表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

倉庫番は倉庫にいない

作者: あみに

金属製の重い扉と、その横に付いた鍵代わりのICカードリーダー。他の部屋と変わらないこの仕掛け。

首から下げたICチップ入りの社員証をカードリーダーにかざす。十年以上慣れ親しんだ会社名、「日本エボリューションシステム」。カードに部署名が書いていないのは花形部署の元課長、聖学ひじりまなぶにとっては救いである。

ピッと音がして、ガチャリと鍵が開く音がした。

「失礼しまーす…」

ダンボールを抱えた不安定な姿勢でなんとかドアを開け、聖はその部屋に足を踏み入れた。

部屋は広かったが、壁際にぎっしりと置かれた棚と、乱雑に積み重ねられたパソコンやモニターに半分ほど占拠されていた。畳まれた会議机もたくさんある。

そんな中、いくつかの会議机を好き勝手な場所に置いて座っている社員が三人いた。皆一様に聖とダンボールを見つめ、ぽかんとした顔をしている。

「…何かご用ですか?」

中堅とおぼしき青年が最初に口を開いた。まさか、話が通っていないのか?いや、よく考えたらこちらもこの課に誰がいるか聞いていない。確実に話が通っていない。

「今日からここの課長になる聖です。よろしく」

「はぁ」

新しい部署の歓迎は、あまりにも中途半端だった。


大都会新宿にある古い三十階建てのビルの廊下をダンボールを抱えて歩き、辿り着いたのがここ。薄汚れた布張りの廊下を歩く足取りは重く、窓もなく薄暗い廊下は五月の爽やかな空気を吸わせてくれないどころか、見せてすらくれなかった。

時折すれ違う社員の視線が刺さるように痛かった。誰が見てもわかる、この状況は…

左遷だ。

異動先である「固定資産管理課」は、名前の通り固定資産を管理する課かと思いきや、実質ただの倉庫らしい。固定資産管理は税金が絡むので、専用のシステムを導入して資産登録と管理をしているからだ。つまり異動先は倉庫、職種は倉庫番だ。

大手のシステム請負開発会社で、固定資産管理というシステムのシの字もない部署に異動することは、出世街道からの脱落に他ならない。しかも、社長室のあるフロアに出禁とまで言い渡された。

「マジかよ、聖じゃん」

部屋の真ん中、受付のようにどかんと置かれた机で脚を組み座っていたチャラい男が立ち上がる。ビジネスマン的にギリギリアウトな茶髪と、無意味に洒落たスーツ。聖はその顔を見て、ああ、とうなずいた。

中桜塚なかさくらづか

「よくおぼえてたな」

「お前みたいな目立つやつ、忘れるか」

「知り合いですか?」

先ほど最初に声を上げた青年が問いかけた。彼は真面目そうな短髪の中肉中背。特徴が薄い。

「こいつ、俺と同期」

社員が三千人近くいるこの会社では、同じ部署でも知らない顔がたくさんいる。中桜塚は聖の肩をポンポンと叩き、重々しい素振りで首を振った。

「噂には聞いていたが、まさか本当に左遷とはなぁ。同期の出世頭も落ちたもんだぜ」

「お前も変わらないだろ。営業トップが今じゃここか」

「うるせぇよ。嫁さんは元気か?」

「ああ、俺よりよほど元気だよ」

聖はとりあえず中桜塚の机にダンボールを置くと、残り二人のメンバーを見た。この部屋にいるのは全員男性社員だ。

左端の壁に寄せた机で何かのテキストを開いていた特徴の薄い青年社員と、右側で会議机ふたつをL字型にして三台のモニターを置いている若手社員。二人とも、戸惑い気味に聖を見上げていた。

中桜塚がモニターに囲まれた若手社員を見て口を開く。

「こいつはプーちゃん。暇人でプログラムオタクだから」

八神やがみです。プーちゃんって呼ぶのやめてください」

不機嫌そうに八神が言い返す。シワシワのワイシャツに、ボサボサの髪。こちらもビジネスマン的にギリギリアウト。

中桜塚は彼の抗議をさらりと流して、青年社員のほうを向いた。

「こいつは大仏って呼ばれてる。名前が牛久うしくだから。お前牛久大仏知ってるか?」

「知ってる」

茨城の牛久にある巨大な大仏の名前だ。そこからとって大仏か。

「牛久です」

紹介された牛久が自らも名乗る。中桜塚は自分の顔をちょいちょいと指差しながら言った。

「あ、俺はここでもセッターって呼ばれてる」

「それまだ変わってないのか」

十年ほど前の新入社員研修で付けられたあだ名はまだ存命らしい。彼が吸っている煙草の銘柄から取ったその名前は、たしかに彼に馴染んではいる。

「中桜塚って長いんだよなぁ。それにまだセブンスター吸ってるぜ。あと、大仏が俺の名前言えないから」

「そんなことないです。なかしゃくらじゅかしゃん」

後半を思い切り噛んだ牛久が、悔しげにむにゃむにゃと口を動かす。

「ほら、こうやって噛むやつがいるから俺はセッターなの」

セブンスターの愛称、セッター。どうやらこの部署は、全員にニックネームが付いているらしい。

「じゃ、そういうことでよろしく。聖課長」

よろしくお願いしまーす、と明るく軽い声がそれに続く。

普通、窓際部署といえばやる気のない社員や腐った社員がいるものだが、ここはそうではなさそうだ。むしろ健全なメンバーしかいない。なぜ左遷されたのだろうか。聖は頭の隅でほんの少しだけ不審に思って、すぐに思考を放棄した。ちょっとした不運がいくつか重なって一定の値を超えると飛ばされるだけの話。そう思った。

しかし、これは周到に準備されたプログラムだった。最後のコードが今書き加えられたのだ。


聖は自分の居場所を作ろうと畳まれた会議机を持ち上げた。お互いの机は、通り道を邪魔することなく、しかし会話はしやすいような絶妙な距離に置かれている。聖はその距離を参考に机を置くことにした。

部屋の一番奥に会議机をひとつ広げる。そしてパイプ椅子を広げ、聖はダンボールを机の上に置いた。ポジション的にはドアの正面、窓を背にした課長席だが、部下たちの自由すぎる座席セッティングのせいで全くそうは見えない。ドアとの間には中桜塚の背中があるし、右手には棚の隙間にあいた壁に牛久の机がぴったりくっついている。左手には、ラックに詰め込まれたパソコンの前に八神のモニターたち。部屋のそこかしこにダンボールやらノートパソコンが積まれているし、その他の備品も多数転がっていた。本当に倉庫だ。

聖は部屋を見渡してから、自分の机に目を落とした。基本的にペーパーレスの会社なので、荷物は重かったが小ぶりのダンボールに収まった程度だ。さて、肝心のパソコンはどうしようか。

山と積まれたパソコンの前に行き、聖は腕を組んだ。どれを使えばいいのか、そもそもどれが使えるのかさっぱりわからない。

「なぁ、どのパソコン使っていいんだ?」

誰にともなく投げかけた問いに、牛久が顔を上げた。

「そこらへんにあるのは全部廃棄するPCです。使えるのはあっちの棚です」

「そうか、ありがとう」

壁際の棚を指差し、牛久が言う。聖は棚へと向かった。


システム開発をするわけではないので、パソコンは本当に使えればいい。そう思って適当に棚からノートパソコンを取り出し、聖はできたばかりのマイデスクに腰かけた。OSのクリーンインストールから始め、だらだらと作業を進めていく。この部署は普段一体何をしているのだろう?

聖は手を止めて部屋を見渡した。中桜塚は机の上に脚を乗せ、スマホをいじっている。壁際の牛久はノートパソコンを横にずらし、紙のノートとテキストを開いていた。トリプルモニターの前にいる八神は、何やら熱心にプログラムを走らせている。中桜塚がさぼっているのはわかるが、ほかの二人は何をしているのだろうか。

「なぁ、プーちゃん」

試しに八神に声をかけてみる。身を乗り出して流れるログを見ている彼から返事はない。

「八神」

先ほどニックネームを嫌がっていたことを思い出し、今度は本名で読んでみた。やはり彼は振り向かない。彼が一番右のモニターに目線を移す。そこにはプログラムの開発画面が表示されていた。

「そのコードなんだけどさ」

なに作ってるの?と言い終える前に、振り向かないままの八神から声が上がった。

「この前発表されたベータ版を使用しています。まだ細かいバグがありますが有志が更新しているので近いうちに実用に耐えうるレベルまで持っていけます。もっともセキュリティの問題上、現状使いこなせるのは一部のプログラマだけでしょうけど、本格的に導入すれば格段に処理が速くなりますし可読性も良いです」

「…そっか」

突然饒舌になった彼に、こういうタイプか、と聖は納得する。一つのことにのめり込む職人タイプ。要するにオタク。

「八神は何年目?」

「三年目です」

「あ、じゃあ、入社パーティなかった年?」

「その前の年なのでありました」

一応、オタク以外の話も通じるらしい。

その時、中桜塚がふらりと席を立った。

「煙草吸ってくるわ。今朝の電車遅延でもう今日のエネルギーは使い果たした。満員電車ほど最悪なものはない」

そう言い残して、うーんと伸びをしてから部屋を出ていく。

「あいつはサボり魔か…」

まぁいいか、喫煙所に入り浸りったところで特に問題はなさそうだ。そう思ったところで、聖は牛久に声をかけた。

「牛久は何してるの?」

「あ、試験勉強です」

「試験?なんの?」

「基本情報技術者です」

牛久は、開いていたテキストを持ち上げて表紙を聖に見せた。基本情報技術者試験。一応国家資格だが、それほど難しくはなく取っても食えない資格ナンバーワンの座に君臨しているものだ。これの上位互換資格に応用情報技術者試験があるが、そちらも同様。

しかし、資格を取得すると会社から報奨金が出る。たしか、六万円だったか。

「お小遣い稼ぎみたいなもんですよ」

案の定、牛久は苦笑いしながらそう言った。

「暇なもので」

全員の行動を確認し終え、聖はパソコンのセットアップに戻った。さて、俺は何をしたものか。どうやってシステム開発部門に戻るか計画を練るか。

最近までの激務のせいか、ぼんやりと画面を見つめながら考えているうちに聖の瞼が徐々に下がっていった。


バタンと勢いよく閉まったドアの音で、聖はハッと目を開いた。部屋に入ってきた中桜塚が、どことなく暗い表情で椅子に座る。一応課長としての体面を保つために背筋を伸ばしたが、彼はこちらを見ていなかった。

「おい、うちの社員が自殺だってよ。社長室フロアにいたやつ」

「またですか?」

この話題には、さすがの八神も画面から顔を上げた。中桜塚は先ほどのようにだらしなく椅子に腰かけ、ため息をつく。

「まったく、嫌になるねぇ。今朝の電車遅延、そのせいだよ」

「飛び込みですか…前の人は屋上から飛び降りでしたっけ」

牛久も開いていたテキストを閉じ、なんとも言えない顔でそう言った。聖はセットアップが完了したパソコンを開き、社内システムにログインした。メールをチェックするが、そんな連絡は来ていない。

「人事からまだ連絡回ってきてないぞ。誰から聞いたんだ?」

「その人事だよ。葬儀の日取りが決まったら通達出すってさ」

中桜塚が、セブンスターの箱を振りながら答えた。なるほど、喫煙所情報というわけか。

「まだ若いのにねぇ。プーちゃんの同期だよ」

「え…名前は」

「清水くんだったかな」

ぴたり、と八神の動きが止まった。そして、小さな声でそうですか、と言った。

「知り合い?」

「いいえ。同期というだけです」

そう言って、彼はそれまで通りキーボードに手を滑らせ始めた。


定時。いつもの時間に鐘がなった。いままで残業ばかりでそれほど意識したことがなかったが、今日は意識せざるを得なかった。三人が一斉に席を立ったからだ。

「もう帰るのか?」

「むしろ何で帰らないんだよ」

「お疲れ様です」

皆が部屋を出て行く。聖はしばらく呆然としたあと、ゆっくりと荷物をまとめ始めた。


何もない一週間が過ぎ、もう少したてば梅雨入りというある日。パイプ椅子の座り心地の悪さに腰痛が悪化した聖が出勤すると、牛久と八神がパソコンの山の前に立っていた。中桜塚はすでに足を机に乗せてスマホをいじる体勢になっていた。

「僕が認証キー抜き取ってから廃棄してください。新しいPC作ります」

「プーちゃん、またやるの?」

牛久が呆れた声で言った。

「八神です。そろそろマザボから全部一新したいんで」

聞こえてくる謎の会話に、聖はパソコンを起動しながら問いかけた。

「何の話だ?」

「あー、プーちゃんの悪い癖だよ」

中桜塚が顔を上げて答える。聖は彼に聞き返した。

「悪い癖?」

「廃棄PCからソフトとOSの認証キーだけ抜き出して売るんだ。その金で自分のパソコンをアップグレードさせる」

「おい…まずいだろ」

思わずキーボードに乗せていた手が止まる。真顔になった聖に、中桜塚はなんでもないふうに答えた。

「ああ、会社的にはまずいな。だがここは何だ?倉庫だ。バレるわけがない。やりたい放題」

「法律違反ではないですよたぶん。あと、八神です」

八神はパソコンの山から顔をそらさずに言った。聖はでもなぁ、とつぶやく。そんな聖を中桜塚はにやりと笑って見た。

「会社にバレたらプーちゃんはクビ。監督責任で聖もクビ。共犯になるしかないな」

「なんてこった」

こんなところで罪を背負うことになるとは。はぁ、とため息をつきながら再びパソコンの画面に目を落とし、やる気なく作業を進めていく。背伸びをすると、パイプ椅子がぎしりと音を立てた。聖は腰が痛いなぁ、と思いながら、再びパソコンに向かう。

しばらくの沈黙ののち、牛久が顔を上げ八神に声をかけた。

「ねぇ、プーちゃん」

「八神です」

「そのお金で新しい椅子買わない?」

ふっと聖は顔を上げた。他の二人も同じく牛久を見つめている。聖と中桜塚が座る古いパイプ椅子がギシギシ言っている。

「なかなかいいアイデアですね」

ひねくれたイエスの返事に、牛久はにやりと笑った。


「腰が痛いと思ってたんだよなぁ」

中桜塚がわざとらしく腰をさする。そんな彼を牛久が横目で見て、冷たく声をかけた。

「セッターさんは姿勢が悪すぎでしょ。一番深刻なのは課長ですよ」

聖は驚いて牛久を見た。腰をかばう動作をした覚えはないが、なぜ気づかれたのか。

「よくわかったな。一度ぎっくり腰やってから腰が悪くなっちゃって」

「僕の心配はしてくれないんですか?」

「プーちゃんは若いから」

「八神です」

そんな会話をしながら、パソコンの山に埋まっていたホワイトボードを四人がかりで引っ張り出す。

聖はガタついた古いホワイトボードを立てて、解決すべき課題を書き連ねた。その後ろで、中桜塚が笑い声を上げていた。

「ふはは、これでお前も立派な共犯者!」

「腰痛と引き換えなら仕方ない。お前はぎっくり腰をやったことがないからそんなこと言えるんだ。あれは地獄だぞ」

かすれかかったペンを走らせながら、聖は言い返した。ぎっくり腰になった瞬間は声も出せず、年甲斐もなく本気で泣いた。小さな娘が心配して近寄ってきても、何も反応できなかったことを思い出す。結局、三日間ろくに歩けず、共働きの妻にかなり面倒をかけてしまった。

「よし。課題はこれだ」

書き連ねた項目は全部で四つ。聖はそれを読み上げた。

「購入する椅子の選定、購入方法、持ち込み方法、それから今後誰かが部屋に入って来た場合の誤魔化し方」

「なんか密売人になったみたいですね!」

「スパイっぽくもないですか?見つかっちゃいけないとか」

「最高に楽しいな。うーん、椅子は中古だろ。新品を買ったら一発でわかっちまう」

ホワイトボードの前に集まった面々が意見を述べていく。中桜塚は腕を組んでそう言った。

「購入方法は現金で、配送ではなく自分たちで持ち込むしかないでしょう。予算の無いこの部屋が通販で何か購入するわけがないので、配送業者が来たら一発でばれます」

八神は淡々と事実を述べた。

「持ち込み経路は裏の運搬用エレベーターだな」

「ますます潜入するゲームみたいですね!」

聖はよく電話するのに使っていたスペースを思い出しながら言った。運搬用エレベーターのホールはほとんど人が通らず静かなので、顧客との通話に最適なのだ。それに、最近エレベーターが改装されて、メインのエレベーターは荷物運搬が禁止されているはずだ。

「僕、良い中古のインテリア用品店知ってますよ。秋葉原にあるんです。下見して良さそうなのキープしておきますね」

牛久が手を挙げて言う。聖は頷いて、最後の問題に目を向けた。

「あとは、万が一誰かが入ってきた時の誤魔化し方か…」

「固定資産のシール貼っておけばよくないですか?それなりに高い椅子ならおかしくはないと思いますけど」

牛久が答える。たしかに、それならおかしくはないし、倉庫であるここならいくらでも誤魔化せるだろう。

「さて、一通り案が出たところで、何か他に問題点はあるか?」

「運搬用エレベーターの乗り場は人が通らなくて静かだから、課長やプロジェクトマネージャー(PM)がよく電話するのに使ってるだろ。通り道に人がいる可能性がある」

中桜塚もあそこを使っていたか。フロアが違ったせいか見かけることはなかったが、彼も事情は知っているようだ。

「PM以上は会社の携帯を持たされるからな…あ、PM会議の時を狙ったらどうだ?その時間帯ならPMも課長も会議室だ」

聖はそう言って皆を見た。中桜塚が頷く。

「それでいこう」

「シンプルに、その椅子どうしたの?って聞かれたら何て答えます?」

八神のもっともな疑問には、中桜塚がすぐに答えた。

「本部長の部屋や社長の部屋は結構な椅子を使っているから、上のお古だよって濁しておけ」

「了解です」

「店からここまで持ってくる方法は?四つ買うんですよね」

「軽トラを借りよう」

「じゃ、俺が運転します。実家が建築屋なんで慣れてます」

「ICカードの出入り記録は持ち運んだあと僕が消去します。人事に疑われないように、みんなこの部屋にいたことにしておきますね」

「よし、計画完成!」

「雨が降ったら違う日な。せっかくの椅子が濡れる」

「そうですね。良い椅子買うんだし」

とんとん拍子で話がまとまっていく。こんなこといつぶりだろうか。いつも何かをするときは、やれ根回しだの上の許可だの、動きにくくて仕方がなかった。ここの部署はストレスフリーだ。ただし、倉庫だが。

聖は複雑な、しかし確実にわくわくした気持ちを抱えながら、ホワイトボードに書いた計画を見つめた。


「プーちゃん、金は持っってるな?」

「もちろん。頑張ってコード抜き取りましたからね」

「よし、ブツを取りに行くぞ」

「なんかわくわくしません?」

「浮かれてしくじるなよ」

「わかってます」

そわそわしている八神と、それを注意する中桜塚、そしてレンタカーの鍵を持った牛久。全員を見て、聖は手を叩いた。

「よし、計画開始だ!」


中桜塚と牛久を見送って一時間と少し。聖のスマホに連絡が入った。八神は待機組だ。

「こちら牛久、予定通りブツを確保しました」

「了解、運搬を開始せよ」

高校生に戻った気分でそんな通話をする。こんなに心が躍ったのはいつぶりだろう。大人になると、少年時代のしょうもない遊びがとても貴重だったと気づくのだ。

聖はそわそわと連絡が届くのを待った。


「もしもし課長。牛久です。もうすぐ到着するので、裏口に来てください」

そう電話があったのが五分前。聖はビルの裏手で軽トラの到着を待っていた。八神は見張り役としてビルの中にいる。

しばらくして入ってきた軽トラには、牛久が運転席、中桜塚が助手席に座っていた。

止まった車に近づこうとしたその時、軽トラの二人に声がかかった。

「お疲れ様です。どちらへ搬入ですか?」

警備員だ。もっとも見つかってはいけないやつだ。聖は背中にじんわりと汗がにじみ出るのを感じた。もっとステルスしないといけなかった。このビルにはテナントとして入っているから、見慣れない車が来たらどこの会社か確認されるのは当然だ。

「日本エボリューションシステムでーす。突然近くの事務所が移転することになりましてね。とりあえずこれだけ持って帰れって上に言われたところです。いやぁ、下っ端はつらいですね。スーツのまま引っ越し作業させられるなんて」

「そうですか。どうぞ」

中桜塚のよどみない言葉が、警備員の警戒をするりと解く。彼の会話術に感嘆しながら、聖は二人を迎えた。

聖と中桜塚がひとつずつ、牛久はなんと二つの椅子を持ちながら、三人は運搬用のエレベーターに乗り込んだ。あとは、上まで昇ってさっさと部屋に運ぶだけ。

安心しきった三人だったが、そのころ八神は大慌てで作業していた。


「まずいまずいどうしよう…PM会議もう終わってるじゃん…一時間かかるとか嘘つきにもほどがある…あとで課長殴ろう…」

なんとかして運搬用エレベーターから固定資産管理課までの道のりを確保する必要がある。その時、聖からのんびりとした連絡が入った。

「八神ー、エレベーター乗ったぞー」

完全に気が抜けている。勝利を確信した時が一番危ないというのに。

「ちょっと待っ」

「すぐ着くからよろしく!」

そこでプツリと通話は途切れた。

なんだよ!なんでそんなに能天気なんだよ!だからこんなところに飛ばされるんだよ!

