19) 夜這いと取り引き
旧エオニア城から帰ってきて、ある晩の深夜。リアが気配に目を覚ますと、枕元にアステルが立っていた。
「アステル?」
ギシ、とベッドが軋んで、アステルはリアのベッドに入る。横向きに眠っていたリアの顔の前に、手をつく。アステルは、白い襟付きのシャツの袖を捲っているようだ。仰向けに体をなおすと、アステルと目が合った。
アステルは目を伏せると、長い黒い髪を手にとり、キスをする。
「ウィロー」
リアは押し倒されたまま、まっすぐにアステルの顔を見上げる。
「私、貴方と寝たいと思っていないわ」
アステルは身を起こし、笑った。
「ウィロー? 違うよ、ぼくはアステルだ……きみの恋人では、ないけれどもね」
リアも起き上がる。灯りをつけようか迷い、月明かりで充分と思い、カーテンを開けるとベッドの上に座りこむ。
月明かりに照らされるアステルは、ベッドの端に腰掛ける。
目の前にいるのは、亡霊のひとりだ。
「よくわかったね、ぼくがきみの恋人ではないこと」
「アステルに夜這いなんてできないわ。髪にキスなんて大人なことも、できないと思うわ」
「それはどうだろう?」
「え?」
「案外、きみの知らないところで、しているかもよ」
リアが目をぱちぱちすると、アステルは微笑む。
「きみは、ぼくと寝たがるかと思った」
リアはしばらく沈黙したのち、話す。
「私、貴方のこと、ずっと好きだった。でも、かなわない恋だって知っていたの……貴方は、白い髪のシンシアのものだから。
今だって、貴方のこと、愛しているわ。でも、アステルへの愛と、貴方への愛は違うの」
「私、アステルへの恋はかなったの。大切にして、大切にされている。だからもう、アステルただひとりと、ふたりで幸せになるって、決めたの」
「きみの恋人は、幸せ者だね」
さらさらとした金色の髪が、月の光に薄っすらと光っている。
「ねえ、貴方は、何なの?」
「ぼくは、呪いだよ」
アステルは目を伏せる。
「きみはもう知っているだろうけれど、魔物の構成要素は、愛と想いと呪いだ。きみの恋人は、想いは、最初から持っている。
愛はきみたちから与えられ、彼のなかにも芽生えた」
「心に、呪いだけを持っていない。きみの恋人の体は呪われているけれど、まだ、体の呪いは、彼の心までは呪っていない」
「だからぼくが残された。彼が何か、呪いを獲得するまでの、呪いとして」
「でもぼくは、ずっと消えたいと願っている。僅かに残されたぼくも、ウィローの木の下に行きたいんだ」
リアは目の前の、『一周目のアステルのかたちをしたもの』に聞く。
「貴方は私のことをどのくらい覚えているの?」
アステルの表情を見て、リアは、あんまり覚えていないのだな、と感じる。
(覚えていたら、私と会話するために、夜中にベッドに入るなんて手段をとらないわよね)
「正直なところ、ぼくに残されているのは『呪いの構成』に必要な記憶だけなんだ。ほかの記憶はぜんぶ、先にほどけて消えていった。
でもリア、きみのことは魔王城で少し、思い出した。きみの左足に傷をつけてしまったときに――ぼくはきみを、ちいさなシンシアを、絶対に傷つけたくなかった。それを思い出した」
「そして、12歳のアステルが起きてからはずっと潜んでいたのね、彼の中に」
「そうだよ、気づいていたの?」
「魔王城で貴方に会って――ずっと不思議に思っていたの。大人のアステルはどこへ行っちゃったのかしらって」
リアはアステルに微笑む。
「いつだか、謝ったでしょう、私に。雨の日に」
アステルは、小さく頷いた。
「協力してほしいことがあるんだ、リア」
「もちろん、協力するわ」
リアは、ベッドに置かれたアステルの手に、手を重ねる。
「私と貴方の想いは一緒よ、アステル」
青い瞳と黒い瞳は、視線を交わす。
「……今なら、わかるから」
「何が?」
「ロアンが……ルアンがあなたを、やすませてあげたいと言った意味が」
「……そう、ルアンが、そんなことを言ったんだね」
アステルは感慨深そうに、呟く。
リアは勇気をだして、アステルを見つめた。
「私からもお願いがあるの、アステル」
アステルは不思議そうな表情をした。
「私がうまくできたなら、私にご褒美をちょうだい」
「ご褒美?」
「魔術計算式を書いて欲しいの。
太陽の光を防ぐ魔法と、帰還の魔法を、私にちょうだい」
目の前のアステルは、言葉を失って。
それから、微笑んだ。懐かしい表情だ。
リアを慈しみ、愛していると伝えている表情で。
「きみ以外のだれが頼んでも、ぼくは頷かなかっただろうけれど、リア――ぼくの、ちいさなシンシア」
「きみになら、いいよ」
「ぼくのすべてを、きみにあげる」