第8話 小さくて可愛い1枚のメモ
皆に部屋を掃除してもらってから、1週間が経った。
皆に片付けから整理整頓、掃除までしてもらったおかげで、人の住める部屋として今も快適だ。
これまで毎日のように通っていた保健室に春陽だけは通うのを止めている。
1週間前のあの日、綾香先生と京香先生の裸姿を見てしまった。
もちろん春陽の故意ではない。
しかし、春陽の頭の中には常に2人の裸体が鮮明に浮かび上がる。
時にマジマジと見てしまった綾香先生の裸体は網膜に焼き付いて離れない。
夜、部屋で一人きりで眠っていると、裸体の綾香先生を思い出してしまう。
可愛くて、きれいで、裸体の姿が妖艶に輝いている。
その愛らしい姿に春陽の心はときめき、心臓の鼓動はドキドキと高鳴る。
「綾香先生……やっぱり好きだ! 大好きだ! 諦めることなんてできない……愛してる……」
布団の中で春陽は何度も小さく呟いて、布団を抱きしめて夜中、悶えている。
だから、自然と朝起きるのが遅くなる。
この1週間は早朝からの登校ができていない。
保健室で綾香先生、京香先生の2人と、どういう顔をして会えばいいのかわからない。
いつものように無表情で保健室へ行くのも気が引ける。
それに綾香先生と間近で会って平静を保てる自信がない。
自分が何を言い出すか、自分が怖い。
いつもよりも遅い時間に校舎に到着すると、既に信二と和尚の姿はない。
2人は春陽を置いて保健室の列に並んでいる。
2人が待っていないほうが春陽は気が楽だった。
無理に保健室へ連れて行かれなくてすむ。それに今は1人で居たい気分のほうが大きい。
気持ちの整理がつかない。
生徒達が騒いでいる廊下を1人で歩いて、教室に入って、自分の席に座る。
椅子に座って少し俯ている春陽に優紀と香織が歩いて来る。
窓際の席である春陽は、窓から入る風によってカーテンが揺れて、顔に当たっても気づいていない。
優紀が背を低くして、春陽の顔を覗き込む。
涼し気な瞳、整った鼻筋、美麗な顔が春陽を覗く。
「何があったのか、わからないが、これは重症だな」
「いったい、春陽に何が起こったのよ。1週間前から元気ないじゃない。優紀が春陽の部屋に行ってからよ」
「ああ、春陽の部屋を皆で掃除して、片付けたまでは普通だったんだ。和尚の塩おにぎりを食べた時には変になってた」
「和尚の塩おにぎりの中に変なモノが入ってたんじゃないの! 私、和尚が握ったおにぎりなんてイヤ!」
「いや、和尚はきれいに手を洗っていたし、和尚の手は女性のようにきれいだ」
「味は変じゃなかった?」
「ただの塩おにぎりが、すごく美味しかった。あんなに美味い塩おにぎりを食べたのは初めてだ」
「誰も腹痛を起こしたりしてないよね?」
「食あたりが1週間も続くわけないだろう」
春陽の目の前で優紀と香織が春陽を心配して口論になっている。
春陽の部屋の掃除は男子生徒達4人でしたと香織達には伝えている。
もちろん綾香先生と絵理沙先輩の部屋が隣なことは絶対の秘密にしている。
もちろん、信二、和尚、優紀の3人からは交換条件を出された。
綾香先生の部屋には京香先生が遊びにくる。それを逃す3人ではない。
優紀は絵理沙先輩とも会いたいという。
だから、いつでも春陽の部屋に泊ってもよい代わりに、春陽のアパートの事情を秘密にするという交換条件を3人から出された。
春陽としては拒否したかったが、後々のことを考えると3人の交換条件を受け入れるしかなかった。
信二と和尚が保健室から教室へと登校してきた。
春陽の様子を見た2人は、鞄を自分の机に置いて、春陽の元へ集まってくる。
優紀が信二と和尚に話しかける。
「春陽は全然、ダメだ。今日もダンマリだ」
「おーい、春陽。何考えてんだ?もうすぐお前の大好きな綾香先生のHRだぞ」
「信二殿、その呼びかけでは春陽殿の心を開くことはできまいと拙僧は思う」
「じゃあ、和尚はどうすればいと思ってるんだよ。このまま春陽が根暗路線になったらヤバいじゃん」
「春陽殿、聞いておられるな。もう既に春陽殿の心の中に答えはある。しかし、それを拒否しておられる。素直に行動するのを拒んでおる。だから苦しむのだ」
優紀が難しい顔になって、首を傾げる。
「春陽は一体、何に悩んで苦しんでいるんだ?」
「大好きな綾香先生を見ても、顔を俯かせているなんて、春陽は重症だぞ」
「今の春陽殿の心を詮索するのは野暮というもの。友であるなら詮索せぬのが1番」
和尚はクリクリした大きな瞳で春陽を見て、少しぽっちゃりとしたツルツルな頬が輝いている。
さすがは和尚、頭の回転が速い。その瞳は全てを見透かしているようだ。
当たらずとも遠からずな和尚の答えに、春陽は堪らず、頭を抱えたくなる。
「本心と上辺の心が葛藤しておられる。それでは行動できますまい。上辺の心を消しなされ。本心に素直になることが肝要と言わせていただく」
大柄な和尚の体がいつもよりも大きく見える。
「そういえば京香先生から伝言を受けている。放課後、春陽殿1人で保健室へ来るようにと言われておる。美の権現様も春陽殿の心を見通されているのであろう」
信二が不満そうな顔をして、春陽の脚をツンツンと蹴る。
「なんで春陽1人なんだよ。京香先生に会うなら、俺も付いて行くぜ」
優紀も信二を見て、何度も頷く。
「そうだな。俺も信二に賛成だ。春陽は俺の親友だ。だまって何もしないというのも寝覚めが悪い」
それを聞いた香織が目を吊り上げる。
