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ツイノスミカ  作者: 日丘
17/19

第5話⑶ 着地点

 翌日、やはり職場には微妙な雰囲気が漂っていた。

 小佐田の落ち込みようは相当なもので、それは誰の目から見ても明らかだった。

 昨日まであれだけ真理子にべったりくっついていたのが、今では真理子の姿を確認するだけで俯いてしまい目を合わすこともしない。

 そして仕事にも全く身が入らなくなっていた。

 以前は門脇の仕事ぶりを散々非難していた小佐田だったが、今ではその門脇よりも適当な働きぶりを見せている。

 おそらく深緑の郷で働く最大のモチベーションだった真理子にキッパリとフラれたことが、仕事に対する意欲の低下に直結したのだろうと思われた。


 そんな小佐田の様子から、すぐに二人の関係の破綻を察した他のスタッフも、気の毒な小佐田に対しなかなか注意が出来ないでいる。

 そんな中、広岡が必死に小佐田のフォローをしているが、今の小佐田を見ていると深緑の郷を辞めてしまうのも時間の問題のように感じられた。


 それとは逆に真理子の方はこれまでと変わりなく業務をこなしている。

 以前と違うところといえば、小佐田が離れていった分、谷川と談笑している機会が増えたくらいだ。その時の真理子の笑顔は心なしか以前よりも楽しそうに見える。


 このように徐々に変わっていく深緑の郷の職場の中で、住吉が一番ショックを受けたのが門脇についての出来事だった。


 門脇は深緑の郷を退職した。


 休憩中に二人で一緒に昼食を摂っていた際、門脇がふいに「話があるんだけど」と切り出し十二月限りで退職することを告げた。


「辞めてどうするんですか?」


「まだ決めてない」


「……決めてないんですか?」


「まあ、なんとかなるだろ」


 門脇の適当ぶりは相変わらず健在だった。

 ただ、門脇によるとプロレスの世界を去った後、介護士になってからもずっとプロレスに対しての未練が残っていたのだという。


「でとやっぱ、そんな中途半端な感じだと周りに迷惑かけてるみたいだからさ」


 門脇はそう言い残すと去っていった。


 住吉には門脇の最後の言葉が自分の事のように大きく響いた。

 介護の職場は人の入れ替わりが多く、住吉もこうしたことには慣れている筈なのに、この時は涙を堪えることが出来なかった。

 そして、この出来事にショックを受けたのは、もちろん住吉だけではなかった。


 後日、門脇の退職が正式に公表されると、大きな衝撃が施設中を駆け巡った。

 その日は終始、スタッフも入居者も門脇の退職の話題で持ちきりだった。


「彼が決めたんなら、それがきっと一番の選択なんだよ」


 谷川は相変わらず達観している。


「辞めちゃったら、みんなが悲しむじゃん。残ってせめて居担の入居者達ともっと向き合って欲しかったのに」


 真理子は非難めかして言っていたが、その横顔はどこか寂しげなもので、頬には一筋の跡が薄く光って見えた。

 仕事の面では折り合わなかったが、元々あれだけ仲の良かった二人だ。

 真理子にとってもこのような結果は望んでいなかったに違いない。


 小佐田は泣いていた。

 真理子にフラれたことで門脇への見方も変わり、入社当初の頃の親切にされた思い出が込み上げてきたのかもしれない。


 そして、意外な事に榎本さんも門脇の退職を惜しんでいた。

 門脇が各入居者の部屋を挨拶してまわった際、「それは残念だな。お前のキャラクターはなかなか面白かったのに……」と言われたそうだ。

 門脇は「だったらいちいち怒鳴らずにもっと普通に接しろよ」と悪態をついていたが、その言葉には力がなく門脇の表情にもどこか哀愁が漂っていた。


 なんだかんだで門脇は深緑の郷の多くの人達から愛されていた。

