36) 2周目 10歳 その夜の魔物
魔物を見たことがある。
4つの頃、塔に迷い込んだ魔物をお父様が殺したのだ。お母様に抱っこされながら、回廊から、塔の入り口で魔物をお父様が棒で殴り殺すのを見ていた。黒い毛むくじゃらの、狼のような魔物は、青い血を流して死んでいった。
その夜に塔を訪れたのも、魔物だった。人間のように見えるが、禍々しい、恐ろしい魔力をしていた。魔物は人間と一緒にやってきたが、魔物のほうが立場が上のようだった。それもまた、恐ろしかった。
塔の入り口で、ばあやと魔物は何か話しているようだった。内容までは聞き取れなかった。ばあやは本邸に走っていって、戻ってくると、また魔物と話した。
それから、ばあやと魔物と人間が、階段を登ってきた。回廊からろくに見えない目と聡い耳をこらしていた私は、走って自分の部屋に入る。
部屋の扉がノックされて、ばあやの声がする。
「シンシア様、入りますよ」
私は部屋の中央に棒立ちになっている。
「シンシア様にお会いしたいという方がお見えになっていますよ」
ばあやは不安そうな顔で、同じく不安そうな私の顔を見る。ばあやはしかし、一歩引いて魔物に恭しく礼をする。
魔物が部屋に入ってくる。
魔物は紺色のローブを着ているようだ。
魔物は私を見ると、歩みを止める。
魔物は、私のことを捉える。
癖っ毛の白い長い髪に白い肌で、白い寝巻きのワンピースを着た、幽霊の子どものような私のことをじっと見つめる。
魔物が、何を考えているのかがわからない。ゆっくりとこちらに来る。近づいたことで、魔物が紺色のローブの中に白い襟のシャツと黒いズボン、革のブーツを身につけていることや、金色の髪をしていることがわかる。
魔物は屈み、私と目を合わせようとする。私は顔を背ける。手で私の肩に触れようとして、魔物は、私が怯えていることに気づいて手をおろす。
魔物の様子をちらりと伺うと――ひどくショックを受けたような顔をしていた。そして私が怯えていることが、さも、自分の失態であるかのように、謝った。
「怖がらせてしまって、本当にごめんね」
優しい声だ。私はようやく魔物の目を見た。魔物の瞳は、青い色をしていた。
「ぼくはウィローという名前だよ。シンシア……」
魔物は言葉をつまらせる。泣きそうなのかな、と思ったが、私に優しく微笑む。
「シンシア、きみを迎えにきたよ」
「迎えに?」
話が読めない。ばあやに目を向けると、ばあやは私にこう言った。
「旦那様が、シンシア様はこの方たちについていくように、と仰っているんです」
「お父様が?」
あれだけ、『あとひと月たち、11歳になったら本邸で過ごすように』と言ってきたお父様が?
