15) ただ、そう生まれついただけ
教国エオニアの皇太子となった小さな男の子が、先の皇帝(教皇)が現皇妃に手を出して産まれた子であることは、有名な話だった。先帝は人格的に破綻した人間で、圧政を敷き、誰も逆らえず、逆らえない形で皇妃は先帝の子を産んだ。
程なくして先帝は死んだが、人格的に優れていた当代の皇帝(教皇)は、我が子であり腹違いの弟でもある第一子を皇太子とした。第二子は皇妃と愛し合って生まれた、本当の我が子であったにも関わらず。
出自は、呪われていた。しかし教皇と皇妃はイリオスを愛し、育てた。「生まれた子どもに罪はない」とふたりは信じた。
エオニア城には先帝に恨みを持つものが多く、幼少の頃、イリオスは何度も暗殺されかけて生死を彷徨った。そのたびに教皇はイリオスのために最善を尽くし、命を助け、イリオスの死を企てた者を城から追放した。
イリオスがクーコス(カッコウ)の托卵になぞらえて「クーコス」と呼ばれ、揶揄され、本人の耳にも届いていると知った教皇は、それを諌めるとともに、幼いイリオスを連れてクーコスの托卵を湖のほとりに見せに行った。
巣に不釣り合いの大きな鳥に、小さな鳥が餌を与えているのを、父とともにイリオスは観察する。父の声はあたたかかった。
「異なる鳥であっても、愛されて育てられて、大きくなるんだ。クーコスも、可愛いだろう?」
しかしイリオスは、押し除けられて死んだであろう卵の残骸ばかりが気になった。かわいそうに思ったのではなかった。
魅了され、惹かれていたのである。
イリオスは物心ついた頃から、生き物の死や、残酷なことに魅せられた。蟻や小動物を殺したり、いじめたりすると興奮した。母はイリオスが『何に興味を抱いているか』に気づくと、イリオスを叱責した。そんなことをするのは悪だと。アサナシア様に背く恥ずべき行いだと。
「おじいさまのようにならないで、おとうさまのようであって」
母は懇願した。イリオスは心の中で思った。
(でも、おじいさまがわたしの本当のおとうさまなのに?)
イリオスは自分にとって最高に楽しいことを悪だと言われて、隠れて蟻を踏むようになった。
ある日、6歳のイリオスは夢を見た。悪しき魔王カタマヴロスの生贄として、子どもがたくさん捕まっている中に、イリオスがいる。それをアサナシア教会直属の聖騎士隊が助けに来るが、イリオスだけを助けない。「私は皇太子なのに、どうしてだ」と聞くと「魔王より悪しき考えを持っているからだ、アサナシア様に背いているからだ」と聖騎士隊は言った。そして、イリオスを処刑した。
イリオスはその夢を見て、深く傷ついた。
(私は生まれついて悪だから、疎まれる)
イリオスを『皇太子として相応しくない』と言う者は城内に多くいた。アサナシア教の教義に反する、その出自のために。
(アサナシア様に背いているから、疎まれる。いずれ夢のように殺される。アサナシア様の教えを守り、敬虔な教徒として生きるしか、生きていくための手段がない)
幼いイリオスは心を入れ替えたように、敬虔なアサナシア教徒として生きた。父、母、弟に優しく、正しく振る舞った。クーコスは「正しい振る舞い」を、父や母、弟を真似て覚えた。
優しい家族のなかで、自分だけが異質であるとずっと感じながら。
イリオスの根は変わっていなかった。
人が死ぬのが好きで、残酷なことが好きで、死体に興奮する。むしろ人の死にしか興奮を覚えられない、そういう人間であった。
(本当の自分でいると、認められず。
自分を偽らなければ、生きていけない)
イリオスはそう感じていた。しかし、生来の欲求を抑えきることはできず。人が死んでいる姿を目に焼きつけるように見たし、殺すことを考えながら生き物を飼うことを繰り返したりもした。
ある日イリオスは、聖女の役割の真相を知る。それはイリオスにとってかなりの衝撃だった。一人の人間を封印の生贄としていることだけではなく、それをエオニアの皇族が、アサナシア教会の上層部が『隠している』ことが衝撃だったのだ。つまりこの国は、一人の少女を大陸のために殺すことを――恥ずべき行いであり、隠すべき悪行であると思っているのだと。
幼いイリオスの心に一番はじめに沸き起こったのは、歓喜だった。
(アサナシア様に反さずに、人が殺せる! しかも、綺麗な女の子を!)
