2話 世の儚み
部下からの報告を受けたとき、自身の心音が早くなっていることを時義は感じた。
部下曰く、民の間で四肢や顔に膿疱を走らせている者が現れたという。
かつての醍醐天皇の崩御から二月ほど経ち、武蔵国は冬を迎えていた。
(朝廷だけでなく、周辺諸国からの来訪者は誰一人入れなかったはず。)
(...どこから感染した?)
「その感染者は今どこに?」
「西方の集落にいます。」
冬場は空気が乾燥しやすい。
低温・低湿度になると感染症は活発になりやすい。
さらに空気が乾燥すると人の気道は普段よりも弱まり、感染症にかかりやすくなる。
これが夏から冬にかけて感染症患者が急増する原因だ。
それに武蔵国の大部分は平野部になっいて、冬は他の地域より一段と乾燥する。
「感染者を隔離しろ。」
「出来るだけ集落から離れた場所、多湿の山間部が好ましい。」
「それと、感染者が出た集落の人間は全員、自宅に待機させろ。」
「畏まりました。」
「ですが、民の食料はいかがしましょう?」
「彼らのほとんどは農民で食料は自給自足です。」
「外出を制限されれは農業もままなりません。」
「日祭家の食糧庫を開け。」
「緊急時用の食料が二月分ほどあるはずだ。」
そうだ、2か月ほど耐えればいい。
そうすれば冬も越えられるし、治療法の目途が立つまでの時間もある程度稼げる。
問題は、、、
「現状、何人が感染してる?」
「潜伏期間中の者もおりますでしょうが、水疱が出ている者は計10名ほどです。」
「朝廷の典薬寮に官医を打診しろ。」
「日祭の名を言えば何人かは来てくれる。」
「だが、その官医たちも集落には入れるな。」
「では、時義さまは、」
「俺も治療に当たる。」
「危険です!万が一、時義さまが病を得れば、、」
「この国に薬師は俺しかいねぇんだよ。」
〇●〇
武蔵国で疱瘡の患者が初めて確認され、早2月が過ぎた。
時義は武蔵の西方地域である秩父で疱瘡患者の隔離治療に当たっていた。
あれから時義は、一度も家へ帰ってきていない。
今頃、これ以上感染者を増やすまいと奔走してる事だろうな、と立河千日は想像した。
彼は時々、頑固で周りがいくら止めても突っ走ることがある。
それも、民や仲間の命がかかっているときは尚の事だった。
日祭家の当主の人間が不治の病に罹れば一大事であることは明白なのに、それでも彼は自分の命よりも顔も知らぬ民の命を優先していた。
そんな頑固で優しい彼のことを、皆慕っている。
「きょうは、少し熱いなぁ...」
そうつぶやいた後、世界が暗転し、千日は目を閉じた。
〇●〇
「時義どの、今日の夕餉ですぞ。」
朝廷から派遣された官医が出した夕餉は、見た目は質素だがそれなりに栄養のありそうな食事だった。
時義が隔離施設に籠って早二月、患者の状態は快方に向いつつあった。
現状、疱瘡を治す薬は朝廷にも出回っていなかった。
衛生状態を徹底し、使用済みの衣服や食器は燃やして炭に変え、食料の運搬の際にも待ち合わせ場所に置いておくだけで、人間同士は絶対に接触させないようにしていた。
部屋の中を温かくし、患者の状態を逐一検査する対症療法で何とか死者を出すのを防いでいた。
疱瘡は一度罹り、治ってしまえば二度目は罹りづらいと旧友から教えてもらったことがある。
だから時義は、長安に出家していたころ、軽症の疱瘡患者の膿を摂取して、軽度の疱瘡に罹ることで免疫を得ていた。
そのため時義の背中の一部には醜い痘痕が浮かんでいた。
(こんなに上手くいくなら、千日や琥珀にも施した方がいいのか?)
(...いや、悪化する危険性もあるし、琥珀はまだしも千日は女だ)
(あいつの体に痘痕を残したくない。)
何より千日は今妊娠をしている。
こんな時に軽度といえど、疱瘡などに罹れば、おなかの子までも危ない。
――――そんなことを考えていたとき。
「時義様!ときよし様!」
若い官医の助手が焦った様子で医務室へ入ってきた。
時義は既に不穏な胸騒ぎで鳥肌が立っていた。
「多摩の集落で疱瘡患者が急増しました!」
多摩とは時義の実家もある地域のことだ。
時義のいる秩父郡より十里は離れている。
「すぐに患者をこちらに送ってこい。」
「あと数人ほどなら受け入れられる。」
「数がそれ以上に上るなら―――」
「いえ、違うのです!」
「それが、――――」
後半の言葉は、時義には理解できなかった。
というより、理解したくなかった。
だが、聡明な彼の体は瞬時に悟ってしまった。
彼の妻子が、命を落としたのだと。
〇●〇
家に着いた時には、既に多くの人間が集まっていた。
体は焦っているのに、頭はひどく冷静だった。
門兵を無視し、見慣れた渡殿を走り、愚痴をこぼした寝殿へ体を滑り込ませる。
―――目の前に広がる光景に、時義は視野狭窄を起こした。
瞳孔がこれでもないくらいに広がり、横隔膜が痙攣するのを感じた。
目の前に広がる光景は絶望に満ち満ちた家臣達と、膿疱が全身に広がり、見るも無残な姿に変わり果てた、千日だった。
「兄上。」
「申し訳、ございませんでした。」
「おなかの子も、もう―――。」
そう言いかけたところで、琥珀は口を閉じた。
時義は本来一日かけて移動する距離を、たった数刻で走り抜けてきた。
まだ生きているなら、まだ助かるなら。
必ず、自分が助けてあげると。
そう彼は信じていた。
信じていた自分を、彼は呪った。
〇●〇
琥珀の顔には苦悶の表情が浮かんでいた。
兄者の妻が亡くなってから、一月の時間が過ぎた。
あの後、家臣が感染の原因になるからと、義姉の遺体を移動させようとしたら
いつも温厚で優しい兄上とは思えないほど暴れ、誰一人として義姉の体に触れさせようとしなかった。
兄はあれから、一度足りとも部屋から出てこなかった。
兄は本当に優しい人間だと、琥珀は思う。
そんな兄を琥珀は誇らしいとも思っている。
だが兄はきっと、優しすぎたのだろう。
優しすぎたから、いろんなことを一人で抱え込んでしまったから、最も身近な義姉を助けられなかったのではないだろうか。
当主としての仕事は琥珀が引き継ぐことになった。
まだ元服もしていないが、琥珀と時義の両親は幼い頃、戦乱と疫病で亡くなっていたため、重要事務や政に関する知恵は叩き込まれていた。
いつも通り時義の様子見を寝殿の外から済ませ、仕事に赴こうとしていた時。
「琥珀」
そこには、いつも以上に穏やかで、優しく、慈悲深い表情を浮かべたいつもの兄上が立っていた。
体はやせ細り、目の下には隈が出てきたがそれ以上に頑健な表情を浮かべる兄の姿に、琥珀は思わず涙を流しそうになった。
「琥珀」
「頼み事がある。」
しかし、その悲壮で重苦しい覚悟をにじませたような声を聴いた途端。
琥珀の体に大きな恐怖が走った。
神妙な恐怖感を纏う時義の左手には、二つの薬が握られていた。




