黎明なる須臾の記憶
世の常なのであろうか、慣れた街に出ると昔の事を思い出す。尤も、思い出したい甘い思い出も無く、思い出す事すら傷を痛める様な「思い出」だらけである。
小中学生で付き合った事は無い。無論、告白すらされてもしても居ないので当然であるが。恋等という概念に心を奪われる程、私は複雑な心情構造をして居なかった。
平生より結婚と言う、言わば全世代的な人生最大の最終、そして開始も兼ねる到達地への強い憧れは持っていない事も無かったが、恋人を作るという気も更々しなかったのだろう。言わずもがな、その時も今と同じく自己を完全否定して悲観に悲観を重ね、非悲劇の存在も思わぬ様にし、人生に懲りて厭世的に感ずるような思想家、哲学者的思考を持って居たのだが。
つまり、恋愛への関心が人より少ないのに加え、所謂自分に自信が無いと云う状態が続いていたのだ。そのような状態で恋人など、片腹痛い。
思い返して見ると、恋をする機会はあった。同級生の異性がやたらと近付いてきて来たり、普通でない程に甚だしくも愛おしく在る印象操作を被った事も有った。自意識過剰とも取られるが、実際に異性との深い交流が多かったのは確かだ。友達と云う壁を乗り越える事も出来たはずだ。
...私は、チャンスが全く無かったのでは無く、自分の平生の信条だと言い訳をしたいのだろうか。そこで恋人に成ったとしたらどうだったか。それぞれの高校に入り、すっかり可愛らしくも成って彼氏との写真をSNSに上げる彼女らの姿を姿を思うと、付き合っておいた方が良かったのだろうかと思って了う時も有る。自分の弱さを見て了う時だ。
やはり慣れた街は想起の契機だ。大人しい程騒がしく、冷静である程狂おしく思えるのは私特有の特性では無いだろう。
旅行に夢中に成る社長や海外取材の仕事を積極的に請け負う芸能人の気持ちも今なら解る。社長にしろ芸能人にしろ、一般的なサラリーマン...ビジネスパーソンに比べて彼等の心境は複雑だろう。彼等も私の様に、慣れた地で考えを巡らせて了うのを嫌がっているのだろう。意識的か無意識かは重要でなく、実際にそういう面がある事が最重要なのだ。
己の心臓の奥底に刻まれているこの刻印に密約を交わす様、自らの少年時代を気侭に想起しつつも、その気侭さとは裏腹に悲哀の槍が突き刺さり涙を浮かべざるを得ないこの状況に哭き呻き、街並みに融け込まれる我が身を儚く思う。
恋愛経験をして居ればと後悔した事も、実際に失恋をしている今も、全ての記憶が混じりあって純化された1つの悲しみに包まれる気も悪い気はしない。それがこの街なのだ。