36.霽月のプレルーディオ
莉音が先に退院し、週が明けた月曜日の放課後。学校帰りの莉音と恵茉、そして、午後の講義が休講になった陸が見舞いに来てくれた……のだが。
「付き合うことになったそうですね」
「え? ああ、莉音から聞いた……んだな?」
ぎこちなくも穏やかな時間は、微笑む恵茉の淡々とした言葉と冷めた眼差しを前に冷え込んだ。
怒っているのは理解できるけれど、理由に心当たりがありすぎて、もはや何から謝ればいいのかすら検討がつかず、二の句が継げない。そんな中、陸がいつもと変わらぬ笑みで莉音を見た。
「ちなみに莉音ちゃん、付き合うことになったのっていつ?」
「え……。あ、その、類先生が目を覚ましたその日の夜……です」
「……へぇ?」
前言撤回。いつもどおりどころか、莉音の返事を聞いた瞬間、こちらを見た碧い瞳は恵茉に負けず劣らず冷たくなった。笑顔なのに目が全く笑っていない二人――眠りに落ちる寸前に迷惑をかけまくった二人の纏う空気に、背中をだらだらと汗が滝のように流れ落ちる。そんなオレに、陸がにっこり微笑む。
「土曜日に類のお見舞い来たとき、オレなーんにも聞いてないんだけどなぁ? 不思議だねぇ?」
「そ、その……、お前は察してるだろうと思って、つい」
『どういうことかなぁ?』という副音声が聞こえた気がして、目を逸らしながら言い訳をすれば、盛大なため息が聞こえた。そして、目を据わらせた陸が身体を傾けて覗き込み、笑顔で問う。
「報連相って言葉知ってる? オレ、察しがいい自負はあるけど、さすがに何でも見通せるエスパーじゃないんだけどね?」
「……わ、悪かった」
素直に謝れば、呆れ顔で小さく息を吐いて陸が引き下がる。それにホッと息をつく一方、変わらずブリザードを放つ恵茉をそーっと振り返れば、凍てつく琥珀が細められた。
「莉音がいいって言ったなら、そこに口出す気はないですけど。でも一つだけ言わせて貰います」
「お、おう」
本当に一つで済むとは思えず身構えれば、恵茉は笑みを崩さずに告げる。
「次に独りよがりな理由で私の大事な幼馴染を泣かせたら、今度は容赦なくぶん殴りますから、そこのところ覚えててくださいね」
「……肝に銘じとく」
口調は穏やかだけど、陸同様に目は全く笑っていない。下手をすればルイスにどうこうされる前に、恵茉にボコボコにされる未来が脳裏を過り、顔を引き攣らせながらも改めて胸に刻み込む。
そんな二人の目に見えないブリザードはオレにだけ集中砲火になっているからか、莉音は気付いた様子もなく首を傾げた。
「ところで恵茉ねえ。私のときにはお菓子を作ってきてくれたのに、どうして類先生には毎日濃縮青汁なの?」
「え、だって、まだ目を覚まして数日の寝たきりだった人に油分の多いものは胃に悪いじゃない。その点、青汁なら健康的だもの。ね、類さんもそう思いません?」
「……ソウダナ」
流動食だったのは目が覚めた初日だけで、翌日の夜にはほぼ普通の食事になっているから、彼女の理屈は通じない……のだけれど。毎日のように、滅茶苦茶クセの強い青汁を持ってきて、これ見よがしに『しっかり飲んで早く元気になってくださいね』なんて言う。――もっと飲みやすいものが病院の売店に売ってるにも関わらず、だ。
それが意味するところは、鉄拳代わりの制裁なんだろう。莉音がすでに許しているからこの程度で済んでいるのだろうし、このくらいで音をあげようものなら、何を言われるかわかったものじゃない。
自業自得というか、自分が撒いた種だしと、今日差し入れされた青汁を無心で呷れば、何度飲んでも慣れない青臭さに顔を顰めそうになる。そんなオレたちを見て『そっか』と納得したように呟いた莉音は、両手を握り締め至って真剣な顔で言った。
「じゃあ、私も次お見舞いに来るときは、青汁を差し入れに持ってくるね!」
「……いや、一本で十分だから気にしなくても……」
「だって、青汁飲めば元気になるんでしょ? そうしたら退院も早くなるかもしれないし!」
「……そ、そうだな」
どうやら明日以降は、純粋な好意による試練がもう一本追加されるようで、思わず顔を引き攣らせて返す。そんなオレの肩を、陸は『ご愁傷様』とばかりにポンと叩いたのだった。
