8) アルデンバラン
冬のはじめ、イリオスが大聖堂で講演する日。アステルは厚手の緑色のローブを羽織り、周りに内緒でクレムに転移する。リアに「今日、ぼくはでかけてくるね」とだけ伝えて。
講演会ではイリオスを含み、他にも何人かの高位聖職者がアサナシア教にまつわる話を行った。
講演会の後、イリオスは信徒たちと話をしていたが、アステルの姿を見かけたので話を切り上げて、大聖堂を出て声をかける。
クレム大聖堂前の広場は、聖堂から出ようとする人や、立ち話をする人でごった返している。
「本当に来てくれたんですね、アステル」
「うん! なんだか格好良かったよ、イリオス」
アステルはイリオスに微笑みかける。
イリオスの動向を窺っていたタフィ教徒の男が、アステルを発見して激しく動揺する。
(アステル様が、アルデンバラン本人と話している――)
イリオスの護衛たちは、イリオスが大聖堂から出ていることに気づくのに少し遅れる。
タフィ教徒の男はふたりに近づくと、イリオスを後ろからナイフで刺す。
「アステル様、お逃げください!」
アステルは目の前で何が起こったのか、まるでわからない。
(え? ぼく、逃げ―― イリオス?)
アステルは刺されて倒れ込んだイリオスを抱きとめる。手にイリオスの赤い血がべったりついたのを見て、アステルは大混乱する。
魔力の隠蔽をやめて、回復魔術を駆使してイリオスの傷を治す。
人でごった返すクレム大聖堂の前は、大混乱に陥る。聖職者も多い中で、前教皇のイリオスを抱きとめている者が、強大な力を持つ魔物であると察知した者だらけになったからだ。
「アステル様!? なぜ!」
身柄を拘束されながら、男はイリオスと護衛たちを強く睨む。
「穢らわしいアサナシアの犬どもめ! この……わん! わんわんわん!」
男は急に「わん」しか喋れなくなってしまう。イリオスは、アステルが魔法で男の口を封じたのだと気づく。男はわんわん吠えながら、教会の敷地の中に引っ張って連れて行かれる。
アステルのことも周りの聖職者たちが捕縛しようとするが、いまだにアステルのすぐそばにイリオスがいるために躊躇する。
「おやめなさい」
イリオスが告げる。
「この者は私の命を助けた。客人として丁重にもてなしなさい」
「ですが、イリオス様、魔物です!」
「私の話が聞こえなかったのか?」
辺りが、水を打ったように静まる。
「……わかりました、イリオス様のご命令であれば……」
聖職者たちは、呆然としているアステルを渋々、客室に案内する。
ーーーーーーー
イリオスはクレム教会の地下にある牢屋に赴くと、捕らえた男を尋問しようとする。
「さて――私は、おまえに尋ねたいことがある。アステルは何者だ?」
「わん、わん!」
まだ魔法の効果が切れていないようだ。
イリオスは殴り、男は床に倒れる。その上で、神聖力でも痛めつける。男はやはり混血だったようで、きゃんきゃんと吠える。
「アステルはおまえを知らないようだったが……まあいい、本人に聞こう。アステルに犬の魔法を解いてもらわないと尋問すらできない」
ーーーーーーー
アステルが大人しく客室で待っていると、イリオスがやってきた。アステルは青い顔をしてイリオスを見る。イリオスはアステルに微笑む。
「アステル、貴方は私の命の恩人ですね」
「いや……」
(そもそも、イリオスはぼくのせいで刺されたんだ)
アステルが大人しくアサナシア教会の客室で待っていた理由は、イリオスに謝りたかったからだった。
「ごめんなさい、イリオス」
「どうしてアステルが謝るのですか?」
イリオスは笑っている。客人として椅子に座る『新たな魔王』を見ながら。
「ねえ、イリオス。あの人はどうしたの?」
「捕らえて、地下牢におります」
「釈放してあげて欲しいんだよ」
「何故」
イリオスを殺そうとした人間を、釈放しろと『友人』は言う。
「あの人は、ぼくを信仰している人だから」
「……信仰している?」
「きみたちにとっての女神アサナシア様くらい、ぼくを大事に思ってる。だから、ぼくが聖職者のきみと話をしているのを見て、ぼくが危険と勘違いして、きみのことを刺したの」
イリオスに話が見えなくなる。
『新たな魔王』の身に危険が迫ったと感じて、魔物が動いたのだとイリオスは思った。しかし、アステルは男にとっての神だという。
(いや、魔物にとっての魔王は、神に等しいのか?)
