江潮殉道―潮に埋もれし人道の碑
風が唐突に変わった。
長江の上流から冷たい嵐が押し寄せ、降り続いた小雨が一気に暴雨に変わる。屋根の板は激しく叩かれ、泥地は水浸しになり、足元の土は溶けて流れ、すべての境界が崩れ落ちるようだった。闇は濃く、雨音は人の声を呑み、天地のすべてが混沌に包まれる。
厳硯秋の瞳が一瞬、凪いだ。
背後の暗がりから漂ってくる鉄臭さ、殺気、そして自国の兵士特有の、無機質で冷めた気配。それは馬宝玶の怨念とは違う、体制のための抹殺だ。私的な恨みも、人の執着もない、ただ命令だけで動く、冷徹な死の気配である。
彼は即座に身を翻し、兵舎の扉を遮る。
「立ち入るな。」
たった二文字の声は、暴雨の轟音に負けず、雨夜の空気に硬く響いた。怒りでも威圧でもなく、少年が乱世の最後に守ろうとする、僅かな人の矜持だった。
馬宝玶もこの異変に気づき、身を固める。
収容所の外から侵入した影は、自らの同胞である日本兵だ。彼は一瞬の戸惑いに襲われる。敵の地で、敵将と対立している自分の前に、祖国の精鋭が現れ、一人の少女を殺そうとしている。戦争の歪みが、この一瞬に極まった。
佐藤は雨の中、ゆっくりと前に出た。
彼は厳硯秋を一瞥し、無表情なまま刃を抜く。刀身に雨粒が伝い、闇の中で鈍く光る。
「叛人・森川雪を処刑する。邪魔する者は、敵味方問わず排除する。」
声には人の温もりが一切ない。戦争が作り上げた、機械のような冷徹さだ。彼にとって、命は軽く、正義は軍の定めたものだけであり、個人の哀しみや葛藤は、聖戦の前には無意味な塵芥に過ぎない。
兵舎の内側で、森川雪はすべてを悟った。
自分を殺そうとする者は二人いる。
一人は南京の血を背負い、復讐のために刃を向ける中国の兵士。一人は皇国の体面を守るため、裏切り者を消そうとする自国の兵士。
両岸の世界が、同時に自分を拒絶し、葬り去ろうとしている。
彼女はゆっくり扉から一歩出る。雨が全身を打ち、冷たさが骨髄まで浸み込む。恐怖はない。ただ長く続いた彷徨いが、ついに終わるのだという静かな諦めだけが、胸に満ちていた。
自分は戦争の犠牲者だ。
疑問を抱き、真実を見ただけで、両方の正義に裁かれる。狂った時代に清醒であることは、最も重い罪だった。
「止めろ。」
厳硯秋が再び声を上げる。少年の背中は雨に打たれ、細く震えている。
「彼女は武器を持たず、殺戮に関わらぬ。戦争の罪は、一人の少女に押しつけるものではない。」
「戦争の罪は、誰にも負わせられない。」佐藤は冷ややかに返す。「だが疑いを抱いた者は、皇国に不要だ。」
言葉の応酬は無駄だった。
二つの正義が衝突し、その狭間に雪の命が挟まれている。
馬宝玶はついに歩み出た。
彼の復讐は、もう佐藤の任務と重なっていた。少女の生死はどうでもいい。ただ、この戦争が生んだ悪が、償われることを願うだけだ。
三方の人影が暴雨の中で対立する。
守ろうとする者、討とうとする者、消そうとする者。
誰もが戦争の檻に閉じ込められ、誰もが己の正義に縛られ、逃れる術を持たない。
森川雪は顔を上げ、茫々たる長江の闇を眺めた。
故郷の麦畑はもう見えない。穏やかな風も、柔らかな雨も、すべて戦火に焼かれ、遠くに消えた。
自分が見つけた真実は、誰にも届かない。
自分が抱いた人道は、乱世には無力だ。
戦争は、善悪を呑み、真心を踏みつけ、清醒な者を最も早く葬り去る。
雨は激しく天地を叩き、すべての音を埋め尽くす。
この雨夜の決着は、もう誰も覆すことができない。
雪は静かに目を閉じた。
燃え尽きる灰のように、溶け落ちる雪のように、この一九三八年の長江の畔で、すべての彷徨いと哀しみが、ついに終わりを迎えようとしていた。
宿命は静かに、確かに、降り積もる。
雪は烬となり、硯秋は孤独を残す。
戦争だけが、いつまでも終わらずに残るのだ。




