けながら読む。
それは「魔病討伐隊」の結成について、エオニアという国の教皇が声明を出した、という記事だった。教皇とは、王様のことだろうか?
(えっと……聖女がいない状態での魔王の呪いの封印についての……)
(各国の懸念を……大陸の民の不安を……)
リアは、ロアンの言葉を思い出す。
『リアは聖女なんです。ウィローはリアが聖女であることを隠しているんだ』
(あのときはロアンの発言が突拍子もなくて、大笑いしたけれども)
ルーキスがマヴロ病について書かれた本を手に書斎に戻ってくる。
「何かありましたか、シンシア」
「お父様、あの」
リアはルーキスを振り返り、聞く。
「私って、聖女だと思う?」
ルーキスは古い赤色の本をリアに渡す。
「シンシアは、聖女ではありません」
「そうだよね」
リアは本を受け取り胸に抱きながら、ホッとしてため息をつく。
しかし、ルーキスはこう続けた。
「我が主が『聖女にしない』と私に約束をした。なので貴女は、聖女ではありません」
「……」
タフィの教会でロアンは言った。
『ウィローの協力者は辺境伯だったわけですね』
リアは黒い瞳でルーキスを見つめる。
「じゃあ、もともとは聖女だったってこと?」
「それを私は、認めていない。シンシア」
リアは、父の表情の変化を感じ取る。
ルーキスの表情に、かすかな風に揺れる蝋燭の灯りのような、感情の揺らぎがある。
ルーキスはリアに言う。
「貴女は、聖女ではない」
ーーーーーーー
リアは自室の書き物机でマヴロ病についての本を読む。そこで、アサナシア教が行っている百年に一度の魔病討伐について知る。魔王の呪いの封印は、聖女の仕事だと知る。
そして「魔王の呪いの封印」も「マヴロ病の流行」もリアが思っていたような小規模な話ではなく、マヴロス大陸全土に渡る話だと知る。それこそ大陸の平和の要が、聖女であるかのような書かれ方だ。
リアは本を開いたまま、こてん、と頭を横向きに机に乗せる。
ロアンは言った。
『生まれ持っての神聖力は、本当に稀な力です。リアの神聖力は、私のものよりずっと強いし、多くの人に役立てる力なんです』
『リアは聖女なんです。ウィローはリアが聖女であることを隠しているんだ』
父は言った。
『我が主が『聖女にしない』と私に約束をした』
『貴女は、聖女ではない』
ウィローは言った。
『そのことは、ぼく以外の人の前で言ってはいけないよ、リア』
『あんまり他の人の前で『リアの魔法』を見せないで欲しいんだ』
確かに――ウィローは、リアに神聖力があることを隠していた。ルーキスと同じく。リア自身にも、長いこと隠していた。
今も「教会につかまってしまうから」と、隠そうとしている。
アサナシア教の信徒とリアが会ったとき、ウィローはものすごく怒っていた。スペンダムノスの噴水で。信徒は、なんて言ってたっけ。
『アサナシア教は、マヴロス大陸全土に広がる宗教だよ』
そんな大事なことを、お父様もお母様もウィローも、リアに黙っていた。
リアは魔病についても、ロアンがかかるまで、何も知らなかった。
『今、教会は、神聖力を持った人たちを集めている。今代の聖女様が亡くなってしまったから』
(亡くなった?)
アステルの名前を教えてくれた日に、ロアンが言った。『リアも死んだことになっている』と。
ウィローは突然、塔にやってきて、リアに言った。
『ここにいると、シンシアは危険なんだ』
『シンシア、きみはこれから別人として生きるんだ』
金色の蝶は、リアに言った。
『貴女には、貴女にしかできないことがある』
ーーーーーーー
ロアンが勉強していると、部屋にリアが駆け込んでくる。ノックもせずに、勢いよく扉を開ける。ロアンは手を止めて、振り返る。リアの表情は優れない。
「リア? どうしましたか?」
リアは、堰を切ったように話し始める。
「ねえ、ロアン。『魔王の遺骸の封印』って本来は私の役目なんじゃないの? だってロアンは、私のことを聖女だって言ったよね」
リアの黒い瞳に、不安の色がある。
「みんなに役立てる力を持っている、って言ったよね」
ロアンはしばらく黙りこんだあと、言った。
「そうです」
「私、ここにいちゃダメなんじゃないの? 逃げたり隠れたりせずに、教会に行かないといけないんじゃないの?
