75) 2周目 「おかえり」
季節は秋だ。ウィローは魔王城まで続く獣道を歩いている。裾に美しい金の刺繍のほどこされた白いローブの中に茶色い鞄をさげて、金色の髪に青い瞳のウィローは歩く。
この道はウィローにとって、かつて魔物をたくさん殺した道だ。とにかくどれだけ早く殺せるかだけを考えて、たくさん、たくさん、たくさんの魔物を殺した。
しかし、今日は魔物はでてこないようだ。
(あのときは、あんなにたくさん出てきたのに。静かすぎて逆に不気味だ)
時を巻き戻ってこの世界に来てからというもの、魔物はウィローの機嫌が悪かったり、緊張しているときに近寄ってこない。機嫌がよければ逆に擦り寄ってくることもある。特にタフィの地の魔物は『人懐っこい』。
ウィローは森の茂みにチラッと目をやる。魔物たちは森に隠れているようだ。ウィローと目が合うと、魔物はウィローに対して頭を垂れる。
(ぼくは魔王じゃない。魔物たちは勘違いをしている。だって、この世界の『魔王の遺骸』はまだ城にあるのだから)
魔物に恭しく扱われるのが嫌で、ウィローは白いローブのフードを深く被ると、前か地面のみを見て歩くことにする。
ウィローは森の途中に開けた場所を見つける。かつての戦闘のあとがのこる場所だ。苔むした倒木に座りフードを脱ぐ。カバンの中から綺麗な水色の布に包まれた包みを取り出す。
ウィローは今朝はやく、タフィのコミューンから来た。タフィは旧魔国に近いからだ。朝早いというのに、リアが珍しく、ウィローよりも早く起きていた。そして「これ食べて!」とウィローに包みを差し出してきた。リアの顔は真っ赤だった。
「ロアンと修行したから!」
ウィローは(何の修行?)と心の中で笑いながら「ありがとう」と包みを受けとった。リアは、嬉しそうに笑った。
水色の包みをあけてみると、サンドイッチが入っていた。
(うん、美味しい。しあわせな気持ちを補充した)
リアに感謝しながら、ウィローは残りの道のりを歩く。
ウィローは、カタマヴロス城まで2日半でたどり着く。城に入る前にウィローは、月の耳飾りのみを身につける。いつなんどき、何があっても良いように。
カタマヴロス城の扉の結界は、アサナシア教会が施したものだと思われるが、ルーキスが言った通り本当に精度の低いものだった。
(不用心すぎる)
コルネオーリは他国と比べて魔術が5年は進んでいるという話があるのを思い出す。
(では、魔術院にいたっては8〜10年は進んでいるね)
ウィローはもう魔術院にいるわけでもないのに、得意げな気持ちになる。
そもそも扉以外に結界は仕掛けられていないようだ。これでは魔物に対しては「自由に入ってどうぞ」と言っているようなものだ。
(まあ、ぼくは、魔物ではないけれどもね。でも、教会の結界を破るのも後始末が面倒だから、別の場所から入ろう)
ウィローはふたつのことを心に誓い、魔王城へ来た。ひとつ、何があっても(自分は魔物ではない)と言い聞かせて、心を強くもつこと。心を強くもち、魔王の遺骸にのまれないこと。ふたつ、何があってもパニックになったり、取り乱したりしないこと。取り乱したら、その心の隙を魔王の遺骸につけ込まれる気がするからだ。
(なるべく明るく楽しいことを考えながら進もう。魔術院の技術を駆使したら、魔王城の結界をどう構成するか、とかね)
一階の大広間の窓から魔王城に入ると、知らない声がいくつも聞こえた。
「おかえりなさい」
「魔王様、おかえりなさい」
「おかえりなさい」
「おかえり、魔王様」
ウィローは幻聴だと思い込むことにする。
大広間は、はじめて来た場所だ。蜘蛛の巣が張っていて、奥に蜘蛛型の魔物がいるようだ。ウィローは仲が良かった友達のアラーニェのことを思い出す。一匹遺されたアラーニェの子どもは、あのあとタフィに連れてきて森の中に放した。タフィの地で大きくなってきて、今ではアラーニェの半分くらいの大きさになっている。
廊下を歩き、螺旋階段へ向かう。白い螺旋階段を見上げて、ウィローは頭が痛くなってくる。いつもなら頭痛なんて放っておくが、躊躇せず回復魔法を使う。元気に、気をしっかり保っていないと、目的を成し遂げられる気がしなかった。
(楽しいことを考えよう。サンドイッチをつくっている可愛いリアのこととか)
封印の扉まで来る。封印の扉は、神聖力で開ける扉だ。ウィローには開けられない。どうやって入ろうかと扉の前で考えていると、向こう側から扉が開く。
(……?)
