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ツイノスミカ  作者: 日丘
7/19

第2話⑷ 夜勤騒動

 午前二時。

 目覚めは悪くなかった。

 ただ、そもそも眠れていたのかどうか曖昧だ。眠れずに目を瞑ったまま、二時間ただ悶々としていただけのような気もする。しかし、それにしては二時間が経つのが早すぎる気もした。

 どちらにしても今のところ眠気はないし気分も悪くない。気分はむしろいいくらいだった。



 スタッフルームに向かう途中、住吉はソワソワした気分を抑えられなかった。浮ついているせいか足取りも軽い。


(先程切り上げた話の続きを求められたらどうしよう)


(どういう顔をして行けばいいんだろう)


 スタッフルームに着くと、小林はパソコンに向かいカタカタと記録を入力していた。

 住吉が入ると小林は顔を上げ、いつもと変わらない調子で「お疲れ」と言ってパソコンを閉じた。

 住吉のことを意識している様子はまったくない。

 そのまま小林は先程の話の続きをすることなく、住吉が休憩に入っていた時間にあった出来事や状況の引き継ぎを事務的に申し送った。

 住吉の休憩中、それほど大きな出来事はなかったようだ。小林の脇に積まれた不恰好な紅葉の山も順調に高くなっている。

 小林はそれら机の上に散らかった道具を全て片付けると、立ち上がり住吉に向き合って言った。


「さっきはお礼言いそびれちゃったけど、これ手伝ってくれてありがとう。じゃあ、私も休憩もらうね」


 そして小林はそのまま荷物を持ってスタッフルームを出ていった。


 コツコツコツという足音が薄暗い廊下の向こうに消えていくと住吉だけになった室内は静寂に包まれた。

 残された住吉は肩透かしを食らった気持ちで立ち尽くしていた。

 休憩前のやり取りの続きを期待していたのか、警戒していたのかは自分でもわからない。

 しかしここまで何も起こらないとは思わなかった。

 小林の最後の感謝の言葉がなかったら休憩前の出来事は夢だったのではないかと本気で疑っただろう。

 しかし、そんなモヤモヤとは逆に余計な悩みの種が無くなって少しホッとした気持ちもあった。


(こんなことで悩んでいる場合じゃない)


 そう思うと気持ちが落ち着いてきた。

 住吉は先程小林が座っていた椅子に腰を下ろした。そして椅子にほんのり残る暖かさにドキッとしながらもパソコンを開く。

 その時である。


 ピピピピピピッ。

 スタッフルームに備えつけられているナースコールが静寂を裂いて室内に鳴り響いた。

 液晶に表示された部屋番号は二〇五。嫌な予感がした。

 住吉が受話器を取り要件を伺うと「腰が痛い」と男性の声で一言訴えがあった。

 住吉はパソコンを閉じると二〇五号室に向かった。


 二〇五号室の入居者は飯沼真司さんという八十五歳のお爺さんだ。軽度の認知症に加え最近は下半身の筋力低下や腰や膝の痛みの訴えがある。そのため自分で下半身を動かすことが難しく、日中はスタッフが介助に入りながらの車椅子生活をしている。


 二〇五号室に入室すると、飯沼さんはベッド上で横になったままナースコールを握りしめていた。

 各居室のナースコールは入居者がいつでも押せるようにベッドの脇のサイドレールに掛けてある。

 住吉が訪室したことを伝えると、飯沼さんは改めて「腰が痛い」と訴えた。

 飯沼さんは体調が悪くなると、口数が極端に少なくなる。

 この「腰が痛い」は腰が痛いから寝返りを打たせてくれという合図である。


 住吉は片膝をベッドの上に乗せると、飯沼さんに声をかけ上半身の協力を仰ぎながら少しずつ飯沼さんの体の向きを変えていく。

 飯沼さんは若い頃から長年に渡りスポーツをしていたようで今でも身体が大きく、かなり重い。

 体の向きを変えるだけでなかなかの重労働だった。

 住吉は飯沼さんの腰に共鳴するように自分の腰も悲鳴をあげるのを感じながら、なんとか体の向きを反対に変えた。


「飯沼さん。腰の具合はどうですか?」


「大丈夫」


「他にご用件はありませんか?」


「もう大丈夫」


 飯沼さんの返答にホッと一息をつき、住吉は退室した。

 ところがである。

 住吉がスタッフルームに戻り椅子に腰を下ろした瞬間、またナースコールが鳴った。部屋番号を確認すると、またしても二〇五号室である。受話器に出て要件を尋ねるが今度は無言だ。