しかし、魔王の遺骸の封印の儀式に同席するのはイリオスの父であるはずだった。
「業の深い行いを、お前に行わせるわけにはいかない。私は長生きせねばならないな」
父の微笑みに、イリオスは落胆した。封印の儀式が、自分の代であればよかったのにと思った。
十を過ぎ、思春期に差し掛かり、イリオスは、人に触れられたり、触れることがひどく苦手であると気づいた。小さな頃から両親にハグされると体がこわばって緊張していたが、それは苦手だったからなのだと。
生き物も、『これは死ぬものだ』と思って世話をするのであればよかった。しかし、生きていることに気持ちが向くと、ひどく気持ち悪く感じ、世話を放棄した。生きているものに触りたくなかった。
当時、イリオスには婚約者がいたが、イリオスは婚約者に触れることもせず、触れられることも拒んだ。婚約者はイリオスを心配した。
「イリオス殿下を傷つける意図はないのですが――イリオス殿下に、お世継ぎが作れるのでしょうか?」
とてもじゃないが、作れるとは思えなかった。生きた人間と性的な行為に及ぶことを思うと、それだけで気分が悪くなった。
生きた人間と結婚するなんて、ゾッとした。
願わくば、死体と結婚したかった。
若きイリオスは悩んだ。世継ぎの作れない教皇となる自分自身を想像して。
(聖女様と結婚したい)
聖女であれば――死ぬことが決まっている。自分自身が『死に近い者』と考えて接することができるかもしれない。生き物を殺すために世話しているときのように考え、触れることができるかもしれないと。
それはイリオスにとっては救いであった。自分を偽り続けるために、イリオスには妻が必要だったからだ。
しかし、問題があった。その時点において、聖女はまだ発見されていなかったのである。
イリオスは待っていた。『殺めても良い命』の誕生を。しかし、そのときは訪れずに16歳を迎えた。
エオニアでは16歳を過ぎると婚姻が可能だ。イリオスは、自身の結婚について――本当に結婚したい者が現れるまで、待ってほしい。今は、アサナシア様のために尽くしたいから、と父に伝えた。父は頷いた。
ある夜、イリオスは父と母の会話を聞いてしまう。
「あの子が結婚に興味がなくて、よかった」
「何故だい?」
「私、あの子に出会えて幸せだわ。あんな良い子はいないわ。イリオスを愛している。
でも、あの子がお腹にいたころは――おとうさまの血筋は絶えたほうが良いのではないかと、何度思ったかわからないわ。アサナシア様は、人間を殺すことを許してはくださらない。宿った命は生まれてくる。
生んだら、可愛かったわ。すごく。でも、ふと思うときがある。あの紫色の瞳を見て――やっぱりイリオスは、おとうさまに似てるって思うときが」
父は、母の言葉に沈黙したのち、言った。
「イリオスは、常人以上に頑張っている。人並みの幸せを手に入れても、良いのではと、私は思うけどね」
「怖いの。イリオスがアサナシア様の良き子どもとして、一生を生きたとしても。その次の子が、もしおとうさまみたいになったとしたら? と思うと」
「おまえは、心配しすぎだよ。愛と教えがあれば、どんな血筋や生まれであろうと、変わることができる。良く生きることができる。生まれたときのイリオスが可愛いかったのを思い出しておくれ」
「そうね。本当に可愛かったわ――あんなに可愛い赤ちゃんを殺そうという人が、信じられないくらいに」
イリオスはその会話を聞いて、母の言うことはもっともだと感じた。『悪逆非道の皇帝の血は絶えたほうが良い』そう感じるのは普通のことだと思ったからだ。その状況下で、むしろクーコスをよく育ててくれた、と感じた。
逆にイリオスが打ちのめされたのは、父の正しさに対してだった。
――『愛と教えがあれば、どんな血筋や生まれであろうと、変わることができる。良く生きることができる』――
(では、この私はなんだ?)
