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ツイノスミカ  作者: 日丘
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第2話⑵ 夜勤入り

 食堂はこの日も相変わらず騒々しかった。

 これから夕食の時間だということもあって、入居者やスタッフが慌ただしく出入りしている。


 住吉は夕食後に行う服薬介助の事前準備に取りかかるため、薬のセットを持って食堂に備え付けられているパントリーに向かった。

 するとそこでは、遅番勤務のはずの小佐田がすでに疲労困憊の様子でうなだれている。

 この時間のパントリーでは、遅番勤務のスタッフ二人が食事の準備をしながら、食堂の見守り業務を行っていた。


 今日の遅番は小佐田と谷川だ。

 谷川が取り組んでいる方では着々と準備が整ってきているが、小佐田が担当する作業は遅々として進んでいる様子がない。


 これにはもちろん理由がある。

 小佐田の方を見てみると、小佐田が準備に取り掛かろうとするたびに「ねえ、ちょっと聞いてくれる?」と入居者の和田菊江さんに繰り返し声を掛けられ、出鼻を挫かれていた。


 和田さんは昨日の朝食後にも小佐田を何度も呼び止めて悩ませ、しまいには怒り出してしまった認知症の入居者だ。

 日中、同じところでじっとしていることが出来ず、いつも誰かを探してキョロキョロとあたりを見回している。そして、スタッフを見つけると席を立ち、「ねえ、ちょっと聞いてくれる?」と毎度決まった内容の質問を投げかける。

 その際、昨日のように満足のいく答えが返ってこなければ、不機嫌になり怒り出してしまうこともあるが、納得のいく答えが返ってくると、満足してそのまま席に戻る。

 しかし、席に着いた頃には既に質問の答えや質問したこと自体をも忘れてしまい、再びスタッフを探し、見つけると席を立ってまた同じ質問をする。


「ねえ、ちょっと聞いてくれる?」


「いいですよ」


「私どこにいたらいいの?」


「そちらのお席で座っていてください」


「あそこでいいの?」


「いいですよ」


「ありがとう。あそこで何したらいいの?」


「お食事が来るまでお待ちください」


 このような決まったやり取りを食事が始まるまで一分と間隔を空けずに、ひたすら繰り返す。

 和田さんの対応をしながら、自分の担当業務もこなさなければいけないスタッフは、小佐田に限らずなかなか仕事が捗らない。


 その焦りからつい適当な返答をしてしまうと、和田さんは昨日のように「何でちゃんと聞いてくれないのよ!」といった調子で怒ってしまう。

 そして、その後は「もういい。他の人探すから」と覚束ない足取りで、フラフラと何処へともなく歩き出す。しかし、和田さんは下肢筋力が弱っている事に加え、認知症ということもあり、一人で歩くのは転倒するリスクがあり危険だ。


 以前、とあるスタッフが和田さんを怒らせてしまい、和田さんが一人で何処かへ行ってしまったことがあった。その後、スタッフが行方を探すと、和田さんは少し離れたところにある、他の入居者の居室の中で転倒していた。


 その時の和田さんは右腕を骨折しており、一か月程病院に入院することになった。

 それ以来、和田さんが室外にいる時は必ず誰か職員が見守り、彼女の訴えには逐一丁寧に対応しなければならない、というルールが徹底された。

 そのため和田さんの質問には一度目の質問だろうが、既に耳にタコが出来る程に繰り返された質問だろうが同じように丁寧に聞き入れ、真摯に返答しなければいけない。


 その結果、彼女の見守り業務をした職員は、その多くが今回の小佐田のように生気を搾り取られていた。

 特に今回は小佐田と一緒に見守り業務に当たっていたのが谷川だったため、ことさらに小佐田の負担は大きかった。


 和田さんは基本的にボソボソと喋る。

 そのため、耳の遠い谷川は悪意なく、和田さんの質問を聞き取れないことが多々あった。しかし、真摯に聞かないことに対しては怒る和田さんも、そもそも聞こえていないということに対しては怒ることがない。「聴こえてないみたい」と言って早々に諦め、再び別のスタッフを探す。和田さんも根は良い人なのだ。


