第1話⑴ 深緑の郷
都内某所にある閑静な住宅街の一画。
都会の喧騒から外れたこの場所に、一年を通して鮮やかな青葉の繁る木々に囲まれた、二階建ての白塗りの建物がひっそりと建っていた。
建物の名は深緑の郷。
およそ五十人の高齢者が 2フロアにわたる各個室に入居する介護付き高齢者施設である。
ここでは認知症や身体機能の低下などにより、日常生活においてなんらかの介助を要すようになり、独居や家族との同居が困難になった高齢者達が暮らしている。
しかし、介助が必要といってもその程度は様々だ。
日常生活ではほとんど介助を要さず、毎日を自分のペースで自由に過ごす高齢者もいれば、一日中ベッドに寝たきりでほとんど全ての活動において介助が必要な高齢者もいる。
入居者達はそれぞれ自身に合った介助を受けながら、この深緑の里で共同生活を送っている。
住吉圭は半年前から、この高齢者施設で中途採用正社員として働いている。
それまでは五年間、漫画家のアシスタントの仕事をしながらプロの漫画家を目指していた。
漫画家を目指すきっかけは大学二年生だった二十歳の時、とある出版社の漫画新人賞に応募し入賞したことだった。元々はイラストなど絵を描くことが好きで漫画はたまに描く程度だったが、新人賞入賞を機に漫画家になりたいという思いを強くした。
そしてその勢いで大学を中退すると、その新人賞を運営している出版社に所属する漫画家のアシスタントになった。
しかし、そこからの五年間は泣かず飛ばずの日々だった。
漫画賞の佳作にも引っかからず、ひたすらアシスタントの仕事をこなす毎日を送っていた。
そしてある日、とうとう自身がアシスタントをしていた漫画家の先生から「お前にはプロになる才能がない。アシスタントの腕を磨いて、一生アシスタントの仕事をしていく覚悟を決めろ」とはっきりと現実を突きつけられた。
その後、現実から逃げるようにアシスタントの仕事を辞めた住吉が、途方に暮れ彷徨う中でたどり着いたのがこの深緑の郷だった。
いくつもの住宅が建ち並ぶ中、緑の木々に囲まれ他とは一線を画したこの施設は、物語に出てくるようなどこか浮世離れした雰囲気を漂わせていた。
住吉はその雰囲気に強く惹かれた。しかし、今思いかえせば結局のところ現実逃避がしたかっただけなのだろう。
その時の住吉に残されていたのは漫画家になれなかった無念と叶わない夢のために大学を退学した後悔だけだった。その二つのネガティブな感情から逃れられるところ、絵とも世間とも距離を置いた居場所を無意識に求めていたのかもしれない。
もともと介護の仕事に興味があったわけではなく、高齢者に対し特別愛着があるわけでもない。
それはおよそ半年間ここで働いてきた今も同じだ。
住吉は二十五歳になった今でも、漫画に対する未練も退学に対する後悔も忘れられず、惰性でただなんとなく介護の仕事を続けながら毎日を生きていた。
「穴があったら入りたい……」
まだ顔にほんのりと赤みを残したジュリエットは額をロッカーに預けると、ボソッと呟いた。
深緑の郷の男子更衣室。
女子更衣室に比べて幾分か小さい男子更衣室ではジュリエットを演じた小佐田を含め、寸劇『ロミオとジュリエット』を演じ終えた四人の男性スタッフが寿司詰めの状態で制服に着替えていた。
この小さな空間ではちょっとした呟き声も他人に届く。
「そんなに落ち込むなよ小佐田くん。なんだかんだで結構ウケてたから大丈夫だって」
小佐田の右隣で着替えていた門脇新平がそうフォローした。
元プロレスラーだという門脇は着ていたドレスを脱ぎ捨てると、アラフォーの中年男性とは思えないマッチョな身体を惜しげもなく披露した。
それを見た小佐田は門脇の筋肉に押しつぶされる危険を感じたのか、小柄な体を反対側へ半歩ずらし少し距離をとってから言った。
「門脇さんの乳母はウケてたかもしれないですけど、僕のジュリエットは笑われてただけですよ」
「いやいや、袖から見てても小佐田くんのジュリエットはなかなか好評だったよ。良いお披露目になったんじゃないか」
小佐田は先月、中途採用正社員としてこの深緑の郷に配属されたばかりの二十二歳の若い新入社員である。
先程彼らが演じた『ロミオとジュリエット』の寸劇は新人歓迎レクリエーションとして、新入社員の小佐田と半年前に入社した住吉をついでに加えた二人を施設の入居者達にお披露目するために開催された。
しかし、肝心の劇は実際には門脇の言う良いお披露目とは程遠かった。
結局あの後も立ち直ることはなく、終始噛み合わない状態のまま閉幕した。
「いやぁ、俺がちゃんと聞き取れなかったせいで、上手く噛み合わなくて申し訳ない」
小佐田の左隣でところどころ薄くなった白髪を慎重に梳かしていた谷川久志が言った。
そうまで気を遣っていてもハラハラと舞ってしまう白髪が切ない。
