02.風に光る春告草ー前編ー
それは二月最後のアルバイトの日のこと。連休なこともあり、昼過ぎから始めた家庭教師の仕事は三時を回る前に終わった。
そんなオレは今、月村先生の書斎に莉音と二人でお邪魔している。医学書で埋められた本棚に囲まれる中、とある理由でものすごく緊張していたオレに、先生は封筒を差し出した。
「いつもありがとう、栗原くん。これが今月のバイト料だ、受け取ってくれ」
「ありがとうございます」
両手でありがたく頂戴したものの、頭は別のことでいっぱいだった。そんな中、ノックと共に顔を覗かせたのは、先生の奥さん――安那さんだ。
「栗原くん、よかったらケーキを食べて行かない? 莉音のお気に入りのお店のものなんだけど……」
「え、ソレイユの!?」
オレが答えるより早く、隣にいた莉音がその言葉に食い付いた。反応を見るに、相当のお気に入りらしい。お店の詳細をあとで聞こうと考える中、袖を引かれて振り返れば、莉音が目をキラキラさせていた。
「ね、類……先生も一緒に食べよ!」
莉音の誘いに、ちらりと安那さんを見れば、にっこり微笑んで頷き返される。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
そう告げると、莉音は両手を合わせて『やった!』とすごく喜んだ。その様子に、安那さんは楽しげに笑うと、莉音の手を引いた。
「それじゃ、莉音とお茶の準備をして待っているから、主人とゆっくりしていてね」
問答無用の手伝い通達に戸惑いながらも、莉音は素直に安那さんについて行く。残されたのは、月村先生とオレの二人だけだ。そう意識した途端、緊張がぶり返してきた。
その理由は、先生も安那さんも多忙のため不在なことも多く、バイトで顔を合わせたのがあの快気祝いぶりだったからだ。
「あー……栗原くん」
「はいっ!」
咳払いをした先生に改まって名を呼ばれ、思わず背筋を伸ばす。そんなオレに、先生は両手を組むと、気恥ずかしそうに問いかけた。
「その、君は……娘と付き合っているのかな?」
身構えていた話題に、『やっぱりその件ですよね!』と出そうになる声を飲み込む。快気祝いのとき、ほぼほぼバレたであろう莉音との関係、先生たちが気にならないはずがないのだから。
菓子折を持って早々に挨拶をすべきか、いやいくら何でも気が早すぎか、などと考えているうちにすっかり半月が経過しての今だ。とにかくこうなれば当たって砕けるしかないと、頭を下げた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。オレ……いえ、自分は今、莉音……さんとお付き合いさせていただいています」
「ああ、そう固くならないで大丈夫だ。楽にしてくれ」
思ったより好感触な反応にそーっと顔を上げるも、月村先生は顎に手を当てて考え込む。
「だが、そうか……」
それきり黙り込んだ先生の内心は窺い知れない。好感触ではなく、どうあっても断固認めない大前提の話なのかと、よくない方向に思考が加速していく。そんな中、沈黙に耐えきれず、思わず口を開いた。
「あのっ……」
「ん?」
「もしオレが家庭教師としてお邪魔することに不安があるようでしたら、クビにしていただいて構いません。ただ、できればこれからも莉音さんと付き合うことを許していただけないでしょうかっ!」
「え……?」
先ほどよりも深く頭を下げてお願いするも、頭上から返って来るのは戸惑う声。生徒に手を出すような人間じゃないという先生の信頼を踏みにじってしまったのかもしれない。それでも共にいたい気持ちに嘘もつけないし、莉音と約束した以上、オレが何とかしなければと、必死に頭を巡らせた。
「信用してもらえるなら何でもします。ですから、お願いします。どうか莉音さんをオレにください!」
「……は?」
心なしか低くなった声と、自分でも何か間違えた感覚から振り返り、慌てて顔を上げて両手を振る。
「あ、いや、えっと、違うんです! 結婚を許してほしいわけじゃなく……、いえ、いずれは許してもらえたらと思っていますがっ! その、まずは交際だけでも許していただけないかと思った次第で……!」
「あー……栗原くん?」
「本当に真剣に莉音のことが好きなんです!」
「栗原くん!」
半ば叫ぶように告げれば、同じかそれ以上の声量で名を呼ばれて、ハッとする。何かさらに余計なことを曰った気がして、恐る恐る先生を見れば、ため息混じりの苦笑が返ってきた。
「君が娘に本気なのはわかったから、少し落ち着きなさい」
「あ……す、すみません」
そこはちゃんと伝わったようで、ホッと胸を撫で下ろしたあと、深呼吸を繰り返す。そうして、やっと少しだけ落ち着いたオレを見て、先生は静かに口を開いた。
「私は別に反対するつもりなどないよ。もちろん妻も、な」
「え」
