第3話⑴ 秋日和
サワサワ、サワサワ。
穏やかな秋風が色付き始めた紅葉を揺らす。
息を吸うと一面に生い茂った草木の香りが体内を心地よく満たしていく。
雲一つない秋晴れの空に太陽が控えめに輝き、視界には鮮やかな赤と緑のコントラストが広がっていた。
(心が洗われてくみたいだ)
秋を実感する十月下旬の昼前時。
住吉は公園に立つ大きな木の木陰でゆっくりと深呼吸をした。だんだんと心の中にあったものが吐き出されて空っぽになっていき、代わりに自然のエネルギーで満たされていくのを感じる。
(ああ、もうしばらくこの自然の中に浸ってい……)
「何ボケッと突っ立ってんだよ!」
突如真下から聞こえた野太い声に住吉は我に帰った。
見ると、住吉の両手には車椅子のハンドルが握られ、目の前の車椅子には榎本さんが座っている。
そうだった。五感を包み込む自然の心地よさにしばし気を取られていたが、住吉がここに来たのは自分のマインドフルネスのためではなかった。
深緑の郷の仕事で来ていたのだ。しかも時間外労働の仕事で。
住吉達は今、外出レクリエーションとして深緑の郷の近くにある大きな公園を訪れていた。
住吉ら介護スタッフ六人に施設長の山上を合わせた七人で十五人の入居者を分担して引率している。
そんな中で一番下っ端の住吉には榎本さんの付き添い介助が割り当てられていた。
「もっと早く行けよ。こんな虫の多そうなとこでチンタラすんなよ」
秋の自然美にはまるで興味が無さそうな榎本さんは下品に唾を飛ばしながら住吉を急かす。
榎本さんは施設の外であろうがお構いなしに口が悪かった。他人の視線などまるで気にしないようだ。
平日の昼前時だが、公園では住吉達の他にも近所の子ども達やお年寄り達が秋の自然を満喫している。
住吉としては榎本さんが大声をあげるたびに近くにいる人たちが何事かとこちらを振り向く視線が痛かった。
そもそも今回の外出レクリエーションの参加は希望制である。
公園に入ってから終始この調子の榎本さんが何故参加を希望したのか、住吉には疑問だった
住吉は後続の姿が見えてきたことを確認すると、榎本さんの罵声と周りの視線に耐え忍びながらゆっくりと先に進んだ。
ベンチのある大きな広場に出た。
赤く色づき始めた紅葉の木がいくつも立ち並ぶ風情のあるところだ。
今回の外出レクでは、この広場で集まり皆でお茶会をすることになっている。
ようやく榎本さんとのマンツーマンから解放された住吉はベンチに座るとホッと一息ついた。
入居者達はスタッフを交えてそれぞれグループに別れ、ベンチに腰掛けたり広場にシートを敷いたりと思い思いにお茶会を楽しんでいた。
早々に住吉を厄介払いした榎本さんは谷川を手招きすると、自分の隣にあるベンチに腰掛けさせ、甘酒を飲みながら何やら二人で上機嫌に話している。
住吉がそれらをぼんやり眺めていると、ドサっと隣に誰かが座る気配がした。
振り向くとすぐ隣で門脇が膝を組み、不満そうな顔を隠すことなく頬杖をついて座っていた。
「ったく。なんで夜勤明けの俺まで外出レクの残業なんかしなきゃいけないんだよ。マジでいい加減にしてほしいよな」
そう言うと、門脇は大きな欠伸をしながら身体を伸ばした。
今日から始まった紅葉狩りの外出レクリエーションは人員の関係上、夜勤明けのスタッフも急遽駆り出されていた。
ちなみに住吉は遅番の早出出勤として駆り出されている。
「だいたいレクリエーションなのになんでわざわざ残業とか早出でやるんだよ。普段のレクの時間にやりゃあいいのに」
夜勤明けの急な残業に不満爆発の門脇は愚痴が止まらない。
「普段のレクの時間だと残業が使えない分、人手が足りなくなるみたいですよ」
「そもそも残業ありきな体質が問題なんだよ。ボランティアに頼むとかいくらでもやりようがあるじゃん」
「でも今はこんなご時世だし、それも難しいんじゃないですか?」
「それじゃあ、はなから無理なこと企画しなけりゃいいのに」
「……」
これには住吉も同意する。
しかし、このレクリエーションの企画者達の気持ちも理解出来た。
「入居者達のストレス発散とかも必要なんじゃないですか。榎本さんも昨日また派遣スタッフに怒鳴り散らしたっていうし」
さっきから榎本さんの機嫌が悪いのはそれが原因かもしれない。
榎本さんを苦々しげに一瞥した門脇だったが、住吉の方に視線を戻すと口を尖らせて言った。
