第8話
女神『セレスティア』によって展開された大結界。
500年近い年月を守ってきた人類生存のための最大の防壁だが、実はそれ単体では早期に破壊されていたことはあまり知られていない。
展開された結界を強化、維持してきたのは主無き後に聖王国の権力者となったエレインによる施策のおかげなのである。
四方に建てた砦を使った強化用の術などを含めて、彼女の功績を上げればキリがないだろう。
女神が命を用いて世界を守る種を撒いたのならば、エレインはそれを育てた者である。
そして、彼女に協力して世界を守った者たち、それこそが四方の砦を守る将軍たちなのだ。
胸に如何なる思惑があるとしても、彼あるいは彼女たちがエレインの協力者であり、同時に強大な力を持っているのは事実だった。
各戦線、四方の決死の防衛戦により今日も世界は恙なく動いていく。
明日には壊れるかもしれない日常を、神に代わって彼らは守っているのだった。
――北方、この場所を聖王国の民は地獄への入り口と言う。
理由は単純明快、日常のように広がる『悪夢』を見ればすぐに理解出来る程度のものである。
暦が大結界内に到達するための戦いで遭遇した魔獣の群れたち。
総体としては把握出来なかったが万は軽く超えたであろう狼型の魔獣『ガルム』の群れ。
視界を埋め尽くさんばかりだったあの群れとは比較も出来ないほどの圧倒的な数が蠢いている。
いや、もはや数という言葉は意味がないのだろう。
大地となった黒き泥が、ただ朴訥に前に進んできている。
見渡す限りの、それこそ地平線の彼方まで大地の色は窺えず、黒い色だけが広がっていた。
ここは人類に残った大地の中でも最大の戦場。
魔獣たちが最初に降り立った地である旧帝都へと繋がる北方街道。
地獄への入り口を塞ぐ強大なる北の砦『ラダマンティス』である。
「ふふーん、いやはや既にここ数百年の作業といえあ、相も変わらず――」
最前線にして、最終防衛ライン。
この地を――大結界内を蹂躙しようと黒い泥たちが雪崩れ込んでくる。
徐々に狼の形を取るもの、クマの形の取るもの、種類は様々であり数も膨大な悪夢は確かな現実として彼らに迫る。
おまけに後方、僅かに遅れて巨体を持つ魔獣が追いかけていた。
山のごとき巨大さ、暦の世界の生き物ではあり得ないほどの巨体はもはや怪獣と呼ぶべきだろう。
高さは目算100mを超えて、全長もまた150mほどとなる。
歩みは遅いがその体躯自体が武器であった。
「――醜悪だね。これは早く駆除しないといけないな」
大地を進軍する軍勢を天の彼方から見下ろす者はその様子を嘲笑う。
何を目的とするでもなくただ前に進むだけの木偶人形たち。
戦を求める彼からすれば、能力は合格していても楽しいかと言われれば否であった。
彼は戦神と呼ばれるほどの契約者。
元は人間でありながらも、その実力は神にすらも迫る。
残った契約者の中でもナンバー2。
エレインを除けば彼に単独で優るものなど存在しない。
金の髪、顔に刻まれた傷の多さは彼の乗り越えた戦いの数を語る。
「さあ、いつもの時間の始まりだ! 盛大に、歓迎するよッ!」
北方将軍『カール・ロンギース』。
旧帝国、最古の契約者にして最強の契約者。
武力において聖王国の頂点に立つものが剣を片手に無限に近い軍勢を相手取る。
今はまだ地を這うだけの軍勢は的に過ぎないが、状況は直ぐに変化していく。
泥が集まり、形を成していくのだ。
巨大な咢、空を舞う翼、このまま時をおけば神を喰らう獣となる終末の軍勢。
しかし、彼もまた――普通ではない。
契約者の、この世界の神に属する者たちが保持する特権。
ここまで追い込まれながらも抗戦することの出来る理由が、ついに姿を現す。
「――顕現せよ、我が魂。主命に従い、天地を総べる覇者とならん!」
自身に対する誓句と共に、彼の中に眠る力が目覚める。
天空神――大地と対なす空を支配した神の力。
その残照が彼の中に宿っている。
母なる大地に対抗した偉大なる天空の父。