「優紀は京香先生を見に行きたいだけでしょ。春陽のことなんて全く考えてないじゃない。放課後は私と一緒に帰るからね」
怒った香織は優紀の耳を引っ張って、2人で春陽の元から離れていった。
HRのチャイムが鳴る。
すると春陽は机の上に腕を重ねて、その上で顔を伏せる。
この1週間、この体制で春陽はHRを受けている。だから綾香先生の顔を見ていない。見られない。
「割り切りの早い春陽らしくないぜ。1週間も根暗な恰好してんなよ。早く元気だせよな」
信二はそう言って、自分の机へと戻っていった。
「掃除の日に何があったのかは深くは問わぬ。しかしHR時、綾香先生が春陽殿を見て悲しそうな顔をされておる。女人を悲しませてはいかん。早く仲直りすることが肝要と助言いたす」
和尚は周りに誰もいなくなったことを確かめて、核心を突いた言葉を春陽に投げる。
そして春陽をじっと見つめた後、何も言わずに和尚は自分の席へと歩いていった。
自分の心が幼いと春陽は思う。
HR中、チラチラと綾香先生を見ているので、元気のない綾香先生を見ている。
何もかも自分の行動のせいだと春陽は自分を責める。
しかし、頭の中で綾香先生の裸が離れない。綾香先生と見ると先生の裸体を思い出す。だから普通にしていられない。
愛しの天女様の裸体を拝んだのだから、春陽がこうなる気持ちは仕方がない。
この1週間、どうしていいかわからずに自分の殻に閉じこもって、机に顔を伏せている。
そのことで綾香先生を悲しませていることが、心に痛い。
でも、いつものように接することができない。
廊下を歩くコツコツという音が聞こえてくる。いつもより足音も元気がないように聞こえるのは春陽の気のせいか。
ガラガラガラガラ
教室のドアが開き、薄桜色のワンピースを着た綾香先生が教室の中に現れた。
春陽は机に顔を伏せたまま、チラチラと綾香先生を見る。
教壇に着いた綾香先生は生徒達を前にして、甘い吐息を1つ漏らす。
そして、いつものフルユワな天女の微笑みで生徒達を見回す。
春陽は急いで顔を隠す。恥ずかしくて目を合せられない。
顔は隠しているが、綾香先生のことが気になって仕方がない。必死に顔を伏せる。
「え~っと! 今日は重要事項はありません! 今日も元気に皆さん、授業に励んでくださいね!」
言い終わると、一度ペコリと頭を下げる。綾香先生のいつもの癖だ。
コツコツコツコツ
いつもなら、このまま去っていくはずの足音が段々と春陽の耳元に近づいてくる。
そして、綾香先生の甘くて優しい香りが春陽の鼻をくすぐる。
春陽の席の真横で綾香先生が立ち止まったのがわかる。
「あのー、春陽君、この1週間、私に顔を見せてくれていません。少しだけでもお顔を先生は見たいです」
少し幼い様な甘い声が春陽にかけられる。その声はいつものように優しい。
「何があったのか、私にはわかりません。でも私は春陽君の担任です。ですから春陽君に悩み事があるなら、私に相談してください」
「……」
綾香先生の裸体が美しすぎて、頭から離れないなんて口が裂けても言えない。
ずっと目から離れないなんて、絶対に言えない。
「私では悩み事を解消してあげられないかもしれません。でも愚痴ぐらいは聞いてあげられます。先生、待ってますね」
綾香先生は春陽を労わるような優しい声で春陽を諭す。
誰にも見られないような一瞬の間に、小さなメモを春陽の腕の隙間に入れた。
そして何事もなかったかのように、教壇へと戻っていく。
「それでは今日も1日、頑張ってくださいね。先生は皆を応援しています」
そう言い終わった綾香先生は、教壇から離れ、教室から出ていった。
春陽は顔を上げて、腕の中にある1枚の小さなメモを見る。
メモには綾香先生の可愛くてきれいな文字が並んでいた。
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『春陽君へ。
私のスタイルの良くない裸を見せちゃって、春陽君のお目を汚して、ゴメンなさい。
でも、私は春陽君だから恥ずかしくないよ。
だって、私の可愛いクラスの生徒だもん。
春陽君も恥ずかしがらないでください。
私は大丈夫です。
悩みがあったらいつでも相談してください。 綾香』
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その小さなメモを読んで春陽は泣きたくなった。
綾香先生の裸はきれいで、美しくて、可憐で、可愛くて、素晴らしくて、素敵だった。
まるでビーナスの彫像のように美しかった。
綾香先生、先生の思っていることは全く違う。
素晴らしすぎて忘れられない。
忘れたくないという想いもある。
そんな自分が情けなくて、恥ずかしくて、綾香先生から逃げている自分が悲しくなる。
本当は綾香先生に自分の本心を言いたい。
どれだけ綾香先生に憧れていて、一途に想っているか言いたい。
そして今回のことをキチンと謝りたい。
綾香先生の誤解だけでも解きたい。
しかし、春陽には自分がどう行動すれば良いか、わからない。
どういう風に綾香先生に伝えるのが1番良いのかわからない。
動けない自分が情けなくて、悲しくて涙がでそうになるのをグッと堪える。
春陽は大事にメモを4つに折って自分のブレザーのポケットへ入れる。
「今日は大事なことを皆に伝えようと思う!」
大きな声が教室一杯に響き渡る。
ハッと気づいて教壇を見ると、桜ヶ丘高校で1番熱い男が立っていた。
白沢圭吾生徒指導主任が教団に立って、日焼けした顔に白い歯を見せて笑っている。