「今日はやけに向こうの肩持つな」
「別に肩持ってるわけじゃないですけど」
門脇の言う『向こう』が何を指しているのかは判然としないが、住吉自身はどの派閥にも属しているつもりはない。
ただ門脇の言う通り、普段なら住吉も同調し門脇と一緒になってブチブチと不満をぶつけ合っていただろう。
しかし、今回はそれをすることに抵抗を感じる理由があった。この紅葉狩りの外出レクリエーションの企画を担当したのは小林なのだ。
前回の夜勤の時、小林が入居者に対してどれだけ真摯に向き合っているかということを知ってしまったため、住吉には彼女の企画したものを批判する気にはなれなかった。
あの時小林が作っていた紅葉は食堂や廊下など様々なところに飾られ、施設内を赤く彩っていた。
今回外出レクリエーションに参加出来なかった入居者達も秋の季節感を楽しめたに違いない。
少し手伝っただけだったが、自分の作った紅葉を見ながら楽しそうに笑い合っている入居者達を見ると、住吉も嬉しかった。
住吉は心の中で改めて小林に感謝した。
その小林は今日もボランティアとして七歳の娘を連れ、この外出レクリエーションに参加している。
娘と一緒に入居者達のお茶会に交じり談笑している小林を見ていると、住吉も自然と頬が緩むのを感じた。
そんな住吉を見て、小林との間にあった出来事に門脇も思い当たったようで、「こないだの夜勤大変だったみたいだな」と訳知り顔で話題を移した。
あの日は小林のおかげで問題なく朝を迎える事が出来たのだが、その後の榎本さんの機嫌の悪さや、住吉と小林が残した夜間帯の記録などを通して、あの夜の大変な状況は他のスタッフにも知られるところとなっていた。
住吉と小林の仲もあの日以来、しっかりと深まっていた。普段からたわいのない会話が増え、今では自然な友人関係を築けている。
住吉が小林の事を好きなのは間違いないが、それは好意よりも信頼や敬意のようなものが近いように感じる。
住吉にとってあの日の夜勤はとても大変なものだったし、一時は心が折れて本気で辞めたいとも思った。
けれどもそれから数日が経った今、あれもこの仕事の経験の一つだと思える程に立ち直れていた。
何よりあれほどのトラブルを顔色一つ変えず乗り越える小林を見てしまうと、住吉がそれを理由に挫けることはひどく情け無いようでためらわれた。
しばらく門脇と二人でこの前の夜勤についての話をしていると、ふと視界の先の小道を笑いながら歩く小佐田と真理子の二人の姿が見えた。
お互いに別々の入居者の車椅子を押して並んで歩いているのだが、驚いたことに二人の距離が異様に近い。遠目からは肩が触れ合っているように見える。
門脇もそれに気づいたようだが、住吉とは反応が違った。
「小佐田くん上手くやってるみたいだな」
門脇は頬杖をついたままぼんやりと呟いた。
そして住吉の呆然とした反応に気づくと、ふと何か思い出したようにニヤッと笑った。
そして住吉の方に身体を寄せると、「そういえば、この前真理子と飲んだ時に聞いたんだけどさ」と二人の関係について話し始めた。
「昨日って言ってたから、今日からだと四、五日前かな?小佐田くんから真理子に食事の誘いがあったらしいんだよ」
「小佐田くんから?」
「そう。イメージ出来ないよな。それで今度一緒に飲みに行く約束したらしいよ。小佐田くんて女の子みたいな顔して結構酒豪だし煙草も吸うし意外と男気あるよな」
喫煙と男気の結びつきは非喫煙者の住吉には全くわからなかったが、たしかに最初に会った頃の小佐田のイメージとは、もはやだいぶかけ離れていた。
それに今も視線の先の二人は、よく見るとお互い寄り添っているというよりも小佐田の方が真理子に寄りかかっているように見える。
そうだとしたらずいぶん積極的だが、寄りかかられている真理子も笑顔で小佐田と談笑していて満更でもないようである。意外と脈があるのかもしれない。
そう思うと歳の差はあれど、お似合いの二人にも見えてきた。
そしてお似合いの歳の差ペアといえばもう一組。
真理子と小佐田ペアの前方では施設長の山上が寺島光子さんと手を繋ぎ二人で寄り添って歩いていた。
こちらは年齢差でいえば祖母と孫ほどの差がある。
もちろん山上は寺島さんの介助をしているだけだ。しかし、二人の醸し出す空気はまるで恋人同士のそれのように見える。
