第二話 真白満月(まっしろまんげつ)
一話から三か月も経ってしまいましたが、やっと第二話が書き上がりました。
肉まんが食べたい男子大学生と、交通事故死で魂が猫に憑依してしまったサラリーマンが出会う話。
何じゃそりゃ(;^_^A
読んで頂けたら幸いです。
「大陸から伸びた寒冷前線が関東を覆うので、今夜は一気に気温が下がるでしょう」
夜の九時から始まったニュースの終わりに登場する気象予報士の手馴れた解説を聞いているうちに、無性に肉まんが食べたくなった。
ベッドに寝そべってテレビを見ていた晴喜はのっそりと上体を起こすと、今や国民服となったアパレルメーカーのフリースの上に厚手のパーカーを羽織い、くたくたになったジャージーパンツの後ろポケットに財布を突っ込んだ。
狭い玄関に揃えてあるサンダルを足につっかけ、昭和デザインの丸いドアノブを回す。
開いた扉のくたびれた音を聞きながら外に出ると、不定期に点滅する白熱灯に照らされたアパートの階段を鼻歌交じりで降りて行った。
家から大学に通っていた二年間、懸命にアルバイトをして敷金礼金と三ヶ月分の家賃を溜めてから一人暮らしをしたいと打ち明けたら、両親は二つ返事で承諾してくれた。
それで夏休みの後半から晴れて一人暮らしの身となり、よく言えば自由、悪く言えば怠惰な生活をしている。
家が大学に通える距離なのに、一人暮らしをしたがる学生の大抵が彼氏彼女ができた時だが、晴喜の場合は違う。
電車を乗り換えなしで学校に行けるのは便利だが、二十坪程の三LDKファミリー型マンションで、晴喜の使う部屋と同じ六畳一間を、妹二人が窮屈そうに共有しているのに少々思う事があったからだ。
年子の妹は高校一年と中学三年生。プライベートを最重視したい年頃だ。別々の部屋が欲しいのを我慢しているのがよく分かる。
男一人、女二人の兄妹だから物理的に仕方がないのだが、「お兄ちゃんだけ一部屋与えられてずるい、納得いかない」と、不平不満を晴喜に打ちかます。
そのうち口で文句を言っても埒が明かないと気付いたようで、マンションサイズの六畳を独占している兄に制裁を加えるべく、妹達はあからさまに晴喜を嫌がる態度を取り出した。
小学生の頃から晴喜は剣道一筋だ。
がっしりとした体格の晴喜が妹達にちょっとでも側によると「やだ!お兄ちゃん、キモッ!こっちに来ないで」と、もの凄い形相で睨まれる。剣道の稽古後に家に直帰した時に玄関で鉢合わせなんかしたら最悪で、臭いが移るから近寄るなと、耳がおかしくなるくらいにキンキンと喚かれる。
妹達につっけんどんにされるのもしんどくなってきたところに、大学二年になった晴喜に母が何かにつけて「晴喜、あんた、勉強しているの?私立の大学って学費が大変なんだからね。ちゃんとしたところに就職してもらわなくちゃ困るのよ」と小言を連発するようになった。
それだけではない。お父さん、あなたも晴喜に言ってやって下さい。あら、何その嫌そうな顔。あなたがそんなだから、晴喜がしっかりしないのよ。等々、小言の対象が息子から父へと移行するのが日常茶飯事になっている。
母の文句を無言で受け流しながら発泡酒を啜る父の背に向かって(出来の悪い息子でごめんな父ちゃん)と、心の中でそっと頭を下げるのにもさすがに疲れた。
そんな理由で「よし!アパートを借りよう!」と、晴喜は一大決心したのである。
通帳に印字された数字を見た両親は、晴喜の目論見通り首を縦に振ったのであった。
だが、一人暮らしをするにあたって、家賃と生活費はバイトで稼ぐという条件を出された。親の言う条件でアパートを探すと、かなりの築年数が経過した物件になった。
それでも、誰からも文句を言われない歓びを得た晴喜は、「古」と言うよりは「ボロ」と前置きした方がしっくりくる、昭和物件の二階建て木造建築アパートで、一人暮しを満喫していた。
風呂とトイレ、一口コンロのキッチン付き四畳一間で浮き浮きと暮らしているうちに秋も深まり、気付けば冷たい空気が頬をひんやりと包む冬の季節になっていた。
木枯らしがひゅうと音を立て夜の住宅地を吹き抜けていく。
