森の泉で
家族にトラウマがある人はキツいかもしれないです
「ああ!? 今なんて言った?」
管を巻いた父の怒号が狭い居間に響き渡る。ここ数年はいつもの事だ。
「誰も何も言ってないわ、落ち着いてあなた」
慣れた口ぶりで母がそれをたしなめる。それから、台所の影に隠れて深くため息をつき「稼いでだけくれればいいの。家に帰って来なければいいのに」と父の悪口を言った。
朝に猟銃を担いで家を出る父は、夜になるとこうして酒に溺れ情けない男に様変わりする。ちらりと父を見ると、蛸のように真っ赤な顔色で酒瓶を片手に視線を彷徨わせている。
「随分、生意気な目つきだな。糞ガキ」
一瞬だけ視線があい、矛先が僕に向けられた。残るのは後悔、父など見なければ良かったのだ。母は背後でまた「余計なことをして」と、深いため息を吐いた。
「そんな事ないよ、お父さんごめんなさい」
僕はなるべく申し訳なさそうに見えるよう体を小さく丸め、頭を下げた。
「あんだあ!?口答えか?」
しかし、この日は運が悪かった。何もかも。
僕の謝罪を反抗と受け取ってしまった父は、再び怒鳴り声を上げた。そして、無造作に掴み上げたのは一枚の写真たてだった。止まった時の中で幸せそうに笑うのは、他でもない僕とその両親。もはや唯一残った、我が家の幸せな記憶。それは、僕が家族を見限らずにいられる精神的な支柱だった。父は写真たてを僕に向かって投げつけるも、狙いは定まらず壁に当たり粉々に砕けた。
「父さん!」
僕は思わず、声を荒げガラス片の中から大切な写真を拾い上げた。それから、息が酒臭い父の眼前に突きつける。
「これ、ずっと前に森の泉で撮った大切な思い出の写真なんだよ!? 覚えてないの?」
父は定まらない視線で、あんぐりと口を開けたまま曖昧に「ああ!?」と返事をした。
「あの日は珍しく、父さんがピクニックを提案したんだよ。僕も母さんも嬉しかった。母さんなんて、張り切りすぎてサンドイッチを山ほど作っちゃって、結局、食べきれなかったよね」
父は、まだぼんやりとしたままだった。
「ねえ、覚えてない? あの頃は楽しかったな」
僕が寂しげにそう呟くと、父は丁寧に写真を受け取った。そして、それをそのまま破り捨てた。
「こんなもんは、何の慰めにもならねえ。いいから酒持ってこい」
父が放ったその言葉に、僕は思わず激昂し胸ぐらを掴んだ。しかし、まだ十代も半ばの僕が、体格のいい父に勝てる筈もなく、握り拳で殴りつけられる。
「あの時の父さんは、決して手をあげたりしなかった」
恨みがましい視線を浴びた父は、殴られ地面を転がる僕の腹を強く蹴飛ばし、言った。
「お前がいると酒が不味くなるんだ。今すぐ出て行け!」
その売り言葉を、僕は買った。
「ああ! 言われなくてもこんな家、すぐに出ていくさ!」
僕は家を飛び出すと、納屋からカンテラだけを持って駆け出した。母が後ろで何か叫んでいたが、気にも止めなかった。
「あんな家……僕は追い出されたんじゃない。僕があいつらを見限ったんだ」
そう、何度も何度も、呪文のように呟きながら暗くなった道を歩く。行先は決めていなかったが、自然とあの泉を目指していた。
夜の森は危険だから近づいてはならない、と幼い頃に父に言われた事があった。足元は暗くて見えづらいし、夜行性の獰猛な動物たちが闊歩しているからだ。だけど、今そんなことはどうでも良かった。破り捨てられた思い出を、この目で確かめに行くのだ。
