邂逅、$10億ドルの少女。――EP.2
[A boy meets a billion dollars girl.――EP.2]
扉を開ければみそ汁の匂い。
とんとんとんとん、と規則正しい包丁の音が止む。
「兄さん! おかえりなさい!」
靴を脱ぎながら右を向くと、すぐそこが台所。
築五十年の六畳一間。
そこで朗らかにほほ笑むのは東雲命。
妹だった。
洗剤を節約する為と、
そもそも服を持っていないので、彼女は中学校の制服を常用している。
今も制服に使い込まれたエプロンを被り、漬物を切っていた。
自家製の漬物。
本来は捨てるはずのキャベツの芯も。
お酢ベースの漬物液に付け込めば立派な一品に化ける。
「特売、どうでした?」
「モヤシと卵、どっちも買えたよ」
「さすがは兄さんです」
胸の前で両手を合わせて彼女ははにかむ。
緩く結んだみつあみが揺れる。
「それだけじゃない」
「え?」
エコバックから取り出したるは巨大な鶏ムネ肉のパック。
「に、兄さん! それって!?」
彼女のつぶらな瞳がパックの一点に吸い寄せられる。
そこには堂々と輝く真っ赤なシール。
まるで勲章のようなそれ。
そこに「半額」の文字が。
「すごい! すごいのです!」
「賞味期限が間近だったみたいで。運が良かった」
「日ごろの行いですね。小分けにして冷凍しておきましょう。これでしばらくは豪華な食卓です!」
「ああ。俺がやるよ」
狭い台所は、並べば肩が触れ合うほど。
「あ、悪い」
命と目が合う。
思ったより近い。
「いえいえ」
しかし、鼻歌交じりに鍋をかき回す彼女。
もやし(おひとり様二袋まで)、
卵1パック(L玉。おひとりさま一パックまで)、
鶏ムネ肉2キログラム、
タマネギ、
ピーマン、
ニンジン、
ジャガイモ、
米10kg、
洗剤、
歯ブラシ。
締めて三〇八九円也。
先刻、倒した【盤古の機械鎧】。
それが400円になった。
その他、諸々《もろもろ》の敵を倒して、稼ぎの合計が4000円ほどだ。
これだけ買って1000円もお釣りが来る。
小分けにした鶏肉を冷凍庫に押し込む。
その時だ。
「あれ? 兄さん、今のは?」
鶏肉の隙間に押し込まれたそれを命は目ざとく見つける。
チョコレートでコーティングされた一粒サイズのアイスクリーム(六個入り)。
つまようじで刺して食べる、彼女の大好物。
「いや、えっと、たまには、ちょっとくらいご褒美が有っても良いかと思いまして、ですね……」
しかし、彼女の視線が痛い。
「……あの、命さん?」
「めっ! です」
「うっ」
胸を逸らして俺を叱る妹が、やけに大きく見えた。
「悪かったよ。アイスなんて贅沢品」
はぁ、と命はため息を吐く。
「アイスを買ったこと自体には、そこまで怒っていないのです」
ならば何に怒っているというのか。
考えても分からない。
命は再び溜息を吐く。
「私が怒っているのは、アイスを買ってまで私を喜ばせようとしたことなのです」
「それはどういう?」
「兄さんにはもう十分に良くして貰ってるのです。十分過ぎるくらいに」
「命……」
「今さらアイスなんて無くても私は満足しているのです。そんなことも分からないなんて、だめだめなお兄様ですねぇ」
やれやれ、と芝居がかった身振りで命は言う。
思わず、そんな彼女の頭に手を置いていた。
「に、兄さん!?」
「いや、つい」
「つい、と言うならいつまで撫でてるのですか!?」
「いやぁ、つい、ね?」
「兄さん!」
「ドンッ!!」
その時、壁が鳴る。
隣部屋の住人が叩いたのだ。
このアパートが建ったのは年号を二つも飛び越えて平成の頃。
そろそろ文化遺産に登録されても不思議ではないほど。
住むには最悪。
オンボロの壁は遮音性が皆無。
流れる沈黙。
二人で目を合わせる。
声を押し殺して笑う。
「うるさかったですかね……」
囁くように命が言う。
「壁が薄いからな。冷める前に飯にしよう」
「そうですね」
ゴミ捨て場で拾ってきた丸い卓袱台。
そこに並ぶのは白米とみそ汁。
キャベツの芯の漬物、焼いたチクワ。
それからモヤシと卵の炒め物。
五品目も有ってにぎやかだが、一人前が百円程度。
我が妹ながら天才かもしれない。
「「いただきます」」
そして、味も申し分ないのだ。
「このチクワ美味いな」
「ピリ辛に仕上げてみたのです。ご飯が進むでしょう?」
控えめに言って命は天才ではなかろうか。
食事も済ませ、シャワーも浴び、時刻は夜の九時。
「よし。それじゃあ」
「はい」
「寝るか」
「寝ましょうか」
畳に二枚並べて布団を敷く。
日の出と共に起き、夜はできるだけ早く寝る。
明るい時間に活動すれば電気を使わないで済む。
経済的だ。
干した布団と畳の良い匂い。
睡魔はすぐにやってきた。
コチ、コチ、と古い時計の音。
遠くで虫の鳴く声。
隣は動画でも見ているのか。
ぼやけた人の声が漏れ聞こえる。
しかし、それらも混ざり合ってあいまいになる。
眠りに落ちる少し前。
宙に浮かんでいるような心地の良い時間。
「……兄さん?」
ふと、そんな声が聞こえた。
「ん?」
「……えっと、その、…………ですか?」
小さすぎて聞き取れない声。
「何て?」
「あの、ですね、……手、繋いでも?」
一瞬、虚を突かれる。
しかし、すぐに
「ああ」
と答える。
布団から片手を出す。
すぐに命がその手を取った。
小さい手。
温かい。
(参ったね)
不安じゃないわけがない。
当然だ。
かく言う俺だって、時折、無性に怖くなる。
俺よりも1つ年下。
まだ中学生の命が、怖くないはずがない。
「悪いなぁ。頼りない兄で」
そんな言葉は何とか呑み込む。
口に出したら、また怒られる。
間もなく、すぅ、すぅ、と穏やかな寝息が聞こえる。
「ん……。兄さん……」
カーテンの隙間、しんしんと降る月明かり。
ただ、その手を握っていた。
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総資産:96,227(日本円)