頭の中でキレながら、八神は解決策を考えた。どうすれば廊下にいる人数を最小限にできる?

部屋のドアを開けて廊下を覗き、各々戻っていくPMたちを見る。このあとは、部下たちに会議の内容を共有するはずだ。つまり、みんな部屋に入る。

と、いうことは。

「カードキーはネットワークに繋がっている…カードキーを完全ロック状態にしよう。そうすれば誰も部屋から出られなくなる」

とんでもない案の上、管理者権限をハックして勝手に使うことになるがこれしかない。八神はPMが部屋に入っていくのを見届けてからパソコン前に飛んでいき、固定資産管理課と運搬用エレベーターホールへの扉を除き、すべての扉をロックした。


「ただいまー」

「ただいまじゃないですよ、危ないところでしたよ!」

「何が?」

椅子四つが部屋に入ったのを見届けて、八神はロックしていた扉を復活させた。あとで痕跡を消しておかなくては。

「見てこれ、社長椅子みたいでしょ!」

「俺はこれがいい、これにする。机に足が乗せやすそうだ」

楽しそうに椅子を選ぶ三人に、八神はぐったりとパイプ椅子に座り込んだ。

「プーちゃん、せっかくだからこっちでくつろぎなよ。ゲーミングチェアがあったから買ってきたんだ。こういうの好きでしょ?」

「…どうも…」

新しい椅子をころころと持ってきてくれた牛久に最小限の感謝の言葉を述べて、八神はそちらの椅子に座りなおした。

「良い椅子ですね」

「よかった、気に入ってくれて」

多少のピンチはあったものの、固定資産管理課の初プロジェクトは成功を収めた。

「あ、そうだ。ダミーの資産管理シール貼りますね」

牛久がいそいそとシールの準備を始めた。


プロジェクト成功の歓喜に沸いてしばらく経ったその時、ピコンとメール受信のポップ音が鳴り、聖は新しい椅子に腰掛けてメールボックスを開いた。

その一件のメールが固定資産管理課を大事件に巻き込むとも知らずに、聖はアイコンをダブルクリックする。この瞬間、周到に用意されたプログラムが走り出した。

短いメールの文面に目を通し、聖は新しい椅子にかけてあったジャケットを羽織って、緩めていたネクタイを締め直した。

「インダストリアルシステム部の籠原本部長から呼び出しだ。ちょっと行ってくる」

「おっとうとう俺たちクビか?椅子の件がもうばれたか?」

「縁起でもないこと言わないでください!」

ぎゃいぎゃい騒ぐ二人の間を通り過ぎ、聖は部屋を出た。


少人数用のミーティングルームでインダストリアルシステム部、通称インシス部の籠原本部長と対面した聖は、彼の沈鬱な表情に嫌な予感がしていた。帰りたい気持ちを押し殺し、椅子に座る。これは本気でクビでは…

「同じプロジェクトで自殺や病死が相次いでいるのは知ってるな?今日三人目の報告があった。自殺だ」

挨拶もなしにいきなり本題。どうやらこれは面倒な案件らしいと今までの経験が告げる。しかし同時に解雇通知でないことにほっとした。

「例のプロジェクト?亡くなった方がいることは知っていましたが、同じプロジェクトだとは知りませんでした。病死した方もいるんですか」

三人目の自殺をすでに把握済みということは伏せて、聖は返した。不必要なことを漏らすのは、弱みを見せるのと同じだ。短くはない社内政治経験の中で、聖は嫌というほどそれを知っていた。

「プロジェクトはうまくいっていると聞いている。上からの指示だ、死亡者が相次ぐ原因をまとめて上げてくれ。適当でいい」

「はぁ」

適当。良くない方の意味で使われたその言葉に、聖は中途半端な返事をした。人が三人死んでいるのに、適当。あまりにも不釣り合いな言葉を不快に思う。

なんと言い返したものかと考えているうちに、本部長は椅子から立ち上がった。そして部屋のドアに向かいながら聖に情報を投げ付けてくる。

「プロジェクトは松永ホールディングスのショッピングポイント管理システム、開発形態はウォーターフォール式、メンバー数は現在十二人。松永ホールディングスの子会社、松永システムからの請負で、プロジェクトマネージャーは冷泉れいぜいだ」

がちゃりと開いたドアが、質問は許さないとばかりにバタンと閉まった。


「…という仕事が来た」

固定資産管理課に戻り、聖は本部長からの依頼を三人に伝えた。三人とも一様に同じような戸惑いの表情を浮かべ、ついでに同じ方向に首を傾げている。聖もつられてそちらに頭を曲げた。重力が傾いたような空間に、中桜塚の声が落ちる。

「なんだよそれ。部屋行ってプロジェクトメンバーに聞けば終わりじゃんか。まぁ、死者がたくさん出るような部屋、行きたくないけどな」

傾いていた皆の首が元に戻る。聖は腕を組んでうなずいた。

「そうだよなぁ。ただ俺あのフロア出禁なんだ。エレベーターのID止められた」

最近改装されたエレベーターは、ICチップ入りのカードを読み取り機にかざさないと止められないフロアがある。テナントとして入っている会社は、各々がすべてのフロアにそのロックをかけていた。例外は、最上階にあるテナント共有のリフレッシュフロアだけだ。しかし、ビルの関係者以外が入れないようにリフレッシュフロアもカードを読み取り機にかざさないとエレベーターを止められない仕組みになっている。

「出禁?なんかやらかしたんですか?」

牛久の質問に聖は再びうなずき、組んでいた腕を広げて部屋全体を示した。

「やらかしたからここにいるんだよ」

「ああ、そうですね!たしかに!」

牛久が笑いながら手を叩く。こいつの笑いのツボはどこあるのかさっぱりわからんと思いながら、聖はどうしたものかと考える。

「誰か俺の代わりに行ってもらうしかないんだが」

「じゃ、お前な」

すかさず中桜塚が牛久にそう言う。これは、自分が行きたくないが故の提案だろう。

「なんで俺」

「俺が行きたくないからに決まってるだろ」

彼は本音を隠すということを忘れたらしい。営業時代の中桜塚は、もっと建前を使い分けてやたらとニコニコしていたはずだが。そうでないと営業が務まるわけがない。

「プーちゃん…」

牛久が縋るような目で八神を見る。しかし彼は即座に言い返した。

「コミュ障なんで無理です」

「だよね」

「…その返事、それはそれでムカつくんですけど」

仕方ない行くか、と肩を落とした牛久に、八神はムッとした顔で言い返した。

「じゃあ行く?」

「コミュ障なんで無理です」

「だよね」

「ムカつく…」

無限ループしそうな会話を実行停止すべく、聖は牛久を部屋から追い出そうと背中を押した。

「ちょ、ちょっと待ってください。ウォーターフォール式ってなんでしたっけ?」

ドア間際でぶつけられた質問に、聖は手短に答えた。

「基本情報技術者のテキストに書いてあっただろ?よく使われる開発形態のひとつだよ。顧客の要望を聞いて、設計して、開発して、テストして、リリースする。上から順番にやっていくからウォーターフォール…滝、って意味だ」

「へぇ」

「滝ってのは後戻りできないんだよ、今の牛久みたいに。さぁ行った行った!」

文句を言いかけた牛久を部屋から放り出し、聖はドアを閉めた。


首にかけた社員証を読み取り機にかざし、階数ボタンを押す。二つ上のフロアに着いた牛久は、エレベーターホールを出て廊下へと歩いて行った。布張りの床が足音を吸収し、ほぼ人通りのない通路はしんとしていた。

エレベーターホールは正方形のフロアの中央ブロックにある。そのブロックには他に大きめの個室が二つ。中央ブロックを囲むように廊下があり、その外側には廊下を囲うようにぐるりと大部屋がある。窓に面した大部屋はいくつかに分かれていて、ミーティングルームも数カ所あった。それからトイレ、非常用階段、荷物運搬用のエレベーター。つまり、正方形を正方形で何重かに囲った構造のビルだ。現在の建築基準法を満たさない古臭い造り。たしか、来年改装が入るんだったか。

窓がない廊下は薄暗い。各所にぽつりぽつりとあるドアは重い金属製で、こちらもガラスは一切使われていない。牛久は息苦しさを感じるこの空間が好きではなかった。固定資産管理課の部屋は、外周部の窓がある部屋で良かったと本当に思う。

中央ブロックの個室のひとつに着き、牛久は深呼吸した。見るだけ見るだけ、大丈夫。

セキュリティ上、権限を付与されていない牛久は自分が入れないのを承知の上で、一応カードリーダーに社員証をかざしてみた。案の定、ピーッとエラー音がする。

コンコン、と控えめにノックをしてみた。金属製のドアはあまり音が響かない。今度は少し強めに叩いてみた。やはり応答はない。

十回ほどノックを繰り返したところで、全く反応のない扉に半分キレかかった牛久は、拳を握りしめてドアを殴りつけた。ダンダンダン!と鈍い音が響く。しかしやはり扉は開かない。

まだ駄目か!なら蹴り飛ばしてやる!

一歩下がり、左足を軸に右足を上げて思い切り後ろに引いたところで、ガチャリとドアが開いた。

「何か御用ですか?」

「あ」

にこにこと人好きのする笑顔で立っている男性に、牛久は上げていた足をすすす…と静かに床に付け、気まずい笑顔で首にかけた社員証を持ち上げた。

「固定資産管理課の牛久です。確認したいことがあるので部屋の中に入れてもらえますか?本部長の許可は取ってあります」

「確認したいこと?何でしょうか」

ぴしりとスーツを着こなした彼が聞き返してくる。あ、この人が冷泉さんだな、と牛久はピンときた。端正な顔立ちに、センス良く整えられた髪。首に掛かっている社員証を見ると大正解。冷泉翔、と名前があった。

「自殺者の件だと思います。僕は代理できたので詳しいことはわからないのですが…申し訳ありません」

「ああ、そのことですか…様子を見て来いということでしょうね。わかりました、中へどうぞ」

冷泉は沈痛な面持ちで扉を大きく開け、牛久を中に入れた。

一枚目の扉が閉まり、二枚目の扉が開く。二重扉だ。扉の間には半畳ほどの狭い空間があった。古いビルなので、かつての名残がそこら中にある。これもそのひとつだろう。

中に入ると、そこにはかなり手狭だがごく普通のPJ部屋があった。島型配置の事務机が二列に、たくさんのパソコン。ダブルモニターで作業している社員もいる。

「普通…ですね」

「普通ですよ。狭いことを除けば」

たしかに狭い。人口密度は高かった。

「冷泉さん、どうかしましたか?」

奥の方から男性社員の声がする。冷泉はニコッと笑って、お客さんですと紹介した。

「お客さん?」

ざわ、と狭い部屋の視線が集中する。牛久はそれに少々たじろいだ。注目されることになれていないのだ。

「顧客ではないですよ。社内の見学者です」

「なぁんだ、びっくりした」

「紛らわしい言い方しないでくださいよぉ。もう、志太橋くんじゃないんだから」

「そうそう。志太橋、お前いっつも日本語が足りてないもんな!漢字変換は多いし」

あはは、と笑い出したメンバーが、志太橋と呼ばれた青年をつつく。バシバシと肩を叩かれた彼は、困ったように笑ってすみませんと言った。

「僕いつも説明不足で…すみません、すみません」

「日本語不自由って社員証に書いとく?」

「いいねそれ!」

「こら、ふざけてないでそろそろ仕事に戻ってください」

「はーい」

牛久は一連のやり取りに強烈な不快感をおぼえた。なんだろうこれは。記憶にあるような、ないような…

「このあたりでよろしいでしょうか?」

冷泉が退室を促してくる。牛久は小声で彼に問いかけた。

「皆さん明るく振る舞っていらっしゃるようですけど、もうショックからは立ち直って…?」

「ああ…外に出ましょうか」

冷泉は内側の扉を開くと、牛久を廊下へと出した。

「亡くなった方のお話ですね」

「はい」

「皆さん、直後はたいへん苦しんでおられましたが…なんとかケアできました。今はもう心配いりません」

「そうですか、それはよかったです」

「ただ、まだ今回のことは話していなくて…もう少ししたら皆に話そうと思っています。その時は本部長に相談しますので。仕事は問題なく進んでいます。これで報告できそうですか?」

「十分です。ありがとうございました」

「お疲れさまです。では、失礼します」

一枚目の扉へ入っていった冷泉の背を見送り、牛久はやりきれない気持ちを抱えてしばらく立っていた。

志太橋、といったか。あの社員は。

帰ったら話をしてみよう。みんなが理解してくれるか、わからないけど。


「ただいま戻りました」

「おかえり。どうだった?」

浮かない顔の牛久を見て、聖は首を傾げた。

「何かあったのか?」

「いや、俺の考えすぎか思い込みかもしれないんですけど…志太橋さん、っていう男の人がいて、その人が…なんていうか、いじられキャラなんですよ」

「ふーん?よくある話じゃないか?」

「そうなんですけど、度を越してるというか…なんでも彼に結びつけて、志太橋さんをダシに笑いを取るんですよね…つまり、常に笑い者にしてるわけです」

「もう少し具体的に知りたいな」

「えっと…冷泉さんが僕のことをお客さん、って紹介したら、みんな顧客のことだと思ったんですよ。すぐに社員だって訂正したんですけど…そこで、志太橋さんじゃあるまいし日本語はちゃんと使ってくださいよって話の流れになって。志太橋さんはいつも日本語が不自由だから、社員証にそう書いとく?みたいなからかい方です」

「なんだか子どもじみてるな…」

「これ、言葉足らずなのは冷泉さんじゃないですか。どうしてわざわざ志太橋さんに結びつけるのか…感情論なんですけど、とても不愉快に思いました」

「志太橋本人の様子は?」

「恐縮していて、すみませんとしきりに謝っていました」

「それはよくないな。非常によろしくない」

真剣な顔で中桜塚が告げる。そこに、八神の声が追加された。

「他にも少々おかしな点がありますね。冷泉さん本人に不審な点はありませんが…むしろパーフェクト過ぎて怖い…担当したプロジェクトのメンバーの休職、その後の退職率が他のプロジェクトマネージャーと比べてかなり高いです。と言っても、冷泉さんが担当したプロジェクト中に直接辞めたわけではなく、その後しばらく経ってから…という、まるで隠蔽工作されたような記録です。冷泉さんのプロジェクトを経由するとその後退職する、ということですね」

「そうか。一瞬でよくそこまで観察してくれた。あとでまた情報を整理しよう」

そう言うと、聖は席を立ち、ドアへと向かった。

「ん?どこ行くんですか?」

中途半端なタイミングの離席に、八神の声がかかる。

「マネージャー会議」

聖の答えを聞いて、中桜塚が口を開く。

「お前まだマネージャーだったの?この前出席してなかったじゃないか」

中桜塚の質問に、聖は肩をすくめた。

「一応マネージャー…というか役職が課長だ。忘れてた。欠席したら怒られた」

その答えを残して、聖は部屋を出た。


マネージャー会議には、本社で仕事をしているインダストリアルシステム本部のプロジェクトマネージャーが全員出席する。固定資産管理課と同じフロアにある会議室に集まったのは、二十人ほどのマネージャーと四つある部の部長たち、そして籠原本部長だ。

ちなみに固定資産管理課は、課なのに部には属さず、本部長直属だ。もはや意味がわからない。

各プロジェクトの進捗報告がされていく。たいがい遅れ気味か、炎上しかかっていることをなるべくオブラートに包んで報告している。スマートに報告を済ませたのはひとりだけだった。

そして、聖の番が回ってきたところで、籠原本部長の辛辣な言葉とともに順番を飛ばされた。

「固定資産管理課は何もないな。あるわけない。次」

確かにプロジェクトとして報告することは何もない。だが、自殺者調査の件について何も言わなくていいのだろうか?

そう思って部屋を見渡し、聖はある一点に目を留めた。先ほど唯一問題なく報告を済ませた冷泉だ。

なるほど、おそらく彼に調査報告を聞かれたくないのだろう。損失を出した聖への当て付けを名目にしてカモフラージュし、うまく隠したのか。本当に関心がない可能性もあったが、そこは籠原本部長を信じたい。

結局、聖に関係のある件はひとつだけだった。

「はい、じゃあ今日の会議はここまで。メンタルヘルス講習会の出席者をあとで連絡すること。解散!」

バラバラと部屋を出て行くマネージャーの波に乗って、聖も部屋を出る。たったひとつの関連事項、メンタルヘルス講習会に誰を出そうか考えていたら、後ろから軽く肩を叩かれた。

「聖さん」

振り向いた先でにこやかに笑っていたのは、冷泉だった。

「冷泉さん。何かご用ですか?」

多少緊張して聞いたものの、彼の魅力的な笑顔に聖の警戒心はすぐに解けかかった。イケメンというのはこういう男のことを言うのだろう。物腰はやわらかで、ほんわかした空気を纏っている。しっかりしろ、と自分に言い聞かせ、冷泉に向き直る。

「ええ。今夜、一緒に飲みに行きませんか」

「え?」

突然の誘いに、聖は驚いて動揺した。揺れる心を抑える間もなく、冷泉の言葉が続く。

「聖さんは日本酒が好きとお聞きしまして」

「はい、好きですね」

何が狙いなのか全くわからない。聖は素直に事実を答えるしかなかった。

「良いお店があると紹介されたんですけど、私は日本酒に詳しくなくて…よかったら、ご一緒していただけませんか?」

こちらの警戒心をするりと抜けてくる言葉に、聖は断る方法も思いつかず、うなずいた。話を聞くチャンスである。

「わかりました」

「ありがとうございます。では、定時にエントランスで待ち合わせしましょう」

じゃあ、とエレベーターホールの方に向かった冷泉を見送り、聖は腕時計を見た。午後三時。定時まであと三時間。


固定資産管理課の部屋に帰り、聖はジャケットを脱いで椅子に掛けた。全く、節電のせいで会議室は暑くて仕方がなかった。この部屋は四人しかいないからまだ快適だ。

「今夜、冷泉と飲みに行ってくる」

ついでにネクタイを緩めながらそう言うと、一斉に疑惑の目が向けられた。全く信用されていない。こいつらに疑われるとは心外だと思い、聖は不機嫌に眉を寄せた。

「大丈夫ですか?」

「酒には結構強いから心配するな。酔っぱらってそのへんで寝たりしない」

「課長の心配をしているんじゃなくて、情報漏洩の心配をしているんです」

八神の辛辣な言葉に、中桜塚がうんうんと何度も頷く。

「その通り。酔っ払って変なこと言うなよ」

「少しは心配してくれよ!」

あまりの扱いにそう叫んだ聖に、牛久がフォローするように口を挟んだ。

「あの…僕は一応、課長の心配をしていますよ」

あー、と言いながら背もたれに寄りかかり天井を見つめた聖は、ありがとう、と力なく牛久に返した。

天井にある四角い天井の蓋が、聖を見下ろしていた。

「どうしたんですか、天井点検口なんか見て」

「あれ、天井点検口っていうのか」

「そうですよ。中に配線とか通ってるんです」

「さすが建築屋のせがれ」

「それ褒めてるんですか?プログラミングができないことへの嫌味じゃないですよね?」

「何言ってるんだ。褒めてるに決まってるだろ」


定時と共に即座に帰った中桜塚、冷泉と飲みに行った聖。残った二人は、のんびりと帰り支度をしていた。そんな中、雑談でニックネームの話になった。

「よく大仏なんてニックネーム許しましたね。嫌じゃないんですか?」

八神の問いかけに牛久は手を止めて答える。

「嫌じゃないよ。あれ、俺のためだから」

「え?」

「昔はさあ、大仏大仏ってよくいじめられてからかわれてたんだ。だから自分の名前が嫌いだった。だから、誰かがふざけたり陰口として言い始める前にセッターさんがニックネームとして定着させてくれたんだ。新人研修でセッターさんに指導を受けたことがあって、そのときに」

「へえ…」

「一度ニックネームとして付いちゃえば、みんなマイナスイメージを持たずに呼んでくれるだろ?それをわかってたんだよ、あの人は」

「実はすごい人だったんですね。それじゃあ、僕のプーちゃんっていうニックネームは…」

「それはからかってるだけだと思う」

「やっぱり最低野郎だ。課金してるソシャゲの記録全部消しておいてやろうかな」

「やめてあげて」

「大仏さんもあのゲームやってますよね?僕もやってるんで、二人で強くなってセッターさんをボコボコにしませんか。ムカつくんで」

「動機はともかく、レベル上げは手伝うよ…明日の定時後にリフレッシュルームでどう?」


二人がそんなやりとりをしている時、聖はエントランスで冷泉と合流していた。

「お疲れ様です」

「お疲れ様です。お忙しい中ありがとうございます」

「いえいえ、暇な部署ですから」

古いくせにやたら広いエントランスホールを二人並んで歩き出す。行先は冷泉に任せ、聖は彼について行く形だ。

とりとめのない世間話をしながら西新宿を歩く。冷泉は常に道路側を歩き、聖を歩道へと誘導していた。聖はそれに気づくこともなく、すたすたと彼について歩いていく。着いたのは隠れ家バーとでも言えそうな目ただない店だった。無垢材の重厚な扉の前はこじんまりした庭のようになっており、とてもお洒落だ。