低い縦笛のような、不気味な鳥の鳴き声が聞こえる。湿った、それでいて澄んだ不思議な森の香りがする。息を飲む、やはり夜の森は恐ろしい。今からでも遅くない、帰ろうか。大きく頭を振る。「出ていけ」と言われた瞬間が何度もリフレインした。「あんなやつの所へ帰るものか」もう一度、強く決意を口にし森への一歩を踏み出す。泉の場所は朧げにしか覚えていない。何しろ、もう三年も前の話だ。そう言えば、家族がバラバラになったのっていつ頃からだっただろうか。考えていると、ガサガサと草をかき分けるような音が響いた。火の燈ったカンテラをそちらへ向ける。そこには、大きな熊がいた。悪手だった、熊と目が合ってしまってからそう気がつく。もし、森で熊と出くわしてしまったらどうすればいい、父の言葉を思い出す。「死んだふりはダメだ。奴らは死体だろうと貪るからな。両手を大きく広げて、なるべく体を大きく見せるんだ、奴らは案外臆病だからな、それで逃げてくれる」一か八かの勝負だ。その言葉の通り、両手を上にあげて勢いよく立ち上がった。しかし、熊はこちらを一瞥するとまるで興味がなさそうにのそのそと何処かへ歩き出した。作戦がうまくいったというより、まるで初めから興味がなかったようだ。
気付くと、淡く薄緑に光る虫が宙を舞っていた。ゆらゆらとまるで線を描くように、吸い込まれるように何処かへ向かう。熊の後ろ姿がまだ見えた。虫たちと同じ方へ向かっているようだ。もしかすると、暫く同じ方へ歩くと、その疑念は確信に変わった。
「泉だ!」
それは思い出よりも綺麗な、お伽話のような光景だった。泉は差し込んだ月明かりに照らされ、銀色に輝いており、舞う夜光虫の群れは星のように煌めいている。花畑を歩く兎の群れと、それを喰らうことなく寝転ぶ狼。目の前を歩く熊が、一度こちらを振り返り再び顔を泉へ向けた。まるで「来いよ」とでも言いたげに見えた。
泉の脇に立つ一際大きな樹に、熊はもたれかかった。
「あら、可愛らしい客人ですこと」
まるで、清冽な水のように透き通る声がした。熊の頭を撫でる、すらりと背の高い女性は僕を見ると柔和に微笑んだ。
「そう、あなたがここまで連れてきてくれたのね」
そう女性が言うと、心なしか熊が頷いたように見えた。
「あなたは?」
僕は、よく状況が飲み込めずにいた。そうして、情けなく問いかけることしか出来なかった。
「私は生まれた時から此処にいる。名前はないわ。でも、人間たちはエヴァーグリーンと呼ぶわね」
エヴァーグリーン、その名前は嫌と言うほど知っている。この"森"の名前だ。じゃあ、目の前で佇むこの女性は……「森の女神様?」
僕がそう呟くと、女性ははぐらかすように笑った。
「あなたこそ、こんな夜中に一人でどうしたの?」
その女性の問いに、僕は上手く答えられず俯いた。
「誰しも言いたくないことの一つや二つあるものよ、気にしないわ」
女性は聖母の宗教画のように微笑むと、泉を指差した。
「今日はね、森のパレードなの。森の生き物たちがみんな集まって楽しい一晩を過ごすのよ。いつもは仲が悪い動物たちも、今夜だけは特別。特別な夜なの」
ああ、それで熊は僕を襲わなかったんだ。狼も兎を襲わない。宙に浮かぶ虫たちは、淡く明滅しながら踊っているようにも思えた。
僕たちは、仲直り出来るのかな、昔みたいに。
目の前に手が差し伸べられた。
「辛い夜は踊り明かしましょう」
女性ははにかんだ。気分じゃなかったけれど、それも良いかもしれない。例え、悩んだところで解決するものじゃない。一体、何がいけなかったんだろう。まだ、僕にはそれがわからない。差し出された手を取り、僕らは虫たちの照らし出すステージへと向かう。
女性は躊躇うことなく泉へ向かっていく「いや、このままじゃ水に浸かっちゃいますよ」
僕の制止に女性はただ「信じて」とだけ言った。こうなりゃやけだ、今なら水中でダンスだってしてやれる気分だった。そう思っていたが、予想外にも僕の体が水に浸かることはなかった。それどころか「嘘だろ、水に浮いて!?」体はどういう原理か、水の上を歩いていた。感触は、不安定な泥濘を踏みしめているような、そんな感じだ。
