霊神の滴は我が瑕疵に零れて
恋愛に科学が存在しないのは、宗教信仰に科学を必要としないのと同じ原理である。神が教徒から見る自明さと異教徒から見る非自明さを兼ね備えた様に、恋も両者を包含して居る。恋心も一種の信仰心なのだろうか。
おお、神よ。恋の神よ。縁結びの神よ。何度頼ったこの神よ。貴殿の正体を教えてくだされ。暫し、貴殿への信仰を止めねばならぬ。恋愛と宗教の共通項を見出した今、頼るのは神ではなく己だけなのだ。
こうして日本中が神様の眠る墓場となった。神社や社も関係なく、神様は国中に眠っている。恋愛も、直截的な意も比喩的な物も含めて、捨て捨てられの社会性を帯びる。
とりわけ恋愛は付喪神に類似していると言われる。唐笠お化け、化け提灯、化け草履―。彼らは捨てられたのだ。捨てられた憎悪やら悲哀やらが彼らにもう一度、此岸で足踏みをさせる。今度は「道具」としてでは無く、「妖怪」として―。捨てなければ彼らによる被害も生まれないが、捨てなければ遣り繰り出来ぬのだ。恋愛も取捨は付いて回る。その中でも、古来よりモノを大事にして来た様に、人々は恋人を大事にする様になって来た。単なる社会の趨勢としてでは無く、個々人の価値観、見聞として。古代の遺物に終わらず、恋愛という形により、反映することができた。
それが私の場合は過剰に起こる。現状の恋人を大事にするか以前の問題ではあるが、恋愛と云う事物を重く見て居過ぎた。だから生半可な気持ちで人に告白をすること自体、相手にとっては勿論、先人たちにとっても失礼だとまで感じる。信仰の形を形成した先人達にまでもだ。勝手な価値観を遵守しても独り善がりに過ぎない。それでもこの均衡を破ったことは一度もない。
或る一点で人を好きになり、その場の雰囲気と欲望、彼女持ちという肩書きの為に告白をした事は無いし、悔恨を感じた事さえも無い。告白を受ける事は屡あっても、ミコとの出会いの後は承諾した事が無い。一切の迷いも無く、冷徹に断る己を心の内で叱咤した事も有ったが、信条を曲げるには至らなかった。それで神に報復した気にでもなっていたのだろうか。それとも徒だ、恋心が重すぎただけなのだろうか。今思っても、自分の事なのにそれは分からない。然し、それを究明しようとする程に私の心は癒されて居なかった。
卑しく、醜く、頼りなく、儚く、道の傍らに咲く一輪の花が見えた。夏真っただ中なのに花は散りすぎている。余りにも。
―雨も降ってきた。皆が同時に傘を差した。今、雑踏は上空から見下げると花に見えるだろうか。もう少し人混みを謳歌して居たくも有ったが、濡れたら困ると家路につく事にした。傘はすぐ取り出せる処に持っていたが、それを引き出すことすらも苦しく思えた。雨は打たれるものだ。いつも防いでいるのだから、今日くらい、この特別な一日くらい、この雨に打たれても悪い気はしまいと。そう思い、全てを委ねた。