寺島さんも普段は見せることのないような無邪気な笑顔で楽しそうに話していた。そんな心の底から楽しそうに笑い合っている二人を見ていると、なんだか見ているこちらの方が照れ臭くなってくる。
「入居者とあんなにベタベタしてても施設長だと微笑ましく見えるから不思議だよな。あれが谷川さんだったらきっと職権濫用でセクハラしてるようにしか見えないのに」
住吉と同じく山上と寺島さんの二人を見ていた門脇が遠い目をして呟く。
するとすかさず横から「誰がセクハラだよ!」とツッコミが入った。
住吉と門脇が驚いて声のする方を見ると、隣のベンチに座っていた谷川が苦々しげにこちらを振り返っていた。
「聞こえてたんですか……」
門脇は驚きで目を見開きながら頭をかいた。
「聞こえてたのかじゃないよ。まったく」
谷川は苦々しげにそう言い捨てると、再び榎本さんとの会話に戻っていった。
すると門脇は口元にこそっと手を当てて、今度は住吉にしか聞こえない声量でボソッと呟いた。
「あの人、いつもこういう時だけ地獄耳なんだよな」
さすがにこれは聞こえなかったようで、谷川は相変わらず榎本さんと一緒に甘酒を飲みながら談笑している。
谷川は深緑の郷の中で榎本さんから唯一気に入られている介護スタッフだった。それもかなり気に入られている。それは榎本さんが他のスタッフに対し、事あるごとに「谷川さんを見習うように」とうるさく注意するほどだった。
もともと谷川は榎本さんに限らず、どの入居者からも人望が厚く、いつも入居者達の輪の中にいた。
住吉は榎本さんに怒鳴られない谷川が羨ましく、一時期何故谷川がそんなに入居者達から人気があるのか気になって観察してみた。
しかし、その時は普段の谷川の仕事ぶりを見てみてもいまいち理由はわからなかった。耳が遠く和田さんの対応がしっかり出来ないように、普段の仕事では年の功を見せるよりも老いた麒麟の姿を見せることの方が多い。
かと言って谷川が業務以外のところで小林のように入居者達のために特別なボランティア活動をしている様子もなかった。
この時の観察から住吉は、このような谷川の仕事ぶりとは別に単に年が近く話が合い、親近感を感じることが谷川が人気な理由なのではないかと考えている。
こうした理由で入居者達は谷川のことを介護スタッフというよりも、自分達の仲間や他のスタッフとの仲介者的な存在だと思っているのではないか。
もちろん他に住吉が観察しきれなかった理由があるのかもしれないし、実際のところはっきりした理由はわからない。
それでも隣で谷川と談笑する榎本さんは心の底から楽しそうに笑っていた。
住吉は谷川の存在こそが榎本さんを一年もの間この深緑の郷に引き留めている要因なんじゃないか、と本気で思っている。
しかし、これが事実だとすると、谷川にはやはり入居者達と年齢が近いこと以外にも何か魅力があるのかもしれない。
住吉はその魅力を再び探るべく、文字通り顔をくしゃくしゃにして笑っている谷川を見た。
薄く儚い白髪頭にシワだらけで彫りの多い横顔。
「ただのお爺ちゃんだけどな……」
思わずボソリと声に出してしまってから(しまった!)と思った。
隣の門脇も信じられないという顔で住吉を見ている。
谷川は一度こちらを振り向き住吉をギロリと睨みつけたが、何も言わずに顔を戻すと再び榎本さんとの談笑に戻っていった。
後で怒られるだろうか。やはりこういう時だけは地獄耳だ。
実は普段も聞こえてるんじゃないか。
そんなことは実際ないと思うが、そう思わせる何かが谷川にはあった。
もしかしたらそれが谷川の魅力の秘密なのだろうか。
しかし、考えてみても住吉にはそれがどう魅力に繋がるのか、よくわからなかった。
目の前の景色を改めて見渡してみると、紅葉が映える薄緑の広場の上で深緑の郷のみんなが和気藹々と笑顔で過ごしていた。
住吉も時間外労働の不満などすっかり忘れ、門脇や入居者達と笑い合い、この時を楽しく過ごした。
こういう時、住吉はこれからもこの仕事を続けていくのも悪くないと思う。
ただ、この笑顔は介護の職場のほんの一場面に過ぎない。
実際にはこの笑顔はそれぞれの心の中の微妙なバランスの上に成り立っている。
介護の職場には色々な人がいる。
住吉だけではない。
他のスタッフも入居者もそれぞれみんな心の内に揺れ動く天秤を抱いている。