第1話⑵ 介護職の洗礼
深緑の郷の一日の業務は慌ただしい。
朝六時の起床介助から始まり、更衣介助、排泄介助、食堂への誘導、食事介助、服薬介助、居室への誘導、口腔介助、排泄介助といった一連の介助の流れを夜七時の就寝介助まで朝昼夕と限られた時間の中で行い、その合間に入浴介助などその他の介助やレクリエーション、見守り業務、清掃業務などを行っていく。
これに対し介護スタッフは早番、日勤、遅番、夜勤に別れ各二名ずつでその日の業務を回していく。
現在、深緑の郷の入居者は五十人。そのうちおよそ半数の入居者が先程挙げた中のほとんどの介助を要し、その他半数の人々は必要に応じて介助を受けながら、自分のペースで日々の生活を過ごしている。
朝食が済み、朝食後薬の内服を終えた入居者から続々と自室へ戻っていく。
この日は服薬介助を早番の門脇、田島が行い、居室への誘導を遅番の住吉、日勤の小佐田、そして同じく日勤で常勤の介護スタッフである遠藤真理子の三人が行うシフトになっていた。
介助が必要な入居者を三人で手分けして居室へ誘導する。
しかし、その合間にもスタッフが目を離した隙に一人でフラフラと当て所なくどこかへ行ってしまう入居者がいたり、何度もスタッフを呼び止め同じ質問を繰り返し尋ねてくる入居者がいたりで食堂はバタバタしている。
住吉が居室への誘導が必要な入居者達を車椅子に移乗介助している向こうでは、薬を飲まずに自室へ帰ろうとする入居者を「ハナさん!薬あるんで、ちょっと待ってください!」と門脇が必死に呼び止めようとしている。
しかし、門脇の必死の呼びかけも虚しく、呼びかけられたハナさんは立ち止まることなくスタスタと歩いていってしまう。門脇はそれを慌てて追いかけていった。
もう一人の服薬担当である田島は門脇が一時的に抜けた分も挽回しようと、一人であくせく動き回っている。
田島の健気な姿に後ろ髪を引かれるが、住吉ら誘導担当のスタッフも自分の業務で精一杯で手伝いには行けない。
この時間、誰も彼もが忙しなく駆け回っていた。
そんな中、一人での勤務が今日初めての小佐田は案の定、苦戦を強いられていた。
「私まだやる事があるのでほっといてください」
小佐田が一緒に居室に戻ろうと必死になって促している糸井千代さんというお婆さんは、小佐田が「一緒にお部屋に帰りましょう」と声を掛けても頑なに腰を上げようとしなかった。手を引いて立ち上がるよう促すも、椅子の手摺りを握りしめ、椅子ごと宙に浮いてしまっている。椅子を握る彼女の力はとても高齢者とは思えないほど強い。
そんな風に小佐田が格闘している脇からは、和田菊江さんというお婆さんが「私どこへ行ったらいいの?ねえ、ちょっときいてるの?ちゃんと私の方見て話してよ」と小佐田に何度も繰り返し声をかけている。
認知症の和田さんは一度質問に答えても、その後すぐにまた同じ質問を何度も繰り返し尋ねてくる。
「ねえ、聞いてるのったら」
「聞いてますよ」
「私どこにいればいいの?」
「そこにいてください」
「そこってどこよ」
「どこでもいいので座っておいてください」
糸井さんの対応が上手くいかず焦っていた小佐田は、和田さんの横槍にうんざりし、思わず気のない返答をしてしまった。
すると和田さんは「適当なこと言わないでよ!どうして教えてくれないのよ!」と大きな声で怒り出してしまった。
それは食堂にいる全員が思わず振り向く程の声量だった。
そんな和田さんを見て小佐田は呆然と立ちすくんでいる。
和田さんは周りの視線などまるで気にする様子もない。
「もういいわよ!」
最後に小佐田に向かってそう吐き捨てると、小佐田に背を向けフラフラと歩いていった。
和田さんは歩行が不安定で、目を離すと転倒してしまう危険性がある。しかし、小佐田の方を見るとショックのあまり固まっていて、それどころではないようだった。
