第1話 新しい春の始まり
ここは都会にある高層ビルの25階。
このビルの中に父である敦のオフィスがある。
今日は高校があるにも拘わらず、父である敦に呼び出され、今はオフィスのソファに座っている。
目の前にはキリッと髪を整えた父が大きなデスクに座って、パソコン3台で仕事をしている。
父の仕事は1級建築士だ。自分で自営をして、けっこう儲けていると聞いたことがある。
パソコンから顔を外して、眼鏡をクイっと持ち上げて、鼻のくぼみを指でほぐしている。
目が疲れたのだろう。
「待たせて悪かったな」
「急な呼び出しは困るんだけど。俺も真面目に高校生してるしさ」
「春陽、お前の今後について知らせようと思ってな!」
「今後?」
今後どうなるというのだろう?
春陽は疑問に思って首を傾げる。
父も言いにくそうに苦い顔をしている。
「もう春陽に家に帰ってこないでくれと、洋子と彩芽に言われてな」
洋子というのは継母で、春陽の今の母親になる。そして彩芽は洋子の連れ子で、春陽の義妹だ。
「自分の子供ではないので、育てられないと洋子に言われた」
あの継母の洋子なら言い出しかねない発言だ。
「彩芽も私は一人っ子がいいと言っていてな」
彩芽の奴、前から兄なんていらないと言っていたもんな。
彩芽だったら簡単に言うだろう。
父は自分のデスクから立ち上がると、ゆっくりとした歩みで春陽に近寄り、肩に手を置く。
「今のままだと俺も家に帰りにくいんだ。お前がいると、家の居心地が悪くなるんだ。わかってくれ」
洋子と彩芽が春陽のことを嫌っていて、疎ましがっていることは昔から知っていた。
だから、今更、驚くことはない。
ついにこの日がきたか!
そっと手の平を広げた上には、父の手には鈍く光る1つの鍵が置かれていた。
「今日、もう既に引っ越し業者によって、お前の荷物は運びだされている。この鍵の意味はわかるよな?」
「ああ!」
とうとう追い出されたな。問答無用できたか!
「戸籍を抜く話も出たが、それは俺が止めた。やっぱり春陽は俺の息子だからな。榊 春陽でいてもらわないと俺が困る」
戸籍まで抜けと言いやがりましたか! いい度胸してんな! あの継母と義妹!
「春陽、お前の養育費用は俺が口座に振り込む。家賃も食費代も学費の心配もない。大学まで安心して進学してくれ」
「そのかわり?」
「家には帰ってこないでください」
父のは姿勢と正すとペコリと頭を深くさげた。
「俺のわがままを許してくれ!」
父のわがままではない。洋子と彩芽のわがままの間違いだろう。
立ち姿勢に戻った父は真剣な顔つきで、春陽の手の平の上に鈍く光る鍵をグイっと力強く押し付ける。
「もう必要な雑貨品や生活用品は、秘書の睦美君に言って、用意してもらってある。いつでも住める。口座にも金は振り込んだ」
随分と手回しがいいな。以前から計画していたに違いない。
金も振り込んでくれているなら、それでいい。別に洋子と彩芽と一緒に暮らしたいわけではない。
手の平の上で鈍く光っている鍵を見つめる。
これでやっと独り身か。大学に進学した時に家を出ていくつもりだった。
少し、2年ほど時期が早まっただけだ。
春陽がいなくなって父、敦の心の負担が減るなら、それもまた良しだろう。
春陽は何事もなかったような表情をして、父を見つめる。
「鍵だけもらっても困るんだけど……住所がわからないんだけど……」
「そ…そうだったな! 睦美君が地図を用意してくれていたな! 住所も書いてあったはずだ!」
父は自分のデスクに戻って必死になって、散らばっている書類の中から1枚の用紙を取り出す。
父のデスクまで歩いて行き、春陽は無言で用紙を受け取る。
地図の上に住所も書かれていた。アパート名は「ほのぼの荘」202号室か。
一人暮らし頑張って。お父さんのお世話は任せて。という文字も書かれている。
睦美さんが書いたのだろう。
睦美さんと父が深い関係になっていることを春陽は既に気づいている。
睦美さんはまだ27歳の和風美人だ。おっとりとした見た目と違って、頭の回転も良い。
年上フェチの春陽も一時期、睦美さんに中学生の頃、憧れていた時期もあった。
気の強い洋子よりも、おっとりした睦美さんに甘えてしまった父の敦のことを理解できる。
しかし、片思いの相手を父親に取られるとは中学生の春陽は思ってもみない出来事だった。
「睦美さんが母親ならよかったな。睦美さんを大事にしてあげてな」
「大丈夫だ。大事にしている」
「俺、行くから」
「俺に電話してくる時は平日の昼間にしてくれ」
「ああ、わかってる」
自分から洋子と彩芽の声を聞く趣味はない。
春陽は一息吐いてオフィスを見回す。
大きいデスクと小さなデスク、来賓用のソファ。
周りの白い壁がビルが新しいことを物語っている。
とうぶん、このオフィスにも来ることはないだろう。
クルリと父のデスクから反対側へと向き、ドアノブを回してドアを開ける。
「会うときは、このオフィスで頼む!」
そこまで洋子が怖いのか!