冬の、音を立てる程に冷えた空気が夜風と共に、厚地だが裏地の付いていないパーカーと、その下に着ている薄いフリースの内側にまで入り込んでくる。
寒さで体がきゅっと縮まり、晴喜は肉まんへの想いを一層熱くした。
「待っていろ~。肉まん~。おいしい、に、く、ま~ん~」
変てこな即興の詞に、これまた調子っぱずれな節を付けて口ずさみながら、住宅が密集する一方通行の狭い生活道路を、晴喜はぺたぺたとサンダルで歩いていった。
五分ほどで表通りに出ると、歩道も車道も一気に広がった。
晴喜が立っている向かい側が古くからの商店街になっていて、電気やパン屋、喫茶店、それから総菜屋などの小さな店が肩を寄せ合うように十件ほど立ち並んでいる。経営者はほぼ全員が年配だ。だから夜七時には早々に店を閉じてしまう。
不景気のせいもあるだろう、自前の電灯でアーケードを照らしてくれる店舗はなく、切れたらそのままになっている。何とか生き残っている古い蛍光灯が二つ三つ、歩道にぼんやりとした光を落としていた。
商店街の中央にある二十四時間営業のコンビニだけがLEDの白い電燈を煌々と灯して、横に長い店の周辺を明るく照らしていた。
夜も十一時を過ぎる頃になると、昼間は交通量の多いこの辺の道路もさすがに車の数が減ってくる。
ここから真っ直ぐ車道を渡れば、すぐにコンビニだ。
片足を車道に下ろしてから、この付近で交通事故があったのを、晴喜ははたと思い出した。
酔っぱらったサラリーマンが今の晴喜のように四車線ある車道を突っ切ろうとしたところを、走ってきた乗用車に撥ね飛ばされたのだ。
深夜にもかかわらず事故の周辺は騒然となり、歩道はどこからともなく現れた野次馬で溢れ返った。
居酒屋からのバイトの帰りに上背のある晴喜が何事かと人の頭越しに覗くと、道路に夥しい血を流しながら俯せに倒れているスーツの男を直視してしまい、慌ててアパートに逃げ帰った。数日前の話である。
「二、三分が惜しくて車に撥ねられたんじゃあ、元も子もないよなぁ」
そう独り言ちると、「本当にそうですよ」と、どこからか細々とした声が聞こえた。
「ん?」
辺りをきょろきょろと見回したが、暗闇の中で目に映るものは何もない。
「空耳か」
晴喜は距離のある横断歩道まで歩いて信号が青のなるのを待って渡り、横に長いコの字を描くような進路でコンビニに向かった。
店に入ると晴喜はレジの脇へと直行した。
蒸し器に顔を近付けて中の肉まんを舐めるように見定める。少し考えてから、ピザまんと豚の角煮肉まんを一つずつ買った。
肉まん二つをコンビニのビニール袋に入れて貰うと、寒さで冷えてしまわないように、晴喜はビニール袋をそっと胸に抱いた。
コンビニの灯りを背にして誰もいない暗い歩道に足を向けると、何か柔らかいものが脛を掠った。
わっと声を上げて立ち止る。脛を掠った物体が、今度は晴喜の脚にぐるぐると纏わり付いてきた。その感触はぐにゃぐにゃとしていて柔らかく、ほんのりと暖かい。
「もしかして、こいつ猫か?」
暗闇の中で自分の足元を覗くと、確かに猫が、晴喜の行く手を遮るように座っていた。
と言うか、晴喜の足にしっかりと鎮座していた。
「うえ。何だ、こいつ?」
晴喜は驚いた顔で、自分の足に前足と後ろ足をしがみ付いかせている猫を見下ろした。
猫は猫で、丸々とした目で晴喜をじっと見上げている。
「お願いです、お兄さん。僕にお手持ちの肉まんを少々分けて頂けませんか」
猫はさも恐縮した口調で喋った。それは淀みのない日本語で、晴喜がさっき耳にしたのと同じ声だった。
「……ひっ……う、ぎゃああっ」
一呼吸置いてから、晴喜は夜の静寂にありったけの悲鳴を放ち、アスファルトに尻もちを付いた。あまりの大声に、血相を変えたコンビニの店員が何事かと店から飛び出して来る。
「あ、すいません。サンダル履きで来たもんだから暗がりで蹴躓いちまって。ちょっとびっくりして、思わず大声出してしまいました。尻もち付いただけですから。大丈夫です。えへへへ」
晴喜はすぐに立ち上がって足から脱げたサンダルを履き直すと、様子を見に来た店員に決まり悪そうに笑いながら頭を下げた。