「私の仲間たちは貴方を逃がしたいと思っていないようですが、私は貴方を外に出すつもりです。貴方は友人で、命の恩人ですからね」
「ぼく、さっきの男の人と一緒でなければ帰らないよ」
「それは……」
アステルの要求に、イリオスは考え込む。
「……良いでしょう。そのかわり、男を釈放したら、私の願いを叶えてくださいますか?」
「うん、いいよ。なあに?」
イリオスはアステルに微笑み、手紙を差し出す。
「この手紙を、貴方の恋人に渡してください」
「?」
ものすごく謎な願いだと、アステルは思った。
ーーーーーーー
クレムの教会の地下牢に、アステルとイリオスはともに降りる。牢に向かう階段は暗く、イリオスの手のカンテラの灯りが頼りだ。アステルは血のにおいを感じて、眉をひそめる。
しばらくすると、ほのかに明るくなった。使われている牢屋の明かりのようで、牢の中には先ほどの男がいた。
「わん、わんわんわん!」
「吠える犬ですね」
「イリオス様、なぜ、男の仲間をここに連れてきて――」
「黙れ」
イリオスは何か物騒な魔術のこもった魔石を押し当てて、牢の見張りをしていた聖騎士を昏倒させる。アステルは驚く。
「暴力はよくないよ、イリオス。きみがそんなことをするなんて!」
イリオスはアステルの言葉を無視して牢の中に入る。アステルもあとを追い、牢の中に入る。
「アステル、この男にかけた魔術を解けますか?」
「わん、きゃんきゃんきゃん!」
アステルは指をかざして、男にかけた魔法を解く。それと同時に男を牢につないでいる縄もほどくと、男はアステルの姿にホッとしたような、動揺し続けているような、そのどちらもな顔をした。
「ああ、アステル様、ご無事で何よりです――何故、アルデンバランと一緒におられるのですか?」
「アルデンバラン?」
アステルは目を丸くしてイリオスを見る。
「アステル様、この男は我々の敵だ」
「イリオスは、ぼくの友達なんだよ」
イリオスは突然、イリオスがしそうもないことをする。手で、アステルの手に触れたのだ。
生き物に触れて、イリオスが気分が悪そうな顔をしたのをアステルは見る。
男は敵意を剥き出しにして、イリオスを殴ろうとする。
「私たちの神を、汚すな!」
アステルは魔術で男の動きを止める。空中で男の腕が固まり、動かなくなる。
「なるほど、これで立場がはっきりしましたね、アステル」
アステルは気づく。イリオスは、男を逆上させるためにアステルに触れたのだと。
「私たちは本当に、敵同士のようだ」
イリオスは楽しそうに笑っている。なんで笑えるのかアステルは信じられなかった。アステルは動揺して、笑うことも泣くこともできないでいるのに。
「ですが手紙のことだけは、頼みますよ、アステル」
イリオスはいつもどおり、優しげにアステルに微笑んだ。
すべてを許すような笑みで。
ーーーーーーー
アステルは男をタフィに連れて行っていいのかがわからない。クレム大聖堂の近くまで転移すると、夜の暗がりの中から、すぐにルーキスが現れた。こんなときでも、ルーキスはアステルに恭しく礼をする。
しかしアステルは、顔をあげたルーキスの表情から、珍しく動揺を感じ取った。ルーキスは――ルーキスも触れるのがあまり得意ではないのに、健康状態の確認のためにアステルの手をとった。そして『我が主』の元気そうな姿を見て、ため息をついた。
「アステル様」
アステルは、これがリアやロアンだったら怒鳴り散らされている気がした。しかしルーキスは、アステルを責めなかった。
「ご無事でしたか」
「うん」
アステルに肩を借りている状態の男が口を開く。
「ルーキス様、」
「話はあとです。アステル様、いったん、おもてのコミューンへ向かい、この者の話を聞いたあとで私の屋敷に向かいましょう」
男は足を痛めていたが、アステルに肩を借りることを申し訳なく思っていたために、ルーキスに肩を借りなおす。
タフォス村に転移してから、アステルは手紙をルーキスに見せる。
「ねえ、ルーキス。シンシアに手紙をもらったんだ。ぼく、意味がわからないよ。
どういうこと?」
封筒に書かれた見覚えのある筆跡に、ルーキスは、静かに目をつむる。