食堂を見渡し自分がフォローすべきだと判断した住吉は、自分の業務を中断し、和田さんのもとへ向かった。
「和田さん。危ないですから一緒にいきましょう」
「自分で行くからいいわよ!」
「お部屋の用意が出来たのでご案内させてください」
「いいったら!」
和田さんの機嫌は治まらず、住吉の呼びかけを振り切って一人で歩き出してしまう。しかし、少し歩くとやはりグラリとよろめいた。
その体を支えた住吉は「少し休みましょう」と近くにあった椅子を引き寄せ、腰掛けてもらう。
和田さんは歩き疲れたのかしばらく突っ伏していたが、顔をあげると「ねえ、私どこに行けばいいの?」といつもの和田さんに戻っていた。
「お部屋をご用意したので一緒にいきましょう」
住吉がそう言って手を差し伸べると、和田さんは先程とは打って変わって嬉しそうにその手を取って立ち上がった。
住吉は深緑の郷で働いたこの半年で、認知症の人はタイミングによって気分が大きく変わるということを学んだ。
なんとかショックから立ち直った様子の小佐田に他の入居者の誘導を任せると、住吉は和田さんを彼女の居室まで誘導し、そのまま介助に入った。
和田さんの介助を終え食堂に戻った住吉は、先程と同じ姿勢で椅子の手摺りに掴まったままの糸井さんに声をかけた。
「お昼寝の前におトイレに行っておきませんか?」
「行きます」
ちょうどいいタイミングだったのか糸井さんはすんなり応じると、手摺りを必死に掴んでいた手をあっさり離し、住吉の手を取り立ち上がった。
その時である。
「だからそうじゃねえよ!何度言ったらわかるんだよ!!」
入居者の居室が並ぶ廊下の方から、つんざくような男性の怒鳴り声が食堂まで響き渡ってきた。
その瞬間、バタバタと騒々しかった食堂はパッと静まりかえった。
食堂に残っていた入居者達は何事かと不安そうにキョロキョロと辺りを見渡し、住吉らスタッフはお互い顔を見合わせる。
聞き覚えのある声だった。
声の出所はおそらく一階廊下の真ん中あたりにある一〇五号室。声はその部屋に住む入居者の榎本武夫さんのものだった。
榎本さんは七十八歳の男性の入居者だ。
頸髄損傷による四肢麻痺のため、顔から下の身体をほとんど動かすことが出来ず、食事や入浴の時間を除いて一日の大半をベッド上で過ごしている。
生活動作のほぼ全てにおいて介助が必要だが、難儀なことに独自のこだわりがかなり強い。その上、認知機能に関しては他の同年代の高齢者と比べても遜色のない程はっきりしていることもあり、とにかく口うるさく気が短いのが特徴的だ。
これまで何人もの介護スタッフが榎本さんに怒鳴り散らされ、それが原因で短期間でこの施設を去っていった。
この深緑の郷の中では介助にあたるのが一番難しい入居者だった。
そのため、普段はその日の中で榎本さんの対応に一番慣れているスタッフが介助に入ることが、暗黙のルールになっている。
だが厄介なことに、今榎本さんの部屋で彼の介助に入っているのは、一番慣れていないはずの小佐田のようだった。
「もういい辞めろ!君じゃ話にならない!」
「おいおいおい!勝手にどこ行こうとしてんだよ!男のくせにすぐ人に頼ろうとするな!自分でやらないと意味がないだろ!!」
「だからそうじゃねえって何度言ったらわかんだよ!お前は何を教わってきたんだ!」
当事者でなくても、怒鳴り声が聞こえてくるだけでげんなりとする。怒るにしてももう少し抑えてくれればいいのだが。
部屋の中で榎本さんの言葉に振り回されている小佐田があたふたとしている様が目に浮かぶ。
しかし、榎本さんの怒鳴り声は容赦なく続く。