 再び訪室すると飯沼さんは今度は「足が痛い」と訴えた。

 これは本人に確認したところ薬を膝に塗ってくれという意味らしい。

 一度に言ってくれよと思う不満を抑えながら、住吉は飯沼さんの指示する箇所に薬を塗っていく。

 今度こそ終わった。飯沼さんに状態を確認すると「大丈夫」と返ってきた。一応念のためにと体の向きについても尋ねてみたが、それも「大丈夫」だと言う。

 さすがにもう大丈夫だろうと住吉が退室して間もなく、無常にも再びナースコールが鳴った。

 すぐに引き返して尋ねると飯沼さんは再び「腰が痛い」と訴える。


(さっきの大丈夫はなんだったんだ)


 いい加減うんざりしてくるが、投げ出すわけにもいかない。

 仕方なく飯沼さんの体の向きを先程と同じ要領で少しずつ元の向きに戻す。最後に痛みの有無を確認すると「大丈夫」と言う。


「……」


 住吉はそれ以上言及せず退室した。そしてスタッフルームに戻る頃、再びナースコールが鳴る。二〇五号室に引き返す。

 この後もそれを数回繰り返した。体感では数十回にも思うほど心身にダメージを負っている。理性も腰も限界にきていた。


 ピピピピピピ。

 それでもナースコールは容赦なく鳴る。

 スタッフルームの椅子にもたれ、束の間の休息を噛み締めていた住吉は天を仰いだ。

 そして体内の息を全て吐き出すと、覚悟を決めて受話器を取った。


「早く来てくれ!誰かが部屋に入ってきたんだよ!」


 予想外の叫び声に住吉は思わず受話器を落としそうになった。

 飯沼さんの声ではなかった。

 受話器の向こうで勢いよく叫んだその声は榎本さんのものだった。

 榎本さんといえば一階の一〇五号室の入居者だ。今は小林が休憩中なため住吉が一階の見守りもカバーしなければならない。

 電話口の榎本さんの剣幕はただ事ではなかった。


「すぐ行きます」


 住吉はスタッフルームを飛び出すと、急いで一階のフロアに向かった。

 途中、住吉は昨夜の浅沼さんの言動を思い出し、身体がブルっと震えるのを感じた。


 一階に降りると、そこは二階とはまるで違う様相を呈していた。

 一言で言うと騒々しい。

 しかし、それは不気味な騒々しさだった。

 住吉の立つ階段口から見て奥に長くうす暗い廊下が伸びているのだが、その暗闇の奥からはテレビの音声がはっきりと聞こえてくる。

 入居者の中には耳が遠い人も多く、その中にはテレビのボリュームを上げて聞いている人もいる。おそらくそれが部屋から漏れ聞こえているのだろうが、それにしても音が大きい。

 見渡す限り明かりが漏れている部屋はなく、どの部屋もドアは閉まっている。それなのに夜の静寂だけが原因だとは思えないほどのボリュームだった。見つけ出してボリュームを下げてもらわなくてはいけない。


