10億円事件――EP.1
[Billion yen robbery.――EP.1]
「キミが幸せになれるわけないじゃん!」
そんなことを言い放つ。
「ま、幸せにできるんですけどね。ボクなら!」
そして付け足した。
本当に何なんだよ、コイツは。
「さあ。契約をしようか」
綴は携帯端末を取り出すと、右の目にかざした。
「虹彩パタンを認識しました」
機械音声が流れた。
そして、右の人差し指で画面に触れる。
「指紋を認識しました」
再び、機械音声が流れる。
「次はキミの番だ」
6700万円の借用書。
俺が光彩パタンと指紋を登録するだけで、この借用書は効力を持つ。
携帯端末を受け取る。
微かに温い。
綴の体温の残滓。
無機質な四角い板を右目にかざす。
「虹彩パタンを認識しました」
次は親指か。
「後悔しない? 今ならまだ止められるけど」
綴は問う。
笑いながら。
しかし、愚問だ。
「するわけがない。命よりも大切なことが在るのか?」
命の命が懸かってる以上、
「契約しない」
という選択肢は最初から無い。
それがどんな契約であっても。
俺が何を失うことになったとしても。
「くふふ」
くすぐったいのを我慢するような調子で、綴は笑う。
「遠。キミって最高だよ」
「ああ。気分も最高だ」
これで、命が助かるのだから。
どうせ、ろくな契約じゃないが。
さあ。
俺は俺を棄てようか。
親指でディスプレイに触れる。
「指紋を認識しました」
その音を聞いて、
「うん。良いね」
綴は笑う。
「これでキミはボクの物だ」
「あー、そういう契約ねぇ」
予想はしていた。
「俺は何をすれば良い?」
「とりあえず、PKしようか。10億円分」
早速、無理難題。
しかし、
「……喜んで」
俺に拒否権は無いのだから。
◆
そこからは速かった。
「じゃ、これ」
綴は言いながら端末を指でつつく。
「ピッ」
短い電子音。
電子財布を開けば、残高が5000万円増えていた。
「ヤクザのことはこっちでどうにかしておくから。キミは何も心配しないで良いよ。あ、契約書だけ読んでおいてね、一応」
それだけ早口に言って、彼女は去っていった。
急に、静けさが帰ってくる。
温い夜風が運ぶ、虫の声。
「何だったんだ……」
ただ、口座には確かに5000万円が振り込まれていた。
「あ」
不思議がっている場合ではない。
俺は病院に駆け戻ると、医師に臓器移植を行う意思を伝える。
「治療費は?」
と問われたが、
「これで」
と携帯端末の画面を見せて黙らせる。
「分かりました。週明けの委員会に掛けましょう。早ければ来週末には臓器の培養を始められます」
「それ、もっと早くできませんか?」
「無理ですよ。他の患者もいるんです」
「それ、もっと早くできませんか?」
もう一度、同じことを訊く。
札束を2つ、医者のデスクに置きながら。
ヤクザから借りた1000万円の一部だ。
彼は周囲に人がいないことを確認すると、彼は小声で答えた。
「……できます」
「いつまでに培養を始められますか?」
「水曜日」
「水曜日?」
「……いや、火曜日までには」
医者が2つの札束を掴む。
しかし、片方は奪い返した。
「月曜日」
「え?」
「月曜日に培養を開始できたら、残りはお支払いします」
「……善処します」
彼は立ち上がると足早に病室を出た。
作業に取り掛かるのだろう。
そんな背中を見ながら、思わず笑いがこみ上げる。
「笑えねえ……」
この札束。
この金の束が、これほどの力を持つ。
人の生死すら決めてしまうほどに。
滑稽だと感じてしまう。
こんな紙切れが無いばかりに、命は死のうとしていたのだから。
「笑えねえんだよ……」
しかし、これで大丈夫。
「はぁ……」
力が抜けた。
思わず、その場に屈みこむ。
命のベッドに顔だけを乗せる。
青白い肌。
繋がれた幾本もの太いチューブ。
小さな顔のほとんどが酸素マスクに覆われている。
それでも、
「命……。良かった……」
彼女の心臓が脈打つたび、モニタに波が走る。
「これで、助かるよ……」
安心すると眠気が押し寄せる。
命の冷たい手を握った。
彼女のベッドに縋りつくように、気づけば、俺は眠りに落ちる。
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総資産:-70,401,111(日本円)




