第2節
「はい、オッケー。バッチリ決まってたよ、二人とも」
二人の演技に一区切りついたところで、下鴨茉莉夏が両手を数拍、ゆっくりと叩く。数分に亘るリハーサルの間、真顔のまま二人の『女優』をじっと見つめていた彼女は、先ほどまでとは打って変わってにこにことした笑顔を作り、言葉を続ける。
「これなら九月の創立者祭の演劇も十分いけるじゃん。アイリ、ホタル」
この言葉を受け、『アリス』役の虹丘藍理と、『女王』役の真樹帆足留はお互いの顔を見合わせる。えへへ、と笑いかける帆足留を前に、藍理は口元に微笑を浮かべて応えた。
「かっこよかったよ、藍理」
「それは光栄です。女王様」
右手を胸の前に当て、藍理は軽く一礼する。それとともに、腰まで伸びた彼女の黒髪がふわりと揺れた。
「ちょ、ちょっと、藍理。い、今はリハーサルじゃないし、そんな……」
帆足留は一瞬のうちに顔を赤らめると、藍理からぱっと目を逸らした。そんな二人のやり取りを目の前にした茉莉夏は、不敵な笑みを浮かべながら藍理に小声で話しかける。
「なるほどねえ。さすがは我が私立東京九十九女子高等学校は演劇部が誇る二大女優さんは違うわ。おまけにこれが親友同士ともなれば、物語の主従関係以上に通じ合うものがあるのかねぇ、藍理サン?」
彼女の冷やかしを耳にした藍理は、顔を帆足留に向けたまま、視線だけを茉莉夏へと向ける。光を敏感に反射する藍理の黒い瞳が、十年近くの付き合いになる友人の姿を映し出す。
「それはどうかな。ご想像にお任せしますよ、未来の映画監督さん?」
微笑を浮かべながらも、感情のこもっていない冷たい目を前に、茉莉夏は思わず身体を強張らせた。あたかもメデューサに見つめられたかのように全身を硬直させながらも、彼女はどうにか唇だけをパクパクと動かす。
「ありがと。やっぱあんたって、顔はすっごくきれいだけど、掴みどころがなさすぎてちょっと怖いわ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
そう言って、藍理は踵を返すと、演劇部の部室をすたすたと横切った。彼女の歩調に合わせて、作り物の鎧がかたかたと小さく音を鳴らす。帆足留と茉莉夏が自分を注視していることを気にも留めないまま、藍理は部室の窓から外を眺めた。
二枚の分厚いガラスを重ねた窓からは、生徒玄関や校訓が書かれた石碑といった校内の見慣れた景色が広がり、そこからさらに数メートル先にある校門をとおして大通りに続く。大通りはいわゆる歩行者天国であり、朝晩は通勤ラッシュにより大勢の老若男女でごった返す。藍理の目には、自分たちの通う私立東京九十九女子高等学校の生徒やスーツのサラリーマンたちを尻目に、大通りの中央を闊歩する若者の集団が映っていた。若者たちは、男女ともに派手な黄色いシャツに青いズボンの衣装で統一され、胸には『REGAIN! TRUE JAPAN!』と赤く書かれた文字が躍っていた。
「外国へ恥をさらすだけの無能政府は、直ちに解散しろーっ!」
「六年前の『科学の落日』を思い出せーっ!」
「これ以上、日本の尊厳を踏みにじるなーっ!」
拡張マイクで繰り返しそう主張する若者たちの行進を藍理が眺めていると、茉莉夏もまた彼女の隣に立ち、外の光景に目をやった。
「またやってるよ。デモ行進。朝っぱらから、ご苦労なことだね」
「まったく。けど、今日の終業式でこんなくだらない革命ごっこも見納めだと思うと、少し感慨深いよ」
藍理がぽつりとそう呟く。彼女の言葉に、茉莉夏もうんうんと相槌を打った。
「そうだね。あいつら、授業や部活の間もこの辺でずっとデモやってて、正直うざかったし。夏休みに入って、少しは落ち着くといいんだけど」
茉莉夏の言葉に対し、帆足留が不安げに口にする。
「けど、あの人たちの言ってることも、何となく分かる気がする。最近は治安も良くないし、何だかこれから大変なことが起きるかも……」
「何言ってるのよ、帆足留。あんたは仮にも『女王』なんだから、もっと自信を持って、しっかりしなきゃ」
茉莉夏はそう言って、帆足留の肩をぽんと叩いた。ほら、藍理、あんたも――茉莉夏が続けてそう言いかけたところで、藍理は再び部室の中を歩き始めた。彼女の足は、窓の方角とは正反対にある廊下を目指していた。
「悪いけど、ちょっと急用が入った。お先に」
藍理は軽く右手を二、三回振ってから、部室のドアを開け、半ば急ぐようにその場を後にした。ちょっと、藍理。茉莉夏が呼び止めるも、すでに後の祭りだ。
「まったく、もう。主役の『アリス』が抜けちゃ、リハーサルも進まないじゃないの」
茉莉夏が両頬を膨らませながらぐるぐるその場を歩き回っていると、不意に帆足留があっ、と素っ頓狂な声を上げた。
「生徒会長だ。こんな朝早くから、珍しい」
帆足留の目線の先には、ここ私立東京九十九女子高等学校の生徒会長――彩野あやめの姿が、はっきりと映っていた。