「さすがにまだ結婚を許すことはできないし、一人娘を嫁にやることもできないがね?」
「そ、それはもちろん理解しています……!」
てっきり反対されるものだとばかり思っていたのが、すんなり受け入れられたことに脱力する一方で、釘を刺された内容に慌てて何度も頷き返す。そんなオレに月村先生は小さく笑うと、アンティーク机に飾られた写真立てを見つめた。
「君と莉音が目覚めてからというもの、莉音は毎日楽しそうなんだ。これまでもよく笑う子だったが、それでも気を遣っていたんだなとわかるくらいに変わったんだよ」
そっと先生の手が撫でる写真立てのそれは見えないけれど、そこには莉音が写っているんだろう。どこか切なげな目と声に、何と反応していいのかわからず、ただただ耳を傾けるオレに、先生は静かに語り始めた。
「少しだけあの子の昔の話をしようか」
そう言って、先生が聞かせてくれたのは、オレが出会うずっと前の話だった。曰く、昔から近所に住む恵茉と仲が良く、好奇心旺盛でいろんなことをやりたがり、まるで本当の姉妹のように二人で過ごしてきたらしい。恵茉がピアノを教わるようになると、莉音も始め。ピアノに飽きたかと思えば、別の楽器で一緒に演奏したいからとバイオリンを始めたのだとか。
「子供の頃から活発だったんですね」
「そうだな。私も安那もなかなか一緒にいることはできなかったから、あの子が真っ直ぐ育ったのは、恵茉くんを始め、唐崎家のおかげだろう。そんな中、あの子が小学校に上がる少し前、学会で懇意にしている人のパーティーに家族で参加したんだ。莉音と同じ立場の同年代の子と仲良くなれば、少しは寂しさも紛れるかと思ってね」
自分にはとんと縁もなければ、もはや違う世界の話に聞こえて、ただただ驚くばかりだった。……次に続いた言葉を聞くまでは。
「ただ失敗だったのは、そのパーティに来ていた子数名が、莉音に関して賭けをしていたことに気付けなかったことだ」
「賭け、ですか……?」
「その子たちは他所の病院の次男三男で、それぞれの家を継ぐ予定のない子たちだったんだが……。私の病院なら莉音を手に入れさえすれば後継になれると競っていたそうだ」
ため息混じりに告げられたそれは、莉音の気持ちなど一切考えない身勝手な理由だったことがありありと伺えて、思わず拳を握り絞める。子供だったから仕方ない、で済ませるにはあまりにも反吐の出る話だった。
「そうして、私たちの知らないところで賭けに勝った子供が勝手に莉音の婚約者を名乗り、無理矢理キスを迫られたあの子が泣き出したことで露呈したんだ」
「……それはまた、随分とませたお子さんだったようで……」
相手も当時小学生だったのだから落ち着けと自分に言い聞かせるも、気を抜けば罵詈雑言が飛び出しそうだ。それがただの建前だったのか、本気だったのかは知らないが、莉音を尊重する気が皆無すぎる。
そんなオレに、先生は力なく微笑んだ。
「元より婚約者など据えるつもりは一切なかったんだが、私もしばらく口を聞いて貰えなくて、あのときはなかなか辛かったものだ……」
「心中お察しします」
第三者はともかく、先生たちと莉音は、蓮さんたちと恵茉の件と似たようなものだったんだろう。莉音のためによかれと思ってしたことが、裏目も裏目に出て、一人娘に口を聞いてもらえないというのは、想像しただけでも辛い。前世ではオレにも娘が一人いたからこそ、何となく理解できた。
「しかも、最初に通わせた私立小学校がその子供たちと同じだったことと、当時の私が周囲の人間の本性を見抜く目を持っていなかったことが災いしてね。そんな人間ばかりではないと教えようとして交流会などに連れて行った結果、中学に上がる頃には、医療関係――特に医者志望の男性と聞くと、それだけで逃げ出すくらい嫌うようになったんだ」
「なるほど、それで……」
莉音から聞いた話と、オレの中の月村先生の人物像――地位に驕ることもなく誠実な先生のイメージがやや乖離していた理由が腑に落ちる。婚約者としてではなく、まともな医者関係の人間としての紹介だったけれど、関わった人の本性がピンポイントで莉音のトラウマを刺激するタイプだったんだろう。そんな人間とばかり出会いが続いたら、初対面時のあの疑り深さも頷けるというものだ。
一人納得する中、先生は苦笑した。
「恵茉くんの通う学校に転入することで多少落ち着いたんだよ、あれでも」
「もしかして、今の高校も恵茉……さんが通っていたから、ですか?」
思わず『あれで?』と飛び出しかけた言葉を飲み込んで問えば、返って来たのは肯定だった。幼馴染とは言え、二人の仲の良さはたまに戸惑いを感じるけれど、莉音にとって安心できる唯一の外の居場所が恵茉だったのなら、そりゃああなるだろう。
それが悪いとは思わないし、感謝もしているけれど、ほんの少しだけ恵茉に対して嫉妬の感情が沸き上がる。その一方で、オレはずっと引っかかっていることがあった。