 その他にもそのテレビの音声をさらに掻き消す大きさで「お父さん!お父さん!」と何度も繰り返し叫ぶ女性の声が聞こえる。

 こちらも薄暗い廊下に響き渡る様は不気味だが、この声の主には心当たりがあった。

 水原ヨネさんという認知症の入居者で、不安からかベッドに横になり部屋に一人きりになると時々このように叫び出してしまう。

 いつもは一度眠りにつけば朝までグッスリと眠っているのだが、今日は廊下に響くテレビの音声のせいでか目が覚めてしまったようである。


「早く自分の部屋帰れよババア!勝手に人のもんに触るんじゃねえよ!」


 肝心の一〇五号室からもヨネさんの叫び声に負けない大きさで榎本さんの迫力ある怒声が漏れ聞こえてくる。


 大音量のテレビの音声に叫び声に怒鳴り声……。


 小林の言っていた女性の声どころではない喧騒が広がっているが、薄暗いフロアにこれらが混沌と響き交わる様はそれはそれである種の不気味さを生み出している。

 小林が休憩に入る前に一階の巡視を行っているはずなので、その時はまさかこんな状況ではなかったはずだ。

 おそらくその時の巡視や排泄介助によって目が覚めた入居者がまず大音量でテレビをつけ、それが漏れ出た音で起きてしまったヨネさんが「お父さん!」と大声で叫び、それらの騒がしさによって起こされた誰かがフラフラと部屋を出て一人歩きして榎本さんの部屋に入り、榎本さんが怒ってナースコールを鳴らした、という流れじゃないか。そして今、目の前のこのありさまである。


(二階でしばらく飯沼さんの対応に追われている間に、一階ではこんな事になってるなんて……)


 住吉はまず一番に解決しなくてはいけない一〇五号室の前に立った。

 誰だか知らないがよりによって一番入ってはいけない部屋に入ってしまった。

 問題を解決したところで、その後朝まで延々と説教をくらうなんてことにもなりかねない。

 住吉は覚悟を決めると一〇五号室の扉をノックして引き戸を引いた。


 中に入ってまず目に留まったのはベッド上でこれまで見たことのないほどに肩を怒らせ、鬼の形相をしている榎本さんの姿だ。

 そしてその威圧的な視線の先には本来ここにいるべきでないお婆さんが立っていて、棚の上に置かれた榎本さん愛用の小物を手に取りもの珍しそうに眺めている。

 このお婆さんは三枝ハナさんという一一二号室の入居者だった。現役の入居者である。


 ハナさんは認知症の周辺症状のため日頃から一人歩きをし、睡眠中や作業中以外はいつも当て所なくユラユラ歩き続けている。これまでも他の入居者の部屋に入ろうとすることはあったが、いつも日中であったためスタッフも多く直前で制止することが出来ていた。

 ただこれまで夜はいつも朝までグッスリと眠りについているはずで、ハナさんが夜に一人歩きをしていたということは聞いたことがなかった。

 今日に限って部屋の外の騒がしさに起こされ、眠れなくなってしまい一人歩きが始まったのかもしれない。

 そして薄暗い廊下でパッと目に留まった榎本さんの部屋に入った……。

 厄介なことにハナさんの一一二号室の目の前がこの一〇五号室だった。

 安否確認の意味もあり、基本的には夜間もほとんどの入居者は居室の鍵を開けている。一〇五号室も鍵はかかっていなかった。


 身体が動かせず、大事なものをされるがままにさせざるを得なかった榎本さんの怒りようは凄まじい。唯一動かせる顔が枕から落ちそうな勢いで激しくのたうちまわっている。四肢が動かせない榎本さんのために顎の付近に備えられていたナースコールはズレて勢いよく明後日の方角を向いていた。

 榎本さんが少しでも身体を動かせていたら大惨事になっていたかもしれない。

 それに対してハナさんは榎本さんの怒りなどまるで意に介さず、棚の上の小物を手に取っては首を捻るという動作を繰り返している。


 榎本さんは住吉の姿を確認すると、「早くそいつを連れてけ!二度とここに入れるな!」とはちきれんばかりの鬼の形相で吐き捨てた。

 住吉は榎本さんの飛び散る唾を避けながら顎のナースコールを直すと、急いでハナさんのもとへ行き小物を置くように促した。そしてハナさんの手を取ると榎本さんの怒りのエネルギーに押し出されるように二人でそそくさと退散した。

