第1話「退庁時のご注意」
それはJRの駅からさらにバスに20分揺られたところだった。あせたクリーム色の古ぼけたビル。ここが野村の新しい職場である。ビルの前には案内板が立っている。
「
県第八合同庁舎第三分庁舎
← 夜間窓口
駐輪場→
敷地内禁煙
庁舎管理者
」
ありふれた、役所の建物。しかしそこに相応しくない人物がいる。高校生くらいだろうか。フリルとリボンの派手な服を着て、大きな厚底パンプスを履いた少女が、ぴょこぴょこと跳ねている。スマホを片手にしながら、床面のタイルの目地の部分だけを器用に踏んでいるようだった。通勤時間帯の役所で、である。本人は楽しそうだが、役所の玄関でやるようなことではなかった。
(こんなところにも、こういう子がいるんだな)
野村は足を止めた。少女の動きは軽やかで、厚底の靴を履いているとは思えない。通りかかる職員らしい人々は、少女の横を当然のように通り過ぎていった。誰も足を止めない。どうやら、この光景を奇妙に思っているのは自分だけらしいことに、野村は少し遅れて気づいた。
庁舎内に入ると、そこはやはり役所らしい無機質な空間だった。小さな喫茶店とエレベーターホール、奥には会議室があるらしい。蛍光灯がいくつか切れた、薄暗い場所だった。ただ、来庁者受付があるところだけは、どこか普通の役所の入り口ではないことを感じさせた。
「
4階 県精神保健福祉センター特殊相談支援室
3階 専門相談室 面談室
2階 精神科デイ・ケア施設『あるむ』(県精神保健福祉センター分室)
1階 来庁者受付 喫茶店 守衛室
地階 倉庫
」
野村は4階へ進み、事務所に初出勤した。職員証を受け取り、案内されたロッカーに荷物を置くと、次は小さな部屋で服務の宣誓書に署名し、あとはそのまま面談だった。
管理職との面談はごく簡単だった。
「今回、野村さんには技術職員として着任していただきました」
「はい」
「当室では、『精神干渉』に係る技術的な評価等をする職員を、便宜上MC職と呼んでいます」
「MC職、ですか」
「もっとも、正式な採用区分は別ですがね」
男性管理職は机の上の書類を揃えた。
「あなたの能力については、採用選考の結果を承知しています。実際の業務でどのように活用するかは、今後の研修で確認してください」
野村は小さく頷いた。採用されたことには感謝している。しかし、あの程度の能力が、果たして仕事の役に立つのだろうかという疑問は、今も残っていた。
それからは簡単な説明だった。
「当室は、県内で発生した大規模な『精神干渉』事案への対応を契機として設置されたものです」
「大規模な事件、ですか」
「ええ。当時は既存の支援体制では対応しきれず、県として専門的な相談支援の仕組みを整える必要がありました」
「なるほど」
「詳しい経緯については、研修資料に記載があります。職場内研修で詳しく教わるでしょう」
そう言うと管理職は野村を執務室へと案内した。
執務室に入った瞬間、野村はどこか間違えた場所に入ったかと思った。
まず聞こえてきたのは、普通の役所の声だった。
「この方の医療機関への情報提供は、ご本人の同意を確認してからお願いします」
「承知しました。記録に追記します」
「来週のケース会議は第二会議室へ変更になりました」
「では、関係機関に連絡します」
しかし視線を上げると、そこにいる人たちの姿が、声と噛み合っていなかった。
部屋そのものは役所の執務室だった。古い灰色のスチール事務机。事務用の椅子。キャビネットが並び、机の上には無数のファイルと書類。書類棚には大きなドッジファイルが並んでいる。空いている壁面には自治体のポスター。その中で、職員たちが働いていた。
若くて美しい女性ばかりだった。その中には、まだ幼さが残っているような人もいる。しかし見ているうちに、さらにおかしなことに気付いた。その風貌が異常だった。レースのドレスにボンネットを付けた女性。カラフルな髪でピアスやチェーンをじゃらじゃらと垂らした女性。袖の長い着物風のドレスを纏った女性。中には霊媒師のような服装の人もいる。スーツ姿の人もちらほらいたが、全体としては、どう見ても役所の執務室ではなかった。
部屋の奥では、眼鏡をかけた小柄な女性が、黙々と書類をめくっていた。髪を後ろでひっつめ、ボタンシャツの上にカーディガンを羽織っている。膝にはブランケットが掛かっていた。周囲の女性たちと比べると、むしろ彼女の方が普通の公務員に見えた。
(……ここ、何の店だ?)