 それは門脇がただ適当に働いていただけでなく、入居者達のために働くべきところではしっかり働いていたことを意味していた。


 実際に三枝ハナさんの家族からは先日、施設への返礼品と一緒に門脇個人に宛てた感謝の手紙が届いていた。

 その内容は門脇が家族の要望を聞き、励ましてくれたおかげで温かい気持ちでハナさんの最期を見送ることが出来たというものだった。

 こうした家族に寄り添うケアは周りのスタッフからは見えづらい介助で、門脇の言う要領のいい適当な働き方とは程遠いように思う。

 事実、この手紙が届くまでは門脇がここまでハナさんの家族のケアをしていたということを誰も知らなかった。


 住吉は真理子がこの手紙の事を施設長の山上から聞いているところを見た。

 山上も施設長として施設の雰囲気がどんどん悪くなっていることに危機感を感じ、門脇と真理子の仲をなんとか取り持とうとしていたようだ。

 山上がこの話をしている間、真理子はずっと俯いて聞いていた。

 そして山上が全てを話し終わると最後に目をぬぐい、門脇を探しに行った。おそらく謝りに行ったのではないか、と住吉は思った。

 真理子のことだから悪態が先に立ち上手く謝れているかはわからないが、二人の関係が少しでも改善することを住吉は願った。


 周りが徐々に変化をしていく中、住吉はヨネさんの誕生日カードに似顔絵を描いて以降、未だに次の行動を起こせないでいた。

 似顔絵に関しても、小佐田の件ですっかり忘れていたが、あの日結局誰からも何の音沙汰もなかった。住吉の書いた誕生日カードはヨネさんの居室に寂しく飾られている。

 住吉の進んだ一歩が小さ過ぎたのか、そもそも道を間違えたのか。

 いずれにしても、この次の一歩をどのように踏み出すか考えていかないといけない。

 住吉は門脇の大きな一歩に背中を押された思いだった。



 しかし翌日、意外な人から声がかかった。


「住吉くん、ちょっと話があるんだけどいい?」


 その声を聞いた瞬間にドキッとした。

 スタッフルームでパソコン作業をしていた住吉にそう声をかけてきたのは田島だった。

 田島からこのように改まって話しかけられるのは初めてだった。


(何の話だろう)


 住吉がソワソワとしながら身構えていると、田島から予想外の言葉が飛び出した。


「住吉くん、絵得意だよね。クリスマス会の準備のちぎり絵、一緒に手伝ってもらえないかな?」


 住吉は最初、田島の言葉がピンとこなかった。

 何故、飾り付けの担当になった自分にちぎり絵の作業を頼むのか。何故、田島は住吉が絵を描くのが上手いと思っているのか。


「ヨネさんが教えてくれたの」と田島はその理由について説明してくれた。

 それによると、以前田島がヨネさんの居室で介助に入った時、ヨネさんが「あれ、取ってちょうだい」と、しきりに棚の上のものを指差していたという。

 そしてそれが住吉の書いた誕生日カードだった。

 田島がそれを取ってヨネさんに渡すと、ヨネさんは似顔絵を指差して言った。


「これ私。描いてくれたの」


 ヨネさんはその絵を田島に自慢したかったらしい。

 田島が「良く似ていて素敵な似顔絵ですね」と言うと、ヨネさんは笑顔で満足そうに頷いたという。


 それを聞いて、住吉は胸が締め付けられる思いがした。

 残念ながら住吉が描いたヨネさんの似顔絵は、実際には本人にあまり似ていない。住吉自身も下手の横好きで、自分の絵がたいして上手くないということは自覚していた。

 それでも自分が絵を描いて贈った相手に喜んでもらえたということが嬉しかった。


「私、ここで三年くらいヨネさんのこと見てるけど、あんなに嬉しそうに笑ってるヨネさん初めて見たの。それに私自身も住吉くんの似顔絵見て、ヨネさんの気持ちがわかる気がして。住吉くんの絵ってなんか普通とは違うというか、味があって心が温まる絵だから」