とても信じられない話だった。
「ここにいると、シンシアは危険なんだ」
「旦那様もそう仰っていました」
私は驚くが、ばあやが聞いてきたのだから、そうなのだろう。ということは……
「私、本邸に行かなくても良いってこと?」
「そうだよ」
「そうです」
ウィローとばあやの声がかぶる。なぜ本邸の話を知っているのだろう、と私もばあやもウィローの顔を見るが、反応はない。
「そうなんだ、よかった……」
私は胸を撫でおろす。本邸には行きたくない、本邸に行ったら、きっとお父様に殺されてしまう。
「でも、ウィローさま? 私、外に出られないんです、どうやって……」
「ぼくは魔術師だ。きみに魔法をかけようと思っている」
「魔法?」
「魔法があれば、きみは遠くまで見えるようになるし、太陽のもとで、なにも恐れずに遊ぶことだってできる」
こちらをまっすぐに見る青い瞳は、嘘をついているようには見えなかった。けれど内容が、到底難しい話に思えた。魔法でそんなことができるなんて話、聞いたことがない。
「そんなの……信じられません」
私はもう一度、目を逸らす。手を胸の前で組んで、ウィローから一歩体を引く。
「本当です」
扉の辺りにひかえていた少年が、声をあげる。
「ウィローになら、それができます」
少年は私とばあやから注目をあびて、委縮した様子ながらも続ける。
「おれはル……ロアンです。ウィローになら、できます」
「信じてもらうには、実践だね」
ウィローは微笑むと、立ち上がる。
「シンシア、目をつむってくれるかい?」
私が目をつむると、ウィローは私の目に手をかざし、何か詠唱する。あたたかい感覚がある。詠唱はすぐに終わる。
「どうですか、シンシア様?」
ばあやが心配そうにのぞきこむ。
ぼやけていた部屋の中のものが、くっきりとかたちを持って見える。
「見える……」
私はびっくりして、言葉を失う。
ロアンと名乗った少年が、短い茶色の癖っ毛で緑色の瞳であることまで、見える。
部屋の中を一通り見渡したあと、目の前のウィローを見ると、ウィローは微笑んだ。
「ずっと効果がある魔法ではないんだ。今かけた分は、一日分だけだよ」
私は手を目の前にしたり、離して見たりする。嬉しさよりも不思議が勝って、目をよくしてもらったのにお礼の言葉もすぐには出てこなかった。
ばあやのほうが、「ありがとうございます」とウィローに頭を下げ、ウィローは「お礼を言われることなんて何も……」と返している。
「じゃあ、魔法のことを信じてもらえたところで……ええと、何から話せばいいのか……」
ウィローはもう一度屈み、私と目を合わせながら話を続けた。
「シンシア、きみはこれから別人として生きるんだ」
「え?」
「ぼくたちも、もともとの名前を捨てて、髪と目の色を変えて旅をしている。だから、きみももし、ぼくたちと来てくれるなら、もともとの名前を捨てて、髪と目の色を変えて、一緒に暮らそう。
そのかわりきみは、本邸に行かなくて良いし、外の世界の、様々な素晴らしい景色をぼくたちと楽しむことができる。どう思う?」
私は、ばあやを見る。ばあやも迷っている様子だが――お父様が「この人たちと行け」と言ったなら、この人たちについて行くことは確定事項だ。
「お父様が行くようにと仰ったのですから、私はウィロー様とロアン様について行き、仰るとおりにするだけです」
「あはは」
ウィローは笑った。
「シンシアらしい答えだね」
初対面なのに知っているような口ぶりで、ウィローという魔物は不気味だ。
「じゃあ、名前を決めないと」
ウィローは私に聞く。
「何か思い入れのあるものとか、なりたいものとか、あるかい?」
「私……」
すぐに思いつく。
「お母様になりたい」
「リーリア様に?」
ばあやが、私に優しく声をかける。
「リーリア」
ウィローは口元に手を当てて考え込む。
「貴族風の名前ですね」
ロアンも考え込み、こう提案する。
「シンシア、こうするのはどうでしょう? リーリアからとって、貴女の名前をリアとするのは?」
「……リアで良いわ」
私は、ロアンに答える。
「決まったね」
ウィローは微笑む。
「これからよろしくね、リア」
魔物は、こちらに手を差し出した。魔物は『悲しい』と『嬉しい』が混ざったような表情をしていた。おそるおそる、手をとると、魔物は私のことを抱き寄せた。私はびっくりするが、魔物は大きな腕と手で、私の痩せっぽっちな体をぎゅーっと抱きしめる。魔物の体はあたたかくて、まるで人間みたいだと私は思った。
魔物は私の耳元で、他の2人に聞こえないくらい小さな、掠れた声でこう言った。
『シンシア、生きていてくれて、ぼくと出会ってくれて本当にありがとう』
よくわからないけれど、この魔物は――ウィローという魔物は、本当に私のことが大切みたいだと思った。きっと大事にしてくれる、という確信めいたものがあった。そう感じたら、この人が『何であろうと』どうでもいいと、私は思った。