秘されしもの
多種類のバラが色とりどり咲き乱れる暖かい季節。王宮の庭園は植物の緑で溢れていた。多くの庭師が忙しなく手入れをしているものの、全てに手が行き届くには時間がかかる。庭師を横目にいきいきと枝葉を伸ばす彼らは、人の姿を時折隠し、覆い匿う。
「ひっく…ふ、うぅぅ…」
1人蹲り涙を流す少女は、植物達に守られるかのように隠されていた。風が通る度に、ザワザワと葉擦れの音が鳴る。少女は嗚咽を堪えながら涙を必死に治めようとしていた。少女の持つハンカチは、既にほとんどが濡れている。ここに来るまでにも相当泣いたのだろう。
(王妃様を悲しませてしまった……)
月に1度だった妃教育と婚約者とのアフタヌーンティーは、少女が13歳になった数ヶ月後から見直され、日に日に増えていった。婚約者の17歳の成人まであと1年もない。その為の仕上げを急いでいるのだろう。
(覚えるのは簡単なの。頭では分かっているの)
少女は学習面においては優秀であった。貴族の名前、つながり、地名、各国の歴史など、覚えるだけで良いものは早々に習得し、貴族の茶会などで十分に役立てている。苦戦しているのは実践であった。ダンスやお辞儀、所作などは及第点をもらっているが、生来の気質なのか、表情が素直すぎるのだ。
(驚いても、微塵も表情を変えないなんてどうやって出来るの? 面白いのに笑っては駄目、辛いからと俯いては駄目)
幼少期、心の思うままに感情を出して育った少女にとって、それを顔に出さないという技は至難であった。ましてや、今まで自身の婚約者からも特に言われなかった。しつこく妃教育で注意されるようになったのは、ここ最近になる。
『マタン。さぁ、もう1度。出来るまでやるのです』
『これぐらい出来なくて妃が務まるとお思い?』
『甘えては駄目。泣くのはもっと駄目よ』
婚約者と同じ色彩をその身にまとう王妃から強く言われるのは、マタンにとって辛いものだった。
(分かっているの。頭では分かっているの……)
分かっているのに出来ない事が1番苦しいだろう。少女は己の不甲斐なさが悔しくて堪らないのだ。少女の婚約者は文武両道で、神童として名高い。まだ16歳だというのに、既に国王代理を何度も務め頭角を現している。
「ふ…うぅぅ……」
妃としての期待と重圧が少女の体にのし掛かっていた。不安で押しつぶされそうな少女の心は、その姿と平行して縮こまっていった。
どれくらいそこで蹲っていたのだろうか。ふと、少女を探す声が聞こえた。
「マタン? マタンーー?」
静かで控えめな呼びかけをしているのはこの国の王太子であるユージーンだ。彼は少女―――マタン・メイヴィルの婚約者である。マタンは婚約者が自分を探しに来たことで、思っていた以上に時間が経っていることに気づき動揺した。
「どこにいるの? 出ておいで」
婚約者の呼びかけに、マタンは出て行かなくてはと思うが決心が付かなかった。泣きすぎてきっと顔が酷くなっていると思うからだ。それに、
(このまま出て行ったら、また泣いてしまいそう……)
涙は引いていたが心の痛みはまだ取れない。マタンは、ユージーンが自分に特別優しいことを知っている。それは、マタンがこの『政略結婚』についてユージーンに言及した日から、ますます顕著になった。
「今日は君の大好きな、スミレの砂糖漬けを用意してあるよ? 紅茶に浮かべて一緒に飲もう?」
マタンの姿が見えなくとも、彼は緑茂る庭園に向かって声をかけた。
「ベルガモットを練り込んだクッキーは? あぁ……早くしないと、小鳥に食べられてしまうかも」
マタンはユージーン自身には強く反応しなかったが、言葉かけの内容には強く反応した。
(そうだったわ。私、頑張るって決めたんだったわ)
高価な砂糖を用いた菓子を食べる度に国民に思いを馳せ、王妃としての職務を思い出して頑張ろうとーーー
泣いている場合では無いと思ったマタンは、隠れていた茂みから出ようと立ち上がった。しかし、頭を引っ張られる感覚がして上手く立ち上がれなかった。
「きゃっ」
小さな叫びが庭園にこぼれると、焦りの滲んだ声と共にユージーンが茂みをかき分けてやって来た。
「マタン! マタン!? 大丈夫?!」
「ユージーン様……」
「こんなところに隠れて……どうしたの?」
ユージーンがマタンの側にやって来て周りを見れば、マタンの髪が一房、枝に絡まり取られていた。滑らかな白金の髪が枝に絡まるのは珍しい。マタンは頼りない声で小さく呟く。
「い、いつの間に……」
そう言ってマタンは自分の髪を引っ張った。振り向いたが、結び目が丁度見えない位置にあったのだ。しかしそれをユージーンは青ざめながら止めさせる。
「何をするんだ! 髪が傷んでしまう…!」
「ですが、先がよく見えません」
「私が取るから待ちなさい」
ユージーンはマタンの近くに寄って、髪を丁寧に解き始める。
「お手を煩わせてしまって申し訳ありません。その剣で切ってしまっても構いません」
「そんなことは出来ないよ。……この美しい髪がこれに絡まったままにするなんて、私が許せない」
ユージーンの「許せない」という発言に、マタンは大袈裟だなと思いクスッと笑った。マタンは髪の手入れを毎日欠かさない。それはユージーンが何かとマタンの髪に触れてくるからだった。髪を褒められたマタンはくすぐったい思いを胸に、ユージーンが髪を解くのを目を閉じて待った。衣擦れの音さえ心地良い。生い茂る緑のお陰でユージーンの護衛の姿も見えなかったため、今この空間には2人だけであった。
ユージーンの「もう大丈夫だよ」の声でマタンは目を開けた。髪が絡まるような事態を作ったのは自分のせいなのに乙女心は現金なもので、マタンはその時間が終わってしまったことを残念に思った。