第4話
異世界『ファールベルト』。
偉大なる大地の女神によって、創生、統治されていた世界。
少なくとも、かつては神の加護の下、絶頂を極めた楽園だった。
美しく着飾る言葉はいくらでも存在している。
あの楽園を知る者にとって、かつての日々を奪還することは強い責務であった。
だからこそ、彼女は今とのギャップというべきものに苦しんでいる。
「時間は残酷です。あなたとの友情も、かつて確かにあった理想も……ましてや悲劇すらも遠くに運び去ってしまう」
今の世界はかつての残照とも言うべきものだ。
日々の糧を得ることに多大な労力を賭し、契約者以外は長き時を生きられない。
神を失い、代わりに得たものは少なかった。
喪失の痛み、何せここは残骸の上にある揺り籠。
「……欠片であっても、意味を失っても私はあなたがいた意味を消させないために此処にいる」
残照の中に最後に残った国家――聖王国。
正式には『セレスティア聖王国』と呼ばれ、大地の女神を崇めていたかつての最大国家である。
その残骸こそがこの場所の名前だった。
人類側に残された拠点はこの王都と王都を中心とした範囲にある僅かな村々と四方を守る砦たち、後は第2の都市『ラックフォール』、そして港町『アルケナス』とその程度しか残っていない。
「この光景を、後どれほど見ていられるか。……神ならぬ我が身ではわからない。いえ、もしかしたら、あなたでもわからないのでしょうか、セレスティア」
大結界も永遠ではない。
徐々に展開範囲が後退していることがそれを示していた。
おまけに高位の魔獣は幾度か侵入を許している。
その度に、残された僅かな同朋たちが散っていった。
この世界に残った数少ない超越者、その中で最古参たる『エレイン・ラインフォールド』は遠くを見つめて静かに息を吐く。
「私のような立場にあるものが、このような弱音を言うとわ。……いけませんね」
かつて、この大地を総べた偉大なる女神『セレスティア』。
彼女の契約者として残った『繋ぐ者』の中で最強の存在である彼女はそう言って自嘲した。
事実、彼女は残った人類の数少ない希望であり、高位の魔獣にも遅れは取らない人材である。
力の大本たる神は失ったが、既に彼女が信仰の対象となっているため、大した力の低下は起きていないし、経験も豊富。
僅かとはいえ勢力圏を維持出来ているのは、彼女の努力も少なくない影響を与えていた。
惜しむべきは、敵の数が多すぎることだろう。
彼女は強いし生き残るが、それは個体の強さであり群れの強さではない。
魔獣に対抗するには群れの強さをどうにかする必要がある。
「……民は今日も元気に日々を生きる。もはや復讐すらも忘れてしまった遥かなる世代。神も記憶に残っていない、という意味では私たちの方がもう異物なのかもしれないですね」
王城から全てを見渡すことは出来ないが、この結界は彼女の主が生み出したものである。
その内部にいる者たちの様子を把握するのはそれほど難しいことではなかった。
小さなな村落、砦にいる兵士たちは過度に絶望することなく、前を向いてくれている。
生き残りの人々の末裔も、既に記録になった敗北の歴史に引き摺られることなく、真っ直ぐに生きてくれていた。
「この中でも、既にいくつも世代が入れ替わっている。不老たる我々だけが、過去に囚われている。滑稽と言えば、滑稽ですか。しかし、彼らだけでは不安なのも確かです」
魔獣の脅威は伝わっているし、兵士たちは実際に体感している。
それでも、足りないと言えば足りないのだろう。
危機感、そう言われるものがこの結界の中から失われて既に久しい。
そう言えるだけの時間が経っている。
契約者には残らず刻まれた恐怖の源泉。
外への思いは、既に風化しようとしていた。
「神の、セレスティアの名前も既に歴史になって、私が人々を導いている。……先輩方が、この光景を見たらどう思うのでしょうか」
エレインは少し寂しそうに笑った。
世界が穏やかなことは悪いことではない。
無駄に外に怯えて、ずっと暗い様子で過ごすよりは良いだろう。
かつて、それこそ結界が張られた直後はそんな感じだったのだ。
敬愛する主を失って、エレインもかなり取り乱してしまっていた。
「時は巡る。それが、良かれ悪しかれ。……そして、必ず破断点もやってくる」