自分のことよりも父、敦のことを心配してしまう。
そんなに怖いなら睦美さんとの不倫をやめたらいいのに!
父、敦の心情を考えると何も言葉が浮かばなかった。
春陽は片手だけ挙げて手の平をヒラヒラと振って、オフィスのドアを出る。
4月初旬、まだ陽も高い。
都会を少しブラブラして買い物をしてから、新しいアパートへ向かうとするか。
◆◆◆
夕暮れ時の太陽が大きく西に傾いている。
地元の街まで電車で戻った春陽は、駅前のデパートでタオルセットを幾つか買う。
タオルセットなら大量にあっても邪魔にはならない。
アパートの住人くらいは挨拶しておいたほうがいいだろう。
何でも初めての印象が大事だからな。
目元まである髪の毛を掻いて、春陽は紙袋を持ち直す。
手元の地図を見ながら、ゆっくりと歩いていく。
春陽の通う桜ヶ丘高校から徒歩20分の場所に、「ほのぼの荘」の可愛い建物はあった。
薄ピンク色の外壁って……屋根も赤だ……相当に古そうな建物だな。
敦の奴、家賃をケチったに違いない。
これは睦美さんが選んだアパートに違いない。男なら、このアパートを借りようとは思わない。
思わずため息を吐く。
階段を登って202号室へ向かうと、1人の桜ヶ丘高校の制服を着た女子が、203号室の前で立っていた。
「あら、春陽君じゃない? どうしたの?」
「絵理沙先輩こそ、こんな所でどうしたんですか?」
来栖絵理沙先輩が驚いた顔で春陽を見る。
春陽は辞めてしまったが、元文芸部の先輩に当たる。
絵理沙先輩は桜ヶ丘高校NO1の美女として有名だ。
今も清楚で上品な色香を漂わせている。
春陽の1つ上の高校3年生で、少し濃い茶色の髪の毛がふわりとカールしていて、上品だが艶やかだ。
「だってここ、私の部屋だもん!」
「え!」
「春陽君のほうこそ、どうしたの?」
少し目尻の下がった、おっとり二重のまぶたをパチパチさせている。
茶色の瞳が輝いて美しい。
「……隣に引っ越してきました。よろしくお願いします……」
「え!」
きれいな鼻筋と少しポッテリとした妖艶な唇を両手で隠して、絵理沙先輩が驚きの顔を隠す。
照れ隠しで俯いて、手元の紙袋からタオルセットのギフトを取り出し、春陽は絵理沙先輩に差し出す。
「本当に引っ越してきたんだ!」
「……よろしくお願いします」
絵理沙先輩は頬をピンク色に染めて、春陽からタオルのギフトを受け取って、両手で胸に抱える。
「……嬉しい……」
「絵理沙先輩、何か言いました?」
絵理沙先輩の声はすごく小さく、春陽には聞こえなかった。
「ううん、何にも言ってないよ。今日からお隣さんだね。よろしくね。私、部屋に入るから」
急に焦りだした絵理沙先輩が、鍵を開けて鞄を持って、203号室の部屋の中へ隠れるように入っていった。
こんな所で絵理沙先輩と会うとは思わなかった。
偶然の悪戯にしては、運が良すぎる。
絵理沙先輩と話しているうちに陽が暮れようとしている。
西日に強く照らし出されて真っ赤に染まっていた辺りが、段々と暗くなってきている。
階段を駆け上がってくる足音が聞こえてくる。
春陽のすぐ後ろで足音が止まる。
興味を惹かれた春陽がクルリと反対側へ体を向ける。
そこには春陽の憧れの女性が立っていた。
「あれれ~? どうして春陽君がここにいるのかな?」
小柄な香坂綾香先生が201号室の前に立っていた。
童顔な小顔、クリクリした大きくてこげ茶色の瞳が興味深そうに春陽の顔を覗いている。
少し低い鼻が愛らしい。
「……隣に引っ越してきました」
「そうなんだ~。今日からお隣さんなんだね!」
天女のような純白の微笑みが春陽を包み込む。
それだけで春陽の胸の鼓動は高鳴る。
「明日から頑張って学校へ行こうね。明日、学校で待ってるから!」
そう言って春陽の天女様は201号室へと入っていった。
こんな偶然があっていいのか、幸せ過ぎる。
タオルセットを渡すのを忘れた。
しかし、春陽は綾香先生の部屋をノックすることはできない。
いつまでも綾香先生が入っていった201号室を見つめたまま、春陽は今の幸せを噛みしめていた。
応援よろしくお願いいたします(#^.^#)
久しぶりの現実恋愛の長編連載となります(#^.^#)