*黒い蜘蛛(くも)
手と手をつないだスグリとタルトは、「一つの夢」をのぞいていた。
夢に出てきたベットの上の老人は、誰かに向かってぽつりぽつりと話し始めた。
* * *
ああ、こう……あっさり死ねんものですかな。痛くもなく、苦しくもなく、寿命の尽きた虫が土に還るように……。
……ああ、すみませんな、お若いかた。老いぼれのぐちなど、お若いあなたには分かりませんよな。しかしこうして老いさらばえて、病院暮らしも長くなると……そういうことまで考えますな。
え? 体の具合ですか? ええ、今日はだいぶ調子が良いですよ。
え、はい? しばらくこうして居ていただける? それは嬉しい。なんせこうして横になるだけが仕事の身には、時間の経つのが遅うて遅うて……。
……ここにこうして寝ていると、祖母のことを思い出します。わたしが数えで十七の年、病で亡くなったんですが……。寝たきりになって数年後に「クモがおる」と言いだしましてな。
ほら、クモです、クモ……八本脚のあの虫ですよ。
「黒いクモがそこにおる」「とって潰してくれ」と祖母は毎日言うのです。しおれた指で指さす先には、クモも何にも居やしません。ごみの一つも落ちてはいない。
ははあ、祖母はきっと幻覚を見ているんだな。そう思った家族のものは、みんなクモのいるふりをしたのです。ちり紙を持って、ふっとものを捕らえてくるりと潰す真似をして……。
「うわ、本当に大きなクモだ!」
「それ! ……おばあちゃん、もう大丈夫、クモはきちんとやっつけたから!」
それはまあ、みんなで下手な芝居をして……。祖母はその時は黙ってうなずいて微笑うんですが、十五分もしない内に「ほれ、そこにクモがおる」……。看病疲れに重なって、全員本当はぐったりでした。
そんな日が、ひと月ふた月続いたでしょうか。
その日はみな他に大事な用事があって出かけざるを得なくって、私と祖母が留守番でした。祖母はそのころはようやく病も落ちついたと見え、小春日和の日ざしにうとうと。私も祖母の枕もとでこっくりと。
と、祖母がゆっくり目を開いて、窓ぎわあたりをしおれた指でさしたのです。
「クモがおる」
「黒い大きなクモがおる」
私は心得て、ちり紙を手に窓の方へと近づきました。
いつもならそのへんでもう祖母は安心しかかるのですが、その時の祖母は違いました。しおれた指ががくがくがくがく震え出して、慄いたような声音でずっと謳うのです。
「クモがおる、クモがおる、クモがおる」「黒いのがおる、ずぅううっと背が伸びた、大きくなった、大きいのが……わしを、わしを……」
私はちり紙を持ったまま、窓ぎわあたりをうかがいました。
――何も無い。確かに何も無いのですが、祖母の口ぶりがあんまりにも恐ろしげで、我知らずぞうっとしてどうにも身動きがとれません。情けなく固まっている間に、祖母の言葉が途切れました。
あわてて近づくと、祖母はもう目を瞑っていました……口から泡を吹いていました。
その次のつぎの夜がお通夜でな。……
……なに、幻覚といえば片づきます。死ぬ前のいささか物騒な幻覚、そう言ってしまえばそれでおしまいなのですが……。
けれども私は思うのです。あの時ちゃんと芝居をして、クモを捕えて潰すふりをしていたら。祖母はもう少しでも、長生きができたんじゃなかろうかと……はは、こんなくたばりぞこないの老爺になってまで思うのですよ。
いやいや、おかしな昔話をお聞かせして申し訳ない。
……ああ、看護婦さん。
それ、そこの窓ぎわにクモがおります……黒い大きなクモがおります。申し訳ないが、捕って潰してくださらんか?
* * *
――そうしてふっと気がつくと、タルトとスグリは「夢の世界」に立っていた。見渡す限り何もない、ただ白い霧のような靄のようなものが一面に漂っている空間で、二人は手と手をつないでいた。
びっくりした表情のタルトが、夢魔の青年をふいと見上げる。青年の開いた口の中に、すうと、黒い柔毛の球体が吸い込まれてちゅるんと消えた。
「……スグリ、今のは……?」
「ん? ああ、夢の塊を食べたんだ。この夢を見てたのはね、おじいちゃんを昨日亡くした『日乃本』って国の男の子だよ」
タルトは少し首をかしげる。「ヒノモト」なんて国の名前、今までに聞いたこともない。
もしかしてこの「夢の世界」は、思っていたよりもっとずっと広いのかしら? 人間の見る夢、それから異世界の魔物の見る夢、いろいろな「夢見るもの」の夢で造られた世界なのかも……。
そう思う少女と手をつないだまま、夢魔の青年は何でもなさそうに説明する。
「その子のおじいちゃんはやっぱり『クモがいる』『クモがいる』って言い遺して亡くなってね、それをあんまり気に病んで、男の子はこういう夢を見てたんだ」
「……夢を食べると、どうなるの?」
「食べられた夢はぼくのおなかに入るから、夢見た者は『夢を見ていた』ことすら忘れる……そうしてぼくは夢と一緒に、見た者の精気もちょっぴりいただくんだ。そうすると、夢を見たひとはすこし疲れて目が覚める」
スグリはちょっと口をつぐんで、ため息のように続く言葉を吐き出した。
「……そうして現実の世界の、本当は忘れちゃいけない気持ちも、ほんのひと欠け忘れてしまう」
何も言わずに自分を見つめる少女を見下ろし、赤と青のオッドアイがいたずらっぽくまたたきする。スグリはふざけて「ごめんね」を言うような手つきで、少女の小さな爪を撫でる。
「大丈夫、君は大丈夫。ぼくは君を気に入ったから、何も害は及ぼさないよ。……ただね、ぼくはけっこう美食家だから、食べる夢を少しえり好みするんだよ。いかにも夢らしい、ヤマも結末もない夢はちょっと苦手で……そう、例えば掌編小説みたいな味わいの夢が好きなんだ」
歌のようにこぼれる言葉が、また一瞬とぎれて漂う。いったい何を思っているのか、赤と青のオッドアイからは読みとれない。
「……それに食いしんぼうだから、一晩に夢をいっぱい食べる。だから一晩付き合ってもらうと、君は疲れるかもしれない。朝目覚めたらただでさえ弱いその体が、死にそうにくたびれているかもしれない……」
スグリは自分の白いあごにちょっと手をふれ、くいと小首をかしげて訊ねる。
「……君は、それでもぼくと一緒にいてくれる? それとももうこの手を離して、さよならした方が良いのかな?」
何故だろう。宝石のような二つの瞳は、どこかしら気弱な光を帯びている。その目をじっと見つめながら、タルトは微笑んでつなぐ手にきゅっと力を込める。
「ううん、大丈夫……わたし、まだ夢を見ていたい。夜も終わらないうちに、病室のベッドで目覚めるなんてうんざりだもの!」
「――そう? そうかい……」
夢魔の青年は嬉しそうにはにかんだ。でもその瞳に、ほんのわずかに翳りの見えるのは気のせいか。スグリは妙に遠慮がちに、つないだ手をほんのわずかに握り返す。そうして次に現れた「夢の球体」に、空いた手をずっとさし伸ばした。……