21) 生き物だらけ
シンシアは急に、イリオスに口付けた。
驚きのせいもあったかもしれない。イリオスは生まれてはじめて、体がこわばらずに、気持ち悪さも覚えずに、他者の口付けを受け入れた。
シンシアはイリオスの両手をつよく引き、後ろに倒れ込む。ふたりは共に、薄暗い穴の底へと落ちていく。
体がふわっとした直後、シンシアが手を離したかと思うと、イリオスは床に叩きつけられた。
痛さに顔をしかめながら起き上がると、シンシアはそこにはいなかった。イリオスは呆然と辺りを見回して、部屋の中央に倒れている金髪の青年を発見する。
(アステル)
アステルは黒いローブを着ている。眠るアステルの上に黒い毛布がかかっている。
(ここは、魔王の遺骸の封印の場所だ。シンシアがアステルをここに連れてきたのか?
本当に、アステルを封印しようと?)
イリオスはアステルを起こしたいと思った。毛布の上から体を揺すろうとして――アステルの頬に涙の跡があることに気づく。
イリオスの手を、パシッと黒い毛布が払う。
毛布は喋る。魔物だったようだ。
「魔王様の眠りを妨げないであげて。魔力切れで寝ちゃったんだ」
「魔力切れ?」
イリオスは魔術師に聞いた話や、アステルのケーキのことを思い出す。アステルの魔力切れとは、いったいどんな魔法を使えば起こるのだろうか。
「魔王様はずっと泣いていたよ、きみのために」
「でもほら、聖女はうしろで笑っている。
だから嫌いなんだ、聖女なんて」
黒い毛布の端が差したほうを振り向くと、イリオスを見て――シンシアが笑っている。
シンシアはどういうわけか、黒い髪に黒い瞳に戻っている。紫色の魔石のネックレスを胸に下げている。先程までなかったものだ。
黒い髪と黒い瞳に戻ったことで、亡霊らしさは薄れている。人間のシンシアだ。
イリオスはシンシアの笑顔を見て、美しいと思った。あきらかに嘲笑であったのに、ただただ、美しいと感じた。
「決して完成しない蠱毒の箱――」
黒髪のシンシア・ラ・オルトゥスは気が触れたように呟き、両手を口元に持っていくと、楽しそうに笑う。
「ふふ、あはは! ウィロー! 愛しているわ!」
ウィローという聞き覚えのない名の者を愛していると、目の前のシンシアは言う。
イリオスは足元に倒れるアステルを見る。
頬に涙の跡のある、魔力切れで横たわる魔王を。
足元の床に、黒い色が広がったかと思うと、下から手が伸びてきてイリオスの足首を掴む。イリオスは、地面の底に引きずりこまれる。
魔王城の底には、もうひとつ部屋があったようだ。真っ暗で何も見えない中に、魔石の灯りがともる。灯りは、黒いスーツを着た男の手の中にある。イリオスは愕然とする。
「ルーキス・ラ・オルトゥス?」
「10年ぶりだな。
地獄を見ろ、教皇イリオス」
魔石の灯りはすぐに消え、処刑されたはずの男の姿も消えた。
イリオスは足元に、蠢くものを感じる。
(虫……?)
蠢いているのは、数多の虫や小動物のようだ。うさぎや猫くらいの大きさのものもいる。イリオスの腰くらいまでの高さに、ぎっしりと。数多の生き物が蠢く。それらはイリオスに触れ、冷たく硬い感触や生暖かい感触がイリオスの肌を通っていく。
(気持ちが悪い)
イリオスは出口、虫や小動物を避けられる場所を探すが、暗い部屋は狭く、生来苦手なものからイリオスを逃してくれない。
(気持ちが悪い、気持ちが悪い、気持ちが悪い)
あまりの不快に、眠れないまま一晩がたち。朝がくると、頭上高く、採光のための小さな穴があると気づく。そして部屋の狭さを、目でも確認した。決して出られそうにない牢獄の中で、生き物は生まれ、闘争により死に、また、生まれる。死んだものは食われていく。イリオスもまた、生き物に触れられ、食まれながら生きている。
(生き物が死ぬと、また生まれる魔法陣が張られている――)
床から壁にかけて描かれた大きな魔法陣は、複雑怪奇で、美しさすらあった。数多の生き物がその上を這い回るのを見ながら。
イリオスは魔法陣を消そうとする。しかし、消えない。手に血が滲むほど擦る。消えない。
頭の中に、封筒に書かれた文字が浮かぶ。
――「来ないで」
寒い城で、温められていたお茶のこと。
――「ぼく、今、捕まっているんだ」
アステルの頬の涙のあと。魔力切れ。
聖女シンシアの美しい笑い顔。こちらを嘲る目。
(この魔法陣は、アステルの魔力で起動した。しかし仕組んだのは、シンシアだ)
「何故」
イリオスは蠢く生き物たちの中で、同じ、生き物としての声をあげる。
「何故、私は、貴女を愛したではないか。
そうであるから、危険を賭して来たのではないか」
手に触れられたときの暖かさを思い出す。
「会いたいと、思って」
柔らかな口付けを思い出す。
「一緒に死んでも良いとさえ、思ったのに」
このまま餓死できれば良いとイリオスは考えた。それか、生き物に食まれたところから病気か毒で死ぬ。しかし、魔法陣はイリオスが死にそうになると、イリオス自身の神聖力を用いて回復させた。
イリオスは生き物だらけのなか、裏切られたという想いと、気持ち悪さのなかで、長い時を過ごすこととなった。
生き物と一緒に、生き物として。
シンシアは。
リアは。
リアは、もちろん、イリオスを許してはいなかった。一周目のアステルの人生をもてあそび、ウィローの心を蝕んだ人を。愛するウィローの心のなかに、暗い影を落とした人間を。
同じ人間ではないかもしれないと考えた。しかし、二周目のアステルすら――リアが最も大切にしてきたアステルすら――イリオスはもてあそんだ。アステルをおもちゃのように扱い、小さく小さく傷つけていた。
リアは、「殺してやりたい」とすぐに表明したロアン以上に、心の中で怒っていた。
(許さない)
噴水の前でイリオスに出会った瞬間に、リアの血肉が言った。
(許さない)
姿を見た瞬間に、リアにはわかった。
直感的に。殺さなければならないと感じた。
殺される前に、殺さなければならない。
ウィローの記憶をすべて見たあと。
アステルに接触してきたと知ったあの夜。
壁に貼られたたくさんの家族の絵――
イリオスを倒す決意がかたまるたびに、頭の中で、白い髪のシンシアが笑った。リアのなかで、ストン、と腑に落ちるものがあった。
(そっか――私だけじゃなかった。私たち、なのね)
(私たちは、許していない)
(私たちの愛しいアステルを、苦しめた男を)
リアは夜、鏡に映る姿に話しかける。
「ねえ、シンシア」
「私たちがアステルの封印に使われる前に。アステルが封印される前に。あの人を封印するのはどうかしら? だってあの人、悪い人だもの」
「ねえ、どんなふうに封印したい?」
鏡に映る白い亡霊は、リアの相談に、とても楽しそうに笑った。