タイムリミットを彼女は感じていた。
かつての契約者であるエレインは揺り籠にいるものの中で、最もこの結界について理解していた。
力の減衰、徐々に後退する勢力圏、砦に浸透してきているガルムたち。
下位の魔獣とはいえ、あっさりと侵入してしまうことが効力の低下を示している。
早晩、何かが起こると警戒は強めていた。
「王に伝えないといけないですね。……何もやらないよりは、ずっといいでしょう」
今代の王は幸いにも優秀な人材だった。
エレインが養育も受け持った優秀なる人材は、この国を支えている。
貴族は既に形骸化しているが、国という形が残っている以上、王族や官僚だけはしっかりと存在していた
長寿を持ち、民から信仰されている身はそういう時はとても便利である。
「可能ならば、この日々が――」
ずっと続いて欲しい。
穏やかな空を見上げながら、続けようとして――
「――何、この感覚はっ」
咄嗟に感じた違和感に思考を切り替える。
その瞳に先ほどまでの弱り切った姿はない。
最後の希望、残された最強の1人は遥かな東を見つめる。
「……懐かしい。この感覚は……でもあなたはもういないのに、どうして……」
親友の香り、エレインの心が僅かに軋む。
「いえ、それどころではないわ。この地は、私が守らないと」
王城から砦に向かって、エレインは駆け抜ける。
何かが始まろうとしていることを、彼女もまた感じ取っていた。
暦たちの戦いが世界に新たな風を吹かせる。
新たなる舞台は既に幕を開けているのだ。
女神と合一した力は先ほどまでの比ではない。
創造するのはミサイルや砲弾などのただただ圧倒的な火力群。
一方的にかつ、無傷で暦は戦場で勝利を重ねる。
目的地は既に見えていた。
同じ属性で、魂までも1部共有した偉大なる女神の欠片にして、新生した女神。
そんな希望の女神の契約者である男は絶好調だった。
「フハッ! いいね、実に良い感じだぞ!」
一見すれば、この男が世界を救う逆転の切り札には見えないだろう。
身体から出ている緑色のオーラが辛うじて彼を荘厳に飾り立てている。
道中の敵を殲滅しながらやって来た暦は、実にイイ感じの笑顔で目的地、大結界の傍まで辿り着こうとしていた。
「――よしよし、気分爽快ってね! あれだな、これはヤバイな!」
『そうなの暦?』
「おうよ、ちょっとは落ち着きたいと思うんだが、全能感がさっぱりコントロール出来ないわ。なるほど、神様は負けるはずだよ!」
『そうなんだ、暦は賢いね』
どこかピントのズレた会話。
よくわかっていない感じのセレナに笑顔のままで暦は何も言わない。
一体化した今、双方に余計な壁など存在していないのだ。
セレナがどういうものなのか、今の暦は誰よりも理解している。
水は高きところから流れる、暦の格では今はまだセレナを受け止めきれない。
「ま、それは後でいいか! 俺のテンションもあれだが、それよりも目先の危険だわな」
『女神の大結界』。
楽園の残骸たる箱庭を守る最大にして最強の砦。
結界に遮られた地獄との境に、地獄からの使者が陣取っていた。
「なるほど、なるほどね。獣が本能であそこはヤバイから周りから攻め立てた、っていうのを装っている感じか?」
ニヤニヤとしながら、出発前の考察が当たっていたことに気分を良くする。
彼の目前で、山のような何かが動き始めていた。
山――そのようにしか形容出来ない、巨大な生物。
結界に対する攻め手にして、地獄から逃げる前に立ち塞がるガーディアン。
「さて、ここからは俺らしく戦わないとな」
上がりに上がっていた気分が少しずつ落ち着いてくる。
自分を騙すようなハイテンションは恐怖の裏返し、何を言ったところで暦はただの学生。
修羅場を自分のままに戦い切る自信はなかった。
しかし、今だけは異なる。
万能感と高揚感に酔っているのも事実だが、神が引き出した今川暦の性能が此処では役に立つと悟っていた。
「セレナ! 俺の思った通りに頼むぞ!」
『うん、頑張ってね? 私、待ってるから』
「愚問だな。お前が選んだんだろうがッ! 俺は、負けないさ!」
感情という熱はないが、それでも女神の応援は有り難かった。
礼と共に情報が暦の中に流れ込む。
魔獣――この世界に侵略してきた謎の軍勢。
