第1節
「そこにいるのは、誰?」
『女王』は、宮殿の庭にある巨大な神樹に向けて、穏やかな口調で問いかける。初代国王が国を興した時に植えたこの樹は、幾重もの根を地面に巡らせ、数百年を経ても衰える気配を見せないまま、国民たちに王国の威厳を静かに伝えてきた。そんな長い歴史を誇る神樹の木陰から、ライトグレイの鎧を全身に纏った若い女騎士が姿を現す。彼女は足音を立てずに女王の足下に近づき、そのまま跪いた。
「ああ、『アリス』じゃない」
女王は、幼い頃から顔見知りであった女騎士――アリスに微笑を見せる。対する若き騎士は片膝を地面につけたまま、真顔で右手の拳を左胸に当てた。国を統べる王への従順の証だ。これを見た女王は、小さく溜息を漏らす。
「ねえアリス、今はわたしたち以外に誰もいないわ。だから、昔みたいに笑って」
「できません」
アリスは短く、しかし鋭い口調で王の言葉を否定する。女王は目元にうっすらと涙を浮かべながら返す。
「どうして?」
「わたしたちはもう、一国を統べる王と、ただ王に従うだけの騎士の関係です。私情を挟みこむ余地はありません」
アリスの冷ややかな言葉に、女王は左右の目と頬を赤らめた。我らが女王に祝福を、失礼いたします。アリスはそう言うと静かに立ち上がり、女王に背を向ける。
まって。
女王はアリスへ必死に声を振り絞る。
「アリス、わたしはあなたに惹かれてた。幼い時から、あなたはわたしには無いものをすべて持ってた。羨ましかった。だから……わたしにはあなたが必要なの」
女王の目から一筋の涙が零れ落ちる。なんて勝手なことを言っているんだろう、わたしは。アリスは、ただ女王であるわたしのためを思って言っているだけなのに。どうしようもない自らの独占欲を痛感し、女王は小さく嗚咽を漏らした。アリスは、そんな彼女に背を向けたまま、ゆっくりと告げる。
「女王陛下、わたしはあなたの、そしてこの王国の騎士なのです。常に忠誠を胸に、あなたとあなたの国を守る義務を持って日々を生きています。どうか、ご理解ください」
そこまで言って、アリスは一面に広がるコバルトブルーの空を見上げた。東にある紫色に染まった空は、もうすぐ夜が明けることを暗に告げていた。
「ですが」
アリスは女王へ向き直り、彼女の頬を流れる涙を自らの指で掬い取った。女王は、久々に間近で目にしたアリスの凛々しい表情に、胸の鼓動が速くなっていくのを感じた。
「あなたが望むなら。わたしは、あなたの騎士として。この世界を、変革してみせましょう。あなたが心から笑うことのできる、自由な世界を。きっと、創り上げてみせる――」
そう口にするアリスの眼差しは、彼女自信の決意を表したかのように真剣な、それでいてどこか愁いを帯びていた。