「前にも言ったよな!お前は敬意が足りないんだよ!敬意を持ってたら忘れるなんてあり得ないだろ!俺たちはお前らの何倍も社会のために働いてきたんだよ!」
榎本さんの口癖だった。
住吉もこれまでうんざりするほど聞かされてきた。
「その見返りを俺らに押し付けんのは筋違いだろ」
服薬介助を行っていた門脇が、近くの住吉に聞こえるようにボソッと悪態をつくのが聞こえた。
住吉も小さく苦笑して賛同の意を示した。
介護スタッフが年長者である入居者を敬うのは当然だが、榎本さんの言い分は「お客様は神様だろ!」と文句を言うクレーマー客のようだ。
そんなことを本人に向かって言おうものなら、唾を撒き散らして怒り狂いそうだが。
何にしても榎本さんに怒鳴られ続けている小佐田を放ってはおけない。
辺りを見ると、今回も住吉がフォローするしかないようだった。
住吉は糸井さんの対応を近くにいた門脇に任せると、一〇五号室へ向かった。
住吉が一〇五号室の扉をノックし、中に入ると小佐田はすでに泣いていた。
それに対し榎本さんは「自分がミスしたくせにいい男が泣いてんじゃねえよ」と呆れた調子でさらに追い詰めている。
来るのが遅れたことに対して心の中で小佐田に詫びつつ、住吉はベッドの脇でうなだれている小佐田のもとへ近づいていった。
住吉に気づいた小佐田は住吉に向かってホッとしたような申し訳ないような何とも言えない表情を見せたが、「ちゃんとこっち見ろよ!」という榎本さんの怒鳴り声を浴び再びうなだれた。
榎本さんはノックが聞こえない程怒りたかぶっていたようで、住吉が入室したことにも気づいていないようだ。
住吉が小佐田の傍まで来た時にはじめてその存在に気づいたようで、「ああ君か」と顔をしかめ少し声のトーンを下げた。
だがやはり怒りはまだ収まっていないようだ。
「こいつ全然やり方わかってねえんだよ!いったいあんたらの教育どうなってんだよ!」
今度はターゲットを住吉に変え、唾を撒き散らしながら大声で怒鳴った。
隣で立ち尽くす小佐田は相当参っているようで、榎本さんの大声に合わせ隣で小さく肩をビクッと振るわせている。
住吉も榎本さんのあまりの迫力にたじろいだが、何とか必要な言葉を絞りだす。
「本当に申し訳ございませんでした。僕達が榎本さんの介助方法をちゃんと伝えきれていなかったせいで。ご迷惑をお掛けしました」
住吉は誠意が伝わるよう言葉に抑揚をつけ、少し大袈裟に頭を下げた。
「あんたに謝ってもらったって仕方ないだろ!謝るんならあんたもちゃんと教えとけよ!」
「本当に申し訳ございませんでした」
「だーかーらー。謝るだけじゃ意味ないだろって」
「以後気をつけます」
「以後じゃなくて今の話をしてんだよ」
「申し訳ありません。何かミスがあったのなら、私が代わりに手伝わせていただきますので」
「そういう問題じゃねーだろ!まずはさっきやったことを謝れよ!」
「申し訳ありません」
「だからよー!」
感情的になっている榎本さんは全ての言葉に対し怒りを乗せて跳ね返してくる。
出口が全く見えなかったが、住吉はただひたすら平謝りすることに努めた。
何か言い返してしまうと、それがどんな言葉であっても火に油を注ぐことになりそうだ。
面倒事は避けたい。
榎本さんの取り説はとにかく反抗しないことだ。
以前、門脇がそれに失敗し痛い目にあっていた。
門脇は今回の小佐田のように榎本さんに大声で怒られていた際、何度謝っても有無を言わさずひたすら怒り続けるその調子に思わず小さく溜息をついてしまった。するとそれを聞き逃さなかった榎本さんは怒りをヒートアップさせ、門脇に怒鳴り散らすだけじゃ飽き足らず「責任者を呼んでこさせろ!」と施設長を呼び出し、門脇と施設長の二人に対して大声で説教をして何度も頭を下げさせた。
