プロローグ
かつて、紛れもない楽園があった。
地上には神の加護が舞い降りて、人々は健やかに生きて、穏やかに死んでいく。
循環する命の螺旋は美しい形を描いていて、誰にも壊すことは出来ない。
このまま、こうした日々が続いていく――少なくとも、その『世界』に住む人間たちは無邪気にその未来を信じていた。
神が存在し、人と共に歩む楽園。
その楽園の名を『ファールベルト』と言い、偉大なる女神やその同族たちによって繁栄を謳歌していたのだ。
聖王国歴1500年。
世界に穴が空き、天から『獣』たちが舞い降りるその日までは――。
人が持ち得る言葉でその場を表現するのなら、そこに似合う言葉は1つしか存在しなかった。
所謂『地獄』。
炎と死臭に覆われた場所は『煉獄』というに相応しい。
命の輝きを飲み込む底なしの沼。
絶望しか存在していない場所を『風』が駆け抜ける。
「はあああああッ!」
烈火の如き気迫と共に放たれた斬撃は、一筋の軌跡となって『敵』を両断する。
空に穴が空いてから既に1時間。
数えきれないほどの敵を倒した彼女だったが、心が休まる時はまだやってこない。
「まだ、こんなに、いるの……っ!」
大地を埋め尽くすかのような黒い泥。
延々と空から雨のように降り注ぐ敵に少女の心は悲鳴を上げていた。
それでも、止まることはない。
再び『風』を身に纏い、戦場を駆けようとする。
「どうして……こんなっ」
周囲にある光景は彼女の日常だった場所だ。
戦闘で破壊することに心が軋む。
変化してしまった風景は守れなかったことを視界からも伝えてくる。
「――――ごめんね」
視界の端に映った小さな腕に謝罪する。
ほんの1時間程前、たったそれだけ前までこの場所は活気にあふれた市場だった。
彼女が生まれてから、今日まで生きてきた場所。
穏やかな日々、いつもの街並み、変わらない市場の賑やかさ。
人が笑い、彼女も笑う。
彼女が守り、これから先も永遠に在ると信じた場所は――原型を残さず粉微塵に破壊されていた。
「許さない……。絶対にッ! お前たちが何モノかなど、どうでもいい。私が、ここでッ!」
空から落ちた黒い泥たちが地上で徐々に姿を持ち始める。
外見は狼に似ているがところどこかに奇妙な痕があり、それがこの生き物の不自然さとなっていた。
戦いが始まってから幾度も戦った敵。
既に対処方法はわかっている。
「欠片も残さずに、殺してやるッ!」
怒りと共に、少女は剣を振るう。
風を纏った剣は、小柄な少女が振るっているとは思えない速度で敵を両断していく。
泥から狼の形になった『ナニカ』は成す術なく切り刻まれる。
明確な実力差がそこにはあった。
彼女は『風』を司る神と契約したことで不老となり、超常の力を扱えるようになった超越者『繋ぐ者』の1人。
獣風情に負けるような存在ではなかった。
断片となりながら斬られていく獣、勝敗は明らかである。
しかし、
「っ、気持ち悪い奴ら! ならば、これで――」
敵もまた簡単に倒せるような存在ではなかった。
剣で切り刻まれて、破片となった敵――それが再び集まり始めて同じような姿となる。
この再生能力が彼女を含めた超越者たちが街を守れなかった理由でもあった。
大規模攻撃ならば敵は全てを潰せる。
此処が市街地でなく、平原であればその選択肢を選ぶことが出来た。
そう、選べなかったからこそこの地獄は生まれてしまったのだ。
この状況、ここまで追い詰められて初めて少女は全力を出せるようになったのである。
「――消えなさい!」
少女の声に従って、風が意思を持つ存在として獣に襲い掛かる。
人間であれば怯むであろう光景。
自然という偉大なる存在が、単体の生命に牙を剥く。
「終わりよ!!」
かつての街の残骸を区画ごと消し飛ばして、少女の攻撃が炸裂する。
人為的に発生した巨大な竜巻が敵を飲み込み、肉片すらも残さずに敵を消し去った。
少女が思い描き力を注ぐことで発生する『奇跡』の前に敵は抵抗することも出来ない。
それでも、この地獄はまだ終わりを告げることはなかった。
「……まだ、来るの」
己で破壊した街に心を痛める暇もなく、次の軍団が彼女に迫る。
理解できない制覇に掛けた行動。
命を持つ存在ならば、こうまで自然に逆らうことがあり得るのだろうか。
「やっぱり、こいつらは何かがおかしい」
風の神と契約し、超越者となった彼女だからこそ感じることが出来る確かな違和感。
命ならば持っているべき魂の輝きが、目の前の物体からは感じられないのだ。
あるべき個性が、彼女の前に存在する敵には存在しない。
人間であろうが、それこそ神であろうが、生きている以上は何かしらの変化が訪れるのが常である。
神が変化することは稀であるため例外だとしても大凡、生き物の中で同族とはいえ完全に一致する存在など普通はいないだろう。
最初は似ていても、最終的には別の存在になるのが生き物なのだ。
にも関わらず、眼前の敵たちには差が存在していなかった。
寸分違わずに同じ姿、同じ行動、習性にすら差異は存在しない。
もはや、そんなものは生き物と呼べないだろう。
人間も全体で見れば、似たような個体ばかりかもしれないが小さく見れば必ず違いは存在している。
行動においても当然のようにズレは生まれる。
――だからこそ、敵である『獣』たちは異質だった。
外的要因、此処にいる少女という脅威に注意を払ってすらいない。