この世界における1つの究極が法則となって、理の外にいる異物たちを殲滅する。
降り注ぐ光は神の怒り。
彼の眷属である東方将軍『ディオン・グラスエルズ』のお株を奪う圧倒的な雷光が全てを焼き尽くす。
「消えるといい。解放『アースメギン・ソール』ッ!!」
いくつもの雷が軍勢を薙ぎ払う。
大地の色が僅かに表れ、黒いシミが広がる。
雷光は止むことなく、全てを滅するまでは止まらない。
背後から迫る巨大な魔獣も自然の暴虐に抗う力を持ち得ない。
このまま待っていれば、圧倒的な数であろうとも滅する事は可能だろう。
再生しようと集まる端から雷撃は敵を消し飛ばす。
世界に刻まれた法則は、他の法則で書き換えられない限りは永遠に発動する。
この場は既に空を失い、雷雲が降り注ぐ地獄と化した。
大地をも飲み込む輝きは眩き光で全てを滅ぼそうとしている。
「……ああ、本当に、不快で、鬱陶しい奴らだよ」
言葉とは裏腹に彼の言葉には警戒心が含まれていた。
有利なのはカールであり、不利なのは魔獣。
描かれた光景はそれを補強する要素しか存在していない。
にも関わらず、何故だろうか。
彼は微塵も油断を見せない。
「さて、第2段階の始まりだ。――聞こえているね、ノーア。空にもくるよ。ここからが」
『本番だ、でしょう? それぐらいは察することが出来ますよ』
飛び散った黒い肉片が小さな塊となって宙を舞う。
空を覆い尽くす虫の群れ。
悪食の化身たちは光の裁きで消し飛ばされようとも、無限の数で対抗してくる。
どうにもならない悪夢の群れ。
やられた数だけ、奴らの数は増えていく。
そして――
「来たか、トカゲ」
魔獣の軍団において最も強い存在。
気が付いた時には自然とそれをこのように呼ぶようになっていた。
「神を喰らったもの、ドラゴン! くうっ、いいね。悪くない戦だよ。いつも通りだが、だからこそ遣り甲斐も変わらない!」
嬉しそうに敵に迫るのは、彼の気質からだろうか。
聖王国の最強の剣にして、盾が今日も最大の拠点を守り抜く。
魔獣最大の進撃ポイントは今日も変わらずに地獄であった。
――西方、一見すれば鬱蒼とした森が広がるだけの場所。
明るいとは言えないが、魔獣しか見えない北の地獄と比べれば長閑な光景が広がっている場所と言えるだろう。
大地を埋め尽くさんばかりの軍勢はおらず、圧倒的な個体も少なくとも目に見える範囲にはいない。
広がるのはわずかばかりの森と旧街道の残骸だけ。
砦で24時間体勢で監視する者たちにとっては朗報としかいいようのない素晴らしい時間が過ぎ去っていく。
しかし、此処に努める者たちは気を抜けない。
理由はたった1つ、他の戦場ではまだ普通の兵士たちも役割が存在する。
強いと言ってもガルム程度ならば複数で挑めば倒すのは難しくない。
ドラゴンなどの規格外などはともかくとして、戦場での仕事が存在するのだ。
ただ、この西方だけは他とは違う部分が存在している。
「今日は大丈夫そうか?」
「ああ、まだ育って――」
いない、と続けようとした兵士の視界に映ってはならないものが入り込む。
魔獣に支配された大地は黒雲に覆われてしまい、青い空が見えなくなる。
つまり、今の快晴の空は砦のある結界の西端付近がまだ人類の領域であることを表しているのだ。
その蒼いはずの空から、唐突に光が失われる。
空と砦の間に何かがいる、直感した兵士の1人が同僚に向かって叫ぶ。
「――敵襲!」
「了解――」
慌てて駆けだそうとする見張りの1人。
それと同時に、爆音が周囲に響いた。
巨大な何かの叫び。
生きる、という意思を根本から砕こうとする悍ましい雄叫びであった。
全長数十km、正確なサイズは不明の動く天災が西の要塞に迫る。
「しょ、将軍に連絡を!」
「す、水晶が使用不能! こ、これでは……!」
砦を覆いそれでも余るほどの体躯で巨大なクジラのような怪物は悠々と空を泳ぐ。
特殊な力は何もなくとも、その巨体が既に生半可な力を遮断する鎧であり武器であった。