 純粋な褒め言葉とは違ったが、どんな言葉であれ田島から褒められたことは嬉しかった。


「だから絵の担当に移ってもらいたいんだけど駄目かな?」


 住吉は言葉に窮した。

 田島から求められるのは嬉しい。

 しかし、クリスマス会のちぎり絵は会場の正面の壁に貼る大規模な絵だ。四人で分担するとはいえ、簡単な誕生日カードの絵ならともかく、そんな本格的な絵を今の自分に描く事が出来るだろうか。住吉には自信がなかった。

 なんとか誤魔化して断ろうと思ったが、目の前で真っ直ぐな目を向けてくる田島を見るととても誤魔化せそうにはなかった。


 住吉は正直に答えることにした。


「ごめんなさい。その誘いは嬉しいんですけど、実は絵を描くことにトラウマがあって多分描けないんです」


「トラウマ?」


「実はここに来るまでは漫画家を目指してたんです。でもアシスタントとして働いてた職場の先生から才能がないから無理だってハッキリ言われて。それで漫画家になる夢はきっぱり諦めようとしてるんですけど、絵を描くとその度に未練が湧き上がってきて上手く描き進められなくなっちゃって」


 そう言って住吉は沈痛な面持ちで俯いた。

 しかし、そんな住吉とは反対に、田島はなんでもない事のように「そもそも」と疑問をぶつけた。


「それは諦めないといけないの?」


「え?」


 住吉が顔を上げると、田島は心底わからないといった様子で首を傾げている。


「だって才能ないんだし、未練抱えたままだとこの仕事に真剣に向き合ってる田島さん達に失礼だし……」


「失礼だなんてことないよ。それに未練は抱えたままでもいいんじゃないかな」


 田島は真っ直ぐに住吉の目を見ていた。


「私もまだ新米だから偉そうなことは言えないけど、この仕事で大事なのは入居者の要求にただ応えることじゃなくて、気持ちを込めて入居者と向き合うことだと思うの」


「……」


「住吉くんの絵に温かさがあったのは気持ちが込もってたからだと思うの。それがヨネさんにも伝わったから、ヨネさんはあんなに笑顔だったんだよ」


 住吉はヨネさんの似顔絵を、ヨネさんに喜んでもらいたいという思いで描いた。気持ちを込めたという点では、たしかに田島の言う通りかもしれない。


「それに漫画家の才能が何かは私にはわからないけど、私は住吉くんの絵には人を笑顔にする力があると思う。それはヨネさんも実証してくれたじゃない」


 住吉は田島のことを呆然と眺めた。

 自分の下手くそな絵を他人からこんな風に褒められたのは初めてのことで信じられなかった。

 しかし、田島の目を見ていると、彼女が本気で言ってくれていることが住吉にも伝わってくる。


「私、今回のクリスマス会は特別なものにしたいの。ハナさんの時みたいな後悔はしたくないから。だから無理にとは言えないけど、考えてみてもらえないかな」


 住吉はハナさんの居室での田島の言葉を思い返した。

 田島がしていた後悔は看取りケアに限ったことではなかったのだ。

 やはり田島と比べると自分はまだまだ入居者と向き合えていない。

 住吉は絞り出すように言った。


「ちょっと一日考えてみてもいいですか?」


「もちろん」


 田島は笑顔で答えた。



 翌日、住吉は考えを整理した上で、田島に対し正式にちぎり絵の担当に変わりたいということを伝えた。

 田島は「絶対みんな喜ぶよ」と言って、喜んで承諾してくれた。


「私は住吉くんにとっての絵みたいに特別皆に何かしてあげられるものがないから、本当は羨ましいんだよね」


 そう言った田島の表情は悔しそうだった。

 田島が言うには、入居者を喜ばすような特技がないことが悩みで、それを補うためにレクリエーションの準備などに力を入れていたのだという。


「だから今、大人のピアノ教室にピアノ習いに行ってるんだ。まだ全然下手くそなんだけど」


 田島はそう言うと恥ずかしそうに笑った。

 田島はそこまで本気で入居者達に向き合っているのだ。

 住吉は田島のように介護の仕事を中心に考え全力で向き合うことは出来ない。