「足の上に乗っかった猫が喋ったんです」などと正直に話したら、何だこのおかしな酔っぱらいの兄ちゃんはと、嫌な顔をされるのが関の山だ。
晴喜は歩道を大股で歩きながら家路を急いだ。
「あのう、あのう、ねえ、待って下さいよう、お兄さ~ん!」
速足の晴喜の後ろから、あの声が追って来る。
若い男の声。悲し気で、随分と思い詰めた声だ。
次の瞬間、晴喜の顔の前をシュッと音を立てて黒い影が横切った。暗闇のなか、猫が空中を一回転したのが見えた。
両目が怪し気に光り、火の玉のような動きで闇を流れた。それを見た晴喜は恐怖に腰が砕け、アーケードの歩道に尻もちを付いた。
「化け猫だあぁぁ!」
猫は、歩道にへたり込んでいる晴喜の目の前に音もなく降り立った。尻尾を左右に揺らしながら四肢を広げ、首を低く下げた体勢で、きらきらと光る瞳で晴喜をじっと見つめる。
「ひいいっ」
晴喜の噛みしめた歯の間から声にならない悲鳴が漏れた。肉まんを抱えてへたり込んでいる晴喜の前へと数歩進んでちょこんと座ると、猫はぺこぺことお辞儀をし始めた。
「すいません。お兄さんを驚かせるつもりはないんです。でも、僕、こんな姿ですから、驚くなって言う方が無理ですよね。本当に申し訳ありません」
猫の礼儀正しい姿に、晴喜は少しだけ恐怖心を解いた。暗闇の中で目を凝らすと、尻尾が長くて耳の大きい、可愛い顔立ちの虎縞の猫だった。
「申し遅れました。僕、半田啓介と言います。数日前まで松山商事の営業二課に勤めていました」
「サ、サラリーマン?!」
数日前と聞いて、晴喜は付近で起こった交通事故を思い出した。
「じゃあ、あんたが…」
「はい。この近くに住んでいらっしゃる方ならご存じかと思いますが、車に撥ねられて即死したのは私です」
猫は頭の後ろに耳を倒し、小さな猫背をもっと丸めながら悲し気に俯いた。それはご愁傷様な事でしたと言おうとして、晴喜はその言葉を飲み込んだ。
「死んだって!でも、化け猫さん……い、いや、半田さんは、その、生きていますよね?」
「ああ、この体ですか」
半田啓介と名乗った猫は深々と溜息を吐いた。
「僕の魂が偶然にもこの猫に憑依してしまったんです。これって生きていることになるんでしょうか?」
「化け猫、じゃ、ない?」
「はい。元をただせば人間です」
猫が朗々と説明を始めた。猛スピードの車に撥ね飛ばされた衝撃で体から魂が飛び出てしまい、道路をピンポン玉のように跳ねた。挙句に、たまたま歩道の端を歩いていた猫のなかに飛び込んでしまった云々。
「そもそも、車道を突っ切ってコンビニに行こうと横着したのが元で車に撥ねられたわけですから、今更運転手に文句を言っても仕方がないのですが、あの車、法定速度をとんでもなく無視したスピードで僕に突っ込んで来たんですよ。それはそれは大変な衝撃を受けました。その衝撃で、口からポンポンポーンと魂が飛び出してしまって、猫の顔面にぶつかって。突然の出来事に猫もびっくりして、思わず大きく口を開けちゃった。で、僕の魂を喉の奥深くに呑み込んだって訳でして」
「はあ……」
歩道に足を投げ出して肉まんの入ったビニール袋を抱きしめながら、晴喜は分かったような分からないような表情で、目の前にいる猫に相槌を打った。
「猫は僕を吐き出そうと必死でしたが、どうやら猫の腹の奥深くにしっかりと収まってしまったみたいで。内臓の間にでも挟まっているんだか、暗くて狭くてやけにぬるぬるした場所になんかいたくない。それで、何とか脱出しようとしたのですが、球体の体じゃどうにもならなくて。僕と猫、互いに困り果てた状態になっているんです」
「……はあ」
「猫が言うには、魂には一グラム前後の重さがあるんだそうです。一グラムって、一円玉の重さですよね。肉体が死んでしまうと、ものの数秒で魂の重さは消滅する。質量がなくなった魂は重力から解き放たれて、天空へと上昇していくって。でも、この世に強い未練がある場合、魂は一グラムの質量を維持したままになるので、この世に留まってしまう」
「それって、所謂、幽霊になったってこと、ですよね?」
