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誰にでも生きる価値がある?

作者: 相浦アキラ

 Youtubeを見ていたら、おすすめに精神科の先生の動画が出てきました。

 誰にでも生きる価値がある、といった主張をされている動画でした。全く賛成は出来ませんでしたが、気になったので見てみました。

 その先生によると、例え働いていない人でも誰かに仕事を与えるという意味で誰かの役に立っているそうです。だから価値が無い人なんかいない、という事らしいです。

 言いたいことは分からないでもないです。確かに何らかの形で、誰もが社会に価値を与えているのは事実でしょう。……しかし、結局社会に与える価値から迷惑を割り引いた総体としての価値がマイナスになり得る以上、大した救いにはなりません。預金が1000万あっても借金が1億円あれば誰も羨ましいとは思わないでしょう。

 もう少し意地悪な事を言うと、凶悪殺人犯が同じ論法で「俺は悪い事もしたが、弁護士や刑務官に仕事を与えてやってるから価値がある」とか言いだしたらどうでしょうか。


 私は相対的な価値がマイナスになった人間を見捨てろと主張している訳ではありません。そんな社会は誰も信用できなくなってすぐ瓦解するのが目に見えています。ですからこういう発想はあまりよくないかも知れませんが……実際問題人間の価値にランクがあるのは間違い無いでしょう。同じスペックで年収1000万と年収300万の男性なら、普通の女性は年収1000万の男性を選びます。凶悪殺人犯と無垢な子供が同時に危機に陥って行ったら、普通の人は子供の方を助けるでしょう。

 こうやって人間に価値のランクを付けていく仕組みは仕方ないのでしょうが、どうしてもグロテスクの感が否めません。


 そもそも私は「あなたには価値がある」と言われてもそんなに嬉しくありません。作品を褒められるとかだったら話は別ですが、基本的に褒められても嬉しくありません。私は私の事を無価値な人間だと思っていますが、その事で生きにくさを感じている訳ではありません。

 私が「生きにくい」と感じるのは、表面的な価値にあまりにも重きを置き、無自覚な差別を容認するこの世界の在り方に対してです。老いにより目減りしていき、死によって消滅するのが確定している物質的価値に対してです。正に賽の河原ではないですか。

 私は自分の価値の無さ以上に、生き馬の目を抜くように俗世的な価値を求め続け、価値が無い人を蹴り落とし、価値を求める事を万人に強要してくるこの社会の在り方こそが、途方もなく「生きにくい」のです。


 何だか厭世的な事をつらつらと書き連ねてしまいましたが、価値を目指す人を侮蔑している訳ではありません。

 私のニヒルな言説を突っぱねて、「うるせーそれでも俺は大金持ちになるんだ!」とか「私は美貌を生涯維持する!」とかおっしゃるなら、その言葉には意志があるのかも知れません。


 とはいえ、価値を追う事に疲れ果て、生きる事に苦しみ悩み、努力しても報われず、動けなくなった人も多い事でしょう。

 そういう人は無理やり自分の中に価値を見出すより、一般的な価値基準からの脱却を目指した方が良いのではないかと思います。

 物質的な価値や、社会的な価値から抜け出し、誰にも理解されなくとも構わないような自分だけの価値を求めるのです。

 ……もちろん我々が生物である以上、一般的な価値基準を完全に脱却する事は不可能でしょうが、自分だけの価値を目指す事はできる筈です。


 ちょっと哲学的な話になってしまいますが……

 一つ私が考えているのは、認識そのものに価値を見出すという事です。

 一日中不幸を感じ続けたり、幸福の最中にあったりする人はそんなにいないでしょう。幸福でも不幸でもない、ただ認識するだけの時間がある筈です。私はそんな瞬間に、ふとささやかな価値を感じる事があります。

 何てことない影の動きや、路傍の草や虫に感動を覚える事があります。

 誰も歯牙にもかけないような小さな事にこそ、私は心動かされるのです。


 そしてもう一つ。「私」の認識主体としての特別さについてです。誰にとっても、自分を通してしか世界をみる事が出来ません。「私」だけが唯一の認識主体なのです。もちろん他人が認識主体であるか確認する術がない以上、この話は本来「語る事が出来ない」のですが、こういった視点から見ると誰もが特別な存在である事が「自ずと」導き出せるかと思います。

 「一人一人に特別な価値がある」と言われても、「私の上位互換なんていくらでもいるではないか」と反論したくもなりますが、こういった自他問題を考えていくと確かに「私」は特別な存在であり、そしてその特別さは決して誰にも伝えることが出来ないという神秘のベールに覆われているのです。そう考えてみると、「私」にも「他者」にも、その在り方自体に途方もない価値があるような気もしてきます。

 ……しかし価値があるのは本当にいい事なんでしょうか。そもそも価値とは何なのでしょうか……あらゆる価値から脱却し、ただ生きるだけでも良いのではないでしょうか。……キリがないので今回はこのへんにしておこうと思います。


 論旨をまとめておきます。


・自分には価値が無いという苦しみ以上に、一般的な価値を求める事を強要してくる社会こそが生きづらさの根源ではないか。

・物質的な価値は目減りして行き、死ねば失われる事が確定している。

・本来的な価値は何気ない認識や、「私」の認識主体としての特別さにあるのではないか。


 こんな感じでしょうか。何かのお役に立てたなら幸いです。


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[良い点] 幼女作家「大多数の人間にとって、価値とは交換価値だからなぁ……」 [一言] 価値とは交換価値だと思う。つまりたくさんの人に交換したいと思われると高くなるってことです。その算定自体がイヤだと…
[一言] 人の持つ「価値」は視点で変わる。 勇者と魔王がいてこそ物語は成立する。魔王のいない世界での勇者は勇者たり得ない。勇者としての「価値」はなく、そもそも勇者として「認識」さえされないかもしれない…
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