***
目を覚ましてから約一週間後の土曜日。蓮さんに迎えに来て貰って病院を後にしたオレは、半月ぶりに八剣家に帰ってきていた。母さんはオレがもう大丈夫だとわかると実家に帰ったため、既にいない。けれど、このあとの快気祝いの準備に来ていた恵茉と末菜さんに出迎えられ、少しだけこそばゆい気持ちになった。
何だかんだで多くなった荷物を下ろしていると、月村夫妻と莉音が三人でうちにやってきた。莉音は快気祝いのもう一人の主役だからわかるが、先生たちはどうしたのだろうと首を傾げる。そんな中、月村先生は『退院おめでとう』と声をかけてくれたあと、蓮さんに向き直った。
「お休みのところ、すみません、八剣先生」
「いえいえ。こちらこそ、うちの甥っ子が大変お世話になりました」
蓮さんへの用事か、と荷物を持ってその場を離れようとしたら、蓮さんに呼び止められた。
「類、お前も荷物を部屋に置いたら居間に来なさい」
「え、オレも?」
「お前も、だ」
有無を言わせぬ蓮さんのただならぬ様子に戸惑いながらも頷いて返し、急いで荷物を部屋に置いて戻る。居間に入れば、座卓を挟んで月村家の三人と蓮さんが向かい合って座り、末菜さんが人数分のお茶を出して退室するところだった。示されるまま座れば、隣に座る蓮さんがどこか凄みのある笑みを浮かべて問いかけてきた。
「類。月村先生とオレに言うことあるよな?」
「えっ? いや、特にないけど……」
「その割に目が泳いでるぞ」
その指摘にハッとして視線を戻すも、どれくらいバレているのかわからず、口を噤む。そんな中、口を開いたのはどこか困ったように微笑む月村先生だった。
「実はもう私も八剣先生も、娘から粗方聞いているんだ。九月九日に莉音の不注意で事故に遭い、意識のなかったこの子のために救急車を呼んでくれた若者は、君なんだろう?」
告げられた言葉に思わず莉音を見れば、苦笑しながら頷き返され、伏せる理由もなくなったオレは月村先生と安那さんに頭を下げた。
「大事な娘さんのことなのに、黙っていてすみませんでした」
「……いや、反省してほしいのはそこではないんだが」
「え?」
予想と違う言葉に、目を瞬かせながら首を傾げるオレに、蓮さんがどこか呆れ顔で告げた。
「お前、月村を救急車に預けたとき、救急隊に言われたことがあるんじゃないのか?」
「……あ」
「あ、じゃない!」
「いてっ!」
救急隊と言われて、『必ず病院を受診するように』という言葉をやっと思い出したオレの頭に、蓮さんの拳が容赦なく振り下ろされて呻く。そんなオレに蓮さんは大きくため息を吐いた。
「大方、大事にしたくないとか、心配をかけたくなかったとかを理由に、ギリギリまで様子見してるうちに忘れた。そんなところだろ?」
だいたいはそのとおりだけど、あまりの頭痛にそれどころじゃなかったなどと言えば、もう一発拳骨が降って来かねないから、黙って頷き返す。そんなオレの反応に『やっぱりな』と納得したように息をついた蓮さんは、腕を組み厳しい顔で続けた。
「お前はよく『もう成人してる』って言うけどな、そういうところがまだ子供だって言ってるんだ。オレは保護者代理でお前を預かってる身だし、事故は例え物でも所有者という形で相手がいるんだから、独断で隠すな」
「……ごめん」
拳骨に見舞われるのを避けるために咄嗟に伏せたのは、確かに子供染みた誤魔化しでしかないかもと、素直に謝れば、月村先生がやんわりと口を挟んだ。
「検査でどこにも問題なかったのは私の方で確認済みだが、それでも自分を大切にしてくれ。でないと、何かあったら八剣先生も実家のご家族も悲しむ」
「はい……、すみませんでした」
先生にそこまで言われてようやく気付く。心配をかけないように隠したところで、今回のようなことがあれば、蓮さんは自分を責めただろう。もしかしたら、オレが知らないだけで、実際に無理矢理にでも病院に連れて行っていたら、と思わせたかもしれない。
そこに思い至ったら、途端に申し訳なくなって、蓮さんをそっと振り返る。それに気付いた蓮さんはキョトンとしたあと苦笑すると、オレの頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。
そんなオレたちを見て月村先生も苦笑しながら言う。
「まぁ、説教はこの辺にして。ここから本題になりますが、この度は、うちの娘がご迷惑をかけて本当に申し訳ありませんでした」
「本当にすみませんでした」