 漫画家になる才能はないかもしれないが、絵を描くということが今でも好きだった。


 ただ、初めは逃げた先にたまたまあったという理由で始めた介護の仕事だが、今はそれだけではないということにも気づいた。

 入居者が喜ぶ事をしたい。入居者が喜ぶ顔が見たい。

 自分の好きな絵がその役に立てるなら、それほど嬉しいことはない。

 住吉は介護の仕事にも絵にも正面から向き合うことにした。



 住吉は次の日からさっそくクリスマス会のちぎり絵の作業に加わった。

 代わりに飾り付けの作業には、住吉と入れ替わる形で小佐田が移ることになった。

 小佐田は真理子にフラれた日から、真理子と顔を合わせて作業したくないという理由でクリスマス会のちぎり絵の準備に参加していなかった。

 今回の配置替えは、住吉にとっても小佐田にとっても前向きなものになった。

 また、門脇が抜けた穴にはサービスリーダーの広岡が可能な限りで入ることになった。

 これでちぎり絵の作業は住吉、田島、谷川、真理子の四人で行い、飾り付けの作業は小林、ジョアン、小佐田、広岡の四人で行うことになった。


 クリスマス会まであとおよそ二週間。ちぎり絵担当のスタッフも飾り付け担当のスタッフも毎日のように残業し、クリスマス会の準備の作業に取りかかる。

 住吉はクリスマスの絵の中に入居者五十人の簡単な似顔絵を描き加えることにした。

 田島はそこまで大掛かりな事をすることはないと恐縮していたが、住吉は自分の意志で描きたいと思った。


 ただ、この四人で作業する上でやはり気になるのが真理子と谷川の仲の良さだった。

 住吉と田島を差し置いて、二人で顔を突き合わせて作業している時間が目立つ。


「あの二人、なんか仲いいですよね」


「ほんと最近よく二人で話してるよね」


 住吉は隣で作業している田島も首を捻っていた。

 住吉が二人の関係性を疑っているから仲良く見えているだけかとも思ったが、やはり実際に二人は以前より仲がいいようだ。

 この空間での作業を小佐田が嫌になったのも十分理解出来た。

 しかし、そうは言っても谷川も真理子も作業は十二分にしっかりこなしている。

 二人が主に作業しているサンタクロースやクリスマスツリーの大きなちぎり絵は、レクリエーションで入居者達が手伝ってくれていることもあり順調なペースで仕上がっている。


 住吉の作業も、田島が自分の作業をする合間に手伝ってくれているおかげで、なんとか本番までには間に合いそうだった。

 悩みが吹っ切れてしまえば、絵を描くのはやはり楽しい。

 自分は絵を描くのが本当に好きなのだと住吉は実感した。



 そんなこんなで夢中になって作業をしているとあっという間に二週間近くが過ぎた。

 クリスマス会前日。

 この日ようやく、ちぎり絵が完成した。

 あとは模造紙を繋ぎ合わせ食堂の壁一面に貼るだけだ。

 突貫作業で素人臭い部分も多いが、全体として満足のいく出来に仕上がった。

 最後の作業を終えると、四人はやり切った表情でお互いに労いの言葉を掛け合った。



 その日の夕食が終わり入居者達が自室に帰ると、住吉らは食堂に絵を運んだ。

 食堂ではすでに小林達飾り付け担当のスタッフ達が飾り付けの作業を行っていた。

 こちらもほとんど完成している。

 作業しているスタッフの中には小佐田の姿もあった。

 ジョアンや広岡にあれこれ教えてもらいながら作業している姿は生き生きとして見え、小佐田もすでに失恋から立ち直り、以前の調子を取り戻したようだった。


 これまで多くのことがあった。

 深緑の郷は住吉らの歓迎会の頃と比べ大きく変わった。

 門脇も去ってしまった。

 しかし、皆それぞれ前に進みそれぞれの着地点を見つけたように思う。

 今年最後のビッグイベントに間に合って良かった。

 いよいよ明日、クリスマス会イベント本番を迎える。

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