晴喜が恐る恐る尋ねると、一般常識からすると、その名称で呼ばれることになりますよねえと、半田は気落ちした声で答えた。
「猫にも、この世にどんな未練を残したのかって聞かれたんですが、全く心当たりがないんです。僕の実家は貧乏で、両親も早くに失くしたし、大した大学は出ていないし、彼女いない歴=年齢だし、あ、僕、享年三十二歳です。会社での営業成績はぱっとしないし、それに極め付けが、密かに思いを寄せていた受付の女の子が、この間、同僚と婚約ちゃったし。そいつ、会社のホープと言われている男で。未練どころか早く成仏したいくらいです」
「短い人生、色々とご苦労なさったんですねぇ……」
半田の悲しい生涯を聞いて、居たたまれなくなった晴喜はそっと目頭を押さえた。
「そんな訳で、死んだ数日間に考えて出した結論が、肉まん、なのです」
「は???」
半田の唐突な結論に、晴喜はぽかんと口を開けて首を傾げた。
「僕、車に撥ねられて死ぬ直前まで、頭の中は肉まんで一杯だったんです。肉まんが食べたい一心で、広い車道を突っ切ろうとしたくらいですから。僕の唯一の心残りは肉まんを食べられなかった事だと猫に伝えると、お前に俺の体を貸してやるから、何とかして肉まんにありつけと命令されました」
「ああ、なるほど。それで」
半田が晴喜を追いかけて来た理由がこれで分かった。猫の体に捕らわれた半田の魂は、肉まんを食べれば成仏出来るのだ。肉まん食べたいと、調子外れな即興を口ずさむ晴喜の鼻歌を聞きつけて、藁にも縋る思いで晴喜の後を付けて来たのだろう。
「よく分かりました。半田さん。これ、食べて下さい」
晴喜は半田の願いを快く承諾して、猫の前にしゃがみ込んだ。フリースの懐から肉まんの入ったビニール袋を取り出す。袋の中を覗き込むと、肉まんが二つともひしゃげていた。半田を化け猫と叫んだ時、無意識に握りしめてしまったらしい。
「すいません。肉まんの形が崩れてしまいました」
晴喜は困った顔で、あちこちがへこんだ角煮まんを猫の半田に差し出した。
「いえいえ、どれだけ変形していても、肉まんは肉まんですから」
半田は後ろ足で立って猫の上体を起こして、体がふらつかないように尻尾を衝立にした。晴喜から前足で器用に肉まんを受け取ると、一気にむしゃぶりついた。
肉まんを貪り食う猫の鬼気迫る姿に晴喜は思わず「半田さん。舌、大丈夫ですか?肉まん、熱くないですか」と、訪ねた。
「お気遣いありがとうございます。冷めてしまっているので、猫の舌でも問題ありません」
猫は忙し気に口の中の肉まんを咀嚼しながら、晴喜に向かってもごもごと礼を言い頭を下げた。
半田は、猫の小さな口とは思えない驚異的なスピードで角煮まんを完食した。晴喜が二つ目の肉まんを差し出す。半田は平たくなったピザまんを柔毛の密集した胸に抱きしめてその皮に齧り付いた。
肉まんを無心に食らう猫を見ているうちに、晴喜の胸に切ない気持ちが込み上げて来た。晴喜は凍ったように冷たいアスファルトの歩道に胡坐を掻いて、猫の正面に自分の体を寄せて風よけになりながら、その小さな頭と背中をじっと見つめた。
「半田さん、肉まん美味しかったですか?」
猫の頭を撫でながら晴喜は半田に訪ねた。
「お兄さん、ありがとう。あなたは本当に優しい方だ。これでもう、僕は、この世に思い残す事は何もありません」
交互に前足を舐めながら、猫は満足げに目を細めて喉をゴロゴロと鳴らした。
「僕、お兄さんに伝えたいことがあります。この猫の心を読んで知った話です。どうか笑わずに聞いて下さい」
金色の目をぱっちりと開けると、半田は晴喜の顔を仰ぎ見た。
「猫によると、世界は二つあるそうです。僕達の世界と、その裏側の世界」
「表と裏?世界が二つあるんですか?」
「はい。そして、今日は満月です。真っ白な満月。そしてブルームーンです」
「ブルームーン?」
「ひと月に二度ある満月をそう呼びます」
そう言うと半田は夜空に右の前足を突き出して、小さな爪で満月を引っ掻くように動かした。