 ただそうなると、深緑の郷ではだいたいの場合、食堂の見守り業務は二人のスタッフで行っているため、結果として和田さんの対応は、谷川の相棒となったスタッフが一身に背負わざるを得なくなる。

 谷川自身もこれには負い目を感じていて、他の部分で挽回しようと頑張ってフォローしてくれる。

 そんな律儀な谷川を責める者はいないが、実際の負担を考えると肉体的な負担と精神的な負担は全くの別物だった。とりわけ新人の小佐田は介護の仕事の精神的な負担にまだ慣れていない。そのためその疲労度は相当なもののようで、和田さんが席に戻った隙に見せた顔は今にも泣き出しそうなものだった。


 そんな小佐田に和田さんが追い討ちをかけるように立ち上がった時、日勤勤務で出勤していた真理子が食堂に入ってきた。

 真理子はそのまま和田さんの元へ行くと、和田さんに座るよう促し、紙とペンと写真を渡して何やらか話しかけ始めた。


 はじめのうちは「いらないわよ、こんなの。あんた邪魔しないでよ」と抵抗していた和田さんだったが、話を聞くうちに段々と笑顔を見せはじめ、受け取った紙とペンで何やら書き始めた。


 和田さんが書くことに夢中になったところを見届けると、真理子は住吉らのいるパントリーに向かってウインクし、自分の業務に戻っていった。

 その視線の先にいた小佐田は顔を真っ赤に染め、照れ隠しなのか隣に立つ谷川にどうでもいいことを話しかけ、困惑させている。


 住吉は思わず笑い出しそうになるのをなんとか堪えた。

 やはり小佐田のフォローは真理子に任せておけば安心そうだ。

 それにしても、真理子が去ってから数分が経っても、和田さんはまだ紙にペンを走らせており、席を立とうとする気配がない。


 何を書いているのか気になって、住吉は和田さんの後ろから手元をこっそり覗いてみた。

 見ると、和田さんがあくせくと書いていたのは自身の子供達へのメッセージだった。そばに置いている写真は彼女の家族写真だ。


 あとで真理子に聞いたところによると、あの時真理子は和田さんに対し、「今度、菊江さんの息子様を呼んで、お茶会をする予定なんです。なので、その時お渡しするメッセージを書いておいてくれませんか?」と言ったらしい。

 実際に後日、和田さんには息子さんの面会の予定が入っていた。


 そしてこれが功を奏し、その後も和田さんは何分も席を立たずに、書くことに集中していた。結局、この時は夕食までの間にたった十回ほどしか席を立ち上がらなかった。

 しかし、それでも途中文章に詰まるなどして一度集中が切れてしまうと、そこで思考がリセットされるのか、その続きからメッセージを書くことは出来なかった。

 そうして再び和田さんが席を立つようになると、真理子がすかさずお茶会の話を持ち出したり、新しい紙を渡したりと工夫をこらしていたが、それも最初ほどの影響力はないようだった。


 それでも住吉にとって、この時和田さんが見せた一面は衝撃的なものだった。

 最初に息子とのお茶会と言われた時、和田さんは嬉しそうな顔をしていた。しかし、おそらくメッセージを書いている間に、そのことは忘れていたのではないか、と住吉は思った。

 その時彼女を夢中にさせ、席に引き留めていたのは、純粋に息子への気持ちだったのではないか。

 それ程に和田さんは書くことに熱中していた。


 和田さんの書いたメッセージを後から見てみると、宛名以外はしっかりとした文章になっておらず、本人も何を書いたのかも、書いたことすらも覚えていなかった。

 しかし、メッセージの中には子供達の名前が何度も登場し、家族の温かさを感じる。

 結局最後までメッセージを書ききることは出来なかったが、席に座り集中していた数分間でたしかに和田さんは子供達への複製出来ない気持ちを出し切ったのではないか、と住吉は思ったのだ。