谷川はベテランの介護士で、数年前に還暦を越してからは嘱託社員として、それまでとほぼ変わらない形で働き続けている。施設の入居者の中には谷川より若い人もいて、高齢者施設の職場でも老々介護が行われていることに住吉は初め驚いた。
谷川は介護士になるまでは元々大工の仕事をしていたらしく、耳が遠いのはその時の職業病らしい。
「噛み合わないくらいで気にすることないですよ。住吉くんなんてセリフそのものをなかったことにしちゃったんですから」
門脇が谷川の向こうで黙々と着替えていた住吉を見て笑いながら言った。
「あれは時間が押してたから少し巻いたんですよ。門脇さんが女装する時点でコントだったんですから、僕もあれくらいしないと」
「そうそう。身内コントなんだから、楽しけりゃ適当でいいんだよ」
門脇も同意して笑い飛ばす。
その門脇はまだ役に入っているのか女性なような手つきで満足そうに女装メイクを落としている。
妻の化粧道具をわざわざ持参してきたらしいが無精髭が引っかかって苦戦していた。
「あっ」
その時、門脇が思い出したように声をあげた。
そしてメイクを落としながら、再び住吉の方を見て言った。
「そういえば住吉くんって田島ちゃんのことが好きなの?」
不意を突かれた住吉は再び顔が蒸気していくのを感じた。
「住吉くんてそうなんだ」
「あ、僕も実はちょっと気になってました」
谷川と小佐田も着替える手を一旦止め、興味深々に参戦してきた。
「いや、別にそんなんじゃないですよ。劇の時は恥ずかしいところを見られたから赤くなっちゃったっていうだけで」
住吉は慌てて否定したが、好奇心の塊と化してる彼らに届いたかはわからない。
ただ実際に住吉が田島ちゃんこと田島瑞希を気にしているのは事実だ。介護士としては住吉より二、三年先輩だが、同い年でもあるし何より可愛い。
「田島ちゃん可愛いもんな」
「それは完全に同意です」
門脇の言葉には住吉もはっきりと賛同を表した。
ただ半年間同じ職場で働いてきたが、好きといえるほど田島としっかりと話した事はなかったし、仮に好きになったからといって付き合いたいと思うような心の余裕も今の住吉にはなかった。
「田島ちゃん恋人いなかったと思うし頑張れよ」
門脇のエールに住吉は力なく笑い返した。
嬉しい情報だが持て余す。
「でも田島さんて谷川さんのことが好きなんじゃないですか?」
その場にいた全員が発言者の小佐田を見た。小佐田は申し訳なさそうに住吉を見上げている。
「よりによってなんで俺なの?」
当の谷川が困惑した様子で尋ねた。
「この前、敬老会があったじゃないですか。その時、僕はまだ入ったばかりだったんで後ろで見学してたんですけど、谷川さんが舞台でギター弾いてるところを田島さんが憧れの眼差しで見つめてたんですよ。あれは完全に恋した女の子の目でしたよ」
「プッッ」
小佐田が言い終わらないうちに門脇は吹き出した。
「それは単にギターに聴き惚れてたんだよ。田島ちゃんピアノ教室に通ってるってくらい音楽好きらしいし」
「そうそう。こんなお爺さんをあんな若くて可愛い子が好きになるわけないだろ。変に期待持たせないでよ」
「ほんと。谷川さん選ぶくらいなら、柴田さんを選ぶだろ」
門脇は柴田幸雄さんという谷川より若い五十八歳の入居者の名前を出してからかった。
谷川も笑っている。たしかに柴田さんは若いだけでなく、谷川よりもはるかにイケメンで髪もフサフサのお爺さんだった。
二人の全力否定に小佐田はどこか不満そうな表情を浮かべていたが、住吉は少しホッとした自分を自覚した。
紺色のポロシャツの制服に着替え終わると四人は揃って更衣室を出た。
深緑の郷の男性介護士は施設長を除くとここにいる四人だけだ。女性の多い職場で肩身の狭い思いをしている四人は必然的に仲が良かった。
普段受け身で消極的な住吉もいつの間にか彼らの会話の輪の中に巻き込まれている。
先程まで落ち込んでいた小佐田もいつのまにか笑顔を見せるようになっていた。
「でもやっぱりむいてないんじゃないかってちょっと不安なんですよね……」
更衣室を出た四人はそのまま通常業務に戻った。谷川を除いた三人は一階にある食堂の脇に備えつけられたパントリーで、夕食の準備をしながら早めに食堂にやってきた入居者達の見守り業務にあたっている。
朝昼夕の食事時には五十人の全入居者が食堂に集まり、揃って食事を取る。
この広い食堂は先程まで新人歓迎ミュージカルという名目のグダグダな寸劇で盛り上がっていた会場だが、夕食までのこの時間はほとんどの入居者が自室で休んでいるため比較的落ち着いている。
今は何人かの入居者の話し声や叫び声が聞こえてくる程度だ。
「そんな引きずることじゃないって。中途半端にちゃんと出来ちゃうよりむしろ良かったと思うよ。内輪のコントなんだから笑いを取れた事が成功だって」
隣にいた門脇が笑い飛ばして励ます。