「この世界で死んだ人間の魂の重さは、約一グラム。富者と貧者、年寄りと赤ん坊、男女の区別なく全ての魂が同じ重さです。その質量から解き放たれた魂は生前の記憶を全て失う。天空を彷徨った後、月に二度目の白い満月の光を浴びた魂は、ある空間に吸い寄せられます。月の光に吸い寄せられた無数の魂は細く透明な糸となって、互いに縒り合い、天海に巨大な橋を編む。それは僕らの世界と裏側にある世界を往来できる橋ですが、二つの世界に住んでいる者の誰の目にも見えず、誰の手にも振れられることはない。橋は、人が人として生を受けるようになった太古の昔から天空に存在するのに、です」
金色の美しい光を目に湛えながら、半田が静かに朗々と語る。
「ただし、僕らのいる表の世界や、その裏側の世界から、類稀なる能力者が二人同時に出現した時、橋は彼らの前に姿を現します。時空を超えて異なる世界へと能力者を誘う。こちらの世界の人間は生ける者はそのままの姿で、魂だけとなった者は異界に転生する。……のだそうです。どうです、面白い話でしょう?」
「俺達の世界と、その裏側にある異界が魂の橋で繋がっていると。うん、確かに面白くてロマン溢れる話ですね」
猫が滑らかに日本語を喋る。交通事故で死んだ半田の魂を飲み込んだ猫。その猫の体を操る半田の魂に、晴喜は半田の言葉を繰り返して、ただうんうんと首を縦に振るしかなかった。
「そろそろお別れの時が来たようです」
猫の大きな目を瞬かせながら、半田は寂しそうに晴喜に告げた。
「ところで、お兄さんの名前を教えて頂けませんか。天昇してしまえば忘れてしまうのでしょうが、それでも僕、あなたの名前を知っておきたいのです」
「汀です。汀晴喜。大学二年生です」
「えっ!僕より一回りも年下なんですか?!タメかと思ってた。あ、ごめんなさい」
「気にしないでいいっすよ。親や妹達からスゲー老け顔だって、よく言われてますんで」
困ったように体を縮めている猫の姿に苦笑して、晴喜はぽりぽりと頭を掻いた。
「ありがとう、汀君。君に会えて本当に良かった」
半田が猫の前足を晴喜の前に差し出した。どうやら握手したいらしい。晴喜が右手を差し伸べると、その人差し指を二本の前足で挟み込んで上下に動かした。
「俺もです。半田さん。昇天しても、どうかお元気で」
「ふふ。汀君のお別れの挨拶、何だか変ですね」
猫は笑いながら晴喜の指を離した。
四つ足に戻った半田が「にゃん」と、いかにも猫らしい声で小さく鳴いた。
晴喜の前から大きくジャンプして距離を取る。一度だけ晴喜を振り向くと、あっという間に暗闇に姿を消した。
「半田さんの魂から一グラムの重さが消滅したから、あの猫、普通の猫に戻ったのか。ん?まてよ」
あの虎縞、普通の猫の訳がない。
半田が言っていたではないか。自分の体を貸してやるから、何とかして肉まんにありつけと猫に命令された、と。
「あの虎縞、本当に猫なのかな。実は異世界から来た人間の仮の姿だったりして。ははは」
人っ子一人いない暗闇の歩道で、晴喜は乾いた笑い声を立てた。闇夜に塗り潰された空間で不気味に反響する自分の声にぞっとして、急いで口を閉じた。
暗闇に一人で立っていると、猫の半田に出会ったことが夢のように思えてくる。
冬の夜の凍てついたアスファルトに胡坐を掻いてどれくらいの時間が経っただろう、体が完全に冷え切ってしまっている。よろよろと歩道から立ち上がった晴喜は、硬くなった筋肉をほぐそうと両腕を突き上げて背伸びをした。
「へーくしょい」
間の抜けたくしゃみが、暗いアスファルトに反響する。
「うう、寒い。肉まん、早く買わなきゃ」
晴喜は左手に持った空のビニール袋を顔の高さまで持ち上げた。
袋を放心したように眺めてからくしゃくしゃに丸めると、フリースジャケットのポケットに突っ込んだ。
煌々と灯りの灯るコンビニに向かって歩き出すと、どこからともなく香しい風が吹いてきて、晴喜の鼻梁と頬を撫でた。
さようなら、汀君。
耳元で囁く声に晴喜は足を止めた。
「半田さん?!」
きょろきょろと辺りを見回してから、晴喜は夜空に顔を上げた。
水晶のように輝く吊り橋が真っ白い満月の中央に浮かんでいた。
第二話 終