第二話
誘惑する者。
一ノ瀬優の胸の谷間に、的場薫の右手は埋まっている。
ふっくらとした感触に暖かい体温が掌を包み込み、心臓の鼓動が腕を通して薫の体に送り出すように早鐘を打つ。
はっきり言おう。
凄く心地の良い感覚である。
いや、堪能している場合では無かった。
「お前が、アタシを生かしてくれたんだ」
一ノ瀬優は朗らかに笑む。
薫は言っている意味が分からないが、この状況に赤面していた。
そんな薫に彼女は優しく告げる。
「お前に貰った命だ。お前の為に遣うぜ」
心音が掌を力強く打ち返す。
それは紛れもなく、一ノ瀬優が生きている証拠である。
それはそれとして、この状況はかなり問題である。
「イ、イチ、そろそろ離してくれ」
「ん? 何でだ? ほれ、ちゃんと心臓動いてるか確かめろよ」
一ノ瀬優は取り乱す薫を他所に、自分の胸に薫の手を押し付ける。
その口元はにやりとしていた。
「分かっててやってるだろ!」
薫は無理矢理に手を引っ込めた。
一ノ瀬優はにひひ、と笑う。
完全にからかっている笑い方だ。
「自分の胸を異性に触られて、嫌じゃないの?」
「薫なら良いんだよ」
「どういう意味?」
「そういう意味だ」
恐らく異性として見られていない、という事だろうと納得する薫。それは何処か、寂しく感じた。
その哀愁はこの際置いておくとして、薫は気になっている事を問い掛ける。
「それで、僕が生かしているってどういうこと?」
「ん? それはだなーーーー」
一ノ瀬優が何か言おうと口を開き掛けたその時、「おーい、薫くん!」と不意に声が響いた。
驚いて振り返ると、校舎の出入口辺りで予想外の人物が大手を振って薫を呼んでいた。
クララ・クラーク・クランは携帯端末を片手に、校舎の屋上は出ていた。
この学園で一番高い場所。
学園の様子が一望出来る場所に、クララは立っていた。
この場所からは色々な景色が見える。
訓練の為かグラウンドを駆け回る生徒の姿。
図書室に籠って何やら調べている生徒の姿。
和気あいあいと語らい合う生徒の姿。
ここからなら何でもお見通しだ。
一ノ瀬優が、的場薫を誘惑している様も、ありありと眺める事が出来る。
薫もモテるのだな。
それがクララの率直な感想だった。
別にクララ自身、的場薫と付き合っていたりとか付き合いたいとかいう意識は無いつもりでいる。前にも言ったが、クララは的場薫にとっての奴隷でしかない。
だから、的場薫が求めてきたならば、それ相応に答えるまでで。その程度の認識しか無かった。
恋愛感情等は、微塵もない。
「…………不整脈?」
クララは自身の薄い胸に手を当てながら、小首を傾げる。
一ノ瀬優が的場薫に迫る様子を眺めているだけなのに、鼓動が早鐘を打つ。何か警鐘を鳴らすように、血流を早くする。
それが何を意味するのか、長考に至る前に、片手に持っていた端末が着信を報せるべく微震を始めた。
端末のディスプレイを見ると、非通知からの着信と表示されていた。
しかし、クララには誰からの着信か分かりきっていた。
「はい、もしもし」
通話表示をタップして、端末を耳に当てる。
心地好い声音の女性の声が、受話口から響いてきた。
「クララちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
他愛ない挨拶。
それだけでも多少の緊張をしてしまうのは、相手が相手だからだろう。いつもの事だ。
「それじゃ早速、報告をなさい」
「はい」
彼女に促される形で、クララは報告を始めた。
前回の出撃でのこと。
任務報告をするように、クララは淡々と見聞きした事を語った。
嘘を付いたところで得は無いし、どうせ彼女は全て知っている。
「そう、貴女はまたしても、彼を危険な目に合わせたのですね」
全て語り終えたクララに、彼女は非難げな声を上げた。
刹那、足元からぞわりと悪寒が立ち上ってきた。クララから冷や汗が一つ、額を伝って落ちた。
また、あれが来るのか。
クララは恐怖し、同時に覚悟もした。それも束の間、「まぁ、良いでしょう」と彼女は言った事で悪寒が嘘のようにたち消えた。
「今回は彼も無事に帰って来たようですし、不問と致しましょう」
声色固く、彼女は語る。
クララは気付かれないように、小さくほっと安堵の息を吐く。
またあれに蹂躙されるかと思うと、それだけで恐怖でどうにかなってしまいそうだ。
「それで、面白い事が起こったようですね。一ノ瀬優が“死んだけど蘇った”、と」
「詳しくは分かりませんが、彼の証言によれば」
一ノ瀬優が戦死した。
彼は通信を通して、そう語っていた。
しかし、彼女は生きている。その証拠に、今、クララの眼には彼女の姿が映っている。
彼女は今、元気に的場薫を誘惑している。
「彼は何と言っていますか?」
「驚いている様子でした。どういう理屈で彼女が蘇ったのか、分からないという様子です」
「貴女は、どう思いますか?」
「私にも分かりません。そもそも、本当に一ノ瀬優が死んだのかも分かりませんので。けど、彼に限り死亡を誤診したとは思えないので…………」
クララの見解に、彼女は「そうですか」と興味なさげに呟いた。
「そろそろ、潮時なのかも知れませんね」
「はい?」
「いえ、こちらの話です。貴女は引き続き、監視と護衛に務めなさい」
「はっ、了解しました」
それを最後に、一方的に通信が途切れた。
彼女の言葉は気にかかるが、クララは携帯端末をポケットに戻すと、校庭でじゃれ合う的場薫と一ノ瀬優の方へ視線を向けた。
一ノ瀬優が薫の手を取り、胸に当ててる姿が見て取れた。
その様子を眺め、クララは下を向いて自分の胸に手を置いてみる。
「…………まぁ、ステータスって言うし。悔しく無いし」
クララは自分を励ますように呟き、大きく頷くのだった。
久しぶりの更新ですが、特に進展無くてすみません…………