いつも『良く生きるフリ』で、決して良く生きることはできない自分自身に対して。
(父の信じたものを、叶えられない私はなんなのだろう)
イリオスはやはり、生き物の死に魅せられていた。狩りや魔物狩りに、よく出向いた。狩りが趣味であることは、内密にしていた。「生活に必要な分だけを狩るように」とアサナシア様の教えにあるためだ。娯楽にしてはならないと。
しかし魔物狩りは、アサナシア教では推奨される行為だった。そのうち魔物の中に人の特徴を持つものがいることに気づくと、イリオスは喜んで討伐に参加した。
ようやく聖女が見つかったのは、イリオスが20歳になってからだった。イリオスは側近のみを連れて、太陽の光に嫌われる呪いを受けた5歳の聖女に会いに行った。しかし、コルネオーリ国の辺境伯である聖女の父は、イリオスと聖女が会うことを拒んだ。
初対面から、聖女の父はイリオスのことを嫌っているようなそぶりをみせた。
(他国の辺境伯が、クーコスのことを知るはずがないのに)
どうしてか、と思い――おのれの中の悪を見抜かれているからだとイリオスは感じた。
イリオスは敬虔なアサナシア教徒として生き。毎年、聖女シンシアへの求婚の手紙を送り。たびたび、彼女の父であるコルネオーリの辺境伯に、聖女様に会わせてほしいと手紙を送った。しかし、返事すら返ってこなかった。
(きっと、教皇となれば、聖女様に会うことができる)
イリオスは、皇位への興味を強めていった。
イリオスが25歳のとき。コルネオーリの辺境伯が聖女を殺したと、知らせが届いた。アサナシア教会は大混乱に陥った。責任を問われ、イリオスの父、当時の教皇は対応に追われるなかで体調を崩していった。
シンシアの死によって、イリオスは、皇位への興味を失った。教皇になれば、聖女シンシアとの接点がつくれると思ってきただけだったからだ。
(本当に亡くなったのだろうか?)
墓に施された複雑怪奇な結界を見て、疑いを強めながらも。聖女シンシアのいない大陸で生きていかなければならなかった。
イリオスは、そうであれば、ずっとアサナシア様のために生きようと思った。皇位を継がずに、弟に皇位を譲り、ただのひとりの聖職者として生きようと考えた。そうすれば、結婚しなくても良いだろうと。
いまだにイリオスが教皇になることへの風当たりが、とても強かったこともあった。
(母の望みどおり、血筋を絶やそう)
しかしそれを、病に伏した父は許さなかった。
「イリオスの今までの努力を、無駄にするつもりなのかい」
父はイリオスが教皇となるべきだとして、譲らなかった。イリオスにも、母にも、弟にも、周囲にも。父だけが譲らなかった。
イリオスは困惑しながら、戴冠式に臨んだ。
死の近づいた父は、精神的に不安定になっていった。イリオスは父の見舞いによく訪れた。父を愛していたからというより、肉親の死に興味があったからである。
ある夜、父はイリオスに告げた。
「お父様の暗殺を企てたのは私だ、赦してくれ、イリオス」
イリオスはすべてが腑に落ちた気がした。敬虔なアサナシア教徒である父は、親殺しの罪を償うために――イリオスを愛した。愛し、教え、失った何かを取り戻すために、イリオスを皇帝にしようとしたのだと。
(なんだ、そうか。そんなことか)
「良いですよ、お父様。ええ、赦しましょう」
イリオスが微笑むと、衰弱した父は安心したような顔をみせた。
イリオスは、正しさにずっと、苦しめられてきた。
正しくされるたび、優しく愛されるたびに、家族のなかで自分だけが間違っていて、異質なのだと感じとってきた。
けれど、イリオスがずっと感じてきた、父の『強固な正しさ』も、かつての過ちから生まれたものだった。
父が死に、イリオスは教皇となり、タガが外れた。表面上は穏やかな、父のような教皇を演じて――裏では、残虐なことを好み、人が苦しむのを見るのを好み、死体を好む教皇となった。
そこに居たのは悪逆非道の王だった。
そうなるのには、理由があった。
でも、そんなこととは関係がなく。
イリオスが生きているものよりも死んだものを好むのは、人の苦しむ姿を見るのが好きなのは、人の幸福を奪うのが好きなのは、ただ、そう生まれついただけだった。