「1.2.3 1.2.3」
女性はワルツのリズムで踊る。恥ずかしいがダンスの経験はないので、エスコートされる形でついていく。数分ほどそうしているうちに段々とコツがわかってきた。周りでは、熊や鹿など様々な動物たちが、リズミカルに動き回っている。虫たちも、明滅で拍をとってくれているようだ。まるで、森全体が僕らに合わせてくれているみたいだ。「すごい」思わず漏れた感嘆に、女性は「楽しい?」と一言尋ねた。楽しいです、と言おうとして、上手く喋れなくて、それで初めて自分が涙を流していることに気がついた。それから、言葉にならない感情が喉元までせり上がったまま、踊り続けた。
「楽しかったです」
嗚咽交じりの声で、切り株に腰掛けた女性に礼を言った。「こんなに楽しかったのは久しぶりで」腕で乱暴に涙を拭い去り、女性と目を合わせると彼女は少し寂しげな表情で「辛いことがあったのね」と慈しむように僕の頭を撫でた。「父さんが僕を殴ります」「母さんは何も言ってくれません」堰を切ったように言葉が勝手に溢れ出してくる。「もうどうしたらいいか、わかりません」女性は黙って相槌をうち、取り留めのない話を聞いてくれた。「愛されたいのね。でも、自分が愛される自信がないのね」その言葉に、心が揺さぶられるのを感じた。瞳から大粒の涙が溢れ、収まりかけていた嗚咽がせり上がってきた。「大丈夫、大丈夫だから。もう大丈夫よ」女性は優しく僕を包み込んだ。長らく、得られなかった安堵。抱擁、全てが許される感覚。愛されたかった。許されたかった。僕も女性を抱きしめ返す。「弱くてごめんなさい」激情を堪えるように、女性の肩に顔を埋めた。「あなたは十分に強いわ」数度、深呼吸したあとで僕は顔を上げた。「本当は両親とやり直したいんです。前みたいに、皆んなで笑い合いたい」女性は、僕の顔を両手の平で包みまっすぐ見つめながら「あなたなら出来るわ。それに今日は宴の日だもの、きっと何もかも上手くいくわ」と言った。不安げな顔をした僕を見て「もし、上手くいかなかったら、その時はまたここで踊りましょう。どんなものだって受け入れる、それがこの森だから」その言葉を聞いて、僕はもう一度向き合う勇気を貰った。"ちゃんと僕を愛して"そう両親に伝えるんだ、捻くれる事なく真っ直ぐに。僕は礼を言って、泉を後にした。
日が登る前に、急いて森をかける。燐光を放つ虫が、道案内してくれているようだ。森の深くにいた筈なのに、すぐに視界が開けてくる。森と外の境界線に近づくと、聞き慣れた声がした。それは母の声だった。
「母さん」
僕が姿を見せると、うっすらと涙を溜めた瞳で抱きとめられた。
「無事でよかった。本当によかった」
心底安堵したようで、母はそのまま崩れ落ちてしまった。僕は膝立ちになって、母を支える。「僕を探しに来てくれたの?」母はその問いに「当たり前じゃない。お父さんと手分けしてずっと探していたのよ」と答えた。「お母さんもお父さんも僕のこと嫌いだと思ってたよ」僕がそう言うと、母は再び強く抱きしめた。「ごめんね、ごめんね。愛してるわ」と、その一言が心底嬉しくて「僕もだよ」と応えた。
「私が臆病だったの」
帰路の途中で母が言った。「お父さんが、いつの間にかああなって、私は向き合うのが怖くなって何もかも嫌いなふりをしてたの」母は自分の気持ちを話してくれた。これは、お母さんとしてではなく、一人の人間としての本心なのだろう。「僕も同じだよ。ちゃんと聞くこともせずに、嫌われてると思いこんでた。だから、悪いのはお母さんだけじゃないよ」そういうと、母は僕を優しく撫でた。「そして、きっとお父さんも、話せないこと、話したいことがあるんだと思う。だから、ちゃんと向き合おう。怖いけど、ちゃんと話そう」僕が決意を秘めて言うと、母はしっかりと頷いた。
