自然分娩 長女の場合
長岡更紗さん主催の「パパママ誕生企画」参加作品です。
最初の子どもを出産したのは22歳の時でした。
最近の出産状況を考えると早い方だったでしょうね。助産師さんや看護士さんたちが全員年上だったので、私が妊娠したことがわかると、皆さんオロオロして心配してくださいました。
子どもが子どもを産む。
彼女たちの脳裏にはそんな言葉が浮かんでいたのかもしれません。
私の身長が平均よりは低くて、お化粧も薄かったので、学生だと思われていたのでしょう。(笑)
しかし私は一応、短大の幼児教育科出身なのです。乳児院の実習で赤ちゃんにも接していましたし、精神障害児施設や保育園での保母経験もありました。(保育園では3歳児の担任でしたが・・。)
つまり経験は浅いものの、子育てに関してはセミプロぐらいの自負は持っていました。
ただ出産は初めてです。
実母も義母も初孫の誕生に浮足立っていたので、自分たちの経験をもとに事細かにいろいろと口を出してきました。
雑誌の情報も合わせると膨大な情報量です。実際、その情報に翻弄されました。
子育ては幼児教育の専門書がたっぷりあったので「小児発達概論」とかをよく読みましたが、出産の方は門外漢だったのです。
結婚して始めて生理が来た時には泣きました。
子どもが出来ないのではないかと不安だったのです。可愛いですねー。
うちの娘は三人の内二人がまだ子どもに恵まれていません。一人は不妊外来にも通っていますし、一度、子宮外妊娠をして入院も経験しています。
その二人の娘たちに言わせたら、一度の生理で悩むなんてちゃんちゃらおかしいでしょう。
しかし昔は子どもが出来なかったら離縁されていたのです。私たちの時代でも長男の嫁への過剰な期待がありました。・・・そうです。うちの旦那様は田舎の親との同居家庭の長男だったのです。
ある意味三重苦だよねっ。
そして義父が兄弟で有限会社を経営していたので周り中に親戚がいたのでした。(^_^;)
結婚の後は妊娠だろうという空気がそこら中に充満していたのです。(笑)
次の生理はきませんでした。
なんと新婚二か月目にして、プレパパママになったのです。
そこからの義母の注意は多岐を極めました。
自転車に乗るな。ちょっと長く車に乗るのもいけない。吐き気がする時は食べられるものだけ食べろ。
というのが妊娠初期の注意です。
つわりの時には、何故か「たらこ」が異様に欲しくなりました。
それでも若くて新嫁さんだった私はまだ遠慮の塊でした。お財布は義母が握っていたため、高いたらこを買ってくださいと言えなくて、ソーセージみたいになっている「ウソたらこ」ばかり食べていたのです。
つまり長女の主要な器官はウソたらこで構成されていると言っていいでしょう。
お腹が大きくなってくると、今度は「トイレ掃除をしなさい。」と言われます。
何でもトイレ掃除をすると色の白い子が生まれるそうです。ホントかよ~。
私はせっせとトイレ掃除に励みました。神様の恩恵か義母の思い込みが強かったのか、本当に色が白い女の子が生まれました。
昔は「色の白いは七難隠す」と言われていましたからね。長女もポイントを稼いで生まれてくれて良かったです。やれやれ。
妊娠後期にとんでもない事件が起きました。いや、私が事件を起こしました。(^_^;)
二階からトントンと階段を下りていて、お腹が大きくて足元が見えなかったのでしょう、階段を踏み外して落っこちてしまいました。
ここで良かったことが二つあります。
うちの旦那様が石橋をたたいて渡らないぐらい慎重な性格だったので、階段の下で私を心配して待っていたのです。つまり途中で手を差し伸べて最後まで落ちるのを止めてくれました。
そして私も咄嗟にお腹とお尻をかばって、右ひじから階段に落ちました。
そうしたらなんと厚い木の階段が端から端まで真っ二つに割れてしまったのです。
すごいエルボードロップでしょ。女子プロレスでやっていけたかも・・。
こんなことで事なきを得たのでした。やれやれ。
義父が翌日にすぐさま滑らないシートを階段に貼ってくれたのは余談です。困った嫁さんですね。(笑)
さぁ、出産への序章です。
お正月に旦那様の兄弟が全員家に帰ってきていました。旦那様は男ばかり四人兄弟の長男なんです。むさ苦しいでしょ。
そのお客さんたちが帰った翌日の1月5日は妊婦検診の日でした。
検診では「この1週間以内に出産になる確率は70%。」と言われました。
それを聞いた私が考えたのは本屋へ行くことです。出産したらしばらく出かけられないだろうと思って、車に乗せてきてくれていた旦那様に頼んで、帰りに本屋へ寄ってもらいました。
あちこちと、それこそ星新一さんのショートショートなんかを立ち読みして物色していたら、何故かふわふわと眩暈がするのです。
慌てて旦那様を探して連れて帰ってもらいました。本屋を短時間で切り上げたのなんてあれが初めてだったと思います。
その後、夜に少し下血がありましたが、検診の日にはそういうことがあるのであまり気にしていませんでした。
ところが夜中を過ぎた頃からお腹がシクシクと痛くなってきたのです。
旦那様は大イビキで寝ています。
午前2時を過ぎた時にとうとう旦那様を叩き起こしました。
二人で痛みの間隔の時間を計ってみましたが、とにかくベースはずっと痺れたように痛いので、どこからどこまでが区切れるのかさっぱりわかりません。
