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*花満つる夢

(――初めてだ。夢を見て泣いたのは……)


 あふれる涙をぬぐいながら、目覚めた青年は考える。しがない画家の自分のこと、恋人なんてはしない。いもしない恋人のことを夢に見て、そのうえ泣いて目覚めるなんて。


「……初めて小さな賞をとったのが原因か? 浮かれて飲めもしない赤酒ワインを、グラスに二杯飲んだからかな……」


 青年は独りつぶやいて、白いほおにを浮かべる。


「夢に見た恋人」は、現実に存在する少女だった。親のない花売りの少女だった。

 片田舎の道ばたを、彼女は毎日歩いていた。少し熱のある小鳥のような、か弱い美声を張り上げていた。「お花はいかが」「お花はいかが」と、毎日花を売っていた。


 洗いざらしたハンカチをスカーフ代わりに頭に巻き、()()()()の立った茶色いふじづるのかごを持ち、どこにでも生えている、雑草のような花を売る……貧しい一人の少女だった。


* * *


 少女は夢の中で、青年と一緒に暮らしていた。少女はパンも紅茶も口にせず、毎晩いろいろな花の種を混ぜた水を、グラス一杯飲んでいた。……朝になると少女の体から、数えきれないくらいの美しい花が生えてきた。少女は毎朝その花を残らず刈り取って、花売りとして売っていた。


「土の体をしたわたしには、これくらいしか出来ないの。わたし頑張って花を売るから、あなたは何にも気にすることなく、好きなだけ好きな絵を描いて」


 そう言ってう人外の少女に、青年は何も言えなかった。夢の中での青年の画家としての稼ぎでは、二人は暮らしていけなかった。……青年は黙ったまま、胸の内で何度もごめんと言いながら、絵筆を握って花の絵ばかり描いていた。


* * *


 ――そんな夢だった。思いもかけない夢を見て、青年は何だか妙な気分だった。


(僕はそんな目をして、彼女を見ていたんだろうか……?)


 自覚はなかった。どうにも気持ちが落ち着かなくて、花売りの顔を見に行った。少女は何も知らぬまま、野の花ばかりを売っていた。ああ、この子には泣きぼくろがあるんだと、青年は初めて気がついた。


 少女はいつも通りすがる青年がやって来たのに、ちょっと驚いた顔をした。それからすこし小首をかしげて微笑んで、茶色なかごをそっとさし出す。


「お花はいかが、お兄さん……」

「うん、今日はいただこうと思うんだ。……でも、僕は花にはくわしくなくて……かごには何があるんだい?」

「はるじおん。ひめじょおん。しろつめくさ。かたばみ……」


 春色の小さな菊のような花。白いぼんぼんみたいな花。色紙を切ったくずのような、小さな黄色の花やらで、かごの中はいっぱいだった。青年はすこし迷った後、しろつめくさを骨ばった手で指さした。


「それじゃあ……この白いぼんぼんみたいな花を、一束いただこう」

「『白いぼんぼん』? ふふ、可愛らしいことをおっしゃいますね……!」

「……そ、そうかい? 弱ったな、そんなつもりはなかったんだが……」


 少しうろたえながら、青年はお代を訊いて銅貨一枚をさし出した。


「……ずいぶん安いね。まあ、売れない画家の身には、安い方が嬉しいが……」

「お高いことは言えませんわ。わたしはあんまり体も丈夫ではないし、崖に生えたお花なんかはとてもってはこれません。そこらの野原からいただいてきたお花ですもの……」


 そうか、体が弱いのか。内心でしみじみつぶやきながら、少女の手のひらに銅貨をのせる。少女はふわっと微笑んで、かごから花を取り出した。花を渡す手と手がすこし触れ合って、少女はほんのりほおを染めてはにかんだ。


 ――きれいだ。青年は胸の内でつぶやいた。夢のかけが現実になろうとしているのを、ぼんやりと甘く感じていた。


* * *


 結局、夢は夢だった。知れば知るほど、少女は普通の人間だった。パンも紅茶も口に出来るし、花の種の混じった水なんか口にはしない。朝目覚めれば体じゅう花だらけになったりしていない。


 けれども、夢で感じた少女に対しての愛情は、彼女のことを知れば知るほど現実のものになっていった。青年は少女が乙女に成長するのを待って、結婚した。夢も毎晩見続けた。


 夜に味わう夢の中で、妻は当たり前のように種混じりの水を飲み、毎朝花だらけになって目覚めた。そうして当たり前のように、その花を刈り取って売っていた。


* * *


 やがて画家の青年は、現実で大きな賞を射止めた。その晩の夢の中でも、やはり同じ賞を射止めた。


「おめでとう! ……ね、明日からわたし、花売りをやめるわ。そうしてあなたのためだけに、毎朝花を咲かすわね」


 夢の妻は今までどおりに種混じりの水を飲み、体じゅうに花を咲かせた。刈り取った花で家の中はいっぱいだった。青年は花にまみれながら、甘い香りをかぎながら、妻の花だけを絵に描いた。


 現実でも夢の中でも、彼は妻を愛していた。現実の妻も、はやくからそのことを知っていた。毎朝起きると、「夢のわたしは元気だった?」と言うのが決まり文句になっていた。


 現実も、夢のように過ぎていった。子どもも生まれ、大きくなって独立し、孫が生まれて……。


 妻は何度か、やまいに倒れた。けれどそのたび回復し、そのたびごとに夫の髪は心配で少しずつ白くなった。妻の頭にも、白いものが多くなった。夢の中でも青年と妻は老いていった。


 そうしてある時、ちょっとした風邪をこじらせて、現実で妻は亡くなった。……眠るように、この世の人ではなくなった。


* * *


 その晩、老人は夢を見た。

 老いた妻は、いまだに毎晩夢の花を咲かせていた。


 夢の中で朝になった。妻はいなかった。ベッドにも、どこにもいなかった。ただベッドの上に人型に、虹色の花があふれんばかりに咲いていた。鼻をく花のにおいがした。


 ――咲き誇る虹の花々は、今まで見た夢でいちばん美しかった。


 そうして目覚めた老人のしわくちゃのほおを、熱い涙が伝っていた。老人はしみじみうなずいた。二度、三度、言葉もなしにうなずいた。


 ……もうわし以外誰もいない。独立した子どもたちは他の家に住んでいる。妻がいなくなった今、もうこの家には誰もいない。


 老人はもう一度ベッドの中にもぐりこみ、祈るように目を閉じた。また眠り、眠り続けて、もう二度とは目覚めなかった。目覚める理由がなかったから。


 そうしてしまいに、老人は眠るのもやめてしまった。息をするのもやめてしまった。枯れ落ちた肉体をけ出して、妻の魂に逢いに行った。


 開け放たれた夏の窓から、軒下に咲いたくちなしが白く香っている。

 しんしんと月の光を浴びて、光に濡れて、美しい墓標ぼひょうのようにひたすら甘く香っていた。……

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