家の鍵は開きっぱなしだった。それ程、二人は必死に探してくれたという事だろう。薄暗い居間で、お父さんは静かに猟銃に弾を込めようとしていた。それは酷く疲れ切った表情だった。
「お父さん?」
僕が話しかけると、父は一度弛緩した顔を見せ、すぐに手元の猟銃に視線を向けた。
「俺は、いつの間にかどうしようもない屑になってしまっていたんだなあ」
お酒が入っていない時の、知性に溢れる声色で父は独り言ちた。
「ただ、愛する家族を守りたかっただけなんだ。猟師として育ち、仕事はこれしかなかった。街の奴らに何を言われても、母さんやお前の笑顔の為に頑張れる筈だった」
深い溜息が聞こえた。父は一つ弾を込める。母は首を横に振った。
「初めは軽い気持ちで酒に逃げた。いつの間にか素面では、陰口に耐えられないような情けない男になっていた。家族の笑顔を守る為に強がり、結果として家族を傷つけていた。その事実を忘れる為にまた酒に逃げて、このザマだ、本当にどうしようもない」
父はがっくりと項垂れる。「大丈夫よ、また昔のようにやっていけるわ」と母が言った。
父は首を横に振った。「その資格はもうないさ」悟ったような、声だった。猟銃の引き金に指を置いた。その時になって、ようやく父が何をしようとしているのか、わかった。きっと、父さんも僕や母と一緒だ。愛されたいのに、愛される自信がない。例え、それが身から出た錆びだとしても、いや、そんなことはもういいんだ。僕は、泉で森の女神に言われて気がついた。僕は何があっても父と母の事を愛しているんだ。それを、ちゃんと言葉と態度で伝えなくちゃならない。
「父さん」
僕は父をしっかり見つめた。
「僕はお父さんの事を愛してるよ。殴られたのは痛かったけど、それより抱きしめてくれたあの日の父さんの事を確かに愛してるんだ」
父はがっくりと項垂れた。
「駄目だ。もうあの時の俺は……」
その諦めきった言葉を制した。
「どんな事があっても、僕のお父さんはこの世にたった一人しかいないよ。僕はお父さんを愛してる。ちゃんと両手で抱きしめてよ」
ゆっくりと父ににじり寄る。父は逡巡したあと、猟銃を手放し、机に置いた。それから、ゴツゴツとした巌みたいな手で僕の体を抱きしめ「ごめんな、本当にごめん」と何度も何度も呟いた。「愛してる」僕の言葉に父も「俺もだ、愛してるよ」と応えた。そこにすぐに母も加わり、その日は三人で川の字になって寝た。
「それでね、あの晩はここで女神様にあってね、森全体が宴みたいだったんだ」
あれから、再び三人で森の泉へと出かけた。「ほお、それは凄いな。お父さんはこの森でずっと狩をしているが、そんなのは見た事がない」
あの後、お父さんは完全にとはいかないものの禁酒をし始め、酒が入っても決して暴力は振るわなくなった。家庭の中に笑顔が増え、幸せな毎日を過ごせている。
「さあ、二人とも今日はお母さん、頑張ってお弁当作ったからね」
そういって、籠を開けるとびっしりと山ほどサンドイッチが詰められていた。
「これ食べきれるかなあ」
僕が呟くと「あの時よりデカくなったんだ、いけるだろ。リベンジだ」と父は鷹揚に応えた。あれから、僕は森の女神には会えていない。内緒で夜の泉に向かっても、そこは厳かな雰囲気に包まれてはいるものの、あの日の泉とは違かった。ひょっとしたら、あれは夢だったのかもしれない。ふと、優しい風が吹きわたった。泉のほとりの大きな樹が揺れ、木の葉がそよぐ。それはまるで、あの女性が手を振っているようにも思えた。
御都合主義な話だとは思います。実際の家庭は、ああなったら殆どは元のようには戻れないでしょうから。家族とは最も近くにいるからこそ、難しい関係性ですね。