第19話 妥協点
宵闇が降りて、空が夜へと変わり、月と星空が輝いている。
綾香の仕事が終わるのは、その日によって変化するが、深夜遅くなることは少ない。
仕事が終わって、アパートに帰ってきた綾香が、春陽の部屋に顔を見せる。
「今、帰ってきた所だから、食事をして、1時間後に部屋に来てくれるかな?」
綾香はフンワリと微笑んで、可愛い甘い声で、春陽に声をかける。
「うん、わかった。 俺も綾香に早く相談したいことがあるから、必ず1時間後に部屋へ行くよ」
「は~い」
綾香はそういうと春陽の部屋のドアを閉め、自分の部屋へと帰っていった。
春陽は部屋に鍵をかけて、ダイニングでジャージを脱いで、風呂場に入り、シャワーで全身を洗う。
綾香は何もいわないが、清潔好きなように見える。綾香に嫌われたくない。
汗臭い匂いを嗅がれるのもイヤだ。好きな女性の前では清潔でいたい。
シャワーを浴びて、サッパリとした春陽は、全身をバスタオルで拭いて、ボクサータイプのパンツを履く。
そしてドライヤ―で髪の毛を乾かしていく。そして新しいシャツを着て、その上から上下が黒のジャージを着る。
いつも綾香の所へ行く時には同じ恰好だけど、少しは変えたほうがいいのかな。
体をきれいに洗っても、着ている服装が毎回、同じでは意味ないかもしれないと、春陽は不安に思った。
しかし、部屋着は同じようなジャージしか持っていない。自分のオシャレセンスの無さに春陽は頭が痛くなった。
綾香も帰ってきたばかりで、着替えや、色々で忙しいだろう。綾香と約束した時間まで部屋で待っていよう。
布団に上にゴロンと転がって、今日の昼の出来事を思い出す。
昼食の話の流れで、絵理沙先輩と仮彼氏として学校では付き合うことになってしまった。
綾香に相談もせず、絵理沙先輩に答えを出したのは早計だったろうか。やはり綾香と相談してから答えを出したほうが良かっただろうか。
学食の時は勢いで答えてしまったが、綾香に相談していないことに、春陽は罪悪感を持っていた。
このことで、綾香を怒らせてしまったらどうしよう。学校から家に帰って来てから、そのことばかりが頭を巡る。
綾香は絵理沙先輩と仲良くしてほしいと言っていた。なるべく絵理沙先輩を傷つけるようなことをしないでほしいと言っていた。
絵理沙先輩と本気で付き合うことはできない。しかし絵理沙先輩からの告白を拒否することもできない。
春陽にとって自分なりに絵理沙先輩と綾香に配慮した答えを出したつもりでいる。
しかし、どれが本当に良い答えだったのか、春陽も自信がない。
綾香と約束した1時間が過ぎた。ウジウジと1人で考えていても仕方がない。綾香の部屋へ向かおう。
春陽は玄関を出て、家に鍵をかけて201号室の扉の前まで歩く。
インターホンを鳴らすと玄関が開けられ、花柄のパジャマに着替えた綾香が迎えてくれた。
「良いタイミング。今、お風呂からあがった所よ。早く部屋の中に入って~」
綾香の体から甘くて優しい香りと、石鹸の爽やかな香りが漂ってくる。
恥ずかしそうに綾香は春陽から離れ、ダイニングへ小走りで歩いていった。
「夕飯、まだだよね。急ごしらえだけど、肉ジャガと、昨日作ったポテトサラダをどうぞ。コーンスープもあるからね。ご飯、おかわりしてね」
テーブルの上には既に綾香の分と料理と、春陽の分の料理が並べられている。
いつもコンビニ弁当やポカポカ弁当で済ませている春陽にとって、久しぶりの家庭料理だ。
春陽のお腹が「グウウゥゥゥーー!」と鳴る。綾香が嬉しそうに、可笑しそうにクスクスと笑う。
「春陽君の顔はいつも無表情だけど、お腹はとっても素直なのね。さあ、早く食べましょうね」
「「いただきまーす」」
肉じゃがは、きちんとジャガイモに味が染み込んでいて、ニンジンも柔らかく、牛肉からも肉汁がジュワッと口の中に広がって、とても美味しい。
ポテトサラダも甘くて、卵も入っていて、とても美味しく、いくらでも食べられそうだ。
コーンスープでとても美味しく、口の中の味をスープで変えてくれる。
春陽は気づくと、綾香に何も言わず、ご飯を3杯もおかわりして、食べることに夢中になっていた。
「これだけ熱心に食べてくれると、とても嬉しい。春陽君が気に入ってくれた証拠だもん」
「うん、綾香の手料理は最高だよ。とても美味しい。久しぶりの家庭料理の美味しさに、夢中でガッツいちゃった。綾香は食べてる?」
「うん、私も沢山、食べてるよ。元々、胃が小さいから、すぐにお腹が一杯になっちゃうの。今日は春陽君のために多く作ったの」