「ここです」

冷泉が扉を押さえ、聖を中へと案内した。

「へぇ…よさそうなお店ですね。こんなところにあるなんて知らなかった」

店に入ると、いかにも上品な料亭という雰囲気で聖は一瞬躊躇った。普段はそこらへんの居酒屋しかいかないのだ。

「聖さん、どうぞ」

冷泉と店員、両方にエスコートされてカウンター席につく。目の前に並ぶ日本酒の瓶に、聖の緊張はあっという間に解けていった。

日本酒利き酒セットなどを楽しみ場が和んだところで、冷泉が声を低くして話し始めた。

「あの…少し、話しにくいことなんですけど」

「なんですか?」

彼は本当に魅力的だった。利き酒で正解を連発し、さすがですね、と不正解を連発した冷泉に褒められ、ほろ酔いでご機嫌の聖は疑うことなく話を聞く体勢に入った。

「どうして…どうして私のプロジェクトメンバーは自殺してしまったんでしょう…私が悪いんでしょうか…本当に突然のことで」

「電車に飛び込んだ方、ですか?」

「そちらの方と、以前ビルから飛び降りた方です。あれからあまり眠れなくて…私のせいじゃないか、私が悪いんじゃないかって思うと苦しくて。それに、心臓発作で亡くなった方もいます」

「自分を責めないでください。プロジェクトは順調じゃないですか」

「気づかないうちに、メンバーに無理を強いてしまっているのかもしれません」

「個人個人の問題でしょう。家庭とか、交際とか、健康状態とか、プライベートなことはいろいろあるでしょうから」

「そうだと思いたいです。もっと相談に乗ってあげられればよかったのですが…心が痛みます。聖さんのところのメンバーはどんな方たちですか?」

「個性的なやつらですね。それぞれ突出した能力があるので、少し背中を押せば素晴らしいパフォーマンスを発揮しますよ。だけど、いかんせん使いどころが難しい」

「チームプレイ、ってことですか」

「そうです。担当する分野が決まっていて、それぞれが欠点を補い合えるメンバーです。もっとも、誰かに言われないと動かないんですけど。それが私の役目です」

聖はぺらぺらと口を動かした。酔いが回り、彼の見事な話術にはまり、何も気づかぬままに大切な情報を抜かれていた。

「ひとりでも欠けたら、大変ですね」

にこりと笑って言った冷泉の言葉に疑問を持つことなく、聖はそうですねとうなずいた。

「あ、すみません、取引先から電話が」

冷泉が社用の携帯電話を持って席を外した。しばらくして戻ってきた彼は少し肩を落としてため息をついた。

「明日は朝から松永システムに行かなきゃいけないようです」

「それでは、このあたりでお開きにしましょうか」

「そうですね」

お会計を、と言う聖の横顔を、冷泉は感情のこもらない目で見ていた。




翌日の喫煙所、午後十時。サボり魔の朝の休憩時間。

「キャメルちゃん、まだ二部の神崎部長と続けてんの?」

以前聞いた話を持ち出し、煙草をひと口。煙を燻らせながら、中桜塚は庶務の女性と話をしていた。キャメル・メンソール・ライトボックスを吸いながら、キャメルちゃんと呼ばれた女性は中桜塚を見る。

「まぁね。そういえば、このビルの受付にいる堀井さんって人知ってる?あの清楚な子も私と同類。うちの三部の長津田部長と不倫中。こっちはW不倫ってやつよ」

「へぇ、みんなうまいことやるなぁ」

黙っていると情報が入ってくる。口を閉ざしておくのに、煙草はちょうどいい。

「一度知ると病みつきになるのよ。セッターさんもやってみたら?」

「遠慮しとくよ。後腐れのない関係のほうが気楽でね」

「ふぅん。ま、あなたらしい」

「なぁ、冷泉ってお前好みのイケメンだろ?狙わないのは既婚者じゃないからか?」

ずっと疑問だったことを聞いてみる。彼女はふう、と煙を吐き出した。

「ああ、あの人?」

派手なネイルが煙草を揉み消す。そして、短く潰れた煙草が灰皿に落とされた。

「どうもあの笑顔が気に食わないのよね。なんか腹に隠し持ってる感じ。付き合ったらひどい目にあいそうだから手は出してないし、出す予定もない。じゃ、私戻るね」

ひらりと手を振って喫煙所の出入り口に向かった彼女は、ふと中桜塚のほうを振り向き微笑んだ。

「あ、そうそう。だから私、あなたにも手を出さないのよ」

タッチ式の自動ドアが開き、そして閉まる。中桜塚は二本目の煙草に火をつけ、深く息を吸った。

「女ってのは怖いねぇ…」

誰もいない喫煙所で、セッターの煙が彼の姿を包み込んで曇らせた。

一人きりで煙に包まれていたら、次の客がやってきた。

「あ、セッターさん。お疲れ様です。ちょうど会いたかったところなんですよ」

人事課の彼は中桜塚の横に付き、煙草に火をつけた。

「おつかれマルボロくん。俺に会いたかったって?」

「良いもの…中桜塚さんにとってはお宝みたいなものを手に入れたんですよ」

マルボロをくゆらせながら、彼はスマホを取り出した。


昼休み、昼食を買いに行った聖と牛久がおらず、八神はたまたま中桜塚と二人部屋に取り残された。朝買ってきたおにぎりを片手に、ハッキング用のプログラムをもう片方の手で打ち込む。

「よくそこまでスキルを磨いたな」

サンドイッチをかじりながら中桜塚が言った。八神はモニターから顔を上げて答えた。

「プログラムって、書いた通りに動くんですよ。だから、僕が思ってたのと違う結果が出た場合、間違っているのは僕なんです。プログラムは限りなく素直で、無垢です。だから好きです」

「なかなか詩的な表現だな。お前にしちゃめずらしく良いことを言った」

「プログラムはセッターさんとは正反対なんですよ」

「前言撤回だ。クソ生意気なガキめ」

彼はふん、と鼻をならしてサンドイッチの残りを一気に頬張った。

その時、ピコンと中桜塚のスマホが鳴った。

「あーあ、また迷惑メールだよ。しばらく前からひどいんだよなぁ」

「セッターさんもですか?僕もです。電話もかなりきますね」

「どこから情報漏れてるんだろうな。まったく嫌になるぜ」

「騙されないように気をつけてくださいね。オレオレ詐欺とか」

「なんで俺がオレオレ詐欺に引っかかるんだよ」

八神の頭を小突いて、中桜塚は喫煙所に行こうと煙草を手に取った。


九月中頃の午後、喫煙所に行った中桜塚が五分ほどですぐに帰ってきた。いつも二十分程度は喫煙所にいるのに、一体どうしたのか。

「今日は早いな」

聖が声をかけると、彼は肩をすくめてタバコを机に投げ置いた。

「喫煙所が満員電車みたいにぎゅーぎゅーでよ。あんなところで吸ったらスーツに火が付いちまう」

「あー…台風ですか?」

あきれたように声を上げた牛久に、中桜塚はため息をつきながら答えた。

「そう、台風だ」

「台風?」

八神がパソコンから顔を上げ、三人の会話に口を挟む。

「プーちゃんは常駐が多かったから知らねぇか…三ヶ月に一回くらい、社長室フロアの大部屋に台風が来るんだよ。籠原本部長っていう台風」

「はぁ」

「入ってくるなり部長たちを片っ端から捕まえて怒鳴るわ怒鳴るわ、もう仕事になりゃしない。それでみんな喫煙所やリフレッシュルームに逃げるのさ」

「またなんでそんなに荒れるんです?」

「噂によると、高校生の息子が引きこもりらしくて夫婦喧嘩が絶えないとか。二人いる息子のうちの弟の方だったかな?家庭の事情を会社に持ち込まないでほしいよなぁ。その点、聖はえらい」

「俺のところは夫婦円満だから」

「尻に敷かれてる、の間違いじゃなくて?」

「いや、まぁ、そうとも言える…かもしれない…」


翌週、煙草休憩から戻ってきた中桜塚は、ニコチン野郎とつぶやいた八神の頭をぺしっと叩き、聖の机の前に行った。

「暴力反対!」

「ちょっと黙ってろガキ。ツテを辿って志太橋と話したが、明らかに様子がおかしい。こりゃあ本格的にあの部屋の中を調べたほうがいいんじゃねぇの?」

「お前のツテはいつも謎だらけだな」

「うるせぇ、営業職はミステリアスなんだよ。おい、また自殺者発生なんて俺は嫌だぜ」

「様子を見るって言っても…」

「ヘルプで入り込むか」

「俺と聖じゃ年齢的に無理だな。ヘルプに入るのは若手だ」

「じゃあ、俺とプーちゃんですか?」

「そうなりますね…ヘルプって嫌なんだよなぁ」

「うっ…プログラミングはいやだ…怖い…」

「そっちは僕がなんとかするんで大仏さんは周りを観察してください。むしろそういう役割分担でいきましょう。このニコチン野郎が変だと言…」

「はいストップ。喧嘩はそこまで」

また戯れの口撃をし始めようとした八神を制し、聖は会議机の上に軽く腰掛けた中桜塚を見た。

「どうやって潜り込ませる?」

「あそこは優良プロジェクトだからな…見学、もしくは勉強って名目がいいかもしれない。ここは問題社員が集まってるって触れ込みだから、矯正を兼ねてということで。特にそこのガキ」

「はい喧嘩はそこまで。二回も言わせるな。具体的な方法となると…部長に話を通す必要がある」

「冷泉は三部所属だったな?それなら良い方法がある」

ニヤリと笑った中桜塚は、獲物を狙うような目をしていた。


三日後、朝の定時。

「不倫情報って効果抜群ですね」

「声が大きいよ…」

牛久と八神は、中桜塚が勉強という名目で取ってきたヘルプ作業をするために松永ホールディングスの部屋に向かっていた。

部屋に到着すると、社員証をICカードリーダーにかざす。今度はユーザー登録がされていたので、ピッと音がして扉が開いた。

「ああ、おはようございます」

部屋に入ると冷泉が席を立って出迎えてくれた。彼の席は窓際の一番奥、いわゆる課長席。

「おはようございます…って、あれ?この前いらした…」

今日な来訪者に、狭い部屋の社員が戸惑う。冷泉はパン、と手を叩いて注意を集め、牛久と八神を自分の机の近くに来るよう促した。

「今日から一週間、うちのプロジェクトにヘルプで入ってもらうお二人です。スキルやマネジメント能力ともにお互い勉強になることが多いでしょうから、皆さん協力して仕事をしていきましょう。それでは軽く自己紹介をどうぞ」

「は、はい…牛久と申します。とても良いプロジェクトだと聞いているので、多くのことを学ばせてもらえればと思います。よろしくお願いします」

「八神です。プログラミングが好きです。よろしくお願いします」

自己紹介にも性格が出るものだなぁ、と、牛久は思った。

「牛久ってどういう字ですか?」

男性社員から質問が上がった。

「牛に久しいの久です」

「あ、牛久大仏の字?」

ひやり、と牛久の背中を嫌な汗が伝った。覚えがある、この感じは…

「とても縁起の良いお名前ですよね。皆さんも牛久さんのお名前にあやかってくださいね」

すかさず冷泉がフォローに入る。牛久は緊張していた肩の力を抜いた。

「そうですね!よろしくお願いします、牛久さん、八神さん!」

「お二人の席はあちらです。どうぞ」

人口密度が高い狭い部屋の中、なんとか作ったスペースに押し込められると、二人は割り当てられた作業を開始した。

「大仏さん、顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫…ちょっとトラウマが蘇っただけ…」

「名前の?」

「まあ…そう」

「では、ここでは牛久さんと呼びますね」

「そうしてくれると助かるよ」


プロジェクトは、和気あいあいとしているように見えた。

「すごいね八神くん。仕事が早い!志太橋とは大違い!」

「あはは!そうね!」

「牛久さんは?」

「あ、ええと…事務処理なら…」

「牛久さんがいてこそ僕がパフォーマンスを発揮できるんです」

「へぇ、なるほど!いい関係だ」

「志太橋ってば名前負けしてばっかりだもん。志が太いって、全然そんなことないもんね」

牛久は気が滅入ってキーボードを打つ手が止まった。それを見た八神が怪しまれないようにすかさず声をかける。

「技術面では、こういうフォローでいいですよね?牛久さんはこの資料作成してくれますか」

「助かる…とても助かる…あとで飴ちゃんあげるね」

「いりません」

その時だった。後ろでちょっとした騒ぎが起こったのは。

「ちょっと!これ冷泉さんが無くしたって言ってた万年筆じゃない!?」

「本当だ…なんでお前の引き出しに入ってるんだよ、志太橋!」

「えっ…僕は何も…知りません!盗ってません!」

「あなた前にもこんなことあったわよね…手ぐせが悪すぎない?」

「そんな…何もしてないのに…」

志太橋を責める正義の視線が部屋を支配する。その空気を破ったのは、冷泉だった。

「大したことではありませんよ、志太橋くん。たまたま落ちて入ってしまったのかもしれません。返してもらってもいいですか?」

「は、はい…」

ペンがたまたま落ちて引き出しに入るなどありえないと言っていいだろう。冷泉が許したことで場の空気は収まったが、牛久は空恐ろしいものを感じて身を固くした。


翌日は、志太橋が作成した資料ファイルがフォルダごとデリートされていた。その翌日は、志太橋がマウスを壊してしまった。これで十個目らしい。

そのたびに彼は心当たりがない、もしくはすみませんと言うだけで、周りは正義感をもって彼を責める。そうでないときは彼の容姿をからかったり、能力を貶めたり、いわゆる「いじる」ということが続いた。漢字の変換ミスを指摘されて馬鹿だと笑い者にされていたときは、八神が止めなければ牛久は殴り込みに行くところだった。


金曜日の夜、二人は志太橋を捕まえて話を聞いていた。

「中桜塚さんと何を話したんですか?」

「な、中…桜塚さん…?どなたですか?」

え、と二人は顔を見合わせる。そもそも、この計画は中桜塚の行動から始まったもののはずだが。

「茶髪のニコチン馬鹿ですよ」

「元営業職の男性だよ。十一年目の中堅社員」

「存じ上げませんけど…」

「え?」

「お二人共、お疲れさまでした」

「冷泉さん」

それ以上を聞き出す前に、冷泉に捕まってしまった。志太橋は怯えるように立っていたが、にこやかに冷泉に指示された。

「志太橋くん、席に戻ってください。いかがでしたか?うちのPJは」

「和気あいあいとしていて、良いところですね」

咄嗟に口からすらすらと出た嘘に、牛久は自分で感心した。

「作業環境はひと昔前という感じですが、コードと資料の管理がしっかりしています。素晴らしいです」

八神の評価は本音らしい。冷泉はにっこり笑って、ありがとうございますと述べた。

「今後の参考になれば幸いです」

そうして、二人の潜入捜査らしきものは終わりを告げた。


定時後にも関わらず、倉庫には聖と中桜塚が待っていた。

一週間の結果を報告すると、ふたりとも顔をしかめる。

「からかいも度が過ぎるといじめですね。典型的な例だと思います」

八神が淡々と述べる。牛久はぐったりと椅子に座ってうなだれていた。

「周りはコミュニケーションのつもりでやっていて悪気はないからたちが悪いよ」

「経験があるんですか?…あ」

「あるよ。名前だ。大仏って散々からかわれてトラウマになっていたよ」

「そうか…とあるニコチン野郎が守ってくれたっていうニックネーム事件ですね」

「なんだそのニコチン野郎ってのは。最高にいいヤツだな」

「ちょっと黙ってください」

「名前をからかわれるだけでも相当嫌だったから、志太橋さんはもっと辛いんじゃないかな…」

部屋に暗い空気が満ちる。定時のベルが鳴ると同時に、四人は黙って解散した。


翌朝出勤した聖は、机の上に置きっぱなしだった紙をぺらりと持ち上げて部下たちにかざした。

「そうだ。こんなときにあれなんだが」

「なんだよ、あれって」

中桜塚がめんどくさそうにスマホから顔を上げる。

「この、メンタルヘルス講習に出ないといけないらしい。部署からひとりずつ」

ぺらりと聖が掲げた紙を見て、全員が渋い顔をした。

「めんどくさ!」

「俺は嫌です」

「謹んで辞退申し上げます」

「はい、じゃんけんしてー!」

予想通りの反応に、聖は準備していたセリフを大声で叫んだ。


「こういうの、いつも俺が負けるんだよなぁ…」

聖から渡された紙を手に、牛久は項垂れていた。

「ま、いい経験だろ。学んでこいよ」

「じゃあセッターさん行きます?」

「俺はほら、もう色々学んだ身だから遠慮しとく。後輩に譲るよ」

「じゃあ俺も後輩に譲ろうかな」

ちらりと八神を見る牛久だったが、彼はモニターから顔も上げずに答えた。

「僕はまだ大仏さんの足元にも及びませんので、その講座には早すぎます」

「どいつもこいつも…」

「じゃんけんは絶対だぜ、大仏くん」

ぽん、と肩を叩かれた手を払いながら、牛久は乱暴に紙を折り畳んだ。


メンタルヘルス講習会は、とにかくひたすら眠かった。

「本日の講師を担当します、保健師の戸田です。よろしくお願いします」

中規模の会議室で行われた講習には三十人ほどの同僚たち。みな一様に配られた資料に視線を落とし、中にはふらりふらりと頭を揺らしているやつもいる。

開始時間ぎりぎりに駆け込んだ牛久は、一番後ろの席であくびを噛み殺しながら、プロジェクターに映されたスライドを見ていた。女性の講師が淡々と話している。

「ストレスを感じているときには、頭が硬くなります」

一応きれいにメモを取りながら、何回目かわからないあくびを堪えたとき、プロジェクターが見やすいよう薄暗くされた前方の席に見覚えのある姿を見つけた。

冷泉だ。

「認知の歪みと言われるものですが、この考え方を改善することで…」

彼はスライドを見つつ戸田講師とうなずき合い、真剣に内容を聞いているように見えた。

へぇ、部下じゃなくて自分で出てきたんだ。うちの課長とは違うな。いきなりじゃんけんで決めたけど、課長が出たらよかったんじゃないか。牛久は眠気と戦いながらメモを取り続けた。

「認知の歪みは、主に十個あります。全か無か思考、すべき思考、レッテル貼り。まずはこれについて説明しますね」

牛久の隣に座っていた社員が、がくんと頭を下げた。牛久は脱落した彼を横目で見ながらペンを走らせた。

「全か無か思考というのは、完璧主義のことです。百点でなければゼロ点と同じ。たとえ九十九点でも、です。この考え方は、自分の正当な評価をすることができず、完璧でない自分に苦しむことになります」

ほう、と牛久は思った。講義に少し興味がわいてきた。

「すべき思考とはその名の通り、何々すべき、という考え方です。しなければならない、ということは、できなかった場合自分を責めることになります。レッテル貼りとは、自分はできない人間だ、など、根拠もなく決めつける思考です。これも結果として自分を苦しめることになります」

牛久はその後も丁寧にメモを取り、講義終了後部屋を出た。部屋を出る間際、冷泉がちらりとこちらを見た気がしたが、怖かったので無視をした。


「ただいま戻りました」

「お疲れ様」

帰ってきた牛久は、講習会で配られたテキストをキャビネットの空きに押し込んでおく。

「あ、それ講習会のテキストか?見せてくれ」

聖は手を差し出した。

「はい」

牛久は半分押し込んだテキストを引っ張り出した。そして聖に差し出す。彼はパラパラとテキストをめくっていった。

「ふむふむ…真面目だね、しっかりメモ取ってるじゃないか」

「真面目は褒め言葉じゃないですよ」

牛久の口からめずらしく棘のある言葉が飛び出した。聖はテキストから顔を上げ、牛久を見る。八神と、スマホをいじっている中桜塚がちらりと二人の会話に意識を向けた。

「そうか?良いことじゃないか」

「良くないです。世の中、真面目で正直な人ほど損をするんです。でも僕、不器用だからそんな風にしか生きられないんですよ。真面目にコツコツ勉強しても、上手くカンニングするやつのほうが成績がいいんです。そういうものです。例えばですけど」

目線を聖から外して床を見ながら牛久が吐き捨てる。

「ここでも自分が損をしているって思うか?」

そう言われて、はっと顔を上げた。

「確かに…思いません。不思議ですね、ここは」

「お前の」

黙ってスマホを見ていた中桜塚が、ふと口を開いた。

「お前のその真面目さを、ちゃんと見てるやつがどこかにいるさ」

「そうなんですかね?」

「そうだよ。おっと、定時だ。お先に失礼」

定時の鐘がなると同時に鞄を持って部屋を出て行った中桜塚の後ろ姿を、牛久はじっと見つめていた。

「あ、これ」

「ん?」

「牛久が言ってた部屋の中の様子と似てないか?」

「あ…たしかに。全か無か思考…漢字の変換ミスまで指摘されていたら、こうなりますよね」

「それに、ほら…レッテル貼り。仕事ができない、というのはレッテル貼りに当たるんじゃないか?周りに散々言われたら、自分でもそう思ってしまうだろう」

「すべき思考…これは多岐に渡りそうですね。役に立たないといけない、言い返してはいけない、笑顔でいないといけない…」

「いま検索したんですけど」

「まだいたんだ」

「なかなかに失礼ですね大仏さん。いましたよ」

突然声を上げた八神に振り向き、牛久は驚いた声を上げた。

「それ、ガスライティングって言うらしいです。特にあのペンを隠した行動。あれはどう考えても志太橋さんがやったことではありません。第三者の行動です」

「そうだね。ところでガスライティングって何?」

「ええと…心理的虐待のひとつで、些細な嫌がらせを重ねたり、被害者の記憶を疑わせるよう仕向けたりすることらしいです。冷泉さんのペンを隠したのは、志太橋さんの正気を疑わせるためでしょう。志太橋さんが作成したフォルダがまるごと消えていたのも、同じようなものでしょうね」

「このまま放置するとどうなる?」

「そりゃあ…心理的虐待と言われるものですから…」

八神は口をつぐんだが、三人の頭には同じ結末が浮かんでいた。


「籠原本部長、お話があるのですが今よろしいですか?」

聖は歩いていた籠原本部長を無理やり引っ張り、小さな声で話しかけた。今よろしいですかもなにもない。

「なんだ?」

「例の件です」

「わかった。手短に」

「松永プロジェクトですが、どうやらいじめかパワハラにあたることが行われているようです」

「なんだと?証拠はあるのか」

「それは…」

いじめの証拠というのは手に入れにくく、提示もしにくい。聖は言葉に詰まった。

「単なるうわさ話か?プロジェクトは問題なく進んでいると聞いている」

「すみません、はっきりとは言えませんが…いじめの可能性が非常に高いです!あのPJに加わる許可をください」

「セキュリティ上それはできないし、大人がいじめなどするはずなかろう。話にならん」

相変わらず…いや、以前にも増して非協力的な態度に、聖は拳を握りしめた。調査に対してなぜこんなにも消極的なのだろうか?