門脇の豪快な物言いはその見た目と相まって説得力があった。
だがそれでもまだ小佐田の悩みは晴れないようだった。
「レクの件は皆さんのおかげでなんとか立ち直れそうなんですけど、普段の業務の方が明日から心配で……」
そう言う小佐田の視線の先には先程から絶え間なく叫び続けている黒木幸子さんの姿があった。
「何してんのよ!早くしなさいよ!何してんのよ!早くしなさいよ!」
黒木さんはこちらを見ながら、同じ言葉をひたすら繰り返し叫び続けている。
これは決して夕食を急かしているわけではなく、いつでもどこにいる時でもこの状態は変わらない。
小佐田の不安には理由がある。
まだこの施設に入って間もない小佐田には
現在、先輩スタッフが一緒についてマンツーマンで指導している。今日は門脇が指導者の役割だった。
しかし、明日からは小佐田も一人で業務シフトに組み込まれる。
一般的に介護の仕事には3Kがあると言われている。キツい、汚い、危険。そこに臭い、給料が安いなどが加えられ4K、5Kなどと言われることもあるが、いずれにせよ多くの人が敬遠する大変な仕事だ。
それに介護の職場は普段の社会と一線を画した独特な現場でもある。
黒木さんのように大声で叫んでいるお婆さんがいたり、隙あらば骨折した足で立って歩き出そうとするお婆さんがいたり、おぼつかない足取りで四六時中ウロウロ歩き回っているお爺さんがいたり、近くに人が来るたびに掴みかかって爪をたてるお婆さんがいたり、そう言った人達の対応を限られた時間の中でしなければいけない。
深緑の郷では見守り業務に割り当てられた職員以外は、人手不足も相まって絶えず忙しなく動きまわっている。
これらは半年もあれば慣れてしまうものだが、慣れるまでは誰しもがキツいと思うはずだ。
小佐田と同期入社した中途採用の女の子はつい先週辞めた。
住吉のような大学中退で真っ白な経歴でも労せず入れる簡単な仕事ではあるが、同時に入ってからが大変な仕事でもある。
住吉にも小佐田の気持ちは理解出来た。
「住吉さんは最初の頃はどんな感じでした?」
そんな住吉に小佐田が聞いた。
「初めのうちは周りが結構フォローしてくれてたと思うよ」
「そうそう出来ないところは周りがフォローしてくれるんだから俺みたいにテキトーにやればいいんだよ。手の抜き方は今日一日でちゃんと教えるし」
「ありがとうございます」
小佐田は門脇のアドバイスに控えめに笑った。
小佐田は冗談だと思っているかもしれないが、実際に門脇は手を抜けるところは堂々と手を抜いている。
現在四十代前半の門脇はおよそ七年前にプロレスラーの仕事を辞めて、そこからすぐに介護の職に就いたらしい。
介護士として七年も働いてきたベテランなだけあって、門脇は手を抜けるところと抜き方を熟知している。
これは介護士として決して褒められたスキルではないが、人手不足が深刻で日々忙しない介護の職場において自分を守るために大事なスキルでもある。
この深緑の郷も例外なく忙しい職場だ。
要領よく働いていかないと、いくらでも残業がかさんでしまう。
実際に見たわけではないが、おそらく誰しもがそれなりに手を抜いて折り合いをつけながら働いているはずだ。
門脇の場合は手を抜き過ぎるところがあるが、それでも必要なことはこなしているため正面切って文句を言う人はいない。
それくらい忙しく、人手不足な仕事だった。
それに門脇の場合はなんだかんだで人当たりがいい。消極的な住吉にもいちいち話しかけてくるし、今回も小佐田に対し面倒見のいい一面を出していた。
「何か困ったことがあったら、その都度周りの人に助けを求めれば大丈夫だから。みんな快く助けてくれるよ」
「他の人も大変なのにそんなに頼っちゃって大丈夫ですか?」
「大丈夫。小佐田くんのフォローは深緑の郷の全介護スタッフにとって今現在の最優先事項だから」
「どうしてですか?」
小佐田はキョトンとした顔で尋ねる。
門脇の答えは明快だった。
「みんな小佐田くんに辞められたら困るからだよ」
「ああ、なるほど」
妙に説得力がある。
介護の職場は門戸が広すぎるせいもあって人の出入りが激しい。
実際、深緑の郷でも人が入ってきたと思ったら、小佐田の同僚の女の子のように気づいた時には出ていってしまっていたりする。
しかし、それなのに人手不足のため、いつもギリギリの人員で業務が組まれており、急な欠員が出るとその日出勤の残りの介護スタッフに皺寄せがくる。
だからこそ住吉や小佐田のような常勤スタッフの定着はこの施設の課題になっていると住吉も入社当初に聞かされたことがある。
小佐田もこれには納得がいったようでその後の業務では門脇に張り付き、終業まで門脇から手の抜き方を盗むことに集中していた。
そして翌日。
小佐田の一人での勤務が始まる初日。
小佐田にとって苦難の日が幕を開けた。