その時、住吉は通常業務をこなしながら施設を駆けまわっていたが、どこで業務をしていても榎本さんの怒鳴り声が絶えず聞こえてくるほどの怒りようだった。
この一件以来、門脇は榎本さんのことを心底毛嫌いしている。
「はぁぁぁ……」
溜息が聞こえ、住吉は思わずギョッとした。
しかし、溜息の主は榎本さんだった。
散々怒鳴りつけたことでどうやら怒りは一段落したようだが、ベッドの脇の大窓から外を見ると「やっぱ駄目だな。ここも」と吐き捨てた。
榎本さんは深緑の郷に来るまでに、これまでいくつかの施設を転々としている。そしてそれら全ての施設で今回のように感情的に不満をぶち撒け、自ら退去を申し出たらしい。
その後、それを何度か繰り返した末、一年程前にこの深緑の郷に流れ着いた。
それからは現在まで何故か一年も深緑の郷に定住している。
以前門脇に怒鳴り散らした際には怒りに任せ「出ていく!」と言って騒動になったらしいが、その時もその後すぐに矛を収め、施設長が再び真意を確認すると、「そんなこと言ってねえよ」と前言を撤回したという。
何が理由なのかはわからないが、他の施設に比べ深緑の郷は榎本さんに気に入られているようだった。
そのため、住吉ら介護スタッフが深緑の郷で働いていくには、否が応でも榎本さんと付き合っていかなければいけない。
基本的には暴力沙汰等よっぽどのことがない限り、施設側からお客様に出て行ってくれとは言わない。そしてこれまでの榎本さんの振る舞いは全てよっぽどのことには含まれていないようだった。
榎本さんは怒り疲れたのかそっぽを向いたまま、最後に「もういいよ」と呟いた。
今まで激しく膨張していたものが急に萎んでしまった反動で、住吉は思わず『本当にいいんですか?』と声をかけそうになったが、視界の端に小佐田の気配を感じて思いとどまった。小佐田を見ると涙は止まっているが、その頬には涙が流れた跡がはっきりと残っている。
榎本さんの排泄介助はまだ終わっていないようだったが、余計なことを言って再び気分を害されると困る。
住吉は小佐田を促し並んで頭を下げると、二人でそそくさと逃げるように一〇五号室を退室した。
扉を閉めた途端、住吉は緊張が切れ、どっと疲れが襲ってくるのを感じた。
少し腰を下ろして落ち着きたいが、食堂の忙しない状況を見るとそうも言っていられない。
誘導担当のスタッフが二人も長時間通常業務から外れていたせいで業務はだいぶ押しているようだった。
騒ぎを聞きつけた事務所の職員が一人ヘルプで手伝ってくれているが、朝食が終わってから一時間が経った今も食堂には介助が必要な入居者が数人まだ残ったままだ。
小佐田は榎本さんの部屋を出てからも顔を上げることが出来ず完全に心が折れている様子だった。
住吉は門脇に断り、小佐田をスタッフルームに連れていき休ませると、再び誘導の業務に戻った。
エレベーターが二階に着くと、住吉は入居者を乗せた車椅子を押して廊下に出た。
その瞬間、不意にツンと女性の香水の香りが鼻をつくのを感じた。
廊下の奥へと歩いていくにつれて、その香りはだんだんと強くなってくる。いい香りだとは思うが、香りが強い。
深緑の郷でこんなにしっかりと香水を付けているのは一人だけだった。
住吉がそのまま香りが強くなる方に歩いていくと、前方の居室のドアが開き、中から介助を終えた遠藤真理子が出てきた。
真理子は介護士になるまでキャバクラで働いていたという三十代半ばの女性スタッフだ。
その頃の名残りなのか、仕事中でも離れた所からわかる程にしっかりと香水をつけている。それに加えて見た目も介護士としては、かなり派手だ。目元では長いつけまつ毛と青いアイシャドウが存在感を放っている。髪は長い髪を一本にまとめ、本人は控えめのつもりだと言うが、綺麗に揃えられた長髪と鮮やかな茶髪が人目を引く。