ある日の午後、天気のいい日。

「プーちゃーん」

妙に馴れ馴れしく話しかけてきた聖に、八神は嫌な予感がしてゆっくりと背後を振り向いた。

「…なんですか?」

「明日から二週間、ヘルプ行ってくれ」

「えー!嫌です!この前行ったばっかりじゃないですか!」

全力でそう叫んだが、聖は全く引く気配はない。

「仕方ないんだよ、断れないんだ。窓際部署だから」

「本当に仕方ないな…どこですか?」

「豊洲駅からすぐ近くのところだ。メンタルヘルスの面談で常駐の社員が本社に来なきゃいけないから、人手が欲しいらしい」

「あー、めんどくさいだけの面談ですか。わかりました」

「プーちゃんは受けたことあるの?俺はないけど」

ここで牛久が会話に参入した。

「いや、ないです。話に聞いただけ」

「なんか不思議な質問されるらしいね」

「それ、俺は受けたことあるわ」

スマホから顔を上げ、中桜塚が答えた。

「ラストの質問が不気味なんだよ。意味わかんねぇの」

「へぇ」

「じゃ、話がまとまったところで、八神は明日からヘルプな!」

「まとまってません!行くけど!」


翌朝、八神が豊洲のプロジェクトに行ったら最悪も最悪だった。

なぜかアナログで渡される資料、めちゃくちゃなコード、分岐が足りていないテスト。

ああ、イライラする。マネージャーは顧客への言い訳に必死で、メンバーのことなど見ていない。唯一まともだったのは、八神が入ったチームのリーダーだけだった。

「ここのテストがひどいんだ。やり直してくれるか?」

「わかりました」

もうこの人の言うことだけ聞いていよう。紙に書いてある数字をひたすらデータ化する仕事を避けるために。

以前のプロジェクトでこんなひとがいたら、倉庫にぶち込まれずに済んだかもしれない。状況に対するイライラをマネージャーにぶつけて、八神は左遷されたのだ。

ああ、でも、倉庫も悪くないんだよなぁ。ブラインドタッチでキーボードを打ちながらそう思う。

課長のもとで何かやるときは、本当にストレスなく行動できるのだ。左遷されてよかったのかもしれない。そんなことを考えながら、八神はテストを進めていった。


平和に部屋を出たはずなのに、それは突然やってきた。牛久が職場の一階に入っているコンビニでランチを選んでいるときだった。唐揚げ弁当は昨日食べたから、今日は…なんて呑気なことを考えている時。

「お疲れ様です、牛久さん」

「お疲れ様で…あっ」

反射的に返事をしようとし、牛久は声をかけてきた人物の顔を見て途中で言葉を切った。

「れ、冷泉さん…」

どうしよう、逃げたい。即座に心の底から湧き出た欲求は、冷泉のなめらかな会話術で見事に打ち砕かれた。

「コンビニ弁当も、毎日だと飽きますよね。いいお店を知ってるんですが、ご一緒にいかがですか?安くて旨くて早い、その上ボリュームたっぷり。最高でしょ?」

「さ、最高ですね…うん、最高…」

半歩後ずさりながら答えた牛久に、冷泉はにっこり笑って手を叩いた。

「じゃ、決まりで。こちらです」

彼がコンビニの出口を指差し、歩いていく。ついていく他なく、牛久は連行される死刑囚の気分で彼の後に付いていった。一体どうされてしまうのだろう?安くて旨くて早くてボリュームたっぷりって、俺の肉じゃないだろうな?そんな注文の多い料理店みたいな…

ぐるぐると取り留めのないことを考えながら、冷泉の半歩後ろをついて行く。彼はビルの裏口から出ると、込み入った路地へと進んで行った。ビル内のコンビニで買い物を済ませてしまう予定だったからジャケットを着ておらず、9月の空気はちょっと涼しすぎる。

「寒い中連れ出してしまってすみません。牛久さんはいつもコンビニ弁当なんですか?」

歩く速度を落として牛久に並んだ冷泉が、フレンドリーに話しかけてくる。

「ええ、まぁ、ほとんど」

「そうなんですか。この辺り、結構いろいろなお店があっておもしろいですよ」

牛久のつれない返答にも全く動じず、素晴らしいコミュニケーション能力を発揮する冷泉に圧倒される。これではまるで牛久がコミュ障のようだ。そんなつもりはなかったが、そんな気分になってくる。いや、もうコミュ障でもなんでもいい。八神レベルと言われようがどうでもいい。逃げたい。

得体のしれない恐怖に、牛久は若干冷泉から離れて歩いていた。

「あ、ここです」

辿り着いたのは、老舗と思われる定食屋。古びた外見だが、中は賑わっている。ガラガラと引き戸を開けた冷泉は、中に向かって声をかけた。

「すみません、二人入れますか?」

頼む、満席であってくれ。そう願った牛久の思いは一瞬で砕かれた。

「カウンターどうぞ!」

カウンター。よりによってカウンター。

「よかった、空いてましたね」

冷泉が牛久を振り返り、にこりと笑う。爽やかなその笑顔に底知れぬ何かを感じて、牛久は震え上がった。


「お仕事は順調ですか?」

二人でサバの味噌煮定食を頼み、その待ち時間。冷泉が牛久にそう問いかけた。

「ええ、まぁ」

「今は何を?」

しまった、誘導された。そう思った時には遅く、牛久は視線を泳がせながら苦しい言い訳をするしかなかった。

「いや、仕事と言っても暇なので、資格試験の勉強をしているだけなんですけど」

一瞬で考えたにしてはまともな言い分ではないだろうか。自分を褒めたい。そして帰りたい。

「そうですか、資格試験の勉強を」

「冷泉さんは、何か資格をお持ちですか?」

攻撃は最大の防御だ。牛久は冷泉を質問攻めにすることに決めた。彼は一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐに笑顔になって答えた。

「IPAの資格は一通り持っています。あとは、データベース系ですね」

「そうですか。データベース系ということは、今までそういうお仕事をしたことがあるんですか?」

質問し返す隙など与えはしない。牛久は思いつく限り彼について聞き続けた。


「冷泉さん、高校生のときは何の部活をやってたんですか?」

「サッカー部でした。一応レギュラーで」

「そうなんですね。レギュラーはすごいですね!俺は空手部でした。大学のときも続けてて、初段です。観戦するのが好きなスポーツは何ですか?」

「そうですね…やっぱりサッカーかな…野球も観ますけど」

こんな調子で会話が進み、定食を食べ終えて職場に帰るころには、最終的に彼の部屋の間取りの話になったほどだ。

「それでは冷泉さん、ありがとうございました」

「こちらこそありがとうございました」

エレベーターで別れ、牛久は力んでいた肩を落とした。疲れた。ものすごく疲れた。

「はぁぁぁ…」

一年分くらいのコミュニケーション力を使った気がする。知らなくていい冷泉のことを知った気がしたが、肝心なことは何一つ話されていないような気もする。

「それにしても危なかったな…」

最初の質問をかわせなかったらどうなっていたことか。いいように情報を抜かれて知らぬ間に負けていたかもしれない。

「怖い」

ぶつぶつ言いながら、牛久は倉庫への廊下をいそいそと歩いた。


「大仏くん、遅かったじゃないか。食べてきたのか?」

「冷泉さんと一緒に定食屋で食べてきました…」

「は?」

「近づいてきたか…何か聞かれたか?」

「聞かれないように頑張りましたよ…疲れた…」

牛久は自分の席に着くと、ぐったりと背もたれに寄りかかった。

「あの人こわいです。話しやすそうに見えて、なんか…操ろうとしてくるような…ここにくる前にいたPJは無言で嫌だったけど、冷泉さんのほうが怖くて嫌だ」

ぽつりとこぼされた本音に、聖が反応した。

「牛久は、なんでここの部署に?」

「俺、プログラム全然わかんなくて。いろんな人に聞きながらやってたんですけど、みんな自分の作業に忙しくて話聞いてもらえなくて…それで、技術がダメってことでここに。基本的に個人作業じゃないですか。みんな自分のこと以外よく知らないし、興味もないんですよ。実家の建築屋、継げばよかったかなぁ」

「大丈夫だって。ここでは最高に役に立ってるだろ。今だってうまくかわしてきたわけだし、そもそもお前がいなきゃ何も始まらなかった」

中桜塚はそう言って、またスマホをいじり始めた。


無駄な作業を避けることに必死になりながら過ごした二週間。9月も半ばをすぎ、夜帰る頃にはすでに外は寒い。八神は今日でさよならする職場のビルのエントランスを歩いていく。すると、正面から細身のイケメンが近づいてきた。明らかにこちらを見ている。

「お疲れ様、八神くん」

爽やかに笑う彼に見覚えはない。しかし、八神は誰だかすぐにわかった。

「…冷泉さん?」

彼はにっこり笑うと、一緒に駅まで歩こう、とエントランスの出口を示した。


「あーあ、まったく」

帰宅した八神は、ジャケットだけ脱ぎ捨ててベッドに転がった。帰り際の冷泉との会話を思い出す。

「君の実力を発揮できる環境を用意してあげるよ」

甘いマスクから吐き出される、これまた甘い言葉。しかし、八神は考えておきますとだけ答えて、硬い表情のまま彼と別れたのだった。

よいしょ、と身を起こし、コンビニ弁当を食べようと狭い部屋に置かれた机に座る。机にはモニターやキーボード、ノートパソコンがこれでもかというほど散らばっていた。専門書が少しとパソコン部品が並ぶメタルラックにはスーツのハンガーが引っかかっていた。ネクタイは四本ラックにかけてあり、月曜日から金曜日まで色が決まっている。こだわりがあるのではなく、単に考えるのが面倒だからそうしているのだ。

本日の色のネクタイを解き、パチン、と割り箸を割りながら思う。

実力を十二分に発揮できる環境なら、もう整っているのだ。


「おはよう諸君。朝イチで報告だ。あ、プーちゃんおかえり」

翌朝出勤してきた中桜塚が、指をピンと立てて先に来ていた三人にそう言った。

「なんだ、遅刻ギリギリでかっこつけて」

「むしろカッコ悪いです。おかえりという言葉には一応感謝します」

「寝ぐせ付いてますよ」

「うるさい、いいから黙って聞け。一人目と二人目の犠牲者の件だ」

真剣みを帯びた声に、三人は中桜塚をからかうのをやめ、黙って話を聞くスタイルに入った。

「一人目の自殺者、中里くんだが…鬱状態になったことが原因で婚約を破棄されたらしい。こんな状態の人とは結婚できないと」

「うわぁ…なんかいろいろひどい」

「鬱状態を引き起こしたのは例の部屋だから、自殺の引き金を引いたのは冷泉だと言える」

「なるほど…追い詰められていたところに決定打、というわけか」

「二人目の田畑っていうおっさんはちょっと複雑だ。病死だが、健康診断の結果は良好だったらしい。飲み会が大好きで毎年忘年会と新年会は欠かさず出ていたが、今年の新年会は出ていなかったと。しかも、死ぬ直前はおかしな言動があった。だれかに狙われているとかなんとか」

「よく情報を集めたな。ありがとう」

「これが俺の役目だからな。喫煙所は最高の情報収集所だ。で、どこに寝ぐせがついてるって?ちょっと直してくる」

中桜塚は鞄を置くと、すぐに部屋を出て行った。

「ふむ…他の情報と合わせて精査するか…残る調査対象はあとひとり…ん?」

「どうしました?」

「八神に連絡だ」

「え?」

「保健師との面談をさせろってメールが来てる」

「なんで!?」

「ヘルプで行ったPJメンバー表に名前を入れていたから、常駐メンバーだと勘違いされたみたいだ」

「行かなきゃダメですか?」

「だめだろうなぁ…」

「あーあ…いつですか?」

「今日の午後イチ」


「失礼します。八神です」

「こんにちは。保健師の戸田です」

小さな部屋に入ると、そう名乗った女性が立って八神を出迎えた。

「実は僕、あのPJにはヘルプで入っただけでして…」

なんとか面談を回避できないかとそう切り出してみるが、戸田は手元の紙を捲り首を傾げた。

「あら、おかしいですね。面談する方の一覧に名前がありましたよ」

「何かの間違いだと思います。帰ってもいいですか?」

「えっと、一応面談しないといけないので、少しだけ質問にお答えいただいてもいいですか?手短に済ませますので」

「わかりました…」

回避失敗。八神は机を挟んで戸田の目の前に座った。

「あなたは、家族や友人にこの会社への入社を勧めたいと思いますか?」

「思いま…す。ちょっとだけ。本当にちょーっとだけ。でもできれば他のところに行ってほしい」

どうでもよすぎて完全に矛盾した回答である。

「職場で自分が期待されていることが何かを知っていますか?」

「うーん、たぶん今は知っています」

「では、最後の質問です。あなたは小さい頃から両親に、この扉だけは絶対に開けてはいけないと言われ、ずっとあなたはその教えを守っていました。厳しく言われていたので、その扉に触れようともしませんでした。ところがある日、好奇心に負けてその扉を開けてしまいました。さて、そこには何があったと思いますか?」

「は?」

「自由にお答えください」

「えっと…隠し財産」

「わかりました。以上で面談は終わりです。ありがとうございました」

「はぁ…ありがとうございました」

なんだ、最後の。部屋を出ながら八神は思った。気味が悪い質問ってあれのことか。たしかにそうだ。

うすら寒いものを感じながら、八神は倉庫へと戻った。


「あ、あいつライター忘れて行った」

その日の帰り際、中桜塚の机の上にライターを発見した聖はそれを手に取った。彼は帰宅前に一本吸っていくはずだ。

「届けてやるか」


喫煙所に行くと、案の定中桜塚がポケットをごそごそと探っていた。今は彼以外、誰もいない。

「おい、これ」

「あ、聖」

ライターを差し出すと、さんきゅ、と軽い返事と共に受け取られる。少し話でもするかと、聖は彼の隣に並んだ。彼に関して気になる電話を受け取ったのだ。

「お前、よくあそこまで情報を聞き出せるもんだな」

すぱーっと煙が吐き出され、そのあとに中桜塚の言葉が続いた。

「情報を引き出す極意はな、聞き役に徹することだ。こちらが持っている情報を相手に渡した瞬間、事態に巻き込まれるからな。どこにも属していない、何も知らないふりが一番相手の油断を誘う。そうしていると、自ずとデータは集まるのさ。人は秘密を話したがるもんだ」

「だからお前は自分のことを何も話さないのか」

「ん?」

「電進からスカウト来てるだろ」

「何の話かな?」

「わざとらしい。他にもNTCデータ、NAL、みずは銀行、本丸テレビ、Booble…そうそうたる大企業だな。特にBoobleは開発部門を通してまで俺に接触してきたよ。前に一度一緒に仕事をしたからな。山戸さんって知ってるか?あの豪快な人」

「開発の方は知らねぇな…営業は顔見知り程度。スカウトなんて単なる噂話だろ」

「そうか?山戸さん、営業が相当気にしてるようだって電話をかけてきたぞ。他にも何社か…」

「ちっ、さすがにお前は誤魔化せねぇか」

突然肩をがしりと掴まれ、聖は半歩よろめいた。

「口止め料だ。誰にも言うなよ」

中桜塚が吸いかけの煙草を聖の口にねじ込む。

「やめろ、娘が生まれた時に苦労して禁煙したんだ」

聖はあわてて煙草を持って口から遠ざけた。

「俺はどこにも行かねぇよ。じゃあな、お先」

中桜塚が喫煙室を出る。聖はなんとなく、もらった煙草を一口吸ってみた。案の定咳き込んだ。

どうしてどこにも行かないんだ?という問いかけは、ドアに邪魔されて消えてしまった。


十月に入ってしばらくしたころ、中桜塚が朝から騒がしく倉庫に入ってきた。

「おい!喫煙所が閉鎖だと!空気清浄機かなんかが壊れたらしい…なんてことだ…」

がっくりとうなだれる彼の横で、後輩たちは冷静に状況を分析している。

「じゃあ、喫煙所での情報収集は終了ですか?」

「冷泉さんに手を回されたんでしょうか?ほかの方法を考えましょう」

「他の手か…」

「煙草…」

「そこのニコチン中毒者、何か案を出してください」

うう、と唸っている中桜塚に、八神が辛辣な言葉をかける。彼は顔を上げて口を開いた。

「電車に飛び込んで自殺したやつ、プーちゃんの同期だったな?」

「そうですけど」

「線香上げに行こう」

「ええっそんな、びっくりするほど名案ですけど、あんまり面識もなかったしコミュ障なんで聞き出すとか無理です!」

「俺が一緒に行くから、お前は隣で泣いとけ。あーニコチンが欲しい」


ガタンゴトン、と規則正しい電車の揺れ。窓の外には田園風景が広がっている。田んぼは黄色く色づき、もうしばらくしたら収穫の時期だ。

案を出してからそのまま会社を飛び出し、電車に揺られて三時間。平日の昼間、まばらに乗っていた乗客は徐々に減っていき、最終的に車両の中には八神と、その隣に中桜塚が取り残された。

気まずい。めちゃくちゃ気まずい。八神はパーソナルスペースに入り込まれたストレスで身を固くしていた。電車の席というのは狭いのだ。他に乗客がいるならともかく、広々とした空間でなぜこんな近くに座らなければいけないのか。しかし、ここであえてひと席分空けるのも気が引ける。

「プーちゃん」

「はい」

足を投げ出して座っていた中桜塚が、唐突に声を上げる。いつものようにニックネームで呼ばれたことを責める余裕もなく、八神は返事をした。

「お前、なんで飛ばされたの?」

隣の中桜塚はぼんやりと窓の外を見ている。八神は少し考えた後、理由を言語化するのが面倒になり回答を放棄した。

「セッターさんこそ、なんで飛ばされたんですか?営業成績トップだったのに。それがある時期からガクンと落ちて…何があったんですか」

「お前、俺の査定見やがったな?」

中桜塚は脚と腕を組み、八神の顔を覗き見た。

「見ましたよ。だって見れるんだもん」

少々アクセス権限を書き換えたことは黙って、八神は唇を尖らせて答えた。

「いい大人がだもんとか言ってんじゃねぇ。どうやって見たかは聞かないでおくから、俺が飛ばされた理由を聞き出してみろよ」

「聞き出しや誘導尋問はあなたの役割でしょ。僕の専門じゃない」

「…ま、それもそうだ。人には向き不向きあるもんな」

「僕の専門でセッターさんの左遷理由、探り当ててみせますよ」

「おう、やってみろよ」

「だから、セッターさんはセッターさんの専門分野で、僕の左遷理由を手に入れてみせてください。今回は失敗ですね」

「言うねぇ。相変わらず生意気な奴」

棘のある言葉とは裏腹に、彼は八神の隣で笑っていた。

「実はもう知ってる」

「えっ」

「はは、冗談だよ」

その時、目的の駅を告げるアナウンスが流れ、二人の会話は中断した。



「遅くなりまして申し訳ありません。海外支社にいましたもので、息子さんの訃報を本日知りました。お悔やみ申し上げます。一刻も早く伺いたかったため、喪服で来れなかったこと、お許しください。こちらは息子さんと同期入社の八神です」

よくもまぁサラサラと口からでまかせが出てくるものだ。八神は中桜塚の隣で正座しながら、内心で感心していた。

「まぁ、同期の…息子は…帰省したとき様子が変だったんです…俺はおかしいとか、みんなに嫌われているとか、そんなことを言っていて…今思えば、あの時うちに引き戻せばよかった…うちから帰って次の日、出社するとき電車に飛び込んだんです…本当に、嫌われていたんですか…?」

八神はハッとして顔を上げた。線香の煙が二本、ふわりと立ち昇っている。

「清水くんは悪いことをして嫌われるような人ではありません。必ず理由があります。本当のことを明らかにしたらお伝えしますので、それまで待っていてください」

突然の力強い言葉に、母親も中桜塚も驚いたようだった。八神はなんと言っていいかわからず、ありのままを続けた。

「新人の飲み会のとき…唯一、僕に声をかけてくれた人だったんです。それからはたまに挨拶するようになって…それだけの仲なんですけど、僕には大切な同期でした」

「そうだったの…ありがとう、八神さん」

泣き笑いのような表情が、清水の母親の顔に浮かんだ。


その日の夜。一度本社に戻った八神は、ひんやりとした秋の夜風が吹き抜ける新宿のオフィスビルの間で冷泉と相対していた。いつも働いているビルの裏側は、人通りも少なく暗い。