野村は息を止めていた。自分の視線を、どこに置けばいいのか分からなかった。ただ「見てはいけないもの」を見ているような気がして、目を逸らそうとした。そのとき、キャビネットの前に立っている人物の足元に目が留まった。光沢のある黒い厚底パンプス。朝、庁舎の前でぴょこぴょこと跳ねていた、あの靴だった。
「おーい羽鳥さん、こちらが野村さんだから」
管理職がその人物に声をかける。少女はキャビネットから器用に書類を取り出していた。呑み込めない状況の中、野村はただ彼女を見つめることしかできなかった。朝見たときの軽やかな動きと、今の事務的な所作が、同じ人間のものとは思えなかった。少女は自分の右耳に触れながら言った。
「朝、入口のところにいらっしゃいましたよね。本日から研修を担当します、羽鳥です。よろしくお願いします」
*
小会議室での研修はごく普通のものだった。羽鳥の姿勢、所作、目つき、言葉遣い。そして、質問への判断の速さ。そのすべてが、朝に見かけた少女とはかけ離れているように思えた。いや、見た目で人を判断する方が間違っていたのかもしれない。野村はそう自分に言い聞かせようとした。
「『精神干渉』という現象を直接規定する法律があるわけではありません。当室では、『精神干渉』によって生じた生活上の困難を把握し、既存の福祉制度や医療機関、関係行政機関につなぐことを基本としています」
ただその人の服装だけがおかしかった。髪型はミルクティーブラウンのセミロングヘアーをゆるく巻いてハーフツイン。化粧は涙袋やアイメイクが過剰。ピンクを基調としたフリル・リボン、ミニ丈の服。そして黒エナメルの超厚底パンプス。野村がこれまで思い描いてきた公務員の服装とは、まるで違っていた。野村は資料を見ているふりをしながら、何度か視線を上げては、またすぐに戻した。
「羽鳥さん、あの、ちょっと気になったんですが」
「はい。何でしょう」
「あの部屋、女性の方ばかりですね。それに、皆さん若くてきれいな人ばかりで……」
「ああ」
羽鳥は頷いた。
「それ、ご本人たちには直接おっしゃらないほうがいいですよ。容姿についての発言は、セクシュアルハラスメントと受け取られる場合がありますから」
「あっ、すみません」
「いえ。ちなみに、当室の人員構成が少し特殊なのは事実です。そうなる事情があるんですよ」
「事情、ですか」
「はい」
羽鳥はそれ以上説明せず、名簿の一箇所を指した。野村は、聞いてもいいことと、聞いてはいけないことの境界が、自分の中でぼんやりとしか掴めていないことに気づいた。
「なお、この石井さんを除いて、女性職員は全員、会計年度任用職員です」
石井。野村は、先ほど部屋の奥で書類をめくっていた眼鏡の女性を思い出した。
「全員ですか?」
「はい。では次に、当室の所掌事務について説明します」
しかし、野村はどうしてもこれだけは聞いておきたかった。
「それと、その……服装についてなんですが」
「服装ですか?」
「ここは、服装の規定とかは……」
「ああ。当室はそれほど厳しくありませんよ」
「そうなんですか」
「ただし、安全上の配慮は必要です。私も、避難誘導などの際には靴を履き替えます」
「……なるほど」
「ほかにご質問はありますか?」
「いえ、大丈夫です」
「では、続けますね」
*
昼休みには職員団体の説明もあった。説明に来た若い女性も、レースのついた淡い水色のブラウスに、リボンをあしらった服を着ていた。
「加入は任意ですけど、困ったときは一人で抱え込まないでくださいね」
野村は、ここでは組合までこうなのか、と妙なところで感心した。しかし話す内容は、年休、福利厚生、ハラスメント相談と、きわめて現実的だった。
午後になっても、羽鳥の説明はよどみなく続いた。相談記録の作成、関係機関への照会、ケース会議の手順。資料の読み合わせが中心だったが、野村にとって初めて聞くことも多かった。
「相談者がMCによる被害を訴えている場合は、まず能力の有無を調べるんですか?」
「必要に応じて技術的な評価も行います。ただ、最初に確認するのは、ご本人が今、何に困っていらっしゃるかです。原因を調べることと、生活を支援することは、必ずしも同じではありませんので」
「明日以降は実務研修を受けていただきます。実際にケース会議や訪問相談に出席してもらいます。もちろん、研修担当として私が同席します」
野村はあらためて実感した。この少女が自分を教育する先輩なのか、と。あまりにも、あまりにも幼く見えた。しかしその人物から出てくるのは、あまりにも冷静な言葉だった。自分の中で、朝の光景と今の研修とが、どうしても一つに結びつかない。
「そろそろ退庁時間です。今日はもう野村さんにお願いする業務はありませんので、定時退庁してください。私も退庁します」
そう言って羽鳥は女子ロッカールームに向かって歩いていく。野村も退勤の準備をしようとすると、羽鳥が何かを思い出したように戻ってきて、野村に告げた。
「それと、退庁する時は女性職員と同じエレベーターに乗らないことをお勧めします」
羽鳥はそれだけ言って小走りでロッカールームへと向かって行った。野村は、その言葉の意味を考えようとした。しかし、考えるよりも先に、何かが引っかかる感覚だけが残った。
*
初めての出勤が終わった。野村はようやく緊張から解放された。無機質なエレベーターを下り、無機質なエントランスホールを出る。その時、入り口には朝と同じ光景があった。光沢のある黒い厚底パンプスが、ぴょこぴょことタイルの目地を器用に踏んでいた。羽鳥だった。
(あんなに真面目な人でも、こういう遊びが好きなんだな)
そう思って通り過ぎようとしたとき、少女がこちらに気づいた。
「あれー? おにーさん、なんかどっかでねねと会ったことあるよね?」
野村は足を止めた。
声が違う。いや、声そのものではない。話し方も、表情も、こちらを見る目つきも、先ほどまで研修をしていた羽鳥とはまるで違っていた。
野村は一瞬、返事に詰まった。自分の中で、今日一日の記憶がわずかにずれていくような気がした。
「……さっきまで、僕の研修をしてましたよ」
「研修? ねねが?」
「はい」
少女は少し首を傾げた。しばらく野村の顔を見つめ、それから、にっこりと笑った。
少女は自分の右耳に触れながら言った。
「へえー、不思議。ねねたちって、運命的な出会いをしてるのかもね?」
野村は、何と答えればよいのか分からなかった。




