江灘棄卒―長江の浜に捨てられた少女
一九三八年、晩夏の武漢戦線。
長江の流れは濁りきっていた。黄土を呑み込んだ水は重く鈍く、水面に砲火で砕かれた木片、朽ちた布片が浮かび、ゆっくりと下流へ押し流されてゆく。空は厚い雲に覆われ、日差しは永遠に届かぬかのように、天地はくすんだ灰色に沈んでいる。遠くの戦陣から絶え間なく砲声が響き、微かな振動が地肌を伝い、この地のすべてを重く圧し続けていた。
森川雪は十九歳だった。
北海道の麦畑で風を浴びて育った少女は、戦争の手によって故郷を引き離され、軍の看護婦として戦場に立たされた。鉄兜は年若い頭に重くのしかかり、汗と泥に塗れた軍服は肌に張りつき、いつも冷たい不快感を残す。日々は傷の手当て、膿の拭き取り、負傷兵の呻き声に埋もれ、ただ刻一刻と戦場の時間が過ぎていくばかり。
彼女はもとより、この戦いに心から賛同したことはなかった。
異国の土に血が溢れ、見知らぬ人が次々と命を落とす光景を目の当たりにするたび、故郷の穏やかな麦波が脳裏に浮かぶ。澄んだ風、揺れる緑、騒音も血臭もない日々——それとあまりに乖離した現実が、彼女の心を淡く削り続けていた。
部隊が迂回移動する折、不意に銃火が襲ってきた。
瞬く間に土煙が巻き上がり、炸裂音が空を裂く。周囲の兵士が次々と地に倒れ、血が泥に滲む。雪は反射的に薬箱を胸に抱え、窪地に身を伏せた。弾丸が頭上を掠め、飛び散った砂粒が頬を叩き、鋭い痛みを残す。
短き交戦が終わった時、残された日本兵はわずか数人に過ぎなかった。
数名の中国兵が銃を構え、無音のうちに近づいてくる。戦場の殺気が残る瞳は冷めており、一切の緩みがない。
「動くな」
低く、重い一声が荒れた空気に落ちる。銃口がまっすぐ彼女に向けられ、逃れる術はなかった。雪は躊躇うことなく薬箱を地面に置き、両手をゆっくり頭上に掲げた。指先が小さく震え、戦慄が全身を這い上がるが、彼女は顔色一つ変えず、じっと相手を見つめ返した。
兵士は彼女の腕章を見て、看護婦であることを悟り、眉をわずかに顰めた。敵兵ではあれ、武器を持たぬ医療要員。だが戦場の冷酷さは、その区別を甘んじて許すほど優しくはない。銃口は下ろされぬまま、捕虜として連行する命が下った。
揺れる荷車に押し込まれ、雪は狭い車内で長江の濁流を眺めていた。
硝煙と泥臭い風が隙間から吹き込み、鼻をつく。遠ざかる戦場の轟音、刻まれる車輪の音、流れゆく暗い水面。すべてが現実の重さを持って、彼女を襲う。
これから待つ運命は何なのか。
故郷の麦畑に、もう一度帰れるのか。
答えのない思いが胸に渦巻き、やがて車は江岸の捕虜収容所へと辿り着いた。
収容所は土塀と木柵で囲われ、鉄条網が空を遮るように張り巡らされている。敷地内は湿気と汗臭、古い血のにおいが籠もり、同じ境遇の日本兵たちがうつむき、言葉もなく座り込んでいた。敗北と拘束の重圧が、空気ごと人を押し潰している。
ここで、雪は厳硯秋と出会った。
十八歳の若き旅団長。年齢に似つかわぬ沈黙と枯淡を身にまとい、眉間には南京の血風が刻んだ浅い傷跡が残っている。馬から降り立つ姿は細身でありながら、嵐をくぐり抜けた者だけが持つ真っ直ぐな気骨を宿していた。
彼は無言のまま捕虜たちを見渡し、視線がふと、少女一人の姿に留まる。
血と泥に汚れた軍服、戦慄を隠しながらも、澄んだ瞳を保つ日本の看護婦。
長江の冷たい風が彼の軍服の裾をなびかせ、木柵の隙間から潮風が吹き抜ける。
言葉も交わさぬ邂逅だった。
だが戦争という大きな渦の中で、宿命の糸は静かに絡み合い、二人の運命はこの濁った江岸で、確かに交わったのだ。