「この前のお話ですが」

「ああ、考えてくれたかな?」

細身のコートを羽織った彼は、両手を広げて八神を見た。冷たいビル風が二人の髪を揺らして乱す。

「お断りします。僕はあのチームで働きたい。あのチームじゃないと嫌です」

はっきりと八神はそう言い切った。有無を言わせない、これ以上の誘惑は無駄だと、力強く言葉に込めて彼にぶつける。

「…そうか。わかったよ」

冷泉の目がスッと冷たくなり、彼はコートのポケットに手を入れた。秋を通り越して冬のように冷えた瞳にも怯まず、八神は彼に背を向けながら吐き捨てた。

「あなたに僕は扱い切れません」

「聖さんは、君たちを扱い切れていると?」

八神は歩き出そうとした足を止めて、振り向いた。

「どういう意味です?」

「そのままの意味だよ」

「なにが言いたいのか分かりません」

「わからないならそれでいい。でも、覚えておいた方がいいと思うな…トロイの木馬はどこにだって転がっている」

冷泉がゆっくりと歩き出す。彼は八神の横を通り過ぎ、ビルの隙間へと消えていった。


翌朝出勤した中桜塚と八神は、すぐに昨日の出来事を聖と牛久に報告した。

「清水くんの親御さんから何か聞き出せたか?」

「ああ。他の被害者とほとんど同じ状況だな。みんなに嫌われているという発言があったらしい。ガスライティングされていた可能性が高い」

「でも、それ以外の情報はないですね…調査行き詰まりです。ガスライティングの証拠を掴むために、もう一度ヘルプで入れこめますか?」

「以前と同じ手は使えない」

聖は腕を組んでしばらく考えると、苦々しい顔で言った。

「こうなったらプロジェクト解散以外に手はないな」

「解散ってどうやるんだよ」

「簡単だ。俺たちで仕事を引き継げばいいんだよ」

「…………デスマーチだぞ?」

デスマーチとは、その名の通り死の行進である。炎上と同じような意味合いだが、こちらは泊まり込みが多く発生する際に使われることが多い。

「覚悟しろ」

「せめて他のところに投げない?俺一生懸命探すからデスマーチだけは勘弁してくれ絶対に嫌だ本当に嫌だ夜はベッドで寝たいんだ」

「じゃあどうするんだよ。文句ばっかり言ってないで提案をしろ提案を」

「うーむ…仕事を受けている以上、解散は難しい。だから、松永ホールディングスから追加の仕事をドッサリとってきて、今の人数じゃどうしようもできない状況に追い込む。するとデスマーチが発生してプロジェクトが炎上する。ヘルプ要員が大量に入り、ガスライティングなんかしている暇がなくなる」

「なかなか良い案だが、どうやって仕事を取ってくる?」

「そりゃあ、俺の腕で」

「信じていいんだな?」

「もちろん」

「できなかったらデスマーチだからな」

「本気でとってきてやるからそっちこそ覚悟しとけ!過労死ラインに達しないいい塩梅のやつを取ってきてやるよ!」

「それはデスマーチではなく単なる良い仕事では?」


翌朝、出勤してきた中桜塚は開口一番、こう言った。

「仕事が取れた」

「……………え」

あまりにも早くない?本当?

言葉が詰まって聖は単語ひとつ発せられなかった。中桜塚は疲れたように聖の机の端に軽く座り、額に手を当てた。

「あー苦労したわ。いや、営業のときはいつもやってたことなんだけどよ、今やると大変だな。人にペコペコ頭下げたりご機嫌とったりするの」

「セッターさんって人に頭下げられるんですか?僕にも一回下げてみてください」

「絶対に嫌だねクソガキ」

「仕事取れたって嘘でしょ」

「本当だよ。今頃大型案件の連絡行ってる。俺が何のために日々スマホをいじってたと思ってんだ?」

「ゲームをするため」

「馬鹿、ちげーよ。営業かけてたの」


中桜塚が言っていたことは本当だった。朝からバタバタと松永ホールディングスのプロジェクト部屋に人が出入りして引っ越しをし、様々な部署やプロジェクトが集まる大部屋へと引っ越していった。人員も大幅に増やされ、冷泉の他にマネージャーが三人付き、責任者は課長となっている。

「マジかぁ…営業成績トップって本当だったんだな…」

そうつぶやいたのは八神ではなく、牛久だった。

「お前まで疑ってたの?ひどい」

「いや、だってニコチン摂取してばっかりだったから…」

「プーと考えてること同じじゃねぇかよ」


それから三日後、曇り空で寒い日だった。定時間際、復活した喫煙所から戻ってきた中桜塚が聖に情報を投げる。

「冷泉がお前に会いたがってるらしいぜ。どうする?」

ふむ、と聖は考え込む。牛久と八神を見渡し、脳内で即座に計画を立てた。

「よし、じゃあそれを利用して罠にはめよう。うまくいけば告発するための証拠が手に入る」


引越しが終わり、何もなくなった元松永システムのプロジェクト部屋。権限が解放されたその部屋のカードキーに社員証をかざし、聖は奥の一箇所だけ電気をつけてその部屋を見回した。

机や椅子は片付けられ、机の跡がついた布張りの床は、長年の使用によりところどころ色褪せていた。

埃っぽい空気の中、ここで行われた行為を思い返す。二人が自殺、一人が病死。

その時、背後でガチャリとドアの開く音がした。

「聖さん」

「冷泉」

スラックスのポケットに手を突っ込んだまま振り向き、聖は入ってきた人物を確認した。

「あなたには負けました。まさか、あそこまでとは」

「…」

「かなり粘りましたが、私の負けです。あなたの技量は素晴らしい」

「お前が自殺幇助したことを認めるのか?」

「なんの話でしょう」

「とぼけるな」

「私はただ、日本酒の話をしているだけですよ。あの後、日を改めて一緒に行ったお店にお邪魔したんです。聖さんと同じ利き酒にチャレンジしましたが、あなたほど当てられませんでした。さすがですね」

冷泉、ちらりと聖の手元を見る。その口元がにやりと弧を描いた。

「素敵なスマートフォンですね。新型ですか?」

冷泉の目線に、聖はため息をついてスマホを操作した。そして、彼に録音アプリの停止画面を見せる。

「これでいいか?」

「ええ、やっと本題に入れます。ひとつ、言いたいことがあってあなたに会いに来ました」

「言いたいこと?」

身構えた聖に、冷泉はにこりと笑う。しかし、その瞳はナイフのように鋭く、そして冷たく光っていた。

「あなたと私は同類なんですよ、聖さん」

「同類?ふざけるな」

声を荒げる聖に全く臆することなく、冷泉は続けた。

「ふざけてなんかいませんよ。だって…人を操る。それが私達の役目でしょう?」

冷泉は両手を広げて、演説のように話し続ける。

「誰かをコントロールして、自分の思う方向に進めていく。あなた言ってたじゃありませんか、メンバーの背中を押してやるのが自分の役割だって」

確かに、彼と飲みに行ったときにそんなことを言った。だが、同類と言われるのは癪だ。

「俺は誰かのためにみんなをマネジメントしているんだ。人を殺すためじゃない」

「目的のために人を動かす。何が違うって言うんです?」

酷薄に笑う冷泉に、聖は拳を握り締めて黙り込んだ。もしその目的がメンバーを追い詰めて殺すことだったら、自分のスキルでそれは可能だろうか?

答えはおそらく、イエスだ。

「あなたと私の違いはひとつだけです」

「ひとつ?」

「ふふ…三人ともうまくいくとは思いませんでした。思い通りに死んでくれるっていいですね。まぁ、一人は想定外の道筋でしたけど」

冷泉の声が落ちる中、聖はふっと上を見上げた。そこにあるのは正方形の金属でできた枠。天井点検口だ。

「…だそうだ。録音はできたか?プーちゃん」

「バッチリですよ」

ぱこん、と点検口が持ち上がり、中から八神が顔を出した。その手には最新式のスマートフォン。そして、録音中の文字が表示されていた。

「最高音質で録音しました」

埃まみれの髪で八神が言う。おや、といった様子でそれを見上げた冷泉の後ろで、ドアがガチャリと開いた。

「はいはい退いてください!」

入ってきたのは大きな脚立を持った中桜塚と牛久だった。二人で脚立を開いて立てる。その二人に向かって、天井点検口から下を見る八神が叫んだ。

「もうちょっと右にしてください!あっいきすぎです!戻して!」

八神が二人に指示を出す。彼を下ろすための脚立だ。

「わがまま言ってないでさっさと降りて来い」

「ちゃんと位置を合わせないと危ないですよ。セッターさん、そっち持ってください」

「もうジャンプすればいいんじゃないか?」

「無理ですって!怖い!」

ぎゃいぎゃいとうるさい三人を後ろに、聖は真正面から冷泉に向き合った。

「誰がお前と同類だって?」

「会いたいという情報自体、罠でしたか。油断していたせいかすっかり騙されてしまいましたよ」

ふう、と彼が息をつく。そして、肩をすくめて呟いた。

「私の完敗です。でも、あなたにではありません、聖さん」

「なんだって?」

「トロイの木馬に殺されたのは、私の方だったようですね」

冷泉はそれ以上黙して語らず、何を問いかけても酷薄に笑うだけだった。梯子から足を踏み外し床に転げ落ちた八神はじっと冷泉を見つめて、それからふっと視線を別の方に向けた。

「それでは、失礼します」


待て、冷泉はなんと言った?

聖は背筋がすっと冷えるのを感じた。

会いたいという情報自体、罠でしたか。

会いたいという情報を得たのは、こちらのほうなのに。


「なぁ、八神。トロイの木馬ってウイルスだよな?」

翌日の夕方、中桜塚と牛久が席を外したタイミングで聖は八神に声をかけた。

「そうですね。一見無害なプログラムにウイルスを仕込んでおくやつ。使用者は気づかずにそれをインストールしてしまう…」

「元のギリシャ神話のほうは、大きな木馬の中に人を忍ばせて敵地に侵入させ、内側から破壊したっていう話だったか」

「はい」

「ふーん…」

「気になりますか、冷泉さんの言ったこと」

「まぁ、な」

「すっかり見落としていました。基本的なことを調査をしたらわかりましたよ、木馬の中身」

八神が示したのは、数年前に終わったいくつかのプロジェクトの人事記録だった。

「これは…」

「このマネージャーのプロジェクトを経由すると、しばらく経ってその社員は退職する…どこかで見ましたね、このパターン」

八神は首を振って、下を向いた。


「お前だな?トロイの木馬は」

エレベーターホールにいた中桜塚が振り向く。薄っすら笑った彼は、鞄を腕に引っ掛け、ポケットに手を突っ込んだまま聖を見た。定時だというのに皆残業で、エレベーターホールに人はいない。

「はは、その通りだ。詰めが甘かったな…まぁ、今さらバレたところでどうってことないが。お前らを集めて冷泉を潰したのは俺だよ」

「俺をメンバーに入れたのはどうしてだ?」

「お前の腕を見込んで」

「嘘つけ」

「本当だって」

エレベーターホールへ到着する。聖は下のボタンを、中桜塚は上のボタンを押した。

「どこに行くんだ?」

「一服だよ」

何でもないように答えた彼に、聖は背中がすっと寒くなった。

「喫煙所は、下だろ」

「まーったく、余計なところで才能を発揮してんじゃねーよ」

上へ行くエレベーターが到着する。乗り込もうとした中桜塚の腕を掴み止めようとしたら、鳩尾に激痛が走って聖は倒れ込んだ。

「じゃあな、聖。迷惑かけてすまなかった」

す、と彼の手が聖の首に掛かった社員証を引き抜く。それを持ったまま、彼はエレベーターに乗り込んだ。

「お前は本当に優秀なマネージャーだ」

「ま…て…」

聖が手を伸ばした先で、エレベーターの扉が閉まった。

強かに肘を入れられた腹を押さえ、聖はズボンの後ろポケットからスマホを取り出した。なんとか番号を呼び出し、すぐに掛ける。

頼む、出てくれ!上ボタンを連打し、他のエレベーターを呼びながら聖は願った。

「もしもし、牛久です。課長?」

「う、牛久、いま、どこにいる?」

「リフレッシュルームでプーちゃんとゲームしてますけど…どうしたんですか?声掠れてません?」

「中桜塚が、屋上に向かった…絶対に行かせるな、何としても止めるんだ…蹴っても殴っても気絶させても止めろ!」

聖が絞り出した声に、電話越しの牛久が息を呑む。察しのいい彼はすぐにゲームを中断したようだった。

「プーちゃん、まずい…課長、電話は切りませんがスマホはポケットに入れます。なるべく早く来てください」

「頼む…」

エレベーターは来ない。最近の流行りのデザインで、いま何階に止まっているのかすらわからない。

その時、中桜塚が社員証を持って行った理由に聖は気づいた。社員証がないと、リフレッシュルームのフロアにエレベーターを止めることができないではないか。

聖は起き上がると、非常階段の扉へと走った。屋上へ行くにはリフレッシュルームのフロアから階段だ。牛久と八神が彼を止めてくれることを祈りながら、聖は階段を駆け上がった。


「セッターさんを止めろって…なんで…」

「わからないけど、たぶん…」

屋上へ続く階段の前で、八神は戸惑い、牛久は緊迫した表情をしていた。

「よぉ、お疲れ。こんなとこで何してんだ?」

開いたエレベーターから降りてきたのは聖の言った通り、中桜塚だった。

「セッターさん、あの」

直接質問を切り出そうとした八神を牛久が止める。

「二人でゲームしてたんです。セッターさんが課金してるやつ。こっそり強くなってセッターさんを倒そうって」

「そうかそうか、お前ら意外にそういうびっくりさせる系、好きだな。でもここでバラしたらこっそり強くなった意味なくねぇ?」

「そうですね。じゃ、今からバトルしましょうよ」

「うーん…お前のスマホが聖と繋がったままじゃなぁ」

牛久はハッとして胸ポケットに入れたスマホに触れた。それを見て、中桜塚が笑う。

「こんな手に引っ掛かってるようじゃ、まだまだ俺は倒せないぜ。さ、退いてくれ。一服の時間だ」

「確かめたいことがあります。僕たちを固定資産管理課に入れたのはあなたですか?」

「ああ、そうだ。お前達二人は冷泉のもとに送られそうだったところを俺が引き取った。ある程度人数が必要だったからな。聖には炎上プロジェクトを担当させ、左遷されるように手を回した。予想以上に良いチームができて驚いたよ」

「なぜそんなことを?」

「冷泉はな、俺の指示で動いていたんだ」

「あなたは?あなたの役割は何だったんですか?」

「内部告発者が出ないか見張り、退職させる人数を調整し、冷泉が受け持つのに最適なプロジェクトを見つけてくる。つまり、左遷部屋のマネージャーだ」

「マネージャー…」

「固定資産管理課はただの一時待避所だ。転職しそうなやつは倉庫にぶち込んで、会社にぶら下がろうとするやつは冷泉に任せる。そうやって二人三脚で人を潰してきた」

「なんでそんなことを…」

「お前らの知らない、この会社の裏事情があるのさ。気づいた時には巻き込まれていた」

「え?」

「俺も冷泉も狂ったのかもしれねぇ。気づいたらどういうわけか死者が出ていた。耐えられなかったよ。降り積もったこの罪悪感からは、どう足掻いたって逃げられない」

「セッターさん」

「だけど、ひとつだけ逃げる方法があることに気が付いた」

「やめてください」

「そこをどいてくれ」

「だめです」

「みんな、こんな気持ちだったんだなぁ…俺が追い詰めた社員たちは」

中桜塚が一歩踏み出す。鞄をふっと手から落とした彼は、牛久の腹めがけて拳を突き出した。


ぜぇぜぇと息を切らせながら到着した最上階、リフレッシュルームのフロアで、聖は金属の扉を前に立ち尽くしていた。ここを通り抜けてフロアを通らないと屋上までの階段に行けない。

通常の階段に出るには何もいらないが、階段からフロアに入るにはIDカードがいる。今の聖にこの扉は開けられない。

「クソ…!」

ダン、と扉を叩く。その向こうで、うわぁっという悲鳴が聞こえた。

「やだやだ、死んじゃやだ!」

八神の声だ。聖は扉を叩いた。

「報連相をしましょう、中桜塚さん。何があっても俺たちが助けますから。特に相談です。困ったらすぐ相談するんです。いいですか中桜塚さん。一人で抱え込まなくていいんですよ。聞いてますか中桜塚さん」

今度は牛久の声だ。聖は彼らの名前を叫びながら、さらに扉を殴り、ドアノブをガチャガチャと動かした。

「わ、わかっ…痛ぇっ…わかったから…階段のドア開けてやってくれ…痛え!」

ピッ、と音がして、金属扉のノブが動いた。聖はそこから飛び出し、目の前の光景に肩の力を抜いた。

扉をあけてくれた牛久はすでに中桜塚の元に戻り、倒れた彼の側にしゃがみ込み報連相の大切さを延々と説いていた。八神は泣きながら嫌だ嫌だと叫び、マウントを取った中桜塚の顔面を結構な力でひたすらビンタしている。

「はぁ、よかった…それにしても何が起きたんだ…」

「俺、空手初段なんですよ。定食屋さんでご飯食べてるときくらいしか話題に上りませんけどね」

牛久が説教の合間に答える。

「初耳だよ…クソ…!」

八神に頬を叩かれながら、中桜塚がそう吐き捨てた。彼にも知らないことがあったらしい。


固定資産管理課に戻った一同は、中桜塚を尋問するように三人で取り囲んでいた。

「いや、本当に屋上で煙草を吸おうとしただけで…」

「まだ言うか」

「もう一発殴っときます?」

「すまん、本当は飛び降りようって思ってた…」

中桜塚の告白に、空気がしんとする。それを破ったのは聖だった。

「気が付かなくて、すまなかった」

聖は中桜塚をハグし、その背中をポンポンと叩いた。

「隠してたんだ、当たり前だろ」

軽く抱き返され、聖は彼を離した。

「困ったことがあったら何でも言ってください」

牛久がそう言う。

「じゃあ、さっそくひとついいか」

「はい」

「コンビニで氷とビニール袋、買ってきてくれないかな…」

八神にはたかれ腫れた顔に手を当て、いててと言いながら彼は椅子に座り込んだ。

「箱ティッシュもお願いでぎまずか…ずびび…」

「いい加減泣き止めよ」

「だれのせいでずか!グスッ」

空になったポケットティッシュの袋を投げ捨てながら、八神は真っ赤になった鼻をすすった。

「少し仕事から離れたほうがいい。ゆっくり休め」

中桜塚の肩に手を置き、聖は言った。

「そうだな…」


牛久と八神を帰し、聖は中桜塚を引っ張ってエレベーターホールへとやってきた。もう夜十一時半時、長めの残業を終えた社員がポツポツと帰っている。何本かエレベーターを見送り、誰もいないときを見計らって下行きのエレベーターを捕まえた。

「さ、行くぞ。今夜は豪勢にタクシーだ」

「いいって!娘さんにも奥さんにも迷惑だ」

「自殺未遂のやつを放っておくと繰り返す可能性が高い。絶対うちに連れて帰るからな。嫌なら今すぐ救急車を呼ぶぞ」

「それはやめてくれ。この腫れた顔をどう説明するんだ」

「じゃあ早く来い」

聖は中桜塚の腕を掴み、今度こそ地上行きのエレベーターに乗り込んだ。

「ありがと、な」

小さく言われた言葉に、聖は黙って彼の肩を叩いた。腫れ上がった顔に流れた一筋の涙は、見なかったことにしておいた。


聖家の玄関をくぐった途端、中桜塚は糸が切れたように倒れてしまい、翌日から入院となった。


翌朝、中桜塚を病院に送り届けたあと午後から出社しようとしたら、スマホにメールの嵐が届いていた。

牛久からは、「セッターさんの具合はどうですか?」とひとつだけ。しかし、八神からは。

「どうなりました?」

「生きてます?」

「課長いつごろ出社します?」

「もしかして体調悪くなったんですか?」

「どこの病院行きました?」

エトセトラエトセトラ。とても返信し切れる量ではなかったので、「今から出社する」とだけ返しておいた。すると、一分もしないうちに「早く来てください」と返事が来た。

なんだかんだ言いつつ、中桜塚を一番心配しているのは彼なのだ。聖は少しだけ笑ってスマホをしまった。

仲が良いのか悪いのか、懐いているのか目をかけているのか。不思議な関係だが、強固な絆なのは間違いないだろう。

聖は心配性な後輩のために、会社への道のりを急いだ。


固定資産管理課について、事情を説明すること三十分。はじめは騒いでいた八神も落ち着き、部屋はやっと静かになった。

「閉鎖病棟に入院、ですか…」

「自殺未遂だからな」

「あんなに近くにいたのに、気が付かないものなんですね。あそこまで思い詰めてるなんて考えてもいなかった」

「誰だってなり得るんだ。明るく振る舞う奴でもな。あいつは特に隠すのがうまかったから、気づくのが遅れた」

「真面目な人、だったんですね」

「過去形で言うのやめてくれます?生きてるんだから。真面目な人、です」

ムッとして八神が訂正する。

「そう言えば、牛久。中桜塚って言えてたな」

「え?あ、たしかに…」

「言ってみてくださいよ」

「にゃきゃしゃくりゃじゅきゃしゃん」

「悪化してる…」

ふと、モニターに目をやった八神が、あ、と声を上げた。

「冷泉さん、休職になってます」

「上が対応したか…」

「志太橋さんは自主退職してますね。自殺は防げたのかな…」

しん、と部屋に沈黙が落ちた。こんなとき話し出す奴が、今はいないのだ。

しばらくして、牛久が口を開いた。

「セッターさんが戻ってきたら、この会社乗っ取りましょうよ」

「おもしろいこと言うなぁ」

「明るく楽しく給与は高く!それから定時退社!」

「はは、三千人も社員がいるんだぞ。客先常駐も多い」

「僕らならできますよ。パーフェクトチームですからね。今はちょっとかけてるけど」

「そうだな…ひとりいないとポンコツチームだからな」

「よりパーフェクトにするために、さらに優秀な人員が必要ですね。どこかから調達しましょう。そしたらあの煙草は用済みです」

「一番心配してたのに口だけは達者なんだから…課長に三十通くらいメールしてたの知ってるからね」

「そ、そんなことありません、してません」

「いや、もっと来てたよ」

「バラさないでください!」


中桜塚が入院した病院の名前と場所を教えたあと、八神がスマホを見ながら口を開いた。

「この音声ファイルとセッターさんからもらったメールのやりとり…このSDカードにしかデータはありません。冷泉さんのほうはハードごと始末されたそうです」

「…そっか」

「セッターさんは、どうなるんですか?」

「上層部は何もする気はないだろう。下手につつけば自分たちまで巻き込まれるからな。しばらくしたらそのまま復帰させて監視下に置くだろうな、そのデータで内部告発しない限りは。だが、そのメールと音声データの内容でどこまで罪に問えるかはわからない。捏造だと思われる可能性の方がはるかに高いし、盗聴だからな。それに、冷泉と中桜塚をトカゲの尻尾切りされて終わりだ。根本的な解決にはならない」