 退室する間際、榎本さんに向かって「念のために施錠しておきます」と断ると「当たり前だろ!」と怒声が返ってきた。


 住吉は安堵して外に出るとマスターキーで一〇五号室のドアを施錠した。

 カチャッという施錠音が響いた瞬間、住吉はホッとして肩の力が抜けた。

 どさくさに紛れて自分も一緒に部屋から出ることが出来た。これで朝まで説教コースは避けられた。

 この後はとりあえずハナさんを自分の部屋に案内してベッドで横になっていてもらわなければいけない。

 しかし、住吉がそう考えているうちにも隣にいたはずのハナさんはさっそく榎本さんの居室のドアを引き、なんとか開けようとしている。

 いったい榎本さんの部屋の何がツナさんを動かしているのだろう。


 住吉は再度ハナさんの手を引くと、目の前の自身の部屋に案内し、ベッドで横になってもらった。

 またすぐ起きて一人歩きが始まるかもしれないが、一〇五号室には鍵がかかっているのだからとりあえず榎本さんとのトラブルは防げる。

 それよりも今はまず全ての元凶を絶たないといけない。


 住吉が廊下に出てテレビの音の出所を探し辺りを見渡していると、右手に数部屋挟んだ部屋から顔を出しこちらを覗いている人がいて住吉はビクッと身体を震わせた。今日の夜勤は心臓に悪い。


「すいません」


 住吉と目が合った瞬間、声をかけてきたその人は一〇八号室の入居者の寺島光子さんだった。

 寺島さんは歩行器を使いカラカラカラと音を鳴らして住吉のもとにやってくると尋ねた。


「主人探してるんですけど知りませんか?」


 寺島さんは認知症で普段から施設内でご主人を探し歩いている。

 そしてこう尋ねられたスタッフが返す言葉も決まっていた。


「ご主人は現在入院されているので、こちらにはいらっしゃいませんよ」


 すると寺島さんはいつも「ああ、そうだったの。知らなかったわ」と納得した。

 ただ実際にはご主人は数年前に既に亡くなっている。

 まだ住吉が入社する前のことだが、ご主人が亡くなる以前には、実際に夫婦二人でこの深緑の郷で一緒に暮らしていたらしい。

 しかし、その後ご主人の体調が悪化し、入院して間もなく亡くなると、家族からそのことを伝え聞いた寺島さんは一時パニックになってしまった。


 それからは家族の要望もあり、寺島さんにスタッフからご主人が亡くなったことを告げることは禁止された。そしてご主人について尋ねられた時もこのような決まり文句で返答をすることが決められた。

 寺島さんは普段ならこの決まり文句に納得して自室に戻っていく。

 しかし、今回は違った。


「そんなわけないわ。ついさっきいたもの。私ちょっと探しに行ってみるわ」


 そう言うと、寺島さんは再びカラカラと歩行器を押して反対の方へと歩き出した。

 歩行器もあるし、転倒することはないと思うが、薄暗い廊下を一人で歩かれるのは心配だ。

 しかし、何度説明しても寺島さんは頑として聞き入れず、住吉を振り切って廊下の奥へと行ってしまった。

 普段ならこんなことはないはずだが、廊下でもはっきりと聞こえるこの騒がしさに影響されているのかもしれない。やはりこの喧しいテレビの音を消すことが先決だ。

 ガラガラと一一二号室の扉が開くのを横目に見つつ、住吉は耳に意識を集中させ、テレビの音のより大きい方を目指して歩いた。



 そのうちにテレビの音が一際うるさく聞こえる部屋を見つけた。一二五号室だった。住吉が降りてきた階段から見て一番奥にある居室だ。居室の前まで来るとドア越しであっても不快を感じる程うるさい。


 住吉は息を整え、思い切ってドアを開けると内臓にまで響き渡るほどの大音量の音声が室内から雪崩のように溢れ出してきた。廊下にも大音量が響き渡る。

 これはまずいと思い、中に入ってドアを閉めるも今度は自分の鼓膜がまずい。声にならない悲鳴を上げている。

 両耳を潰れる程抑えてもまったく効果がない。住吉は本能的にうずくまりそうになるのを抑え、なんとか顔を上げると辺りを見渡した。

 テレビ……本体まではとても辿りつけそうにない。途中で鼓膜が切れそうだ。

 テレビのリモコンを探すとテレビの向かいにあるベッドの上にあった。

 住吉は悲鳴をあげて抵抗する体をなんとか無理矢理前進させると、リモコンに手を伸ばし、赤いボタンを押した。

 するとテレビが消え、大音量の音声は止んだ。

 辺りには自分の耳の甲高い悲鳴と遠くから聞こえる「お父さん!」というヨネさんの幽かな叫び声だけが残された。



 だんだんと自分の耳の悲鳴が収まってきた。住吉はホッと胸を撫で下ろしたが、同時に今度は別の問題が浮上してきた。

 それは、あれだけの大音量を浴び続けたこの部屋の入居者は無事なのかということだ。住吉はサッと自分の血の気が引くのを感じた。

 ベッドを見るとお婆さんが小さくなって横たわっている。この部屋に住む入居者の前田スミさんだ。

 スミさんは九十六歳と高齢のお婆さんで元々耳が遠い。それでも短時間ここにいただけの住吉でさえしばらく耳鳴りが止まなくなる程の大音量なのに、それを長時間真正面から浴び続けていたスミさんが無事とは思えない。

