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ツイノスミカ  作者: 日丘
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第5話⑵ 変化

 夜勤業務が終わり、事務所へ行くと自分のレターボックスの中に未開封の誕生日カードが入っていた。

 深緑の郷では入居者の誕生日が近づくと、その入居者の居室担当者のスタッフが全スタッフを代表して誕生日カードにメッセージを書くことになっている。

 もうすぐ住吉が担当する水原ヨネさんの誕生日だった。


 住吉は眠い目をこすり、誕生日カードのメッセージを書くためスタッフルームへと向かった。

 住吉は椅子に座りペンを取るとスラスラとメッセージを書いた。

 誕生日カードに書く言葉はだいたい決まっている。


『いつも素敵な笑顔をありがとうございます』

『健やかな一年になりますように』


 住吉はペンを置いた。

 しかし、これだけではあまりにもやっつけ仕事な気がする。

 普段ならこんな面倒なことは考えないが、先程の谷川の影響もあってか今の住吉はひっかかりを覚えた。

 住吉は続く文を考えてみた。


「……」


 しかし、思いつかない。

 そういえばあの夜勤の日以来あまりヨネさんと関わっていない。

 もしかしたら、あの時ヨネさんに対し苦手意識を持ったせいで、無意識に逃げていたのかもしれない。

 ウンウン唸っていた住吉はふとあることを思いついて顔を上げた。


(似顔絵を描くのはどうだろう?)


 しかし、すぐ思い返した。


(自分に描けるだろうか?)


 しかし、自分が気持ちを伝える手段としては、やはり絵が適しているのではないかとも思った。

 何より上手いメッセージはいくら考えてみても思い浮かばないのだ。

 住吉には文章力がないし、谷川や真理子のように普段から入居者を観察するということもしてこなかった。

 結局、自分に出来ることがあるとすれば、それは絵を描くことだけだという結論に行き着いた。


 住吉は事務所に行き、レクリエーションの際に撮影したヨネさんが写った写真を拝借した。

 そして、それを持ってスタッフルームに戻ると、住吉は覚悟を決めた。


(描く前から悩んでいても仕方がない)


 住吉はサッとペンを取り誕生日カードの余白部分に狙いを定めると、眠気も手伝って躊躇なくヨネさんの似顔絵を描き始めた。

 写真に写るヨネさんは表情が豊かだった。それによく見ると、目がぱっちりとしていて愛嬌のある顔立ちをしている。若い頃はきっとモテただろう。あれだけ「お父さん」と叫んでいるくらいだから仲のいい夫婦だったのかもしれない。

 そんなことを思いながら住吉はスラスラと描き進めていった。


 そして描けた。

 似てる……かは自身がない。

 才能がないと言われた絵だ。

 でも最後まで描ききることが出来た。

 ヨネさんは喜んでくれるだろうか。

 もしかしたら認知症のために、そもそも絵を理解出来ないかもしれない。

 その場合は住吉の自己満足に終わってしまう。

 しかし、その時はそれでもいいと思えた。

 入居者と向き合うという介護の仕事とも、絵と向き合うというトラウマとも、どちらのことに対してもポジティブに向き合うことが出来た。

 スタッフルームを出る時には眠気はどこかへ消えていた。

 自分の気持ちが一歩前に進んだ気がして、いつもより足取りが軽いのを感じた。



 この日の住吉は深緑の郷に着くまで、道中落ち着かなかった。

 前日はヨネさんの誕生日だ。レクリエーションの合間に誕生日会が開かれ、住吉の書いた誕生日カードがヨネさんに渡されているはずだった。


(あれで大丈夫だろうか。喜んでくれただろうか)