だって『魔王の遺骸の封印』は、本来、私の仕事で……ロアンだけじゃなくって、たくさんの人が魔病に苦しんでいるって――」
リアは胸の前で両手をぎゅっと握りしめる。リアが握りしめた手のそばで『ウィローのお守り』が揺れている。
「リア、聖騎士試験のあと、貴女が計画したパーティーを私が台無しにしたことを覚えていますか?」
「もちろん、覚えているわ」
リアは、ハッとする。
「もしかして、ロアンは私と教会に行こうとしたの? それで、ウィローと喧嘩したの?」
「そうです」
「聖騎士試験に受かるまで、私には魔力と神聖力が見えなかった。生まれつき、どちらもまったく持っていないからです。
試験に受かって、見えるようになって……ウィローに魔物の魔力があり、リアに強い神聖力があることを知った。
リア。リアが聖女だということをアサナシア教会は知っていました。だから教会は『今代の聖女は亡くなった』と言っている」
ロアンはどう話すべきか迷いながら。しかし、自分の思いをすべてリアに打ち明ける。
「ウィローは……アステル様は、王子であった自分を死んだことにして、貴女を死んだことにして、塔から連れだしました。貴女が、アサナシア教会にもう見つかっていたからです。
魔術の痕跡を残さないように陸路でキアノスまで旅をして。神聖力を覆い隠す結界のある家に貴女を住まわせて、普通の暮らしをさせようとしました。今は、教会の手の届かない、タフィのコミューンに貴女を隠している。
そしてウィローは今、自ら、魔王の遺骸を封印しようと研究をしている」
ロアンの緑色の瞳が、リアの黒い瞳を静かに見つめる。
「全部、リアを聖女にしないためだ。貴女が教会に行ってしまったら、ウィローの今までの苦労をすべて、台無しにすることになります。
ウィローは『教会がリアを殺したがっている』と言っていました。おそらくリアにとって、教会に属して行う『魔王の呪いの封印』は大変危険なことなのでしょう」
リアは、うつむく。
「ロアン、私、全然わかんない」
「今の話って、私が負うべきことを、ウィローが全部負ってくれているって話にならない?
それこそウィローの人生を全部、犠牲にして、私を助けようとしているって話になるじゃない」
「……私も、長年、そのことを考えてきたんですけれども……」
ロアンは座ったまま。目を伏せたあと、もう一度リアの目を見る。
「先日リアに話したことですけれど、ウィローはそれで、心と体が病んだ状態から回復して、笑顔を取り戻したんです」
「……全然わかんない……」
ウィローがリアを救うことで、ウィロー自身が救われる理由が、リアにはまるで見えてこない。
「ウィローはすべてを投げ打って、リアを聖女ではない、ただの女の子にしたんです。それがウィローの幸福に繋がっている。だからリアがウィローの気持ちに応えるなら、ただの女の子のままでいるべきなんです」
「……」
「わかんないよ、ロアン」
リアはロアンから目を逸らす。
目を閉じて、思う。
(どうして私に、そこまでする価値があるんだろう)
ウィローの持つ天秤の片側のお皿にリアがのっていて。まるで、もう片側に何がのっても、リアのほうが重いとウィローは考えているみたいだ。
大陸の平和や、ウィローの人生がのっても。なにがのっても、リアが傾く。
ウィローは言った。
『愛に理由なんて、いる?』
愛に理由はいらないかもしれない。
でも、そこまでの愛を持つに至った理由はいるんじゃないか、とリアは思う。
でも……聞いたら、傷つけそうで、踏み込めない。『アステル』と呼んだときの、あの顔を思い出すと。