 住吉は急いでスミさんのもとに駆け寄ると、柄にもなく必死に声をかけた。


「スミさん!スミさん!大丈夫ですか」


 声をかけながら身体を揺すってみてもスミさんはなかなか反応を示さなかった。


(いよいよまずい状況かもしれない)


 住吉がそう覚悟した時、何度目かの呼びかけでようやく「うーん……」とスミさんは小さく反応を示した。

 そしてその後口をムニャムニャすると、今度は「スー、スー」と上品に寝息を立てはじめた。


(あれ?寝てる?)


 あれだけの大音量の音を浴びながら人は眠れるのだろうか。

 耳は大丈夫なのか。

 住吉がスミさんのスヤスヤ寝ている様子を呆然と眺めていると、スミさんの枕元に黒く小さいものが転がっているのが見えた。

 よく見るとそれはスミさんの補聴器だった。

 スミさんは普段から補聴器をつけている。外してしまうとどんなに耳元で大声で叫んでもほとんど聞こえなくなるため、日常生活で外すことはない。

 しかし、それが今回本人の意志によるものかはわからないが外れていた。

 おそらく夜中に目が覚めてしまったスミさんは、それに気づかずにテレビをつけ、音が聞こえないのをボリュームが低いためだと考えてひたすら音量を上げていったのではないか。そしてそのままテレビを消すのを忘れ、再び眠りに落ちてしまったのだろう。


 原因はわかった。

 後はスミさんの耳が無事かどうかは確認しないといけない。

 気持ち良さそうな寝顔を見ると起こすのが申し訳なかったが、住吉は身体を揺すってスミさんに起きてもらった。

 そして寝起きで不機嫌なスミさんに補聴器をしてもらうと、声が聞こえるかを確認した。

 その結果、スミさんの耳は無事だった。

 住吉はホッと息を吐いた。これで一安心だ。

 最後にテレビの音量を元に戻さなくてはいけない問題は残ったが、それは後に回すことにした。

 とにかくこれで一階の混沌を生み出していた元は断った。

 住吉は眠気と過労で疲労困憊だったが、最後の力を振り絞るとスミさんの部屋を出た。


 いまだ廊下をウロウロしているハナさんや寺島さんのことも気になるが、今はそれも後回しだ。また誰かの部屋に入ってしまったら厄介だがキリがないし、あの二人に限って転倒してしまったり大問題になる心配はないはずだ。こんな風に考えている今もヨネさんは「お父さん!お父さん!」と叫び続けている。

 ヨネさんの様子を確認したら少し休もう。住吉はフラフラとした足取りで二部屋隣の一二三号室を目指した。



 一二三号室のドアを開けた瞬間、住吉は愕然とした。

 先程から叫び続けている水原ヨネさんの居室だ。室内ではベッドの上で丸まっているヨネさんがベッドの脇に刺さっているサイドレールにしがみついていた。その状態で「お父さん!お父さん!」と今も叫び続けている。

 しかし、その光景よりも住吉に衝撃を与えたのが室内に充満した刺激的な臭いだった。

 先程のスミさんの部屋のような押し出される感覚はないが、そこに踏み込むのをひどく躊躇わせる。

 しかし、叫び続けるヨネさんとその背後に広がる汚れを見て住吉は踏み込んだ。


 室内に入った住吉は真っ先に奥の窓際に直行し、窓を全開にする。

 幸いなことに程よく風の吹いた夜だった。

 室内が耐えられる臭いになるのを待ちながら、状況を確認する。少しずつ臭いが和らいでいくと同時にヨネさんの叫び声も小さくなってきた。

 もしかしたらヨネさんが目を覚まし叫んでいたのはスミさんのテレビの騒音のせいではなく、この臭いや臭いの元となっている自身の状況のせいだったのかもしれない。

 実際にヨネさんのもとへ行き衣服を捲って状況を確認すると、その汚れはほとんど全身に達していた。これでは目が覚めてしまうのは当然だし、不快感で不安になり叫び出してしまうのも理解できる。