八神は二人のやり取りが表示された画面を見つめた。


20XX/09/XX 23:56 to:N from:R

対象が自殺しました

to:R from:N

なんだと?

to:N from:R

定時上がりの記録がありますので、心配いらないと連絡がありました

to:R from:N

すぐに来い、状況を教えろ


20XX/11/XX 09:11 to:N from:R

2人候補が上がってきました

210103168 八神和樹

207103004 牛久太郎

to:R from:N

一度こっちで引き取る。今はこれ以上メンバーを増やせない

to:N from:R

わかりました


20XX/01/XX 19:27 to:R from:N

ターゲットは病死で間違いないか?

to:N from:R

間違いありません。出勤記録は提出してあります。過労死ラインには全く届いていません。人事とも共有済みです

to:R from:N

わかった


20XX/03/XX 18:55 to:N from:R

ひどく炎上しているプロジェクトがあります。終了後、PMがこちらに投げられそうですが今は引き取れません。そちらでお願いします

2020103058 聖学

to:R from:N

了解


20XX/05/XX 09:45 to:R from:N

聞きたいことがある。下に来い

to:N from:R

15分待ってください。電車遅延です

to:R from:N

早くしろ


20XX/06/XX 15:48 to:R from:N

なぜ聖に接触した?勝手なことをするな

to:N from:R

そちらの様子が知りたいだけです


20XX/07/XX 15:45 to:N from:R

to:N from:R

どうもそちらの動きが不穏ですね。内部情報を共有してください

to:R from:N

了解。今夜いつもの場所で


20XX/08/XX 10:23 to:R from:N

to:R from:N

聖のコントロールが難しい

to:N from:R

疑われていることが確定しましたね。先ほど本部長から気をつけろと連絡がありました

to:R from:N

動きがあったらこちらも連絡する


20XX/09/XX 09:20 to:N from:R

周りには、喫煙所で情報収集していると言っているようですね

to:R from:N

そうだ。何かあったか?

to:N from:R

最近、頻繁に情報が漏れています。喫煙するメンバーから漏れている可能性がありますので、喫煙所を一時閉鎖しようと思っています。問題ありますか?

to:R from:N

問題ない。判断はそちらに任せる


20XX/09/XX 10:23 to:R from:N

八神をヘルプに出す。そちらに引き抜けるか?

to:N from:R

まず牛久へアプローチします。八神はその次です

to:R from:N

わかった


20XX/10/XX 23:33 to:N from:R

引き抜き失敗です。そちらで崩してください

to:R from:N

了解


20XX/11/XX 13:13 to:N from:R

大部屋が空きました。聖さんが手を回しているようです。こちらが移動させられる前に他のPJを入れないといけません。どこか候補はありますか?

to:R from:N

本丸プロジェクトを提案しろ

to:N from:R

承知しました


20XX/11/XX 13:13 to:R from:N

聖がお前を呼んでいるが、行くか?

to:N from:R

行きます

to:R from:N

自供を録音する気だ。やつのスマホに気をつけろ


「ひとつ、提案していいですか」

ふと、牛久が口を開く。

「なんだ?」

「潰しませんか。彼らを苦しめた人、全員」

「牛久にしては過激な提案だな」

「仏の顔は三度までなんですよ。あまりにひどいのでもう三回分使い切りました」

「どう思う?プーちゃん」

「復讐は何も生みません」

「そう…だね」

「何も生みませんが、最高にスカッとします」

「決まりだ」

「こういうの、闇落ちって言うんですかね」

「闇落ちっていうのはホシーウォーズのイナキン・ソラーウォーカーみたいなやつじゃない?」

「まんまじゃないですか!」

「じゃあ、まずは…冷泉に話を聞こうか」

「休職中ですから、最初に電話ですね」


冷泉に電話したところ、家に来てもいいとすぐに了承の返事をもらえた。しかしその声は弱々しく、休職したのは本当に体調が悪いからなのではないかと、聖は思った。


十一月の前半の土曜日。午後に訪れた彼の部屋は、お洒落なデザイナーズ物件だった。しかし、信じられないことに冷泉は無精髭を生やしていたし、カーテンは締め切ったまま、テーブルの上にはビールの缶が大量に転がっていた。

「自殺幇助で自首しようにも証拠がないんですよ。連絡データは上に消されたし、残業記録は残ってないし、遺書はあるし、人事もメンバーも私を庇うし。完全犯罪を成し遂げてしまったわけです。人が最も残虐になるのは、自分が正義の側にいると思ったときなんですよ…私はそれを利用した…」

プシュ、と新しい缶を開けながら彼が言う。やはり、休職したのは体調不良が原因か。その缶を取り上げて、聖は代わりに水を渡そうと部屋を見渡した。

ワンルームだがかなり広い。今座っている真ん中のソファとローテーブル、テレビ。右手にはベッド。左手には小さなダイニングテーブルとカウンターキッチン。

聖はダイニングテーブルに荷物を置かせてもらうと、キッチンにお邪魔してコップに水を汲んだ。そして、持ってきた弁当箱と一緒に冷泉へ差し出す。

「とにかく何か食べろ。ほら」

「いりません。何を食べても吐くんです」

「これなら食べられる。手作りの肉じゃがだ」

ふらりと、冷泉が顔を上げる。ゆっくりと伸ばされた手に、聖は弁当箱を渡した。


「…誰かの手料理なんて、久しぶりです。おいしい…」

弁当箱を半分ほどあけたところで、冷泉の目からぽたりと雫が落ちた。目元を拭いながら、鼻声で彼は続ける。

「もう嫌だったんです。何もかも…いつの間にか、辞めさせたい社員がストレスの捌け口になってたんです。自分では止められなかった。周りは私のことを微塵も疑いませんでした…当然ですよね、そう振る舞ってたんだから。中桜塚さんが止めてくれてホッとしました。そしたらなんだか、今まで溜め込んでたものが消えて、どうでもよくなっちゃって…」

「それでビール飲みまくってたのか」

「そういうことです。ああ…食べたら眠くなってきました…」

「寝ろ、ほら」

冷泉をベッドまで連れていき布団をかけてやると、目に隈を作った冷泉が目を閉じた。聖は彼を起こさないよう、静かにビールの空き缶を片付け始めた。

苦しんでいたのは、彼もまた同じだった。

あらかた片付け終わったあと、冷蔵庫の中身を覗き込んだ聖は、空っぽのそれを見て唸った。どうするか。

スマホを手に取り、誰に連絡しようか迷う。こんなときは…

「あ、もしもし、牛久。悪いんだけど、今からお使い頼まれてくれるか?」


オートロックを開けるとき、玄関の鍵は開いている旨を牛久伝えた。冷泉が寝ているから、なるべく静かにしていたかったのだ。

がちゃりと遠慮気味に玄関の扉が開き、袋を抱えた牛久が入ってきた。

「お邪魔しまーす…課長…?います?」

「ああ、ここだ」

開け放したリビングの扉から玄関を見て、聖は返事をする。空気の入れ替えのために開けていた窓を閉めて、牛久を出迎えた。アルコール臭はもう残っていないようだ。

「買ってきましたよ。うわぁ、聞いてたけど広い部屋だなぁ」

「ありがとう。聞いてたって?なんで間取りを知ってるんだ」

「一緒にご飯食べたときに聞いたんですよ」

「そういえばそんなこともあったな…」

がさり、とスーパーの大きな袋をローテーブルに置いたところで、冷泉の目がぱちりと開いた。

「ん…牛久さん?」

「大仏です。あ、間違えた、牛久で合ってます」

「ふふ…」

枕に半分顔を埋めて、冷泉が少しだけ笑う。それは今までのような酷薄な笑みではなく、無邪気で無防備な笑いだった。

「大丈夫ですか?ずいぶん顔色が悪いですね」

「今のでちょっと元気になりました、大仏さん」

彼はベッドから体を起こした。

「よし、飯にするぞ」

買ってきてもらったお惣菜をレンジで温める体勢を取りながら、聖はそう宣言した。


控えめに食事を取った冷泉は、食後しばらくして席を立った。

「ちょっとシャワー浴びてきますね。すみません、一昨日から風呂に入ってなくて」

「ああ、わかった」

クローゼットから服を取り出し、冷泉が廊下へ出てバスルームに入る音がした。食器を片付けようとした聖だが、牛久がそわそわと廊下のほうを見ているので声をかけた。

「どうした?」

「あの、冷泉さんですけど、ほら、二時間ドラマみたいに湯船に水張って剃刀で手首切ったりしませんよね?」

「いやいや…いやいやいや」


ぺたりと脱衣所の引き戸に貼り付いた二人は、シャワーの水音にじっと耳を澄ませていた。木目調のドアはガタつくことなく二人の耳を支える。家賃はいくらなんだろうと聖は薄っすら思った。高そうだ。

「今のところ大丈夫そうだな…」

その時シャワーの音が止み、バスルームのドアが開く音がした。時折ばさりと布の音がする。それからドライヤーの音がし始めた。しばらくすると、カタンと何かを取る音、シュッとスプレーする音、歯磨きの音が続いた。水の流れる音がして、キュッと蛇口の閉まる音がする。

その数秒後、すっと引き戸が開いた。

「うわっ!?」

「びゃっ!」

「びっくりした…!何やってるんですか?」

部屋着だが、すっかり身なりを整えた冷泉が立っていた。廊下に尻もちをついた聖と牛久は、なんと説明したものかと顔を見合わせた。

「えっと…冷泉さんいい匂いしますね…」

「あ…ありがとうございます…ボディミストの香りですね…」

「じゃ、俺食器洗うんで!」

「あっお前逃げるなよ!説明責任を果たせ!」

聖が伸ばした手はぎりぎり牛久に届かず、彼はササッと逃げてしまった。

「あの…話はリビングで…」

座り込んだままの聖に冷泉が手を差し伸べる。腰に負担をかけないようにその手を拝借し、聖は曖昧に笑って誤魔化しながら立ち上がった。


「中桜塚さんは、どうしていますか?」

冷泉と聖がソファに、牛久は床であぐらをかき、三人は話し込む姿勢になった。

「入院中だよ」

「入院?」

「自殺未遂で」

「そうですか…」

「お前は大丈夫か?」

「お風呂で手首切ったりしませんよね?」

「もしかして、さっきのはそれを心配してたんですか?」

「ああ、そうだ」

「死ぬつもりならとっくに死んでますよ。最悪ですよね、人に強いておいて」

「教えてくれ、どうしてこんなことになったんだ?」

「仕事ができない、上司のひんしゅくを買った、客先からクレームが来た…そんな人の報告が上がるたび、本部長から左遷部屋マネージャーに…中桜塚さんですね…連絡が入ります。報告は意図したものでなくても、リーダーレベルで頻繁に愚痴をこぼされている社員はプロジェクトマネージャー、課長、部長を通して名前が上がります。下の者はその社員がどうなるのか知りません。単なる悩み相談として、名前を聞き出されるんです。そうすると、いつの間にか本部長が問題社員をどうにかしてくれている…マネージャーやリーダーは喜びます。そして、さらに消えてほしい人の名前を言うようになる」

「ヒェ…」

聖は思い出した。ある社員の問題行動に悩んでいたとき、相談に乗ってくれた部長のことを。まさか…

たぶん、そのまさかなのだろう。

「どうしてもプログラミングができるようにならない人は確かにいます。うちの会社は95%が技術者です。異動先がないため、私の部屋に送られてきたんです」

「俺じゃん…」

「そうですよ。でも、大仏さんはプログラミングができないだけで仕事ができないわけじゃない。あるプロジェクトに合わなかっただけで使えないと烙印を押されてしまう…うちの会社は、適材適所の人材配置ができないんです。あまりにも職種のバランスが悪い…というより、役割分担ができていない。だから問題は…一言で表すなら社風、つまり企業風土です。そしてそれは、システム受託開発会社…SIerですね…それにおける仕事の特徴上、起こりやすい現象でもあります。基本的にプロジェクト単位での仕事ですから、皆クローズドな環境で働いています。プロジェクト部屋が個室だとなおさらです。人の流動性が低く、プロジェクトの中身は上層部や部外者からは見えない…結果として、適材適所の人材配置ができないわけです。中身の見えない箱がたくさん並んでるようなものですね。だから使えないと判断された社員は、クビを切るしかなくなる。企業風土が、あのシステムを生み出したんです」

聖は頭を抱えそうになった。まさかそんな掴みどころのないものが原因だったなんて。

「…ということを、長い間ぼんやりと感じていました。離れてみると状況がよく見えますね。あの部屋にいるときは本当に何も見えていなかったし、こんなふうにはっきりと言葉にすることもできなかった」

なんて聡明な男だ、と聖は思った。中桜塚の助けがあったとはいえ、よくこんなやつと渡り合えたものだ。

「でも…」

冷泉が何か言いかけたとき、牛久のスマホが鳴った。

「あ、すみません電話が…プーちゃんだ。もしもし?何?…ああ、今課長と一緒に冷泉さんの家にいる…え、来るの?場所わかる?ちょっと…ああ、切れちゃった」

「八神くんが来るんですか?」

「そうみたいです」


オートロックで八神の姿を確認すると、聖はロックを解除した。八神は無言で自動ドアをくぐった。しばらくして、玄関のチャイムが鳴る。

ピンポーン!ピンポンピンポン!ドンドンドン!

「めちゃくちゃ叩いてる」

「出ますね」

冷泉が立ち上がり、玄関へと向かった。開けっ放しのリビングドアの向こうで、冷泉が玄関のドアを開けた。

小柄な体が飛び込んでくるのと、冷泉が廊下に倒れたのはほぼ同時だった。仰向けに倒れた冷泉の襟首を掴んだ八神の後ろで、玄関のドアがバタンと閉まる。

「歯ぁ食いしばれ!この野郎!」

「プーちゃん!」

廊下へ飛び出して行った牛久より早く、振り上げた八神の拳が冷泉の顔面を直撃した。

再び振り上げられた拳は牛久に掴まれたが、冷泉がその手をそっと押し退ける。

「好きなだけ殴っていい…それだけのことをしたから」

「クソッ…お前のせいで…あいつは…!」

八神は拳を下ろし、服が破れそうな力で冷泉の襟首を掴み何度も床に叩きつけた。

「清水は悪くない!それなのに…それなのに…!」

牛久が冷泉から八神を引き離した。聖は冷泉を起こし、壁に背を預けて座らせた。

「その通りだよ、八神くん。清水くんは何も悪くなかった」

冷泉は唇の血を拭い、その手をぱたりと床に落とした。八神は牛久に肩を抱かれ、拳を握りしめて泣いている。

「牛久、八神を連れて少し外へ行っててくれ」

「わかりました。行こう」

「うっ…うう…大丈夫です、今ので一応復讐は済みました…復讐は何も生まないけどけっこうスカッとする…グスッ…でもまだ物足りないので、これからちょこちょこ嫌がらせします…メアドを出会い系に登録したりとか…コーヒーに唐辛子パウダー入れたりとか…夜中に突然グロ画像送りつけたりとか…」

「妙にリアル…」


「プーちゃん、どうしてここがわかったの?」

聖が冷泉の傷口を消毒している横で、牛久と八神が話している。

「僕が社内データベースにアクセスできるの忘れたんですか?住所なんて一発ですよ」

「ああ…そこから情報が漏れていたのか…予想外だ…」

「黙って手当て受けててください。お弁当にゴキブリの死骸を仕込まれたくなかったら僕の許可があるまで口を開かないで」

「はい」

「いま許可なく口を開きましたね。いつかお弁当にゴキブリの死骸を仕込みますね」

「ゴキブリか…あんまり食べたくないな…コオロギじゃだめかな…」

「ダメです」

「聖さん、ゴキブリの美味しい食べ方ってありますか」

「ない。というか食べる前提で話すなよ。弁当に入ってたら弁当ごと捨てろ」

「そっか、そうすればいいんだ…頭良いですね…でも、八神くんが食べろって言うなら食べないといけないんじゃないかな…」

虚ろな目でどこかを見ている冷泉に、聖は消毒液を置いた。

「勘違いしないでください。僕はあなたにゴキブリを食べてほしいんじゃなくて、罪を償ってほしいんです。ついでにスカッとする復讐をしたいだけです。スカッとする復讐というのは、相手が言いなりだと成り立ちません。心から嫌がってください」

冷泉の目がハッと光を取り戻す。

「ゴキブリは食べたくない」

「それでいいんです」

「コオロギは食べたい」

「えっ…それはちょっと引くんですけど…」

「冷泉、お前はゆっくり休め。カトウのごはんとエイトプレミアムのお惣菜、たくさん買ってきてもらったから」

「何から何まで、本当にありがとうございます…本当に…」

それから冷泉は一瞬何が言いかけて、曖昧に笑いそのまま扉を閉めた。


「なんでコオロギ食べたいんだろ…」

帰り道、八神はずっとそのことばかり口にしていた。

「好きなんじゃない?」

「いやおかしいでしょ」

顔を引きつらせている八神のことは置いておいて、聖は今後について話し合うことにした。

「今日は金曜日だ。俺たちは月曜日には出社。左遷部屋を潰したのが俺たちだということはとっくに本部長に知られている。中桜塚は今後、人事部付で飼い殺しだろう。つまり…」

「つまり?」

「俺たち三人は、月曜日に会社都合で解雇通知される可能性が高い。回避策を考える必要がある」

「うわぁ…クビになったら復讐も何もないじゃないですか」

「本部長を脅すとか?」

「脅しなら中桜塚さんの得意分野ですね。あの人、たくさんの人の弱みを握ってますから…」

「よし、明日中桜塚に会いに行ってくる。任意入院にしたから、家族でなくても面会できる。院内なら、あいつも病棟の外に出てこられるしな」

「課長、僕たちにできることは?」

「中桜塚が情報を持っていなかった場合や、情報が弱みとして効かなかった場合の保険をかけたいな…」

聖はしばらく考えた。そして、牛久の肩を叩く。

「牛久、君が中桜塚に会いに行ってくれ。俺は顧客のほうに働きかける」

「どういうことですか?」

「以前担当した顧客に、新しいシステムを発注しようとしているところがないか調べる。そうしたら、俺たちを指名して仕事をもらう。仕事を受けていれば、簡単に解雇することはできないはずだ」

「明日日曜日ですよ?会社やってます?」

「世の中、土日休みじゃない会社はたくさんあるんだよ。八神は休日出勤してくれるか。管理者権限で部長以上のメールを片っ端から調べるんだ。あと、契約書を印刷したいからデータ送ってくれ」

「わかりました、任せてください」

「休日出勤の記録はあとで消しておいてくれ。念のため」

「了解です」


「ここが精神病院かぁ…意外と普通だな」

十一月の冷えた空気の中、マフラーに口元を埋めながら牛久は病院の入口へと向かった。

自動ドアをくぐると、小ぶりなエントランスがあった。日曜日で外来診療がないせいか、入院患者らしき人たちがぽつぽつといるだけで人は少ない。

きょろきょろとあたりを見回すと、壁際のソファに目当ての姿を見つけた。

「セッターさん!」

「お、大仏。お疲れさん」

パジャマにカーディガンを羽織った中桜塚は、片手を上げて挨拶をした。もう片手にはスマホを持っている。

「具合はどうですか?」

「だいぶ良くなったよ、さんきゅ。そういや、頼んだアレ持ってきてくれたか?」

「あ、はい。モバイルバッテリーですよね」

牛久は中桜塚の隣に腰掛けると、ごそごそと鞄からモバイルバッテリーを取り出した。

「助かるわ。病棟の中じゃスマホ使えないし、充電もできねぇの。俺のモバイルバッテリーの充電が尽きたら公衆電話から連絡しようと思って、お前らの電話番号メモしたところだった」