明け方に義母を起こして聞いても「もう30年近く前のことなのでその痛みが出産の予兆なのか何なのかわからない。」と言うのです。とうとう病院へ電話することになりました。看護士さんは「初めてだから時間がかかると思うけど、心配だったら一度病院へいらっしゃい。」と言ってくれました。
東から登って来る朝日に向かって、病院へ行きました。
分娩準備室では、先客の妊婦さんが一人で文庫本を読みながら朝ご飯を食べています。こっちはご飯どころではないぐらい痛いのに、凄い余裕だなぁと驚きました。それに「本を読んだら目が潰れる。」のではないでしょうか?うちの母がそればかり言っていたので、私は隠れてこそこそ本を読んでいたのです。(笑)
私はウンウン言っていましたが、側では病院のスタッフの人たちがテレビドラマの話を賑やかにしながら朝の掃除をしていました。
私としたら一生に一度の大イベントなんですが、病院の人たちにとっては日常チャンメンの出来事なんだなぁと思ったことを覚えています。
先に分娩室に入ったのは隣にいた先客妊婦さんでした。
全然痛がってなかったのに、大声をあげたと思ったら急に叫び出したのです。
「殺せーーーーーーーっ!」「死ぬーーーーーーーーーっ!」
あまりに毒舌で叫び続けるので、看護士さんに「静かにしなさいっ!」と怒られていました。(^_^;)
私は怒られながら子どもを産むのは嫌だなぁと思ったので、地味にウンウン唸ってました。(笑)
あまりに私が痛がっているので、先客さんの出産補助を終えた助産師さんが見に来てくれました。
そうして他の人と相談して、掻爬?することになったようです。
子宮膜を破ると痛みがドンドン激しくなりました。
夜中からずっと痛いので、もはや体力も限界になって朦朧としてきていました。
とうとう私も分娩室に入ります。
最初は「今はいきんだらダメっ!」と言われたのが辛かったです。いきみたくてたまらないんですもん。
今度は「いきんでっ!」と言われた時に、痛みで力が入らずに気を失いそうになったのです。そうしたら大声で怒鳴られました。
「今寝たら赤ちゃんが死ぬよっ!」
この言葉を聞いて、あちらの世界から帰って来ました。そして初産の下手くそないきみを頑張ったのです。
「頭が出た。」と言ってくれた時にはホッとしました。
後は一度のいきみでスルリと出て来てくれたのです。
「女の子だよっ。おめでとう!」
という言葉に心底安心しました。出産て、ハンパねぇ~というのが実感です。
後産の後、男性のお医者さんが会陰切開の痕を縫ってくれるのですが、疲れ果てていて恥ずかしいも何もありません。母は強しと言われるのは、こういう経験を経ていくからでしょうね。
母になったとともに、恥ずかしさを感じないおばさんへの第一歩を踏み出したとも言えるでしょう。
産後はとにかくあそこが痛いのでドーナツ座布団を手放せません。
そして、一番驚いたのが顔中にハシカの赤いブツブツのように出た血栓です。力を入れて下手くそにいきんだので、毛細血管がどうにかなったんでしょうね。
分娩室から帰って来た私を見て、旦那様が一番に言ったのは「どうしたんなら、その顔?!」でした。
私は知らなかったので、鏡を見せられてびっくりしました。
人間の力ってすごいですねー。
さて分娩室の外ではと言うと、初孫だったために双方のジジババが揃っていました。
しかし昼前になって、「お腹が空いたな。初産だからまだまだ時間がかかるでしょう。」「そうですな、お父さん。それじゃあ昼食を食べに行きますか。」と四人そろって病院の向かいの食堂へ食べに行っていた時に、長女は誕生しました。
ゆるいっ。ゆるすぎる。
旦那様が一人、家族控室で留守番してくれてたので、まぁ良かったといえば良かったんですが・・。
外野というのはそんなものですね。
私が入院した病院は時間になると母親が揃って授乳室に行くシステムでした。そこで新生児室との境の窓から渡される自分の子どもを受け取るのです。
いつも看護士さんに許しを得て、子どもを貰ってるみたいと思ってました。我が子というより看護士さんの子のような気がしたものです。
十人ぐらいで集まってお乳を飲ませていると、お乳を飲むのが上手い子、下手な子といますし、新生児の頭の形も様々です。
うちの長女はお乳を飲むのが下手で、途中で安易に口を放してビューピュー顔に飛んできたお乳でよく溺れそうになっていました。(;^ω^)
そして頭が横に大きいのです。他の子は産道を通って出てきているので細長い頭の子ばかりだったんですよっ。どうりでなかなか出てこないはずだよっ。
産後に困ったのはチヌでした。地元では産後ほやほやの経産婦が力をつけるために栄養のあるチヌというクロダイの一種を食べることになっているんです。
しかしそのチヌの尾頭付きの煮つけを義母も実母も持って来たものですから大変です。
食べろ食べろと言われても、病院の食事も食べているのでそんなに入りません。
ありがたかったのですが「おーじょーしました。」(へとへとになるぐらい困り切りました・方言)
とにかくこんな感じで、最初の出産は終わったのでした。
しかし二回目は楽だよねと思っていた次の妊娠がとんでもないことになるのです。
次回も盛りだくさんの内容です。(〃▽〃)