 住吉はソワソワする気持ちを抑え、裏手にある職員用玄関に向かった。


 扉の前までくると、奥の方から何やら音が聞こえてきた。

 ヒック。ヒック。

 誰かが咽び泣いているようだ。

 その声は職員用玄関のさらに奥にある喫煙室の中から聞こえる。

 真理子だろうか。

 また門脇と口論になったのかもしれない。

 声をかけたものか迷い、住吉がその場から動けないでいると、咽び泣く声が止み、ガチャッと喫煙室の扉が開いた。


 中から出てきたのはバッグを持った小佐田だった。

 嗚咽は落ち着いたようだったが、目元には遠目からでもわかる程くっきりと泣き腫らした跡が残っている。

 こちらは和田さんに比べてずいぶんとわかりやすい。

 しかし、何があったのか。


 その時、顔を上げた小佐田と目が合った。

 二人の間を気まずい空気が流れる。

 住吉が声をかけようとすると、小佐田はそれを避けるように目を逸らし、足早に住吉の脇を通り抜けて帰っていった。


 残された住吉は呆然とその背中を見送った。

 いったい何があったのだろう。また榎本さんに怒鳴られたのだろうか。

 それとも、今日の小佐田は夜勤明けだったはずだから、以前の住吉のように大変な目に遭って打ちのめされたのかもしれない。

 後でそれとなく誰かに尋ねてみようとと思い、住吉は扉を開けた。



 見守り業務中、広岡と一緒になったタイミングで小佐田について何かあったのか聞いてみた。

 住吉が話しかけると、広岡はホッとした表情をして住吉を見上げた。

 思えば広岡は住吉が出勤した当初から落ち着かない様子でチラチラと住吉を見ていた。

 今回も一人で抱えてしまった悩みを誰かに打ち明けたかったのかもしれない。

 今回も快く話してくれた。


 広岡の話は住吉の予想していたものとは全く違っていた。

 なんと今日、小佐田は真理子に告白したらしい。

 しかも勤務中に。すぐ傍に広岡がいるにも関わらず。

 そしてフラれた。悲惨である。



 小佐田は今日、三度目の夜勤勤務だった。指導係のスタッフが一緒に付く最後の日だ。

 そしてこの日は真理子が指導係に付いていた。

 二人は一緒に業務に当たるが、次回の一人での勤務に備え基本的な業務は小佐田が一人で対応し、真理子はあくまでサポートに徹する。


 二人の担当フロアは二階だった。

 そこでまず小佐田は飯沼さんの洗礼にあった。

 何度もナースコールが鳴り、その度に居室へ向かい腰の位置を直したり足に薬を塗ったりと対応する。

 飯沼さんの介助には終わりがまるで見えない絶望感がある。

 本人が納得するまでとことん付き合わなければいけないが、どうすれば本人が納得するのかは本人もわからない。

 飯沼さんとの付き合いの長いスタッフは経験則で対応しているが、飯沼さんの対応に慣れていない小佐田はなかなか飯沼さんが納得する対応が出来ない。

 そして飯沼さんはその度に何度もナースコールを鳴らす……。

 そうやって飯沼さんの対応に苦戦している中でも、他の入居者の対応もしなければならない。

 大変なのは飯沼さんだけではない。二階にも一階に劣らず対応が大変な入居者達がいる。


 二〇三号室の高杉トミさんは認知症で、眠れない日には不安を紛らわせるために何度もナースコールを鳴らしてスタッフを呼び出す。

 二〇九号室の酒井幸子さんは夜型で夜間帯でも室内を自由に歩きまわって生活しているが、頻繁に転倒してしまうため何度も巡視をして様子を確認する必要がある

 他にも排泄介助が必要な入居者は一階よりも多く、その中には手足が拘縮していて介助が難しい入居者もいる。

 こうした数々の問題に加え、休憩後から朝方にかけて再び鳴り始めた飯沼さんのナースコールを前に、小佐田は呆然と立ち尽くした。


 そうして心が折れ、耳を塞いでいた小佐田を助けてくれたのが真理子だった。

 真理子は小佐田が苦戦していた飯沼さんや高杉さんのナースコールの対応を代わり、小佐田には通常のモーニングケアに入るように手順までテキパキと指示をした。

 真理子はこれまでも小佐田が飯沼さんの対応に苦戦している間は高杉さんや酒井さんの対応をしつつ排泄介助を行い、反対に小佐田が高杉さんのナースコールに捕まっている間は飯沼さんや他の入居者の対応をするなど的確にサポートをしていたのだ。


 小佐田はこうした真理子のサポートのおかげでなんとか夜勤業務を乗り越えられた。そして真理子に対し、これまで以上に深く感銘を受けた。

 以前の住吉と小林の状況に似ている。

 住吉も夜勤業務に苦戦する中、助けてくれた小林に深い感銘を受けた。

 しかし、この後が住吉とは違った。


 住吉にとって小林に対する気持ちは大きな敬意に変わった。

 だが小佐田にとっての真理子への気持ちは深い愛情へと変わったのだ。

 これまで以上に真理子に対しての愛を募らせた小佐田は業務が一段落した際、ついに居ても立っても居られず真理子に告白した。

 勤務中にも関わらず。すぐ傍に広岡がいるにも関わらずだ。

 そしてフラれた。悲惨である。


 広岡曰く、フラれた瞬間の小佐田の唖然とした表情はとても真に迫っていて、それは見ていられない程だったらしい。

 そのタイミングで告白したことに関しては、恋は盲目と言うし、尚且つ慣れない夜勤明けで睡魔に襲われていた状況もあり、正常な判断が出来なかったのだろう。

 とはいえ普段から小佐田と真理子は恋人のように距離が近く、はたから見ていても二人が交際するのは時間の問題かと思われた。本人もまさか断られるとは思わなかったはずだ。


「ごめんね。あたし好きな人がいるんだ」


 小佐田の告白を断る際、真理子はそう言ったらしい。

 小佐田としてはショックだっただろう。小佐田があれだけわかりやすく号泣していたのも納得出来た。

 しかし、その次に飛び出た広岡の発言に住吉は耳を疑った。


「私、真理子さんの好きな人って絶対谷川さんだと思うの」


 住吉は思わず広岡の目を真っ直ぐに見た。

 その組み合わせは考えたこともなかった。第一、真理子と谷川だと二十歳以上も年が離れている。

 しかし、広岡の目はいたって真面目のようだった。


「どうしてそう思うんですか?」


「だって最近の二人見てると怪しいもん。小佐田くんがいない日はいつも二人で楽しそうにコソコソ話してるし」


 それは気が付かなかった。

 やはりベテラン介護士の観察眼は鋭い。


「でも谷川さんて確か結婚されてましたよね」


「うん。若い看護師の奥さんがいるのよ。私も前に会ったことあるけど、ほんとに素敵な奥さんなのに」


 広岡はその素敵な奥さんに同情したのか、顔をしかめた。


 広岡の言うことが本当なら驚きだが、あの谷川と真理子に限って不倫をするなんてことがあるのだろうか。

 広岡があれだけソワソワしていた理由はわかった。

 ただ今のところは広岡がそう思い込んでいるだけだ。

 こればかりは本人達に聞かないとわからないだろうが、それこそ余計なお世話だとも思う。


「真実がわかるまではここだけの話にしましょう」


 住吉は広岡に口止めすると、モヤモヤした感情を抱えながら業務に戻った。

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