61) 1周目 月と星の耳飾り
魔術院のシンシアの部屋に戻り、アステルとシンシアは深緑色のソファーに並んで座っている。ふたりとも静かに、考え込んでいる様子だ。
「……アステルのそばにいられないなんて」
ぽつり、とシンシアが言う。
「ぼくも、同じ気持ちだよ、シンシア」
ふたりは目線を合わせる。
「アステルが危険な場に行くの、私、本当にイヤです」
「シンシアは、ぼくが弱くて頼りないと思ってるの?」
アステルはシンシアに笑いかける。
「そんなことはないですが……」
「ぼくは魔物を一掃するつもりだよ、自信がある。シンシアのところにねずみの魔物一匹逃さないよ」
「アステルはすごいですね……」
その自信はどこからくるのだろう?
(私にもその自信のカケラでもあれば……)
シンシアは膝においた自分の手を握りしめる。
「使者たちは、前回の魔病討伐には5日かかったと言っていたね。ぼくが魔物を一掃したら3日で帰って来られるんじゃないかな?
だから、ぼくたちが離れ離れなのは、たったの3日だよ」
アステルは冗談混じりの明るい口調だ。
シンシアにも笑顔が戻る。
「それに、ルアンがいてくれる。会議の場では『え、おれですか?』って顔をしていたけれど、きっとシンシアを守ってくれるよ」
「ルアンがいてくれるのは、心強いですね」
そのあと、またしばしのあいだ、沈黙がおとずれる。シンシアはおそるおそる、口を開く。
「アステル……あの……」
「どうしたの、シンシア」
「こんなこと、アステルにしか言えないのだけど」
シンシアは白い横髪を垂らして、うつむく。
「私、自信がないの」
ぽつり、と言葉をこぼす。
「魔王の呪いの封印、大陸の民を救うなんて、そんな大役、私に務まるのかしら」
シンシアは不安そうだ。
アステルはすこし黙ったあと、小さな声で聞いた。
「……シンシアは、聖女なんて、やめたい?」
シンシアは、目をぱちくりさせる。
ソファーに置かれたシンシアの手に、アステルは手を重ねた。
「……逃げちゃおうか?」
「え?」
「キアノスのアズールという海辺の街に、ぼくのおじいさまの生家があるんだ。ぼくが昔、『王子なんて辞めたい』って泣いていたら、おじいさまが『本当に逃げたいなら、いつ逃げたってかまわない』『好きに使っていい』ってアズールの家の鍵をくれたんだ」
(アステルにそんな頃があったなんて)
想像がつかない。しかし、きっとアステルは幼少期から、他の王子と対等の扱いは受けてこなかっただろう。シンシアは、『魔術に没頭し、ルアンしか友達がいない』小さなアステルのことを考える。
「ぼくは王子に向いていないし、シンシアも聖女に向いていないなら、そこで普通に暮らしたって良い。コルネオーリ王家をふたりで家出して、魔病なんて、大陸の滅亡なんて知らないよって言って。つつましやかな家庭を築いて、幸せになることだけを目標にする。シンシアがもし望むなら、ぼくは、そうしていいよ」
アステルはシンシアのために『全部投げ打ってもいいよ』という話をする。
「だって、どうしてシンシア一人が背負わなくちゃいけないんだ。聖女に生まれたくて生まれたわけじゃないのに」
(アステルは、気持ちに寄り添ってくれている。私のために怒ってくれている)
「アステル」
シンシアは優しい夫の名前を呼ぶ。
「でも、アステルだって王子様に生まれたくて生まれたわけじゃなかった。だけど今まで、逃げずにきたのでしょう?」
(……アステルの努力を、私が台無しにすることはできないわ)
「偶然だよ」
「偶然だとしても、アステルは頑張ってきたんだわ」
シンシアは、アステルの手にもう片方の手も重ねる。
「それに、もし今後、アステルが魔病にかかったら……ということを想像すると……私、やっぱり魔王の呪いの封印はしなくちゃ、って思うの。
それができるのは私だけなんだから」
シンシアはぎゅっと目をつむる。
「だけど怖くて足がすくみそう。失敗したらどうしよう、私にできなかったらどうしよう、ってずーっと考えてしまうの」
アステルは少し考えた上で、言葉をかける。
「シンシアは魔病討伐には参加したい。聖女の役割を果たしたい。でも、勇気がでないんだね」
アステルはローブの左胸のポケットから茶色い皮の小袋をだし、中から『月と星の耳飾り』をとりだす。
「『帰還の魔法』、完成したんだ」
耳飾りを手のひらに置いて、シンシアに見せる。
「この耳飾りに同じ場所への『帰還の魔法』をかけて、ひとつずつ持っておこうよ。それで、シンシアが逃げたいって思ったら、いつでも『帰還の魔法』を使ってほしい。危ないときとかも、逃げてほしい。ぼくはシンシアが逃げたって気づいたら、すぐに後を追うから」
アステルは真剣にシンシアにそう伝えた後で、やわらかく微笑んだ。
「いつでも逃げられるって思っていたら、すこし、気持ちが楽になると思わない?」
シンシアはちいさく、頷く。
「ぼくが月の耳飾りを持つ。シンシアは、星の耳飾りを持っていて。魔病討伐のあいだ、お互いと思って持っておこうよ」
シンシアは頬を赤らめる。
アステルは月の耳飾りを指でつまむと、目の前で少し揺らしながら眺める。
「でも、コルネオーリに逃げるのは、エオニアにとって想定のうちで、対策されているだろうね。
アズールに直接、逃げるのも……この魔法は痕跡を残さないように設計したつもりだけど、万が一を考えると、まわり道をして行ったほうが良いだろうね。
シンシアは、どこか行ってみたい場所はある? 魔病討伐から逃げるとして……どこに逃げたい?」
シンシアは考える。楽しい場所が良いな、と思う。頬を赤らめたまま、うつむく。
「……スペンダムノス」
アステルはシンシアを可愛く思い、微笑む。
「いいよ。じゃあ魔病討伐から逃げたら、春のスペンダムノスをのんびり観光でもして、パゴト(アイスクリーム)を食べてから、アズールに行こう」
「シンシアにとっての『お母様の木』で落ち合おうね」
「わかりました。もし逃げたら、お母様の木に行きますね」
「もうだめだと思ったら、何も考えず、とにかく逃げるんだよ。いいね?」
シンシアは、アステルを抱きしめる。
アステルは、シンシアを抱きしめ返す。
抱きしめたシンシアの体は細くて、シンシアの強い神聖力をもってしても……本当にシンシアひとりで魔王の呪いの封印なんてできるのかな、とアステルは考える。途中まで教皇様とやらが手伝ってくれるのだとしても。
シンシアを不安にさせたくないから、絶対に口に出さないが……アステルも不安だ。
(ぼくは、絶対に儀式に立ち会う。神聖力のない、ぼくに何ができるかわからないけれど……シンシアを一人にさせない)
アステルは、心に誓う。