八十平瓮に載せて
雑踏の中に身を潜めて居ると、その人混みに贖罪を埋没させたくなる。非常に無責任極まりなく、逃げの一策である。
灯篭流しと似たような感覚だろうか。灯篭流しは、生者の勝手な御都合で、あたかもそこに死者の精霊が坐って居るかの様に扱う。予算が足りないと言い、適当な木製の舟を、磐舟だと自分で自分に言い聞かせ、其れをご利益の意味も分からない儘流す。流しさえすれば死者を悼む時間は須臾とは程遠い。直截の懺悔など無いに等しい。
間接的な悔恨を如何にかして、一寸だけ紛れさせた。思考は救いだ。思考により人の精神は安寧を保つ。思考する脳味噌の欠落は精神叛乱を呼び起こす。
蜘蛛の偉大さを思い起こした。蜘蛛は糸を放射状に張って、雨水にも負けない丈夫な巣を構築する。考えを蜘蛛の糸の様に巡らせれば、疲労による綻びが来ても決して壊れる事は無い。病む者は糸が張り切れていないのだ。一箇所が切れただけで張り直せなくなって、それで焦り過度に戻そうとするから、病みという形で身体に反作用が表れる。体の調子が悪くなるのも精神疲労が身体に及ぼす悪影響の一つだ。
だから人々は揃いも揃って精霊を年に一度、夏に流す。灯篭流しと蜘蛛の糸、一見無関係に見える二者が、恋愛というまた無関係そうな事象を媒介して一般人の常識を凌駕するほどの高次に複雑な関係性を築いている。