「間に合ってよかったです」

牛久のモバイルバッテリーにスマホを繋いでソファに放り出し、中桜塚は脚を組んだ。

「で?何の用だっけ?」

「ああ、えっと…」

牛久は冷泉の家で話し合ったことをかいつまんで説明し、明日の解雇通知を回避するために動いていることを中桜塚に説明した。

「弱みねぇ…籠原本部長のは持ってねぇな…」

「そうですか…」

「あ、でも、二部の部長と人事課長のは持ってる。今から言うからよく聞いとけ」

「はい」

「二部の部長は庶務の女の子と不倫中だ。あの派手な子な、わかるだろ。こっちはそれほど重くないが、やばいのは人事課長のほうだ」

牛久は身を乗り出し、中桜塚の話に耳を傾けた。


半年ほど前の喫煙所での、マルボロを吸っている人事の男性社員との話だった。

「中桜塚さん、これヤバくないっすか?うちの人事課長ですよ。スカートの中盗撮ですよこれ…駅で見たので写真撮りました」

マルボロが見せてきたのは、階段で女性のスカートの中にスマホを差し入れる人事課長の姿だった。

「うわー最悪だな。おい、この写真送ってくれよ」

「いいっすよ。タバコ1カートンで」

「調子に乗るな、一箱だ」

「ケチだなぁ。わかりましたよ、俺こんなの持ってても使えないし。中桜塚さん有効活用してくださいよ。まさにお宝でしょ?」

「任せとけ」

「警察に突き出そうと思ったけど、そんなことしたら俺も巻き添え、下手したら理由つけて一緒にクビ切られそうだからなぁ…あー、嫌だ嫌だ」


「…ということがあった。今からその写真を送るから、それで人事課長を脅せ。解雇通知は人事から出る。人事課での事務処理をストップさせればいい」

「さすがセッターさん!」


そのころ聖は、大手不動産会社へと足を運んでいた。スーツか私服か迷って私服で来たが、よかっただろうか。

コートを脱いで本社の下にある店舗に入り、受付で馴染みの店員に挨拶をする。以前、ここの会社の仕事をしていたのだ。倉庫に左遷される直前のプロジェクトだった。

「こんにちは」

「聖さん!いらっしゃいませ」

「矢野さんいます?」

「いますよ。呼んできますね」


プレイングマネージャーの矢野はやはり日曜日も出勤していて、すぐに受付へとやってきた。

「よぉ聖!どうした?」

「いつもお世話になっております、矢野様」

聖は丁寧に頭を下げる。矢野はその肩を叩いた。

「仕事じゃないんだからやめろよ」

「それが仕事なんだなぁ」

「お?てっきり飲みの誘いかと思ったが」

「助けてくれないか、うちの大口顧客様。プロジェクトを炎上させた上に頼み事なんてアレだが、お前にしか頼めないんだ!何か俺に仕事をくれ!」

両手を合わせて再び頭を下げる。炎上させた案件の総元締めは、大学時代の同級生である彼だった。

「公私混同するなよ。ま、今から俺も公私混同するけど。簡単な保守の仕事がある。お前に頼むよ。それにあの大炎上、お前のせいじゃないだろ?あれは誰が見ても無理だ。貧乏くじを引いたな」

「ありがとう、本当に助かる…」

「何かやっかいなことに巻き込まれたな?おもしろいことがあったら飲みながら教えろよ!」

「全部解決したらな!ところで矢野様、この契約書にサインと判子をお願いいたします」


翌日の月曜日。寒い中一時間ほど早く出勤した三人は、まだ暖房の入っていない寒い部屋で鼻を赤くしながら打ち合わせをしていた。

「無事に指名で保守の仕事が取れた。そっちは?」

「二部の部長が庶務の女の子と不倫しているそうです。あと、この写真。人事課長が盗撮している証拠です」

「うわっ…マジですか」

「その情報で解雇を回避しよう。朝イチで俺たちを二部に異動させ、同時に人事課長を脅して解雇の指示が来たら事務処理を止めさせる」

「なるべく早いほうがいいですね。定時すぎ、すぐに行動しますか?」

「そうしよう。俺は二部に行く。牛久は人事に行ってくれ」

「わかりました。淡々と話せばいいんですよね?セッターさんみたいにうまくはできませんけど、これだけ確実な証拠なら大丈夫です。た、たぶん」

「じゃあ僕は、引き続きメールの調査を行います。量が多いのでまだ終わっていません」

「頼んだ」


定時を過ぎて三十分ほど。メールの調査をしていた八神のもとに、聖、牛久の順で帰還してきた。

「どうでした?」

「ばっちりだ」

「セッターさんの真似をしたら一発だったよ」

「さすが闇落ちしたチームです。というか、結局ニコチン野郎の真似したんですね」

「プーちゃんは?」

八神はモニターの向きを二人に見やすいように変えると、ずらりと並んだメールのデータの一部を指差した。

「今のところ、部長以上の役職の人たちに怪しいメールはありません。亡くなった三人のメールのやり取りも特に不自然な点はありませんね」

「ふむ…プーちゃんはそのままメールの調査を続けてくれ。俺は保守の仕事を片付ける」


「久しぶりに仕事をしたら腹が減った」

ぐるる、と腹の虫を鳴らしながら、聖はうーんと伸びをした。

「メールの調査終わりました。残念ながら何もなかったです。お昼にしましょう」

ずっとパソコンに向かっていた八神も同じく伸びをする。

「あ、僕いい店知ってますよ。旨くて安くて早くてボリュームたっぷり!」

「最高じゃないか!」

牛久の案内で、三人は少し早めの昼食を取ることにした。


老舗の定食屋でテーブル席についた三人は、コートを脱いで椅子にかけながらメニューを見ていた。そして、素早く注文する。腹が減っているのだ。

「生姜焼き定食」

「トンカツ定食」

「さばの味噌煮定食」

はいよ、と威勢のいい声が厨房から聞こえてきた。十二時少し前の店内は、まだ半分ほどしか席が埋まっていない。

「あ〜、疲れたなぁ…中桜塚のお見舞い、いつ行こうかな」

「そういえば、お見舞い行ったあとメール来ましたよ。飯が旨くないって」

「病院食に何を期待してるんだあいつは」

「意外とグルメですからね、セッターさん」

「あんなに煙草吸ってて料理の味わかるんですか?舌が馬鹿になってるんじゃ?」

「いやいや、そんなことないよ。セッターさん、一階の弁当屋の唐揚げ弁当が急に不味くなったって言ったことがあってさ。そんなまさかと思って売り場のおばちゃんに聞いてみたら肉を変えたんだって。ちなみに俺は全然味の違いがわからなかった」

「舌が馬鹿なのは大仏さんのほうですか」

「プーちゃん、仏の顔は三度までだからね。あと二回ね」

ここで料理が到着した。

料理を食べ始めて静かになったら、カウンターから話し声が聞こえた。

「悪いな、急に呼び出して。ここは奢る」

「いいって、そんなに家遠くないし。お前からの呼び出しなんて、学生の時からしょっちゅうだ」

「翔は真面目だからなぁ、ノート借りるのにちょうどよかったんだ。話の前に、顔色が悪いが何があった?俺の目は誤魔化せないぞ」

「まぁ、ちょっと体調不良なんだよ」

「ふーん?」

「…食欲がないっていうか…ごちそうさま」

「へーえ?」

なんだか聞き覚えのある声だぞ?と思い、聖は口をもぐもぐと動かしながらちらりとカウンターに視線をやった。

「それより、話ってなんだ?」

「ああ…お前の会社の社員情報が流出してる形跡があるが、何かあったのか?お前のデータが引っかかったぞ」

「え?」

冷泉と山戸さんじゃないか!聖はあわてて口の中の生姜焼きを飲み込むと、ガタリと席を立って二人の間に割って入った。

「ちょっと待った!その話、俺たちも混ぜてください!」

冷泉と山戸、それから牛久と八神も驚いた顔で聖を見る。

「…聖さん?」

「知り合いなのか?」

冷泉が山戸を見た。

「前に一緒に仕事させてもらったよ。大炎上したがな。あとは、中桜塚さんだったか…営業に頼まれてスカウト状況を確認している」

「課長、いくつのプロジェクトを炎上させてるんですか?」

「うるさい」


定食屋に六人席はない。食事と会計を終えて店を出ようとした冷泉と山戸を、牛久が呼び止めた。

「すみません!場所を変えるのはいいんですが、僕らと冷泉さんが一緒にいるところをうちの会社の人に見られるとまずいんです。今後の情報収集に支障をきたします」

「え?」

牛久の言葉に、山戸と冷泉が首を傾げる。聖は少し考えて、うなずいた。

「たしかに、そうだな」

上層部に裏切りがバレていないのは冷泉だけだ。彼との繋がりは隠しておきたい。

「詳しい話は後で…どこか良い場所を知りませんか」

「うちの会社は六本木だからなぁ。来るか?」

「どうしますか、聖さん。私は休職中なので行けますが…」

「行くに決まってるだろ。俺たちはほとんど仕事がないんだ」

「じゃ、タクシーだ。領収書をもらっておいてくれ。俺と翔が先に乗る」


「六本木フォレストビルまでお願いします」

指定された場所をタクシーの運転手に告げる。冷泉と山戸はひとつ前に捕まえたタクシーだ。

「冷泉さんの学生時代の友達みたいだね」

「それは聞いてたらわかります。うちの会社で冷泉さんのこと翔って呼ぶ人はいないでしょう」

「第一号になれば?」

「断固拒否します」

後ろの席に座った牛久と八神の声が聞こえる。聖は、できるだけ前のタクシーに付いていってくださいと告げて、行き先を見守った。


通されたのは、お洒落なオフィスのこれまたお洒落な会議室だった。窓からは東京が一望できる高さで、リラックスできるようにか椅子ではなくソファが置いてある。すりガラスの壁は柔らかく光を通し、それほど広い部屋ではないのに圧迫感がない。

「いいなぁ、いつかこんなところで働きたいなぁ」

聖の隣で、八神がぽつりとそう言った。

「そういえば自己紹介がまだだったな。Booble日本支社の山戸だ」

ソファに座った牛久と八神の方を見て、山戸が自己紹介をした。

「で、お宅の会社、情報流出でもしたのか?」

「その話なんですが、詳しくお願いできますか」

シャキッとした聖とは対象的に、はぁ、と冷泉は机に項垂れてしまった。

「お三方とも、解雇にならずに済んだみたいですね…それが気になっていて…よかった…」

「おいおい翔、大丈夫か?」

ぽてり、と冷泉は頭を机に置いてしまった。山戸は大きな手のひらでグリグリとその髪の毛をかき回したが、冷泉は無反応だった。

「こりゃ重症だ。相当やばいことが起きたみたいだな。こちらの説明の前に、何があったか聞かせてもらえるか」

「うーん…どこから説明したものか」

あれやこれやと説明しだした聖たちの話を要所要所でまとめたり確認したりしながら、山戸は話を聞いていった。


「頭の良すぎるやつから正常な判断力を奪うとそうなる。中桜塚ってやつも、かなりの切れ者だろう?」

「馬鹿ではないですね。いや馬鹿ですけど、そういうんじゃなくて」

「おい、翔。事の始まりはなんだったんだ?お前なんでそんな仕事引き受けた?」

「すかー…すかー…」

「翔」

「はっ…何?」

寝息を立てていた冷泉がハッと目を開き、頭を机から持ち上げる。

「冷泉さんがどんどん駄目になっていく」

「もう怖くもなんともありませんね。唐辛子パウダー持ってきたんでコーヒーに入れておきますね」

八神はポケットから小さな袋を取り出すと、冷泉の前にあるコーヒーカップに赤い粉を振り入れた。

「冷泉さん、起きてください。ほら、コーヒーで目を覚まして」

「ああ…ありがとう八神くん…ブバッ!かっら!なんだこれ!?カプサイシン!?」

思い切り激辛コーヒーを飲んだ冷泉が、口元を拭いながらそう叫ぶ。

「確かに唐辛子の辛味成分はカプサイシンだが、今言うことはそれじゃないだろう」

「Boobleではコーヒーにカプサイシンを入れるのが流行ってるのか?天才たちが何を考案しようと勝手だが客のコーヒーに入れるのはやめろと言っておけ!」

コーヒーカップを机に叩きつけなぜか山戸にキレた冷泉に、彼はため息をついてドアを指差した。

「もうお前は向こうで寝てろ。来る途中にクッションがたくさん置いてある部屋があっただろう、そこに連れていけ。で、その中桜塚ってやつに電話できるか?」

「できます。入院中ですが」

スマホを取り出した聖の横で、牛久が冷泉を抱えて立ち上がった。

「冷泉さん、向こうの部屋に人をだめにするクッションがたくさん置いてありましたよ。まぁもうだめになってますけど、行きましょうね」

「唇が痛い…」

「そりゃそうでしょうね…って、人のジャケットで口拭くのやめてもらえます!?ネクタイもダメ!ワイシャツもやめなさい!こら!翔!」

「うーん大仏さんあったかい」

「歩けないんで離してくれますか!?どさくさに紛れて襟で口を拭くな!」


「第一号は大仏さんでしたね」

フラフラの冷泉を連れて部屋を出て行った牛久を見送り、八神がそうつぶやいた。

「翔はしばらく動けないな…動きたくないのかなんなのか…」

「えっと…中桜塚、と…」

聖は電話を取り出し、彼の番号を呼び出した。数コール後、もしもし、とのんびりした声が聞こえる。

「あ、中桜塚?聖だ。今電話大丈夫か?スピーカーにしたいんだが」

「いいぞ〜」

聖はスマホをスピーカーにして、机に置いた。

「いま病棟の外だからな。今日の診察はもう終わったし。でも飯は相変わらず不味い」

「はじめまして、中桜塚さん」

「ん?どなた?」

「Boobleの山戸と申します。冷泉の友人です」

「山戸さん…お名前は御社の営業部門の方より伺っております。日本エボリューションシステムの中桜塚と申します。状況が全くわかりませんが、本日はよろしくお願いいたします。申し訳ありませんが何をどうよろしくお願いするのかもわかっておりません」

「うちの営業部門と懇意にしていただいているようで」

「ええ、僭越ながら入社しないかとお声がけいただいております」

やはりスカウトは来ていたのだ。しかし、中桜塚の言葉に過剰反応したのは、八神だった。

「ええっ!?マジで!?あなた本当にセッターさんですか?電話番号間違えてません?もしくは真っ赤な嘘?記憶が改ざんされてるのか!?」

「聖、そのガキを一発殴れ」

「ほ、本物だ…そんな、僕に先駆けてBoobleに転職するなんて…」

「しないって。何なんだよ、用事は。そっちは誰がいるんだ?」

「山戸さんと、プーちゃんと、俺だ。大仏くんと冷泉は席を外してる。場所はBooble本社の会議室」

「まぁた妙なことになってんなぁ。質問ばかりで申し訳ございませんが、山戸様はなぜ弊社の社員とご一緒におられるんでしょうか?」

「回りくどい敬語は無しにしようや、中桜塚さん。ビジネスじゃねぇんだ」

「そいつぁありがてぇ。久しぶりの敬語で舌噛みそうだったぜ」

こいつら気が合いそうだなぁ、と聖は思った。もしかしたらBoobleは本当に中桜塚の転職先になるかもしれない。

「話は聞いたよ。だがひとつ疑問がある。翔ならガスライティングくらい簡単にやってのけるだろうが、自殺まで追い込むとは思えん。必要がない上にリスクが高すぎる」

「それなぁ、俺も思ってたんだよ。なんで最近になって三人も立て続けに死んだんだ?落ち着いてから聞いたんだが、冷泉…翔くんは、プレッシャーのかけ方と強さは何も変えてないって言ってたぜ」

「つまり、想定外の死が三回ということだ。しかも原因は中桜塚さんと翔じゃない。そして、もうひとつ。なぜあんたらがこんな仕事を引き受けたのかってことだ」

「翔くんから聞いてないか?あー、詳しくは知らないのかもな」

「何も聞いてないな。さっき唐辛子入りのコーヒーを飲んで、仏さんに引きずられていったよ」

「えっ仏さんになった?死んだの?」

「よく聞いてください、仏さんにはなってません。大仏さんに介護されてるんです」

「紛らわしい言い方しないでくれ」

「悪かったな。で、なんでだ?」

「あそこはな、執行役員が全員通る道なんだよ。しかも、役員になるためのPJだと聞かされるだけで、実態は明かされないまま幹部候補が配属される」

「は?」

「つまり、あの左遷部屋の管理が役員への登竜門ってわけだ。いらない社員を切る勇気も必要、とかなんとか、一人目を辞めさせたあとで言い包められる。その一人目は左遷部屋マネージャーが仕向ける。つまり、俺は翔くん自身に一人目をガスライティングさせてあの部屋に縛り付けたわけだ。俺も前任者に同じことをされたよ。ガスライティングがどんなもんかは嫌ってほど知ってんだろ。実行した部下は自分が正義だと信じるから表ざたにならない…俺も冷泉もそれを利用して…あーしんどくなってきた…つまり、順調に行ってれば俺は今ごろ営業本部長になってた。で、次の左遷部屋マネージャーが冷泉だ。冷泉もマネージャーをこなせば、無事インシス部本部長への一本道が開けた。でも…」

「途中で死者が出たから、お前が止めたのか」

「そう…外から見て、自分が何をやらかしたのかやっとわかったよ…うう、やべ、頭くらくらしてきた…そろそろ戻っていいか…」

「ああ、ありがとう。無理させてすまない」

「翔くんによろしく言っておいてくれ…じゃ…」

ぷつり、と電話が切れた。

「なるほど、上層部が真っ黒ってわけか。ずいぶん根が深い。優秀なやつらが脈々とガスライティングを行う環境ができているわけだ。しかも、幹部候補ということはかなり厳選された社員だな」

「セッターさんも冷泉さんもお互いにほぼ関係ない部署ですから、それって…誰か、幹部候補者を見つけ出している人がいるってことですよね?」

「本部長は事情を知っているということだな…部長たちは全員が事情知っているかはわからないな。人選に関しては本部長たちが行動したという可能性もあるが、あの人たちは現場まで知らないからなぁ。かと言って、査定だけ見て選ぶのはリスクが高い気がする」

「自殺者が出た理由も、もし選抜人がいたら、詳しく知っていそうだな」

山戸はコーヒーをひと口飲み、話を切り替えた。

「それで、こちらの話だが、お宅の会社の社員個人情報が流出している形跡を発見した」

「社員の個人情報?顧客情報ならわかるけど、なんで社員情報…」

「そこまではわからん。だが、すでにかなり売買されているようだ。長期にわたって放置されたな。なにも対策しないとは、IT企業としてありえん。なにか裏事情があるんじゃないか?」