春陽のために、春陽が食べる分量まで作ってくれていたのか。すごく嬉しい。
「沢山作ったはずなのに、全部、空になっちゃった。これからは、もう少し多い量で作っておくね」
「ううん、今の量で丁度いいよ。とても美味しかった。ご馳走様です」
「お粗末様でした……ウフフ」
綾香は席を立って、温かいお茶をコップに注いでくれる。
「食べた食器を軽く洗っちゃうね。その間、お茶でも飲んで待っててね」
「うん、ありがとう。そうさせてもらうよ」
お茶を飲んで気分を落ち着ける。
台所に立って洗い物をしている綾香は、とても愛らしく、後ろからギュッと抱きしめたくなる。
椅子をそっと動かして、足音を鳴らさないように、綾香の後ろに近づく。
「今は台所で洗い物中です。後ろから悪戯はダメですよ・・・ウフフ」
足音も立てていないのに綾香に悟られてしまった。
「春陽君の考えそうなことぐらい、最近ではわかります。それに空気の流れと気配で、春陽君が近寄ってくるのがわかりました」
空気の流れや、気配は消しようがない。綾香のほうが1本上手だ。
綾香の後ろに回って、お腹に手を回して、背中をピッタリと引っ付けて、綾香の首筋に顔を埋める。
綾香の甘いくて優しい、安らぐ香りと、石鹸の香りが綾香の髪の毛から流れ出してくる。
その香りを嗅ぐと綾香が傍にいると実感できて、すごく安らいだ気持ちになる。
「春陽君、私のお腹を撫でています。とても恥ずかしいんですけど……」
無意識に綾香のお腹を優しく撫でていてた。スタイルの良い綾香のお腹はパジャマの上からでも、撫でていて気持ちがいい。
「お腹を撫でるのは良いですが、他の部分は撫でないでね。驚いちゃうから。今日の春陽君は甘えたですね」
「いつも俺は綾香を離したくないって思ってるよ」
「会話も素直。いつもと違うわ。私に重要な相談事があるみたいね。そのままの姿勢でいいから、話してください」
春陽の仕草や行動で、そこまで推測する綾香の女性の勘に驚いた。
「今日の昼に絵理沙先輩に頼みごとをされてさ……」
綾香の体が一瞬だけ硬直する。そしてまた元に戻った。
「話を続けてください……」
「学校にいる間だけ仮彼氏になってほしいって言われた。俺が綾香のことを好きなことも許すって、綾香と俺の関係が発展したら身を引くって条件で、仮彼女になりたいと言われた」
「どうしてそういう話になったの?」
「もう、絵理沙先輩が俺に告白したことが桜が丘高校全体に広がっているだろう」
そのことは上級生4人組の件でも綾香は知っているはずだ。
「このまま、絵理沙先輩が俺を諦めたら、絵理沙先輩は高校の間、1人も彼氏が作れない状態になるって言うんだ」
「絵理沙さんの人気って、ものすごいですからね。絵理沙さんも大変ですよね」
「それで絵理沙先輩は俺に告白している訳で、諦めるつもりはないと言うんだ」
綾香の体に緊張が走る。春陽は緊張を和らげようと、綾香のお腹を優しく撫でて、首筋に顔を埋める。
そして綾香の耳元でささやく。
「俺は綾香が好きなことは絵理沙先輩には伝えている。それでも絵理沙先輩は学校にいる間の仮彼氏に俺になってくれとお願いされた」
「……」
「絵理沙先輩が、俺が綾香を好きなことを許して、綾香がもし、俺に気持ちが傾いた時には、絵理沙先輩には身を引いてもらうっていう条件をづけしたんだ」
綾香はまだ食器を洗っている。さっきも洗っていた食器だ。何度も洗っている。
そのことに気づいていないようだ。ずいぶん、心が上の空になっているのだろう。
「絵理沙さんは何て言われました? まさか条件を呑んだのですか?」
「ああ、絵理沙先輩はその条件を呑んだ。だから俺は絵理沙先輩の学校での仮彼氏になった」
綾香が蛇口を捻って、水を止め、タオルで手を拭いて、春陽の両腕の中でくるりと体を反転させる。
「2人共、なんて無茶な行動をするんですか。私のことなど忘れて、正式に付き合えば良かったじゃないですか!」
綾香のクリクリとして焦げ茶色の瞳が間近にあり、低い鼻と唇も、春陽との距離は10cmほどしか開いていない。
春陽は綾香を落ち着かせるような、小さい声で話を続ける。
「俺が綾香を忘れられるはずないじゃないか。俺は綾香に一途なんだ。絶対に綾香を離さない」
「でも絵理沙さんも春陽君のこと一途に想っているんでしょう。あんなきれいな美少女に言ってもらってるんだから、春陽君は絵里奈さんを選んだほうが良いと思います」