高齢者の中にはスタッフの派手な格好を好まない人も多々いるが、深緑の郷の入居者の中に真理子の事を悪く言う入居者はいない。
介護士に不釣り合いな見た目とは裏腹に、入居者に真摯に向き合う彼女の仕事ぶりは他の介護士達の模範となるほどで、あの榎本さんであっても真理子の前では文句一つ言わない。
それに加えて、何年も接客業を続けていただけに人当たりが良く、本人の気さくな性格もあって入居者からも同僚からも好かれていた。
それにしても、元プロレスラーに元ホステス。元漫画アシスタントの自分も含め、門戸の広い介護の職場には色々な人が集まっている。
介助を終え、居室から出てきた真理子は住吉の姿を目に留めると、駆け寄ってくるなり心底心配そうに顔を曇らせて尋ねてきた。
「さっきの榎本さんの件、私行けなくてごめんね。ずいぶん長い時間怒鳴られてたけど、大丈夫だった?」
「なんとか大丈夫でした。榎本さんも怒鳴り疲れたのか途中で解放されたので。ただ小佐田君が……」
住吉は小佐田の名誉のためにも彼が泣いていたことは伏せた上で、榎本さんの怒り様やそれによって小佐田が相当打ちひしがれている現状を話した。
榎本さんの怒鳴り声の大きさを考えたら、二階で主に業務に当たっていたとはいえ真理子もおそらくある程度は状況を把握していたはずだ。それでも住吉が話す間、真理子は「そっか」、「大変だったね」、「うん。私もそれが一番だと思う」と深妙な顔で相槌を打ちながら聞いていた。真理子の人気の秘密はこうした聞き上手なところにあるのかもしれない。住吉も思わず目の前の車椅子に座る入居者の存在も忘れ、愚痴を交えながらつらつらと話してしまった。
住吉が話し終えると真理子は申し訳無さそうに住吉を見て言った。
「私が小佐田くんのフォローすべきだったのに、すぐに行けなくてごめんね。代わりに対応してくれてほんとありがとう。私、この後すぐ小佐田くんと休憩だから、その時私からもフォローしとくよ」
そうして真理子はエレベーターの方へと立ち去った。
真理子がフォローしてくれるのなら、小佐田のことは住吉がこれ以上気にする必要はないのかもしれない。
住吉は再び車椅子を押して居室を目指した。
廊下には香水の残り香が心地良く香っていた。
忙しなかった誘導もなんとか終わり、真理子は休憩に入っていった。
忙しなさが一段落すると、他のスタッフ達も心配して続々と住吉に声をかけてきた。
門脇は「よくキレずに我慢出来たな。お前偉いよ」と大袈裟に感心してみせた。
「後で休憩中にでも何があったか教えてよ。愚痴聞くから」
休憩中は一人静かに休みたい気分だったが、門脇のように愚痴り合える人が職場にいるのは住吉にとって幸運かもしれない。
また、よほど心配してくれていたのか珍しく田島も「住吉くん。大丈夫だった?」と声をかけてくれた。
田島は人見知りを自称していて、普段自分から他人に声をかけている姿は滅多に見ない。この時も軽い挨拶程度のやり取りだったが、それが逆に住吉にとっては心地よい距離感で、それだけで先程までの疲れがいくらかとれた気がした。
住吉は内心の嬉しさを隠しつつ、田島との別れ際、普段より数倍感情を込めて礼を言った。
朝食が終わると、入居者達は食休みのお茶の時間に入る。
住吉は門脇や田島と手分けして各部屋にお茶を配っていく。
その際、住吉は入居者達からもたびたび心配の声をかけられた。
「さっき怒鳴られてたの住吉くんなんだって?大丈夫だった?無理しないでね」
「酷いことするお爺さんがいるのね。気にしたら駄目よ」
それは門脇や田島に声をかけられるのとはまた違い、心が洗われるようで、住吉の目にも思わず涙が込み上げてきた。
お茶を配り終え、ようやく休憩の時間を迎えた住吉は、同じく休憩に入る門脇とともに榎本さんについてぐちぐちと話し合いながら休憩室へと向かった。