まるで本能のままに、命じられたこと以外を知らないとばかりに命に牙を剥く。
先ほどまでの光景の焼き直し、再び進撃してくる泥に少女は剣を向ける。
ただ1点だけ違いあった。
少女を脅威として認めたのか、敵の数がドンドンと増えているのだ。
百から千へ、万へと上限などないかのように増殖する獣に次第に焦りが顔を出し始める。
「数が、多い! もう1度――!」
再度の竜巻が敵を肉片に変える。
このような大技は彼女も相応に消耗するため、迂闊に使用は出来ない。
だからこそ、使用を控えていたのだが、そうも言ってられない事態になっていた。
竜巻で吹き飛ばしたはずの敵たち、なのに数が増えている。
「まさか、私が減らすよりも……!」
嫌な想像を振り払って少女は戦う。
既に守るべき者の過半が失われていたとしても、彼女はこの国の守護神の眷属であり、弱き者を守る騎士たる存在だった。
諦観で膝を折るようなことは出来ない。
「我が神の名に懸けて、私は負けない!」
世界に満ちた祈りが意思を持ち、法則を支配する者。
それがこの世界における『神』である。
彼女はその力の一端を授かった者――『繋ぐ者』。
人と神の狭間に立ち、両者を繋ぐ身として敗北する訳にはいかなかった。
「私が、負ける訳にはいかないのよ! 何があろうと、絶対に!」
戦場で舞う可憐な風の精。
不屈の闘志と共に、獲物に集る不気味な獣たちを確実に減らしていく。
敵の増加が早いのならば、それを上回る速度で敵を倒すだけだった。
「……まだ、増える!」
時間は彼女の味方のはずなのだ。
質ではこちらが圧倒していた。
敵の数は確かに恐ろしく、市街に侵入されたことで民を守ることは出来なかった。
慙愧の念に堪えないが、逆にほとんどの味方が全滅した現状は彼女の本領を発揮するには都合が良い。
「はああああああッ!」
剣を振るうと同時に風の刃が敵を切り裂く。
戦局は優勢、なのにどうしても嫌な感じが止まらない。
「何、一体なんなの……?」
敵の奇襲で国の首都は壊滅した。
それは疑いようのないことだが、別に所属していた戦力が全滅した訳ではないのだ。
彼女よりも強い存在はまだいくらでもいる。
こうして彼女が戦えばその存在は伝わるはずだった。
「……待って。じゃあ、どうして、さっきから私の力しか感じないの」
そこまで思考を巡らせた時、彼女は自分が冷静でなかったことを自覚してしまう。
数を頼りに攻めてきている敵と戦うのに有力な手段は広範囲の殲滅攻撃である。
彼女自身がそれを示しているのだ。
なのに、周囲からは戦う音が聞こえない。
彼女と同じように戦っている『繋ぐ者』や神の力の気配を感じなくなってからどれだけの時間が経っているのだろう。
「嘘……嘘よ、そんなのあり得ない。まさか、嘘……!」
身体は動いている。
敵の数は増加を続けているが、それでも無限ではない以上、いつか終わりが来るのも自明のことだった。
相応に体力を消耗しながらも彼女は確かに戦い切った。
1つの区切りで、1つの勝利である。
希望が顔を覗かせて――だからこそ、本当の絶望がそれを踏み潰す。
妙に静かな場所に違和感を抱き、周囲を探った次の瞬間に、
「――――ああ」
彼女は見てしまった。
同時に激しい衝撃が彼女を襲う。
小柄な身体は木の葉のように宙を舞い、落下の際に強く大地に叩き付けられる。
ボロボロになった剣を支えにしてなんとか立ち上がり、
「ぅぁぁ……嘘よ」
先ほどまで自分が居た場所に視線を送り、彼女は見たことを後悔した。
そこには、質量を持った絶望が鎮座していたのだ。
巨大な体躯に、トカゲと似たような風貌。
背にある翼は力強さに溢れている。
そして、最も重要なことはそれが口に咥えているものだった。
「あ……あ……ああああああああああ!」
必死に戦っていたためか、今更ながらに彼女は気付く。
自己に宿る力が急速に減少している。
それが何を示すのか、それがどうして起きたのか。
彼女は思考することを放棄して、闇雲に戦っていただけだった。
そして、その間に事態は決定的に悪化してしまったのだ。
口に『ナニカ』を加えたトカゲの怪物たちが天を埋め尽くす。
「う、嘘よ……。どうして、どうして! どうして、ですか!」
新たなる乱入者。
強大な黒き獣の口には敗れて捕食されたのであろう彼女の『神』が存在していた。
失墜する天意。
天に浮かんだ黒い穴が世界を侵す毒となる。
『世界変異』と呼ばれる大異変の最初の一幕。
楽園の終焉と、神々の黄昏はこうして始まった。
これより世界は大きく変異を遂げる。
異なる『法則』を身に纏い、世界を蝕む『魔獣』たち。
彼らとの熾烈な生存競争という戦争が、この日、この時に始まったのだった。
これより後、『大地の女神』が命を捧げて展開する大結界展開までの間、人類は敗走を重ねることとなる。
楽園は残骸となり、天意は全てが無に帰した。
明日のない中、それでも人は箱庭の中で生を謳歌する。
しかし、心の中から絶望を消すことは出来なかった。
故に祈ったのだ。
新しい神を、新しい道標をください、と。
時は流れて、聖王国歴2000年。
瀕死の世界に新たな女神が降臨し、彼女は世界を超えて歌を歌う。
女神の誘いに1つの魂が惹かれて停滞した世界は決戦に向けて動き出す。
これはいつか神話になる出会い。
――青年と女神が共に駆け抜けた物語。