世界の大凡8割ほどを既に掌握している、疑いようもないこの世界の覇者。
そして、相手はその軍勢の中で主力を成す存在だった。
あの狼が歩兵だとすれば、この巨大な山のような亀は戦車などに相当する存在である。
個体の戦力、という意味では比較するのも烏滸がましい。
「気分は良い。しかし、現実は最悪だ」
背後からは未だに無数のガルムの群れが追ってきている。
彼らはそれこそ、結界の中にでも無理矢理侵入してくるだろう。
命と引き換えにしても数分しかもたないだろうが、その数分が生死を分けてしまう。
「だが、相手も必死だ。こんなところで、待ち構えているのがいい証拠だよ」
敵の戦力の中核の1つがこんなところにいるのは、必殺の意思が表れているからだ。
同時にこのセレナの存在は敵にとっても想定外だということがよくわかる。
戦闘を避けられる可能性はもはやない。
それならば、可及的速やかに敵を排除しないとならなかった。
時間は敵の味方で、暦の敵である。
素直に正面から戦ってしまえば、より高位の魔獣がやって来る可能性は十二分に存在していた。
「最初から、全開でいく! 加減出来るような立場じゃないしな!」
セレナとの合一によって、やれることは一気に増えた。
暦の限界を遥かに超えた『奇跡』が唸りを上げる。
「俺は、俺なりに――戦いは野蛮で嫌いだが、勝利は好きなんでな!」
暦の動きに呼応して敵も動き出す。
巨体に相応しく動きは鈍重であったが、感じる圧力は小さな人間を蹂躙するには十分すぎる。
単体で戦った場合、『繋ぐ者』であろうとも死ぬ危険性は存在する怪物だった。
得意とする改変は、自然現象の内、水と土が関わるものである。
たとえば、
「これは……雨か! なるほど、これが自然干渉か!」
空を覆っている黒雲から地獄に涙が降り注ぐ。
強くなる風、荒れていく天候。
大地を潤し、人に欠かせない水を齎す恵みの雨。
しかし、恵みも過ぎれば毒となる。
この巨大なる、まさに山のような魔獣はそれを体現した存在だった。
「潰れろ、ミサイル一斉発射!」
今の暦の最高火力。
現代兵器として馴染みの深い弾頭が異界の怪物に向かって襲い掛かる。
甲羅の部分を避けて剥き出しの足や顔などに全弾が確かに命中した。
セレナの力も注がれたその力は火力と言う点ではこの世界でも最高峰の1つである。
「ク、やはりこれくらいではダメか!」
爆煙で姿が見えない怪物から確かな殺意が叩き付けられる。
不遜にも攻撃など仕掛けてきた獲物に、魔獣の力が牙を剥く。
降り注ぐ雨はさらに勢いを増し、大地には荒れ始める。
亀のような魔獣『泰山亀』と言われる怪物は、真実の暴力を暦に見せ付けるのだった。
「あれは、力場か!」
何かに呼応するかのように、大地が隆起し数多の岩石が意思を持って暦に狙いを付ける。
同時に降り注ぐ雨の勢いが人体を貫く槍のような鋭さを帯び始めた。
この現象の主が誰なのかなど考えるまでもない。
「ちィッ――!」
暦の戦いのイメージは現代兵器に引き摺られている。
これは彼のイメージが世界を改変する、というふんわりとした形を明確に想像出来なかったためだった。
改変可能な範囲、敵の力量なども含めてマニュアル化されていない、とでも言うべきだろうか。
経験則に沿っているため、わからない部分が多いのだ。
それをなんとかするため、暦はわかりやすい形で自分の力を定義した。
この方法自体に間違いはないだろう。
しかし、確固とした形を得たことで、無形の力であるはずの改変力が型に嵌ってしまった。
現代人ならば、想像が出来るだろう。
銃で嵐に勝てる、というイメージを抱くものは皆無ではないだろうが少数派のはずだ。
「いきなり問題点が発生だな。クソがッ!」
人が生み出した、そういう意識が強すぎる銃による改変は簡単で、かつ強力である。
代わりに難易度が高い現象操作は、手間の掛かる分、威力は絶大だった。
銃では対抗することも出来ない。
暦が焦りを表情に浮かべる。
兵器の中で最大のものは核兵器だろうが、そんな物騒なものを想像するだけの力は暦にはない。
彼は初心者、まだヨチヨチ歩きの赤子なのだ。
このままでは座して死を待つだけだった。
快晴だったはずの空には、巨大な雷雲が渦巻き、風が荒れ狂う。
人間にはオーバーキル過ぎる圧倒的な力。
