69) 2周目 混濁する意識
混濁する意識のなかで、小さなルアンが目を輝かせてぼくに拍手をしている。森のなかに魔物の死体がある。ベッドに長く散らばるお母様の髪。おじいさまの手が、ぼくの金色の髪を撫でる。ルアンと剣を交えたときの音。ぼくが作ったへんてこなケーキを食べたルアンの笑顔。
白い女の子の姿絵。白い女の子がカーテシーをしている。シンシア。部屋を触ってまわるシンシアの白い手。床に眠るシンシアの細い肩。はじめて花を渡したときの驚いた表情。雨の日に毛布の中で泣いているシンシア。金細工のお守りを見て、綺麗だと喜ぶ横顔。太陽の光さす花畑で、飛ぶ鳥を嬉しそうに追いかける目線。何度もつないだ手。ぼくの膝の上で恥ずかしそうに「アステル」と呼ぶシンシア。白い箱の中の、月と星の耳飾り。温室でのキス。帽子で顔を隠すシンシア。ボートの上で白い髪についた赤い葉っぱ。風に揺れるウィローの木。シンシアからのキス。左足の火傷の跡。涙。白い花嫁姿で、照れたように部屋に入ってきたシンシア。ぼくの腕のなかのシンシア。朝、起きたときのシンシアの寝顔。ソファーの上で重ねた手。抱きしめたときのぬくもり。小さな体。あたたかな髪。お花が咲いたように笑う顔。
耳に残る、シンシアの悲鳴。痛い、痛い、痛い、痛い―― 魔王の遺骸に触れて、激しく泣き叫ぶシンシア。次第に弱っていくシンシアの姿。
何もできない、見ているだけの、ぼく。
シンシア、ねえ、ぼくもそちらへ行きたい。
きみと一緒に、死んでしまいたい。
死んでしまいたかった。
シンシアは何も言わない。シンシアはもう何も言えない。魔王の遺骸がなくなった世界で、床の上で冷たくなっていくシンシアの体。夢の中でもぼくには触ることができない。手を伸ばしても届かない。
シンシア。愛しいシンシア。
ぼくはかならず、きみの願いを叶えにいく。きみを救ってみせるから――
汗びっしょりになって、アステルは目を覚ます。ここは――コルネオーリ城の自室だ。ベッドの上で寝ていたようだ。上半身を起こし、手を見る。少年の手だ。震えている。夢ではない。本当に時を巻き戻り、過去に戻ってきたようだ。この世界のアステルの体を乗っ取って。
魔術は成功した。しかし、喜びなんてない。愛するシンシアは死んでしまった、痛いと叫びながら死んでいった。守れなかった。死なせてしまった。
震える手に、ぽたり、ぽたりと涙が落ちる。声にならない声を押し殺して、少年の姿のアステルは泣く。
シンシアの運命を変えたいと――助けたいと思って、過去に巻き戻った。『魔王の遺骸』と『自らの命』を触媒にした。代償で体が崩れ落ち、想像を絶する痛みがあった。でもそんなのは、長く痛みを感じながら、少しずつ命を奪われていったシンシアの苦しみに比べれば、ほんの一瞬だった。
きっと、ここにはあの「シンシア」はいない。うつむきがちで、自信がなくて、でも、花が咲くように笑うシンシアはいない。
この世界のシンシアは、よく知るシンシアではない。シンシアはもう、死んでしまった。看取ることすらできなかった。違う。
(ぼくが、看取らない選択をした)
ルアンは、シンシアを看取るのに間に合ったのだろうか。
(ルアンはシンシアだけではなく、ぼくの末路も見たはずだ)
ルアンは、どうなっただろうか……。
シンシアとルアン。
この世界では、まだ2人とも幼く、何も知らず。そして、生きている。
シンシアは、きっと、母親と塔にいる。今すぐこの世界のシンシアに会いに行きたかった。抱きしめたかった。抱きしめて、シンシアが生きていることを確認したかった。そして虐待を受ける前に辺境領から助け出し、神聖力のことをひた隠しにして、教会と関わらないように育てる。
そんなことを淡く夢想する。
(だが、ぼくもまだ、少年だ。幼いシンシアを守りきれるだろうか?)
漠然と考えるうちに、大変なことに気づく。この世界では、まだ、シンシアのための研究が完成していない。それどころか、研究記録すらない。
『シンシアのお守り』がまだない。
彼女に貰った、大事な耳飾りもない。
どちらも、存在しない。
(研究記録なく、「太陽の光を防ぐ魔法」を成立させることが果たして可能なのか?)
アステルは恐怖する。
頭の中で覚えている情報――記憶のみで、あの魔法を成立させることができるのだろうか。
「太陽の光の克服」は、シンシアの幸福にとって絶対だ。それだけは譲れなかった。シンシアの死の大きな一因かもしれない。だとしても、譲れない。
(ぼくはシンシアをただ、生かすためだけではなく。幸せにするために戻ってきたのだから)
しかし、あの複雑な魔術を成立させることが、可能かどうかがわからない。
アステルは心臓を鷲掴みにされたような気持ちになる。毛布を掴み、握りしめ、しばらくそうしている。
少し恐怖が過ぎ去ったあとで、小さな両手を開いて眺める。
(ぼくは、どのくらい過去に戻ってきたのだろう)
ベッドからおりて鏡に映った少年の姿を見て、ぞっとした。あわてて、メガネを探す。
メガネはリボンのついた箱に入った状態で書き物机の上にあった。12歳の誕生日に一番上の兄がくれたものだ。つまりアステルは今、12歳だ。
このメガネは魔術研究用で、ものにこもった魔力をある程度、数値化して見ることができる。不正確だが、人の魔力も見ることができる。
メガネをかけて鏡でもう一度、姿を見る。気分が悪くなり、アステルはその場に崩れるように座り、嘔吐する。
アステルは、とても人間とは言い難いほどの強大な魔力を手に入れた。
あの世界の「魔王の遺骸」は、どうやら、アステルと融合してしまったようだった。