そう言いながら綾香の目には大粒の涙が溜まっていく。
「綾香、本心ではそんなこと思っていないだろう。俺は本心で話している。綾香の本心を話してほしい」
「苦しいです。先生と生徒は恋愛がダメだから。苦しいです。本当は春陽君とこうして、いつまでも抱き合っていたい」
「俺も同じ気持ちだよ。いつまでも綾香を抱きしめていたい。離したくない。綾香だけを見続けたい」
春陽はそっと綾香の体を抱き寄せ、綾香の髪の毛の中に顔を埋める。
「絵理沙さんのことはどうするんですか? 彼女にも傷ついてほしくない!」
「だから仮彼氏になった。絵理沙先輩が諦めるまで、学校の中では仮彼氏を演じる。変なことは何もしない。約束する」
綾香が足先で立って、春陽に顔を近づけて、額に自分の額を押し付ける。
綾香が呼吸する度に、甘い息が春陽の顔にかかる。鼻先と鼻先が当たる。
「あんな美少女に毎日のように迫られて、それでも春陽君は我慢できますか?理性が飛んでしまわないですか?」
「綾香のことを一途に想っているから、俺から絵理沙先輩に迫ることはないよ。それに絵理沙先輩から迫られても、それは仮彼氏の範疇には入っていないと言って断るよ」
綾香の瞳が嬉しさと不安でウルウルと涙を溜めて、潤んでいる。
「春陽君を信じます。忘れないでね、私も春陽君に一途だってこと!」
「ああ、忘れない。俺には綾香しか見えない」
「私も春陽君しか見えません」
綾香が春陽の首に手を回して、ギュッと抱き着いて、背を伸ばして、春陽の首筋に顔を埋める。
ダイニングのキッチンの近くで、2人でずっと抱き合う。甘くて蠱惑的な雰囲気が2人を包む。
耳元で綾香が小さな声でささやく。
「春陽君のことが大好きです。私を離さないでね。でも絵理沙さんにも、できるだけ優しくしてあげてください」
優しい綾香のことだから、絵理沙先輩のことも常に心配しているだろうと、春陽は思っていた。
「綾香と俺の間を自由にしてくれている間は、絵理沙先輩のことも大事にする」
「絵理沙さんが、私と春陽君の間に入ってきたら、どうするの?」
「その時は絵理沙先輩には申し訳ないけど、ハッキリと絵理沙先輩を振る」
綾香は顔を元の春陽の胸の位置に戻して、春陽の顔を上目遣いで見る。
「私は悪い大人です。悪い先生です。悪い女です。絵理沙さんを振ると言ってくれた春陽君の言葉に安心する、嬉しく思う私がいます。こんな醜い私でもいいですか?」
「俺も悪い男だし、悪い生徒だよ。先生をに一途になって、先生と付き合おうとしてるんだから、俺の方が極悪人だ」
春陽は段々と顔を近づけ、綾香に唇を重ねようとする。
綾香は目をトロンとさせ、もう少しで口づけできるかと春陽は思ったが、綾香は寸前で顔を反らせた。
「これ以上、段階を登っちゃうと止まらなくなっちゃうから、ダメです」
綾香は顔を真っ赤に染めて、両手で春陽の胸を押して、体を少し離す。
「キス、それ以上のことをしてはダメです。京香にも言われています。私と春陽君は先生と生徒です。まだそういう関係になるのはダメ」
春陽はガックリと肩を落とした。その姿を見て、さすがの綾香も可哀そうに感じたように、春陽の背中を撫でる。
春陽は綾香のパジャマを掴んで小さく声を出す。
「今日は帰りたくない。一緒のベッドで綾香と寝たい。何もしないから……」
「私に何もしないならいいですよ。抱っこぐらいは許しちゃいます……ウフフ」
そういえば、仮彼氏の証人の件をまだ、綾香に話していない。しかし、今の綾香との雰囲気を大事にしたい。
綾香は当事者だから証人になれない。明日でも京香先生に頼みにいこう。
春陽はもう考えることを放棄した。
綾香をお姫様抱っこする。綾香も落ちないように、春陽の首に両手を回す。
お姫様抱っこの状態で、キッチンの電気を消して、居間のベッドへ綾香を運ぶ。
「お姫様抱っこで運ばれるなんて恥ずかしいです~」
「嬉しくない?」
「嬉しい……エヘヘ」
ベッドの中へ潜り込んだ綾香は首だけ出して、微笑んで春陽を待っている。
春陽もベッドの中に入って柔らかくて軽い綾香の体に両手を回して、ギュッと綾香を抱きしめ、胸の谷間に顔を埋める。
顔一杯に綾香の甘くて優しい安らぐ香りが広がる。
柔らかい胸の弾力が顔に直接伝わってきて、気持ちがいい。
「いきなり甘えん坊に変わるのね。今日だけですよ……ウフフ」
そう言って、綾香は春陽の背中を優しく撫でる。
綾香に抱かれて、とても気持ち良く、春陽は眠りに落ちていった。