「先生は、どうして自分に家庭教師の話を提案したんですか?」
月村先生は、オレと莉音に前世の縁があるなんて知らない。ましてや莉音のトラウマを刺激する肩書きを持っている以上、オレは本来真っ先に候補から外すべき人間だったはずだ。なのに、求人を貼り出す前にオレ個人に声をかけた。その理由だけが未だにわからない。
「初日に莉音が君に失礼なことを言ったのは安那から聞いている。君には事前に説明もせず申し訳なかったね」
「あ、いえ。何かあったんだろうとは思っていたので、自分は気にしていません。ただ、女子を据えた方が先生も莉音……さんも安心だったはずなのにどうして……とはずっと思っていました」
「……君を選んだのは、賭けだったんだよ」
莉音が安那さんに初日のことを話していたことに内心驚く一方で、賭けの意味がわからず首を傾げる。そんなオレを見て、先生はどこか楽しげに笑う。
「成績がよかったからというのも本当だが、患者にとことん寄り添おうとする君ならば、莉音のトラウマとも向き合ってくれるんじゃないかと思ったんだ。……まぁ、トラウマを克服したばかりか、想像を遥かに超えた結果には驚いているがね」
オレが豹変するか否か、莉音が受け入れられるか否か。どちらが欠けても、莉音のトラウマが悪化しかねない。そんな中でも、オレならば或いはと考えて選んでくださったのかと思うと、胸が熱くなった。
言葉で言い表せない気持ちに言葉を詰まらせていると、先生は穏やかに微笑んで両手を机につくなり、頭を下げた。
「栗原くん、これからも公私共に娘をよろしく頼む」
「こちらこそ……。信頼に応えられるよう、これからも誠心誠意励み、彼女を大切にします」
「期待しているよ」
顔を上げた先生はどこかスッキリしたように晴れ晴れとしている。そんな恩師に受け入れてもらえたことにホッと胸を撫で下ろそうとしたときだった。
「ただ、それはそれとしてだ」
手を組んだ先生から静かに差し込まれた言葉に、慌ててぴんと背筋を伸ばす。
「君のことは信用しているが、娘がまだ未成年だということは、くれぐれも……本当にくれぐれも忘れないように」
「はいっ、それはもちろんです!」
相変わらず穏やかな笑みを浮かべているけど、その目の光は鋭く、半ば反射的に返した。前世の感覚もあって、二人きりの場所だとキスはついしてしまいがちだけど、一線だけは莉音が成人するまで超えないと決めている。莉音を失ったり前科がつくのに比べたら、たった二年待つのなんて可愛いものだ。
そんなオレに、先生はポーズを崩すと小さく息をついた。
「すまないね。本当に君のことを信用はしているんだが、あの子はその辺に疎い上に、こうと決めたら向こう見ずなところがあるからな……」
「いえ。先生が心配になられるのはご尤もだと思いますし、流されないように留めるのは年上の自分の役割だとも認識していますから」
オレの言葉に先生がホッとしたように笑ったとき、書斎にノックの音が響く。一拍置いて、扉からそっと顔を覗かせた莉音に、思わず身体を強張らせる。そんな中、彼女は不満げな顔で口を開いた。
「ねぇ、お話まだ終わらないの?」
「あ、ああ、今終わったところだ」
「じゃあ、早くケーキ食べよう?」
今の話を聞いていたのか否か。それが気になるのは先生も同じだったようで、返事が少しばかりぎこちない。けれど、ケーキを食べようと誘う莉音の表情はほんのり赤い以外に何もなく、聞かれてはいなさそうだと先生と顔を見合わせて、お互いに胸を撫で下ろす。
そんな中、くいっと手を引かれる感覚に意識を戻せば、いつの間にか隣にやってきた莉音に左手を引っ張られていた。
「ほら、早く早く」
「あ、ああ……」
先生や安那さんの前で手を繋ぐことを避けていた莉音の変化に少し戸惑いつつ、引かれるまま数歩踏み出したときだ。
「莉音」
「なぁに?」
先生に呼ばれた莉音が足を止め、首を傾げながら振り返る。キョトンとしている彼女にならうようにオレも振り返れば、先生は微笑んで口を開いた。
「栗原くんにこのまま莉音の先生を続けてもらおうと思っているんだが、それでいいかな?」
「もちろん! 今辞められたら困るし、お父さんがなんて言ってもそれは絶対ヤだからね!」
「ふふ、そうか」
莉音の返事に先生は、どこか楽しげにくすくすと笑う。それをどう捉えたのか、莉音はふくれっ面を見せると、オレの手を放して、先生の腕を掴んだ。
「ていうか、お父さんも来てくれないと食べられないんだから、お父さんも行くの!」
「わかったわかった」
かなり強引に立たせた莉音は、そのまま先生の手を引いてやってくると、反対の手でオレの手も掴んで、そのまま居間へと進んだ。耳をほんのり赤らめた彼女に、オレが目を白黒させ、一方でそれを見た先生が堪え切れんばかりの笑みを浮かべていたなど露知らず――。