「あ、あああああああああっ!」
ゆっくりと身体を降ろそうとする魔獣を前にしてただの人間に出来ることなどない。
祈りは届かず、この日、四方の守りの要たる要塞が陥落するのだ。
来る破滅を前にして、
「か、神よ……!」
もはや存在しない神に祈るしかなかった。
そう、この世界に神はもう存在していない。
新たに生まれた神は未だに世を知らず、無垢なる怪物のままである。
法を作り、秩序を作り、道を示す存在ではないのだ。
彼の絶望を汲むものはいない。
「――ふふ、可愛らしい子。祈りを捧げるなんて、久しぶりに純情な念を感じて、ワタクシ、気分が高揚しそうですわ」
――そう、神はいない。
しかし、ここにはまだ神に代わる者たちがまだ残っている。
艶っぽい声と共に、退廃的な空気が場に満ちていく。
声は天上の調べ、紫の髪と瞳、豊満な体型はある種の女性らしさに満ちており、異性を魅了してやまないだろう。
雰囲気と合わされば、それはまさしく魔性の女だった。
「か、カシス将軍!?」
彼女の姿を見た兵士の1人が怯えたように声を上げる。
絶世の美しさと肢体を前にして、男が感じたものは恐怖だった。
退廃的な空気は性的なものではなく、終わりを前にした終焉の空気。
つまりは『死』と『闇』で彩られた空間を指している。
彼女こそが、契約者の中で最も死に近き者。
闇と死を司る神から、その役割を受け継いだ万物の狩人である。
「ふふふふ、活きのよい魂が、この場には3つ。あぁ、なんと素晴らしいことですか。我が神よ、汝にこの魂を捧げます」
倒錯した瞳に兵士は映っておらず敵もまた映っていない。
あるがままに、彼女は命を刈り取るのだ。
その手に携えた鎌と死を運ぶ力を使い、悩むことなく走り続ける。
既に壊れた女傑は、主を求めて流離い続けていた。
「――顕現せよ、我が魂。餓える望みのままに!」
鎌に宿った黒い波動が全てを狩り尽くす死の旋風と化す。
「駆けろ、死よ――『グリーフ・ペイン』!」
鎌が触れた箇所が一瞬で腐り落ち、巨体が驚くほどの速度で崩れ落ちる。
生きている以上必ず訪れる破滅の瞬間を彼女のルールは強制的に招き寄せてしまう。
これこそが『死の旋風』――西を守護する魔人の技である。
「く、クハ、はははははははっッ!」
味方であるはずの兵士が怯えたように頭を抱える。
駆け抜ける死に人は恐怖するしかない。
今日も1人。
彼女は大切なものを求めて戦い、望みから遠ざかってしまうのであった。
――南方。
北の地獄、東の戦場、西の猟場と比べればそこは人が住まう世界であった。
港町特有の活気のある空気は今の人類圏の中では希少なものであろう。
そんな街を一望し、海まで見渡すことが出来る領主の館で水色の髪を持つ美少女が筆で何かを認めている。
美しい文字で彩られた文章。
それは招集命令を受け、王都に帰還するための下準備のようなものだった。
代理の責任者、彼女が不在の際の防衛計画などやることは多岐に渡る。
ましてや、彼女はこの地における政治上での責任者でもあった。
魔獣からの防衛は勿論だが、領内の治安維持などにも考えを巡らせないといけない。
「これで、よし」
やるべきことを終えて、彼女は窓の外に視線を向ける。
何も知らない者がこの光景を見てもここが人類の防波堤であり、最後の砦の1つとは思わないだろう。
街に住む人々の笑顔と喧噪は彼女がいる執務室にも空気として伝わってくる。
「うん、今日も良い日。……世は今日も何事もなく動いている。怖い、くらいに」
彼女がまだ幼く、道理というものを知らなかった時、永遠に続くと思っていた日常は何の前触れもなく砕け散った。
散り行く神々、崩壊する秩序。
世界を守る一員として誇りを抱いた日々は終わり、数多の同朋と民を失った。
「あの日から、既に500年。人には遠い歴史でも、私たちには辛い記憶」
埋められない齟齬は広がっていく。
世界が劇的に、唐突に滅びるのならばそれは救いでもあるだろう。