その途中、二人は入れ替わりで業務に戻る真理子と小佐田が喫煙室から出てくるところに遭遇した。
介護の職場では女性スタッフにも喫煙者が多い。真理子もその例に漏れず相当な愛煙家なのだが、まさか喫煙室に小佐田を誘ってフォローしているとは思わなかった。
門脇も同じことを思ったようだ。
「おいおい、そんな所に付き合わせたら小佐田くんが可哀想だろ」と呆れたように言った。
真理子はそんな門脇を見ていたずらっぽくニヤリと笑うと、とっておきの隠し球を披露するように言った。
「小佐田くん、煙草吸うんだよ」
「……えっ!!」
住吉と門脇は同時に言葉を失うと、同時に声を上げた。
そして小佐田を見た。
真理子の横に立つ小佐田は顔をほんのり赤く染め、照れ臭そうに笑っていた。
どうやら冗談ではないようだ。
それにしても、煙草とは全く対極に位置していそうな小佐田がまさか喫煙者だったとは思わなかった。
人は見かけによらない。
「今度一緒にスロ打ちに行く約束もしたんだよね」
真理子は楽しそうに小佐田に笑いかけた。
小佐田は元々煙草が好きなだけでなく、酒やギャンブルも好きらしい。
少女のような外見から住吉が思い描いていた小佐田のイメージは大きく崩れ去った。
住吉はこれらのものとは一切無縁で、あまり好きではない。
反対に真理子や門脇は小佐田同様、酒、煙草、ギャンブルを愛してやまない。
この二人はこれらの趣味嗜好が共通していることに加え同世代ということもあり、深緑の郷の中でも特に仲がいい。
喫煙室で二人でよく談笑している他、プライベートでもパチンコや居酒屋に一緒に遊びに行っているようだ。
二人の住吉が全く立ち入れない部分にまさか小佐田が平気な顔で入っていけるとは驚きだった。
住吉は思わずまじまじと小佐田の顔を見てしまったが、その時小佐田の顔が生気を取り戻していることに気づいた。
「小佐田君、もう大丈夫なの?」
「はい。先ほどはありがとうございました。今は真理子さんに励ましてもらったおかげで、なんとかまた頑張れそうです。榎本さんの介助はまだちょっと怖いですけど」
小佐田はそう言って小さく笑った。
いったい、どう励ましたら短時間でこんなに人の心を変えられるのだろう。さすがは元接客のプロだと感心する。
しかし、当の真理子は時計を確認すると「やっぱもう一吸いしてくるわ」と言い残し、一人そそくさと喫煙室に戻っていった。
これも考えようによっては、それだけ小佐田へのフォローに夢中だったのかもしれない。
男三人が残される中、「真理子さんて恋人とかいるんですかね」と小佐田が喫煙室を見ながらボソッと呟いた。
小佐田の横顔はほんのり赤らんでいる。
キツい香水の香りと煙草の臭いが混じり合う中、住吉と門脇は思わず目を合わせた。
元キャバ嬢恐るべし。
小佐田の目はしばらく喫煙室に釘付けだった。そしてその目は完全に恋に溺れているもののそれだった。
姉御肌の真理子と繊細な美少年の小佐田。歳の差もあり、まるで対照的な二人だが、パートナーとして考えてみたら案外お似合いのペアなのかもしれない。
今後、小佐田が困っている時は真理子に振ってあげよう。
その方が小佐田も嬉しいはずだし、住吉も助かる。
何にしても真理子のおかげで一件落着だ。住吉は小佐田を見て静かにホッと一息ついた。
隣を見ると、門脇もどこか安堵した顔をして頬を染めた小佐田を見ている。
みんな考えることは同じだ。
住吉達深緑の郷で働く介護スタッフにとって何より大事なのは、動機が何であれ新入社員の小佐田が、当分この施設を辞めることがなさそうだということだ。
つい先程まで泣いていたのが嘘のように爛々としている小佐田の目を見ながら、住吉はそんな薄情なことを思った。