 実際のところは和田さん本人を含め、誰にもわからない。ただ住吉は、認知症になった彼女達がただ機械的に同じ動作を繰り返しているわけではないんだ、と気付かされた思いだった。

 そして同時に彼女達と今の自分はどこか似ているとも思った。



 深緑の郷では、毎日二人の職員が夜勤勤務につき、それぞれ一階と二階のフロア毎に担当が別れる。

 この日、住吉は二階の担当で、もう一人の一階の担当は小林果林というスタッフだった。


 小林は住吉と同じく常勤の介護スタッフだ。住吉より一歳年上の二十六歳だが、七歳の娘が一人いるシングルマザーでもある。

 子育ては大変だといつも仲の良いスタッフ達に漏らしているが、職場ではそんな様子は全く感じさせず、いつも入居者達に笑顔を振り撒いている。

 ショートカットで快活な見た目もあり、明るく健康的な雰囲気の女性だ。


 介護の仕事を始める前から、元々ボランティアが好きだったようで、深緑の郷でイベントが催される際も、たとえ自身の出勤日でなかったとしても、ボランティアとして娘を連れて一緒に参加している。

 彼女の笑顔を見ていると、本当に介護の仕事が好きだという事が伝わってくる。住吉とは真逆のタイプで、住吉の苦手なタイプだった。



 夕食が終わると深緑の郷で暮らす入居者達の一日のプログラムは終了する。

 事務所は閉められ、遅番と夜勤を除いたスタッフ達は業務を終え、続々と帰宅していく。


 寂しげな空気が漂い始めた施設内の様子とは反対に、夜勤の業務の忙しさはこの時間がピークになる。

 介助が必要な入居者達の中で、遅番スタッフが夕食後の服薬介助を終えた人から順に、二人の夜勤スタッフが担当フロア毎で分担して、入居者をそれぞれの居室へ誘導する。

 そして日中と同じように口腔介助、排泄介助を行った後、そのまま就寝介助に入る。


 就寝介助とはつまり入居者にパジャマに着替えてもらったり、就寝のための準備を手伝う介助だ。ただ入居者の中には認知症のために、スタッフがちょっと目を離した隙に何枚もパジャマを重ね着してしまう人がいたり、手足が拘縮していて、なかなか手足にパジャマを通すことが出来ない人がいたりで、なかなかスムーズに捗らない。


 この就寝介助の中で一番大変なのはやはり榎本さんの介助だった。四肢麻痺で自分で手足を動かせず、スタッフが手足を動かすと痛がり、尚且つこだわりの強い榎本さんの介助は、他の入居者と比べてかなりの時間がかかる。


 それでも夕食後の誘導には時間制限がある。

 夜勤スタッフが誘導している間、食堂では遅番のスタッフが食堂の掃除をしながら、残っている入居者の見守りを行っている。しかし、日中とは違いこの時間には彼ら以外のスタッフは残っていないため、夜勤スタッフは遅番業務の終了時間までに、全ての入居者の就寝介助までを終わらせなければいけない。


 そのため二階の担当の夜勤スタッフは、なるべく早く二階の入居者の就寝介助を終わらせ、榎本さんの就寝介助で足をとられている一階の夜勤スタッフのヘルプに入ることが慣習になっている。

 全ての就寝介助が終わった頃には一階の夜勤スタッフは精神的に、二階の夜勤スタッフは肉体的にボロボロになっているのが常だった。



「ふううぅぅぅぅぅ……」


 なんとか時間内に全ての入居者の就寝介助を終わらせることが出来た住吉は、大きく一息ついた。

ピークを越え、ここから先の業務には少し余裕がある。

 遅番の二人は今頃帰宅する準備をしているだろう。

 二階の廊下の明かりを全て消すと、一気に静寂に包まれたような感じがした。


 夜間帯の主な業務は定時の見廻りと排泄介助で、空いている時間にその他雑務を行う。何事も起きなければ、時間的に余裕のある業務だ。何事も起きない事の方が珍しいのだが。

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