 住吉はヨネさんの着替えの服を用意すると、急いで排泄介助に入った。まずは濡れタオルで身体に付いた汚れを落としていく。その間もヨネさんは叫び続けるのを止めず、介助に対しても激しく足を振り回したりと嫌がる様子を見せている。動転しているのか、住吉が何度声をかけても耳に入っていないようだった。

 そのように激しい抵抗を受けながらも住吉が少しずつ汚れを落としていた時、ふとヨネさんの目が住吉の顔を捉え、二人の目がかち合った。

 するとヨネさんはそれまで叫んでいたのをピタリと止めた。


(ようやく声かけが耳に入ったのかな)


 住吉がそう油断したその瞬間、ヨネさんは先程よりも激しく足を振り回して暴れ出した。


「お父さん!痴漢!お父さん!痴漢!」


 これまでヨネさんの介助をしてきた中でも初めての反応に住吉は戸惑った。

 我に帰ったタイミングでいきなりオムツを広げていた住吉を見たために取り乱したのだろうか。

 ヨネさんの暴れっぷりは凄まじかった。

 サイドレールに捕まりながら足を可能な限り振り回している。それを抑えようと試みた住吉の顔に足が伸び、眼鏡が飛ぶ。壊れたかもしれない。


 その後も何度も蹴られ退避したかったが、放っておくとヨネさんの足がサイドレールにあたる可能性があるし何より肝心の排泄介助がまだ途中なこともあり、迂闊に離れられない。

 ヨネさんが暴れることで介助中に拭き取った汚物がだんだんと紙オムツから溢れ出し、ベッドを汚していく。せっかく拭いていた身体にもまた汚れが広がっていた。


(早くオムツを取り除かないと)


 住吉が前屈みになったその時である。

 振り回されたヨネさんの足がちょうど足元に転がっていた汚物を勢いよく蹴り上げた。

 そうしてぶちまけられた汚物は宙に飛散すると、無情にもそれは目の前にいた住吉の上半身にバシャッと浴びせられた。

 突然のことに住吉の思考は止まった。

 そうして茫然自失となってしまった住吉をよそにヨネさんは尚もジタバタと足を振り回し続けている。

 住吉の制止がなくなったことで、住吉を始めベッドの周辺一帯にも次々と汚物が飛び散っていく。

 その悲惨な光景を前に、思わず現実逃避したまま帰ってこれなくなりそうになる。しかし、自身が浴びた激臭がすぐにまた住吉を現実に引き戻した。


 自分についた汚物だけでも早く取り除きたい。しかし、目の前の惨状を放り出すわけにもいかない。

 どうにも身動きが取れずに途方に暮れていると、ガラガラッと住吉の背後でドアの開く音がした。


 振り返るとそこに立っていたのはぼやけたハナさんだった。

 最悪のタイミングでやって来た。

 もう限界だ。小佐田より前に自分が辞めるとは思わなかった。住吉が絶望に打ちひしがれていた時、ハナさんの後ろから小林が顔を覗かせた。

 小林は一瞬室内の臭いや目の前の惨状に圧倒された様子を見せるも、汚物に塗れ立ち尽くしている住吉を見ると「大丈夫?」と言ってすぐに駆け寄った。

 そして住吉の腕をとると撒き散らされる汚物の届かない方へと引き寄せ、「後は私がやるから」と言うとヨネさんの方へ向かった。


 小林は素早く現状を把握すると、ヨネさんが振り回している汚れた足を躊躇なく素手で抑えた。

 そしてそのまま汚物だらけのベッドに上がりこむと、ヨネさんの背後に回り込み排泄介助にあたった。


 その後も小林は戸惑うことなくサクサク作業を進めていく。

 住吉はその手際の良さに思わず見惚れていた。

 それは先程の住吉の介助とは雲泥の差だった。

 小林の介助を見ていると、今の自分の惨状もただ自分の力不足のせいなのだと思えてくる。


 小林はあっという間にヨネさんの排泄介助を終えた。

 ヨネさんの叫び声もいつのまにか止んでいる。

 あとは汚物で汚れた部屋の掃除だ。

 住吉が自分も介助に入ろうとすると、小林は慌ててそれを制止した。


「ここの掃除は私がやっておくから住吉くんは先に早くシャワー浴びてその汚れ洗ってきな」


 住吉としてはここで立ち去るのは申し訳ないような情け無いような気持ちでいっぱいだったが、小林の手際の良さと比べると自分が手伝ってもかえって邪魔になりそうだと思った。