まさに神威と呼べる力を前にして、知識だけの想定の甘さを暦は悟った。
「いやはや、本当に残念だ。俺では勝てないだろうな、ああ、本当に残念だよ」
まった心の籠っていない口調で、暦は厭らしい笑みを浮かべて猛威を振るう亀を見る。
「ああ、怖い怖い。ま、当たらない限りは大丈夫だがな!」
言葉は虚勢、しかし、自信は本物だった。
再度創造したミサイル群、空に創造した絨毯爆撃。
出来る限りの方法でチャレンジはするが、身を結ぶことはなかった。
泰山亀を守るかのような風の守護。
暦の攻撃は全てがそれに阻まれてしまう。
「おおう、これはひどいな。これが格差か。下っ端では何をやっても通用しない、という訳だ。なんとも弱者に優しくない世界だよ」
知識の中に存在した能力の差異。
格がそのまま戦闘に影響を及ぼしているのだ。
外部に大きく干渉する力の前には具体化されてしない内部の力では太刀打は出来ない。
そんなこと、最初から暦はわかっていた。
彼の目的はこの場に達した時点で既に叶えられている。
内部に関する詳しい情報はないが、彼と同類がいることは掴んでいた。
そして、余程のアホが頭をやっていなければ普通は結界の付近に防衛拠点を作る。
「なので、弱者たる俺は正しい形で強者に諂おう。何、頭を下げるのはそれほど不得意ではないからな」
『カカカッ! 懐かしい気配を感じたと思えば、なんとも珍妙なモノがおったわ』
「どこぞの誰かは存じないが、助けていただけると嬉しいんだが」
『ほう? まあ、構わんよ。元より、それが使命故にな』
老人の声が脳内に響く。
暦が待っていたもの、時間は確かに暦の敵であるが、一方的な敵という訳でもない。
味方となる瞬間もまた、存在するのだ。
「この力の感じは……」
亀に支配された戦場をさらに大きな何かが覆い始める。
セレナと合一したのは、こういう事態から身を守るためでもあった。
いくら結界内部の人類が追い詰められているとはいえ、怪しいだけの人間と明らかな神を吹き飛ばそうとはしないだろう。
「これが、経験と時間を得た契約者の強さか。なんとも、悔しいものだよ」
気付けば雨雲は雷雲へと切り替わり、亀と狼を狙い撃つような雷が天から降り注ぐ。
わかりやすい神の怒り。
『大地の女神』と凌ぎを削ったこともある天空神、その権能一部がこの場に降臨する。
『事象顕現――『稲妻の鉄槌』』
年月を経た老人の声が響き、亀から場の支配権を一瞬にして強奪する。
敵から奪い取った雷雲たちは、新たな主の命に従い稲妻を大地に降ろす。
それはまるで、裁き鉄槌のようであり、
「なんだ思ったよりも戦力はあるんだな。……いや、それもそうか。じゃないと、ここまで劣勢なのに生存圏を保つことなんて出来ないか」
結界内部の情報がセレナから渡されなかったため、暦はいくつかのパターンを考えるしかなかった。
その中で最悪のケースは、既に心が折れている、つまりは戦う気概を失っている場合である。
この力を見るにそんなことはなさそうで暦は少し安心した。
救いに来たが、生きる意志のない相手では意味がない。
「何はともあれ、ようやく俺の仕事が始まりそうだな」
敵を駆逐する輝きを見ながら、ようやくスタートラインに立てたことを理解する。
「おっと、最後まで気を抜かないようにしないとな。遠足は、帰るまでが遠足だ」
まだ終わっていないのに、気が抜けてしまうのはマズイ。
己に喝を入れて、暦は戦場を見つめる。
まだ何も始まっていないが、1つの行動の終わりは来たのである。
これからあるであろう、忙しく騒がしく、そして輝くであろう日々を想い、暦は満足気に口元を緩め、宣誓するのだった。
「さあ――ここからが、本当の戦いだ」
この日、大異変より500年の停滞を余儀なくされた世界が動き始める。
最新、最後の神たる『セレナセレスティア』。
そして、彼女の半身たる異世界からの来訪者『今川暦』。
両名がこの世界に齎すのは、秩序か、それとも混沌なのか。
何もわからないが、それでも1つだけ確かなことがある。
長い長い、敗北の歴史はこの日、確かに終わりを迎えたのだった。
移り変わる時の流れは誰に対しても平等である。
そう、世界を侵す魔獣すらもその『法則』から逃れることは出来ない。
彼らが駆逐した神々がそうであったように――。