しかし、誰もいない。気味が悪い。暗い廊下の奥から風が吹いてくる。ウィローはカンテラを取り出すと、時間をかけて最大限の灯りの魔法をこめてきた魔石を入れ、触れる。眩しすぎて、慌てて少し調整をした。
廊下を進む。教皇とすれ違ったあたりにくる。
ウィローは立ち止まらず、進み続ける。
暗い穴にたどり着き、ウィローは飛び降りる。
カンテラの灯りを、最大限に調整しなおし、端に置く。魔王の遺骸は、先代の聖女がほどこした封印につつまれている。しかし、呪いが漏れ出している。漏れ出す箇所が多いようだ。マヴロ病の流行も頷ける。
普通の人間なら、近づいただけで急速に魔病に侵されて死ぬのではないだろうか、とウィローは感じる。
(まあ、ぼくは『丈夫な人間』だからね)
ウィローは魔王の遺骸を見つめる。魔王の遺骸は脈打っているが、あまり動かないようだ。活性化していない、とウィローは思う。
青い瞳で、魔王の遺骸を見つめる。
(これがある限り、リアは自由になれない)
ずっと教会から逃げ隠れしなければならない。神聖力を隠して生きなければならない。
以前、ウィローには『魔王の遺骸』と『呪い』の違いがわからなかった。見た目に違いがないからだ。しかしルーキスが『別物とは言いきれないが違いがある』と教えてくれた。
魔王の遺骸が本体であり、遺骸は呪いに厚く包まれている。なので、表面上見えているのは魔王の呪いのみなのだと。漏れ出てくるものも「呪い」であると。呪いはどんどん薄まって、風に乗って人里まで運ばれる。しかし呪いは遺骸が薄まったものにすぎないので、構成要素は変わらないと。
(そうであればまず、ぼくは「魔王の呪い」をどうやって採取するかを考えないと)
ウィローは離れたところに立ち。魔王の呪いが漏れ出しているところに向けて、魔力を走らせてみる。すると、呪いは細い筋になって、ウィローのほうに向かってきた。ウィローはロアンから借りた聖なる剣で、魔王の呪いを断ち切る。呪いは霧散して消えてしまった。普通のナイフで断ち切った場合もそうだった。
ウィローは、少し賭けだが……呪いに対し素手を差し出してみる。素手を差し出し、呪いが向かってきて手に触れたところで、ナイフで断ち切る。魔王の呪いに触れたとき、ウィローは痛みを感じなかった。『呪い』は霧散せずに、ウィローのなかに少し入る。ウィローは自身の魔力が少し、強まったのを感じる。同時に酷く気分が悪くなり、回復魔法をかける。
素手で魔王の呪いを触れば、普通の人間であれば強い痛みを得るだろう。
(ぼくは強い人間だから)
ウィローは自らに言い聞かせて、検証を続ける。
聖なる蝶を触る要領で、手を魔力で何重にも覆い、先ほどと同じことをしてみる。魔王の呪いはウィローの手の中で、形を持ったまま、うねうねとうねった。
(触れる)
普通に触れてしまった。成功した。しかし喜びよりも、気持ち悪さが勝る。魔王の呪いの感触がひどく気持ち悪い。
シンシアをこんなものに触れさせていたのかという思いが浮かび、しかし気持ち悪さより痛みが強そうだったな、と思い……かつて『アステル』の手に呪いが触れたときの激痛も思い出して……首を横に振る。シンシアのことを考え始めると、心に隙ができそうだと感じたからだ。
ウィローは片手で『魔王の呪い』を持ち、床にしゃがみ、鞄をあけるといくつかの透明な小瓶を取り出す。小瓶の中にはウィローの血、髪の毛、骨、歯、様々な内臓の一部などが入っている。回復魔法をかけながら採取したものだ。
小瓶は魔石を加工してできている。なので、実際に魔石に『魔王の呪い』を固定化するときと同じような条件となるはずだった。小瓶の蓋も、魔石で作ってある。
ウィローは魔王の呪いを、順々に、小瓶に入れて蓋をする。しかしどれも、固定化に至らない。ウィローから離れた途端、瓶の中で少しとどまったとしても、そのうち霧散して消えてしまう。血が一番、とどまる時間が長かったが――
(そう簡単にはいかないか。何が足りないのだろう)
ウィロー自身と、ウィローから切り離されたウィローの体。どちらも魔王の魔力が通っているはずだ。しかし、『ウィロー自身』と『ウィローの一部』には何か決定的な違いがあるようだ。
手におこなったように、魔力で小瓶にカバーをかけても結果は変わらなかった。
ウィローは魔王の呪いを採取して、小瓶に入れることを繰り返すうちに、なんだか焦りを感じてくる。うまくいかずに気持ちが暗くなる。魔王の遺骸を見つめる。
魔王の遺骸から、シンシアの声が聴こえてくる。『痛い、痛い、痛い、痛い――』まるでシンシアが、今、この場にいて、今、命を奪われ続けているような気がしてくる。助けなきゃ。魔王の遺骸に近づこうとして、近づいてはダメだと気づく。『痛い、痛い、痛い――』違う、これは幻聴と幻覚だ。ウィローはぎゅっと目をつむる。震える手で、月の耳飾りに手を伸ばしかける。
サンドイッチを差し出し、ウィローが受けとると花のように笑った、リアの笑顔を思い出す。
ウィローは踏みとどまる。幻覚と幻聴が消える。しかし、手の震えが止まらない。
ウィローは実際に使用する予定の、小さく透明な正八面体の魔石を革袋からとり出そうとする。手の震えで革袋を取り落とす。場に、魔石が散らばる。シンシアのために、灯りを散らばせたことを思い出す。あの場に引き戻される。ウィローは慌てて灯りを拾おうと床に膝をつく。気づく。呼吸がうまくできない。
(息が、)
ウィローは、はやい呼吸を繰り返す。
(息が、できない――)
ウィローはひどく苦しむ。窒息しそうだと感じて、床に手をついてもがく。すると突然、黒い毛布のようなものが上から降ってきて、ウィローの体を覆う。何も見えなくなる。不思議なにおいがする。あたたかい。ウィローは驚くが、毛布に包まれているうちに、息の仕方を思い出す。黒い毛布はもぞもぞと動き、ウィローから離れる。
「魔王様、大丈夫?」
魔物はウィローに声をかける。
目の前に折りたたまれた黒い毛布があり、その隙間から声がする。ウィローが毛布をめくると、黒い毛むくじゃらの魔物が、大きなふたつの黒い瞳でウィローのことをじっと見つめている。