わかりやすい事象には全力で抗えば良いのだ。
結果がどのようになっても、戦いを挑んだ満足感は確かに胸に残る。
しかし、戦う相手すらも見定めることが出来なければどうだろうか。
大結界の中に来てから彼女――南方将軍『リーア・エンタノン』は常に悩んでいた。
戦いの果てが見えない。
終わりのない戦いの中で安住の地を掴んでしまったことが、逆に人から戦うための意思を奪っていた。
「歴史から学ぶ。美しい言葉でも、それを実践するのは非常に困難です。……民にそれを望むのは酷でしょう」
エレインの導きを不足だと思ったことはない。
彼女はリーアにとって姉であり、同時に母のような存在でもあった。
結界内でならば間違いなく最強の存在であろう。
戦闘力ではカールも伍するが総合力が異なっている。
「どうすれば、何をすれば……私は考えて、結局、いつも答えがないでない」
終わりのない戦いに答えを示せる時が来るのだろうか。
いや、もしかしたら既に破断点は超えていて、世界は破滅に向かっているのではないだろうか。
頭の中を過る疑問は多々存在している。
その全てを考え抜いて、答えをだそうとしてきたがそのまま500年が過ぎてしまった。
「セレスティア様によく似た女神様。……間違いなく外には変化が訪れている。変わらないように見えて、確実に終わりは迫っているわ」
神の来訪と新しい契約者は彼女には凶兆としか感じられない。
破滅の足音が聞こえる。
魔獣の群れが、愛する光景を灰燼へと帰す悪夢が容易く描けるのだ。
「……変化なんて、なければいいのに」
彼女は水の契約者。
属性として、世界を構成する要素としてなくてはならない力は強大であり、神から受け継いだ役割に誇りを持っている。
また、彼女は戦力的にだけではなく知勇のバランスもよかった。
他の将軍、特にカールに至っては戦地以外では役立たずどころかいるだけの乱を起こす厄介な存在でしかない。
ディオンもバランスは良いが些か武に偏っている。
個人主義者であるカシスには期待するだけ無駄、と個性が強すぎるメンツの中でリーアは特徴がない存在であった。
エレインと同じ万能型であり、政治も上手いタイプなのが旧聖王国主流派の特徴であるが、彼女はそれを体現する存在と言ってもよいだろう。
そして、だからこそ彼女は考えずにはいられなかった。
自分の出来ること、やるべきことが何なのかを見極めないといけないのだ。
「……エレイン様がどうするかはわからないけど。私も独自に対処する必要があるかもしれないですね」
王都で待ち受けるであろう事態に考えを巡らせる。
必ず時代が動く。
その時を思い、彼女は考える。
そう、彼女は考えることだけはやめない。
たとえ、自分が破滅する瞬間でもその姿勢は変わらないだろう。
「リーア様、失礼します」
「……入りなさい」
様々な考えを巡らせていると部屋にノック音が響く。
誰かがやって来たことを察して、リーアは直ぐに態度を切り替える。
人の前では穏やかで、同時に仕事が出来る存在でなくてはならない。
そして、余裕を見せないといけないのだ。
エレインがそうであるように、彼女の背を見て育った者も同じような歪みを抱えていた。
少女は悩み続ける。
決して行動に起こすことなく、彼女は勝手に諦めて、勝手に絶望していくのだ。
未来に何があるのかなど、神さえも把握しておらず契約者もわからないというのに、彼女だけは何もしない。
バカになって、何かを成そうとした時に初めて道は切り拓かれる。
賢く、優秀なものでは渡れないし、作れない道があるのだと、優しき水の乙女は知らない。
事を動かすことを知らなかった者たちが、激動に居合わせてどうするのか。
その答えの一端であると同時に、この世界における最初の変化がやってくる。
各地の将軍を集めて、聖王国が今後の舵取りについて決断するのだ。
穏やかな日々は終わり、激動の時代がやってくる。
人も、神も、契約者たちもまだその事を知らないのであった。