「そちらも調べてみます。ありがとうございます」


「聖さんよ」

「はい」

八神が部屋を出たところで、聖は山戸に引き止められた。

「さっきは想定外の死と言ったが、想定内の死もまだ頭に入れておけ」

「え?」

「可能性は排除しないほうがいい。それに…友人としてこんなことは言いたくないが、信頼もそこそこにな」

「…心に留めておきます」

山戸の目は本気だった。聖は唇を引き結んで部屋を出た。


人をダメにするクッションがたくさん置いてある部屋では、冷泉が完全にダメになっていた。

「冷泉?大丈夫か、おい」

「起きてください、帰りますよ」

「ぐっすり寝ちゃって起きないんですよ、どうしましょう」

困り果てた様子の牛久の横で、八神がわかりましたとうなずいた。そして、冷泉の襟元を掴む。

「ちょっ」

牛久の制止は間に合わず、パァンと威勢のいいビンタの音が部屋に響いた。

「…痛っ」

「起きましたか。おはようございます」

「お…おはようございます…」

何が起きたかわからない様子の冷泉に牛久が手を差し伸べて抱き起こす。よろめきながら立ち上がった彼を連れて、聖たち四人はBoobleを出た。


帰りの電車の中、冷泉から聞いた話はこのようなものだった。

「うーん…三人の共通点と言えば、亡くなる少し前に保健師の呼び出しが頻繁にあったことでしょうか。単に体調不良による呼び出しだと思っていましたが」

彼は自宅に帰るので途中で聖たちとは別れた。三人が新宿にある自社の倉庫に戻ったころには、定時が近い夕方だった。冬の空はもう暗い。

「よし、だれか体調が悪い振りをして保健師との面談を申し込め。怪しい」

「では、僕が」

牛久が手を挙げた。

「大仏さん、名乗りを上げるなんてめずらしいですね」

「このメンバーで他に誰かいる?」

「たしかに」

その日はそれだけ決めて、各自荷物を取って解散となった。昼食を食べに出たまま六本木に行ったので、鞄を置きっぱなしだったのだ。


その週の金曜日だった。定時後、リフレッシュルームでゲームをしていた牛久は、冷泉が屋上への階段を昇っていくのを見かけた。

過去の経験から嫌な考えが頭をよぎり、すぐにスマホをポケットに押し込んで後を追う。

すっかり日が沈んで暗い中、冷たい風に吹かれて立っていた彼は、ぼうっと新宿の夜景を見つめていた。高いガラスの壁に囲まれた屋上は夜景が良く見える。

「冷泉さん!こんなところでなにを?休職中じゃ…」

コートを着てこなかったので、十一月も中程に入った空気はとても冷たい。冷泉は緩慢な動作で振り向くと、牛久の姿を確認して、あ、と声を上げた。

「大仏さん…今日は休職者が行う保健師との定期面談だったんです。産業医までいかないように、保健師まででストップされるんですよ、うちの会社」

「なぜ屋上に?」

冷泉に駆け寄り、思わずコートに包まれた腕を掴む。

「いえ…飛び降りたあの子は、どんな気持ちだったのかなって思って、同じ場所に来てみました。あそこに椅子を何個か重ねて、飛び降りたそうですよ」

「同じことはしないでくださいね」

「高いですよ、ここ。信じられないくらい…」

吹きすさぶ風が、冷泉の髪を乱した。

「私、最低ですね」

振り向かない冷泉の顔を、牛久は横から覗き込んだ。高層ビルの灯りを反射する瞳は、何を考えているのかわからない。

「そうですね。でも、だからこそ、僕たちを手伝ってください」

冷泉がふっと俯く。その頭が縦に動いたのか横に動いたのか、強すぎる風に乱れた髪で牛久には判断できなかった。

「戻りましょう」

仏の手が、冷泉を引き戻した。

「大仏さん、あの…!」

「なんですか?」

優しく微笑んで振り向くと、冷泉はしばらく言いよどみ、風が強いですね、とだけ言った。


休み明けの月曜日。風は弱いがどんよりとした曇り空のもと出勤した牛久は、金曜日にちらりと話したことを聖に報告した。

「冷泉さん、来週には復帰するそうですよ。一応体調は回復しているようでした」

「それはよかった。情報収集に協力してもらえるな」

「大仏さんはどうして冷泉さんと話ができるんですか?僕無理です」

さり気なくもなんでもなくストレートにひどい八神の質問に、牛久は腕を組んで考え込んだ。

「うーん…あの人なんか危なっかしいというか…よくわからないけど、何かが紙一重な気がして」

「それがなんで付いて回る理由になるんですか?」

「プーちゃんがセッターさんを心配するようなもんだよ」

牛久が適当にはぐらかすと、八神の顔が途端に幼くなった。

「心配なんかしてません。ちょっとしか」

ぷい、と横を向いて、八神はそう言った。


十二月の初旬、指定された日の午前中に、牛久は保健師との面談にやってきた。

「おはようございます。保健師の戸田です」

「牛久です。よろしくお願いします」

席につくと、早速面談が始まった。

「はじめに、あなた自身について少しお聞きしますね。あなたは、この会社への入社を家族や友人に勧めたいと思いますか?」

牛久はしばらく考えて、情報を引き出すことを優先して答えた。

「あまりそうは思いません」

「そうですか…では、次の質問です。あなたは、職場で自分が期待されていることを知っていますか?」

「わかりません。何も期待されていないように思います」

戸田保健師は何かを紙にメモすると、その紙をしまって牛久へと質問を続けた。

「何か、悩みごとがあるそうですね」

「最近、仕事が嫌で死ぬことばかり考えていて…」

沈鬱な表情を作ってそう言うと、即座に返事が返ってきた。

「頑張ってください。あなたの力不足です。周りもそう思っているでしょう」

おや?と、牛久はここでメンタルヘルス講習会とガスライティングを思い出した。周りもそう思っている…今の会話からは、なんの根拠もないのに。

「もっと頑張らないといけません。仕事は完璧にしないといけません」

これは…と大仏の観察眼が光った。全か無か思考。完璧主義。メンタルヘルス講習会のテキストに書いてあったそのままだ。

「そうですよね…最近、同僚との仲も悪くて」

「あなたはいつも仲が悪くなる行動をしているのでは?一度振り返ってみてください。みんなに嫌われるような行動をしていませんか」

「しているかもしれません」

「それでは将来いいことがありませんよ。出世どころか、解雇されるかもしれません。しっかり反省してください」

牛久は確信した。彼女が最後のひと押しをした犯人だ。

「あなたですね?松永プロジェクトで亡くなった三人に認知の歪みを植え付け、死のきっかけをつくったのは。他の退職者にも軽度の認知の歪みを植え付けたでしょう」

演技をやめてそう告げると、戸田保健師は一瞬口を閉ざした。しかし、淡々と発言を続けた。

「見破ったのはあなたが初めてです。敬意を評してお話します。ですが、私は退職者たちを励まし、誘導しただけです」

「その結果、何が起きるかわかっていて?」

「ええ」

「どうして止めなかったんですか?」

「止める必要性を感じなかったからです」

「人の命が失われるのに?」

ここで、戸田はふっと首を傾げた。

「人の命が失われることに、何か深い意味があるのですか?私にはわかりません。みないずれ死ぬでしょう。それが少し早まっただけです」

牛久は背筋がゾクッとするのを感じた。彼女からは、感情というものをほとんど感じない。

「みんなにしているあの最後の質問、何の意味があるんですか?扉を開けたら…ってやつです」

「ああ、良心を持つ人間かどうか確認しています。良心のある人間は操りやすいですから」

「操りやすい?」

「優秀な人材の中から、良心を持ち、かつさらに優秀な人材を見つけるよう、指示されています」

牛久は少々たじろいだ。彼女が選抜人だったのだ。

「あなたは扉の質問になんと答えたんですか?」

戸田保健師は無表情で答えた。

「外の世界、と答えました。これは良心が欠如した人間の解答です。まぁ、私にとって大した意味はありませんが。あなたにこのことをお話したのも、私にとって大した意味はありません」

「たしかに、良心がない人間は操りにくいですね。上は、まさかあなたが白状するとは思っていないでしょう」

「その通りです。何度も言いますが、私にとって大した意味はありません」

「わかりました。大した意味がないなら、この会話は黙っていてくれますね?」

「さて、どうでしょう」

牛久は彼女の顔を見て、このことを誰にも話さないだろうと確信した。ほんの少しだけ、彼女の顔に好奇心が見えたからだ。今後どうなるか楽しみにしている、そんな顔だった。

「ああ、そうそう。私は亡くなった方々に対しては何もしていませんよ」

「なんですって?」

「言葉の通りです」

「では、誰が…」

「これ以上話すことはありません」

牛久はため息をついて部屋を出た。口を割る気配はなかったからだ。


倉庫に戻った牛久は、面談結果を聖に報告した。

「保健師の戸田さんですが、亡くなった三人に対しては何も行っていないそうです。ただ、他の退職者への認知の歪みの植え付けは認めました」

「最後のひと押しをした犯人が別にいると?」

「はい。それが誰だかは今のところ全く手がかりなしです。あと、彼女が選抜人です。優秀な人材からさらに優秀な人材を選び抜く役割をしています」

「なるほど…そういえば、中桜塚は面談を受けたことがあると言っていたな」

「僕からも報告があります」

ここ一週間、パソコンにかじりついていた八神がモニターから顔を上げた。

「ようやく社員情報流出の形跡を見つけました。確かに、全社員の情報が丸々流出していて、すでにかなり売買されています。迷惑メールがひどかったのはこのせいか…」

「犯人を辿れそうか?」

八神はしばらく考え込むと、首を横に振った。

「僕では無理です。少々危ない橋を渡ることになりますが、他の人の手を借ります。いいですね?」

「他の人?」

「ネット上には、世界中の天才たちが集まるところがあるんですよ。ちょっとグレーな場所ですけど」


翌日、街がクリスマス前で浮かれる中、八神は自前のノートパソコンを持って出勤してきた。

「おはよう、八神」

少し早く出勤していた牛久が、コートを脱ぎながら挨拶をする。八神はコートを脱ぐ時間も惜しいのか、鞄からノートパソコンを取り出すとそれを開いた。

「おはようございます。かなりグレーなホワイトハッカーたちの力を借りて、例のアクセス元を割り出しました。籠原本部長の住所がヒットしたんですけど、どういうことでしょう」

「なんだって?」

娘のクリスマスプレゼントは何にしようかと考えていた聖の頭から、クリスマス計画が吹っ飛んだ。

「あのおじさんがこんな高度なハッキングをできるとは思えません。たしか、引きこもりの息子さんがいましたよね?台風の原因の子。お兄ちゃんの方は普通に高校生していることがわかっています」

八神は会社のパソコンを起動すると、素早く社内データベースにアクセスした。

「十五歳…籠原光…怪しいのはこの子ですね」

八神はようやくコートを脱ぐと、初プロジェクトで手に入れた椅子に腰掛けた。

「さすがに、社内データベースに息子さんの情報はありません。一応ハッキングして彼のパソコンのアクセスログは取ってありますが、できればすぐに引き上げたいですね。相手もなかなか腕のいいハッカーですから」

「ふむ…じゃあ、直接の情報収集に切り替えるか」

「それがいいと思います」

「冷泉さんに頼みますか?また松永プロジェクトを担当しているみたいですよ」

牛久の言葉に、聖はうなずいた。

「そうしよう」

「ちなみに、教祖の力はまだ健在で、復帰したときは拍手と花束で迎えられたそうです」

「うわぁ…」

「すごいな」

「もちろん、もう悪用するつもりはないってメール来ましたけど」

「メールのやり取りしてるんですか?」

「してるよ。今の松永プロジェクトは、超がつく優良プロジェクトみたいですね」

「ということは、冷泉が動く余裕はありそうだな。連絡を取ってみる」

その時、ガチャリと倉庫のドアが開いた。

「おはよう諸君」

「セッターさん!?もう大丈夫なんですか?」

「まぁ薬は飲んでるが無理しなきゃ大丈夫だ。というか病院では自由に煙草が吸えないからちょっと強引に退院してきた」

「ダメそう」

「この一件が一段落したらまた休職だからな」

「へいへーい。それまでには元気になってやるぜ」


その日の夜十時。一人暮らしの男が落ち着いたであろう時間帯、聖は自宅から冷泉の携帯電話に連絡していた。予想通り、しばらくコール音が続いたあと冷泉が電話に出る。

「冷泉です。どうしました?」

「お疲れ様。お願いがあるんだが、いま大丈夫か?」

「はい」

聖は今日明らかになった調査結果を手短に伝えると、彼に手伝ってほしいことを述べた。

「籠原本部長から息子の情報を抜けるか?それと、亡くなった三人が情報漏えいの調査に関わっていたという確証がほしい」

「やってみます。私の得意分野は積極的な情報収集ですから。中桜塚さんは、受動的に情報を蓄積して必要なときに出すタイプですね」

「なるほど、そういう特徴だったのか」

「私、聖さんたち三人全員に接触したでしょう?」

「確かにそうだったな。頼む」

「おまかせを。あ、そうだ。明日、一度そちらの部屋に寄ってもいいですか?」

「構わないよ」

ありがとうございます、とそのまま電話が切れる。聖はスマホを置くと、明日着ていくワイシャツにアイロンをかけることにした。


「おはようございます」

ひと目を避けて早めに出社したのか、聖が出勤する頃にはすでに冷泉は固定資産管理課にいた。他のメンバーもすでに揃っていて、八神が持つSDカードに注目している。

「おはようございます。これについて話してたんですよ。告発用のデータ、バックアップはこれだけなんですよね」

「今のところこれだけでコピーは作っていません。本体のデータはセッターさんのも含めて飛んでますし」

「それを然るべきところに出したら、私の首が飛びますね」

「馬鹿、俺もだろ。ま、そんときゃ潔く一緒に飛ぶけどな」

「やめてくださいよふたりとも。これはまだどうするか考えていません…ですよね、課長?」

「ああ、そうだな。お前らのやったことが記録されているのは事実だが、上層部の行いも同時に記録されている」

「じゃあ、こういうのはどうですか」

八神が指で摘んでいるSDカードに、冷泉が屈んで首を伸ばした。軽く開かれた唇が、八神の手に近づく。

「え」

パキ、と音がしたのは、そのすぐ後だった。八神の指はICチップの半分をつまんでいて、もう半分は冷泉の白い歯に挟まれている。

「データ本体は無し、バックアップはこれで最後。でしたね?」

ペッと床に砕けたSDカードとそのICチップ部分を吐き出し、冷泉は温かさの消えた瞳で聖を見た。

「なかなか楽しい時間でした。こういうのもたまには悪くないですね」

裏切り。その言葉が聖の頭を支配する。呆然と立ち尽くした聖と、欠けたSDカードを持った八神、言葉もない牛久。唯一冷静さを保っていたのは、中桜塚だけだった。

「おいおい翔くん、そりゃないぜ」

「それはこっちの台詞ですよ、中桜塚さん。あなたにはさんざん弄ばれました」

「あれは全部演技だったってか?恐れ入ったぜ」

「それはどうでしょう。私もそれなりに騙されてるんですよ?山戸とか、保健師の彼女とかね。全く世の中信頼できる人間なんていませんね」

冷泉はあの爽やかかつ冷ややかな笑顔で部屋を見渡し、ドアへと向かう。

「それでは皆さん、お疲れ様です。あの時そのまま首になってしまえばよかったのに、下手に回避するのが悪いんですよ」

パタン、と閉まったドアを見つめて、牛久が口だけ動かして言った。

「本当に、バックアップはもうないの…?」

「ないですよ…ちなみにこれ綺麗に割られてて直せませんからね…え、僕のせい?泣きそう」

「いやいやいや待て待て待て、落ち着こう」

「お前がな」

中桜塚が立ち上がり、八神の手からひょいとSDカードの欠片を取り上げる。

「やっちまったな。まさかここでひっくり返されるとは」

「なんっなんだよアイツ!マジでゴキブリの素揚げ食わせたるわ!」

バン!と両方の拳で机を叩き、八神が完全に本性丸出しで叫んだ。

「信頼してた俺が馬鹿みたいじゃないか」

「待ってください」

苛立つ聖をなだめたのは、牛久だった。

「僕に少し時間をくれませんか」

そう言うと、牛久は走って部屋を飛び出した。


行き先は屋上だった。彼はなにかあるとここに来る。そのくらい知っている程度には付き合いがあったのだ。

「冷泉さん!」

「大仏さん?どうしてここに」

「あなたは一人になりたいときここに来るんですよ。気づいていませんでしたか?」

「それは…知らなかったですね…」

強い風が二人の髪を乱す。硝子の壁越しに街を見る冷泉の背中を、牛久は黙って見つめた。

「大仏さん…いえ、牛久さん。結局私はこういう人間なんです。仲良しごっこはできないみたいです」

振り向いた冷泉の髪が太陽に照らされ、淡く光る。寂しそうなその表情に、牛久は先程の言葉が間違っていたと気づいた。

一人になりたいときにここに来るのではない。誰かと一緒にいたいとき、ここに来るのだ。

「山戸さんとの関係は?」

「学友です。本当にそれだけ。でも彼は鋭いから、私の本性を見抜いていました。ふふ、それであの対応とは、見事だなぁ」

「冷泉さん…」

「何を言っても無駄ですよ。わかるでしょう?私はあの保健師とは少々タイプの違う、ちょっとおかしな人間だ。彼女より能動的、と言えばいいのでしょうか。扉を開けたら外の世界があると答えたら、彼女は良き理解者となってくれました。いや、理解者となったふりをしてくれた…と言うべきでしょうね。私の背中を押したのは彼女です」

「それじゃあ、今回の死亡者たちは…」

「彼らは私が左遷された人の中から適当に選んだだけ。止められないんです、この衝動。何なんでしょうね。あなたならもしかして、止めてくれるかもしれないと思いました」

「冷泉さん…」

「もう時は過ぎました。私はこういう人間ですと、最後に伝えておきます。ごめんなさい」

冷泉が牛久の横を通り過ぎてビルの中へと入っていく。

様々な考えと今までの記憶が頭を巡り、牛久はその腕を掴むことができなかった。


突然、聖の社長室フロアへの出禁が解除された。呼び出された先はインシス部の本部長室だ。

「例の件に関してはもう手を出すな」

「ですが…」

「わからんのか!冷泉が本格的に動き出した!何をされるかわからんぞ!全く、こんな調査、社長命令でなければ絶対にやらなかったというのに…」

「ところで本部長、息子さんの件でお話が」

「わかっている。背に腹は変えられん。会社を辞めて奴から離れるほうがよほど安全だ」

「脅されていたのですか?」

「部下が次々に死んでいったのだぞ?あれが脅しでなくてなんだというのだ。これの解析を頼む。冷泉から渡されたものだ」

本部長が差し出したのは、一枚のSDカードだった。

「わかりました。これを渡された時になにか言われましたか?」

「ううむ…」


籠原本部長が伝えられた内容は、以下のようなものだったらしい。

「息子さんのハッキングの証拠、持ってるんですよ。ほら、これ…バックアップはあるので自由に解析してください。大変ですね、兄は進学校に通って順調なエリートコースなのに、弟のこんな所業が公になったら…お兄ちゃん、将来の夢はお医者さんでしたっけ?」

にこやかに笑いながら告げる冷泉の顔が、目に浮かぶようだった。


それを伝え、渡されたデータを八神に渡す。解析はすぐに終わり、彼はしかめっ面で聖を見た。

「なにかわかったか八神」

「ハッキングの証拠ですね。不正アクセス、個人情報不正売買、不正入金その他諸々しちゃってるな…これは非常にアウト」

「明日にでも本部長に話をするか」

そう決めた聖だったが、本部長が出社してくることはなかった。代わりに中桜塚が最新の情報を寄越す。やはり情報収集には彼が欠かせない。

「本部長が…自殺?」

「自宅で首吊だ。遺書があるらしいが、内容まではまだ把握していない」

「八神、冷泉は出社したか?」

「いえ、まだです。夕方6時まで社外打ち合わせになってます。本社には戻るみたいですね」

「そのときに捕まえよう」

「捕まえるってどうやって?」

「俺に心当たりがあります」

牛久が手を挙げて答えた。


牛久の言うとおりに屋上へやってくると、そこには冷泉がいた。すでに落ちた日の中、残業で光るビルの灯りが彼を照らしている。そこだけ切り取れば幻想的な風景だった。

いつの間に持ってきたのか、屋上の硝子フェンスの上までピラミッド状に重ねた椅子の上に冷泉は立っていた。あと一歩で落ちてしまうその場所に。

「いい眺めだなぁ。信じられないくらい高い」

「本部長が自殺した。何か知っているな?」

彼はゆっくりと振り向くと、微笑んで答えた。

「悩み事があったようなので、解決策を教えて差し上げました」

「お前…!」

「皆さんは、私と違って本当に素直で、素敵な人間だ」

ふふ、と笑った顔は、彼の自宅で見せた無防備で無邪気な顔と変わらなかった。

「少し迷ったけれど、あなた方があまりに眩しくて言えなかったんですよ、私。こんな人間だって知られたくなくて。ごめんなさい」

そう言うと、無邪気さの中にほんの少しの寂寥が混じる。

走って伸ばした手は届かず、彼は遥か下の地面へと翔んでいった。


「ああ、やっとですか。時間がかかりました」

後ろから響いた平坦な声に、聖は振り向いた。

「お疲れ様です、保健師の戸田です。皆様組織の大規模な浄化にご協力ありがとうございました。物的な証拠は消しましたが、彼らをどうしようか考えていたところです。私は彼のように最後のひと押しがうまくできないので」

「…は?」

「やっと害をなす存在がすべて取り除けました。しばらくは健全な運営ができそうです」

空っぽになっていた聖の頭が、一瞬で沸騰した。

「お前が一番の害悪だ!」

そう叫ぶが、彼女の表情は全く変わらない。

「そうでしょうか。私はこの会社を守るためにごく少数の人間を切り捨てているだけです。彼に渡したハッキングの証拠もダミー。何かしようとしても無駄です」

そう言って、彼女はこちらに背を向けた。

「これは今回のお礼として伝えておきます。役に立たないと判断されたら、次はあなた方です。それまで精々力を尽くしてください」

知らないうちに片棒を担がされていたのか。冷泉の自殺は自分たちのせいなのか?

あの時、気づいていれば。

あの時、話を聞いていれば。

あの時、手を掴んでいれば。

今、何か変わったのだろうか?

カツカツとヒールの音が遠ざかる。聖は戸田の背中を睨み、中桜塚は空を見上げ、八神は下を向き、牛久は硝子の壁に手をついて、それぞれ悔しさを噛み締めていた。


それから数年後。

とあるプロジェクト成功に安堵の空気が漂っていた固定資産管理課、通称倉庫。ピコンとメール受信のポップ音が鳴り、聖は慣れ親しんだ椅子に腰掛けてメールボックスを開いた。

その一件のメールが固定資産管理課を大事件に巻き込むと知りつつ、聖はアイコンをダブルクリックする。この瞬間、周到に用意されているプログラムが走り出した。

社内の不穏因子を穏便に取り除くべく、聖は緩めていたネクタイを締め直し、中桜塚は煙草の箱をポケットに入れ、牛久は脱いでいたジャケットを羽織り、八神はノートパソコンを持った。

もはや一人の犠牲者も出すまいと決めた彼らは社内の見えざる敵と日々戦っていた。ある意味彼女と共同戦線であるが、時に抗い、時に利用し利用される関係は信頼とは真逆だった。それでも、彼らは倉庫を飛び出てひたすら社内を巡回するのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 楽しく読ませていただきました。 多少荒いところもありましたが80年代のサラリーマン向け小説の様な雰囲気で最後まで安心感を持って読むことが出来ました。 新作も期待させていただきます。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