 住吉は心残りを感じながらもお言葉に甘えることにし、小林に礼を言うと入り口にずっと立って見ていたハナさんを引き連れて一二三号室を退室した。



 気づけば朝の四時をまわっていた。

 着替えの制服を持って浴室に来た住吉は時計を見て愕然とした。

 最初に一階に来た時からおよそ二時間が経っている。

 この二時間の間で住吉の状態は天国から地獄へと大きく変わった。

 眼鏡だけは無事だったが、身も心も制服もボロボロだった。

 今は一刻も早くシャワーで全て洗い流したい。

 着替えたらヨネさんの居室に戻り、その後はすぐに二階の入居者のモーニングケアに取り掛からないといけない。

 まだ夜勤業務の最後の山場が残っている。

 住吉は汚れた制服を脱いでまとめると、急いで浴室に入りシャワーを浴びた。



 シャワーを浴びて着替えた住吉が一二三号室に戻ると小林はすでにおらず、汚物に塗れていた部屋はすっかり綺麗になっていた。もう臭いもしない。

 ベッドの上ではヨネさんが穏やかに寝息をたてていた。

 住吉は改めて小林の仕事ぶりに舌を巻いた。

 テレビのボリュームを戻した住吉が一二三号室を出ると、小林がハナさんの部屋から出てくるところだった。

 住吉が誠心誠意お礼を言うと、小林は何てことないように笑って手を振った。


「気にしないでいいから住吉くんもモーニングケアしてきな。私も一階が早く終わったら手伝いに行くから」


 住吉は小林の声に押されて、二階の入居者のモーニングケアをするために階段へと向かった。

 これ以上小林に迷惑をかけるわけにはいかない。



 ふぅううぅ。

 住吉は湯舟につかるなり、大きく息を吐き出した。

 ここは自宅の風呂場の中だ。

 気を抜くとこのまま眠りに落ちそうになる。

 今回の夜勤はひどく疲れた。

 あの後、二階では特に問題は起きず、飯沼さんも朝まで落ち着いていた。

 おかげで入居者のモーニングケアは小林の助けを借りることなく、なんとか朝食の時間までに間に合った。


 一階の方ではヨネさんを始め多くの入居者が食堂で居眠りをしていたが、全員が普段の時間通りに食堂に来ていた。榎本さんは朝食の時間も相変わらずイライラしている様子だったが、その怒りが住吉やヨネさんに向くことはなかった。怒られることを覚悟していた住吉にとっては意外だったが、おそらく小林がモーニングケアの際にフォローしてくれたのだろう。

 住吉のフォローもしなければいけなかった小林の方が住吉の何倍も忙しかったはずだ。それなのに小林は住吉の顔色が悪かったからだろうが、最後まで住吉自身のことも気遣い、声をかけてくれた。

 ただ、顔色が悪かったのはおそらく単に寝不足のせいなので少しバツが悪かった。

 今回の夜勤では改めて小林と自分の差を痛感した。

 そして真面目に働いている小林に対して、これまで無気力に働いてきた自分が迷惑をかけてしまったことを申し訳なく思った。


(これから自分はどぅ……)


 湯舟の中で腹の鳴る感覚がして目が覚めた。

 現在、午後十二時。

 そういえば朝から何も食べていない。

 住吉は風呂から出てパジャマを着ると、四畳半の床に敷いたままだった布団にバタンと痛みも顧みず倒れ込んだ。

 今日は本当に疲れた。

 また腹が空けば自然と目が覚めるだろう。

 グーッという腹の激しい抗議の音が鳴り続ける中、住吉はそのまま深い眠りに落ちた。


 翌朝、目の覚めた住吉はアラームをセットせずに寝たことを後悔した。

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