月村先生と安那さんが深々と腰を折って頭を下げたかと思えば、遅れて莉音まで謝罪を口にして二人同様に頭を下げる。それに対して、蓮さんが落ち着き払う一方、オレは予想だにしていない自体に素で慌てふためいた。
「えっ、えっ? いや、そんなオレ……自分は気にしてないので、三人とも顔を上げてください!」
そう言っても、全然顔を上げる気配がなくて、縋るように振り返れば、蓮さんが苦笑混じりに口を開いた。
「本人もこう言っているので、三人とも顔をあげてください」
「しかし……当たり所が悪ければどうなっていたか……」
「それはお嬢さんも同じでしょう」
蓮さんの言葉に、オレも全力で何度も頷く。それでも躊躇いを見せる月村先生に蓮さんは、穏やかに告げる。
「月村先生には私も姉も感謝しています。費用面も含め、頭が上がらないほどですよ」
「……お気付きでしたか」
意味を測りかねて首を傾げるオレを、蓮さんは親指で指す。
「本人も届け出るつもりは皆無のようですし、もう十分でしょう」
蓮さんの言葉に、月村一家は戸惑った様子で顔を見合わせた末、ようやく身体を起こしてくれて、ホッと息をつく。そんな中、月村先生は脇に置いていた紙袋をスッと差し出した。
「では、こちらはせめて、娘を助けてくれた礼として受け取っていただきたい」
「……だ、そうだが?」
そう言って蓮さんがオレを振り返る。人として当然のことをしただけだけど、感謝の気持ちを無下にするのもどうなのかと悩む。チラリと蓮さんを見上げれば、笑顔で頷き返されたオレは、差し出された紙袋に手を伸ばした。
「そういうことでしたら、ありがたく頂戴いたします」
莉音が大事だからこその感謝の気持ちを受け取れば、月村先生も安那さんも、どこかホッとした様子で微笑む。そんな二人に、いつか莉音の彼氏として挨拶するときに胸を張って名乗れるよう精一杯頑張ろうと、オレは密かに背筋を伸ばしたのだった。
その後は、大人同士で話があると言って解放されたオレは、莉音と二人で自室に移動した。座布団など洒落た物もないから、ベッドをソファ代わりに二人で座り、隣に座る莉音を見た。
「わざわざ、月村先生に言わなくてもよかったのに……なんで話したんだ?」
「元々、私がぶつかっちゃった人を見つけたら謝りに行こうって話してたの。だから、いろいろあって遅くはなっちゃったけど、類先生が相手だってわかったからには言わないとって思って……」
「……なるほど」
蓮さんに事情を隠したオレとは違い、莉音は最初から包み隠さず話していたらしい。そんな彼女は、どこか不安げにオレを伺うように見上げる。
「勝手にごめんね」
「いや、そういうことなら仕方ないだろ。わからないままじゃ、先生たちも落ち着かなかっただろうし。オレも大事なことに気付くいい機会になったから、謝らなくていい」
心配をかけないように隠すことがかえって傷付ける可能性は、今回の件がなければまだ知らないままだったかもしれない。後で蓮さんと母さんには、それぞれ謝ろうと改めて心に刻む中、莉音は身体ごとオレの方を振り返った。
「改めて、よそ見運転でぶつけちゃってごめんね。あと、助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
こうして、あの月夜にあった事故は、あの日のオレが思ったのとは全く違う形で幕を閉じた。
とはいえ、まだ問題は残っていて。どうしたものかと思いつつ、莉音に問いかけた。
「ところで、例の件は話してないのか……?」
「例の件……? ああ、カテキョのこと? あれはまだ話してないっていうか、それどころじゃなくて忘れてたんだけど……」
思ってもみなかった言葉に目を瞬かせれば、莉音はしゅんとした様子で僅かに俯く。
「カテキョ続けるのは、嫌……?」
「逆だ。できたらもう一度やらせてほしいから、どう先生に切り出そうかと思ってたんだ。……けど、知らないのか」
「うん」
勢いよく顔を上げて呆けていた莉音が、ホッと微笑んで頷く。そして、互いに無言で考え込む中、莉音が口を開いた。
「ややこしい話になっちゃうし、黙ってても平気……かな?」
「……その方がいい、かもな。もし平気じゃなかったら……」
「なかったら……?」
不安げに問いかける彼女が安心できるように笑いかける。
「そのときは二人で先生に謝ろう」
そう告げれば、僅かに目を丸くした後、莉音は『うん!』と満面の笑みを浮かべたのだった。
プレルーディオ:前奏曲




