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ツイノスミカ  作者: 日丘
15/19

第5話⑴ 心

 この日の深緑の郷には終始重たい空気が漂っていた。

 門脇と真理子が衝突したという噂はあっという間に施設中に広まり、多くのスタッフや入居者の知るところとなった。

 あの出来事自体、レクリエーションが終わってまもなく起きた事で食堂には目撃者が何人もいたし、加えて他に目新しい話題もない狭い施設の中では噂話が広まるのも早かった。


 あの後も門脇の機嫌は一日中治まることがなく、騒ぎを聞きつけた山上らがフォローしようとするも、誰にも話しかけられたくないという態度を示してはっきりと拒絶していた。

 一方の真理子も門脇の反応に相当のショックを受けたようで、こちらも近づくものを拒むようなピリピリと張り詰めた空気を纏っていた。

 事情を何も知らない小佐田が普段通りヘラヘラと真理子に話しかけにいったが冷たくあしらわれ、今は近くにいた谷川に慰められている。

 山上や多くのスタッフが二人の仲を心配してオロオロとしている時も、谷川はやはり落ち着いて自分の仕事に徹していた。

 住吉も今回はさすがにフォローすべきかと思ったが、小佐田が無慈悲に跳ね返されているところを見て諦めた。


 しかし、翌日の業務ではすでに門脇も真理子も険悪なオーラは影を潜め、山上や広岡が心配して声をかけている時にも普段と変わりのない調子で応じていた。

 ただやはり門脇と真理子の二人の間にある溝は深いようで、お互いに避け合うようになり、この日から二人が目を合わせて言葉を交わすところを見かけることはなくなった。


 小佐田は前回の失敗を挽回するように一生懸命真理子にすり寄り、こちらも真理子に同調して門脇を避けていた。

 ただ、小佐田が門脇を避けるのは勝手だが、狭い男子更衣室の中で門脇に対してあからさまな態度を取り、居心地の悪い空気を充満させるのは住吉としてもやめてほしかった。

 それでも施設内での表立った言い争いはなくなり、表面的には今までとそれほど変わりのない毎日が続いているように見える。しかし、その内側にはくっきりとした亀裂が刻み込まれているのがはっきりとわかった。



「門脇くん、辞めちゃうかもね」


 隣からボソッと呟く声が聞こえ、住吉は振り向いた。

 そこでは老眼鏡をかけた谷川がカッターで折り紙を切ってクリスマスツリーの形を作っていた。

 谷川も小林同様細かい作業が苦手なのか苦戦している。

 住吉はその様子を眺めながら谷川の次の言葉を待っていたが、谷川はぶつぶつ言いながら作業に集中していて先程の呟きが独り言なのか住吉に対してのものなのか判断がつかない。

 仕方なく住吉も自分の作業に戻った。


 住吉と谷川は現在、レクリエーションと見守り業務を行っている。

 今日のレクリエーションは後日行われるクリスマス会の飾り付けだ。

 十二月に入ってからは普段のレクリエーションでも週に一、二回入居者と一緒にクリスマス会の準備を行う予定になっている。

 この時間は入居者に中心になって作業をしてもらい、それをスタッフがサポートする形で進めていく。


 谷川の隣で作業している寺島光子さんは老眼鏡もかけず器用に折り紙を切っている。

 隣の谷川にあれこれアドバイスする光景はどちらが介護士だかわからない。


「辞めないよう説得した方がいいですか?」


 寺島のアドバイスが一段落したところで住吉は谷川に聞いてみた。

 すると谷川は顔を上げ、キョトンとした顔で住吉を見た。

 先程の発言は独り言だったのかもしれない。それでも谷川は手元に視線を戻すと、作業を再開しながら答えた。


「まさか。門脇くんが辞めたいんなら一度辞めた方がいいんだよ。戻りたくなったら、またいつでも戻ってこれるんだし。別にここじゃなくても介護の仕事なんて他にいくらでもあるんだから」


 谷川のスタンスはあくまでドライなものだった。

 しかし、今回ばかりは谷川の答えが住吉には冷たく聞こえた。

 何が谷川をこんなにも達観させているのだろう。

 そういえば住吉は谷川のことをあまり知らないことに気づいた。

 知ってることといえば、元大工で耳の遠い嘱託社員のお爺さんということくらいだ。


 そもそも谷川は何故嘱託社員になってまで介護士として働いているのだろう。

 考えてみると、住吉にとって谷川は理解出来ない存在だった。

 目の前の谷川は老眼鏡の位置を何度も動かしながら真剣な顔つきで少しずつ作業を進めている。

 その隣では寺島さんが呆れた顔で谷川の手元を覗いていた。



 その日の夕方、榎本さんのもとに三人のお爺さんが面会に訪れた。

 榎本さんの旧い友人達だという。

 榎本さんと同年代ということだから全員七十代のはずだが、以前は一緒にスポーツを楽しんでいた仲だったというだけあって、全員が実年齢よりも健康的な見た目をしていた。

 四人は一階のラウンジに集まり談笑している。

 普段生活している榎本さんを見ているとうるさいくらい精力的なお爺さんに見えるのに、同年代のお爺さん達と並んで見ると途端に弱々しく見えるから不思議だ。

 榎本さん自身もそれを感じているのか、楽しそうに話す笑顔の中にもうっすらと影が差してるように見え、どこか寂しそうだった。


 住吉がラウンジで他の入居者達にお茶を配っていると、榎本さん達の会話が聞こえてきた。


「階段で転んだって聞いた時は、まさかこんな大事になるなんて思わなかったもんな」


「そうそう。骨が折れてないって聞いて、僕らも一度安心しちゃったんだから」


「医者は少しでも受け身が取れてたら違う結果になったって言ってたし、ほんと運が悪かったよ」


「でも生きてるだけ良かったよ。家もやっとこさ落ち着いたみたいだし」


「生きてるっつったって、こんなの動けないロボコップだろ」


 住吉が榎本さんの方を見ると、榎本さんは友人達に向かって自嘲気味に笑っていた。

 それは普段の榎本さんが見せることのないなんとも言えない儚げな表情だった。


 友人達はそんな榎本さんに向かって「何言ってんだよ。お前はそんなカッコいいもんじゃないだろ」、「あんな時代になって動くようになったら、またみんなで草野球とかやろう」と笑って声をかけていた。

 動けないロボコップ。

 友人達の前で見せたその影のある言葉に榎本さんの内に抱える思いが見えた気がした。


『ロボコップ』は三十年以上前に公開されたハリウッドのSF映画だ。

 事件に巻き込まれ身体のほとんどを焼失した主人公の刑事が、サイボーグ化した身体で生を繋ぎ止め、その力で事件を解決していく。

 リメイク版も公開されており、そちらの方は住吉も見たことがある。

 たしかサイボーグ化しロボコップとなった主人公は「こんな形で生きるくらいなら殺してくれ」と言っていた。

 その主人公とはまた境遇が違うが、自身を動けないロボコップと言った榎本さんはいったいどういう気持ちを抱えているのだろう。


 意識がはっきりしているのに身体はまったく動かせない。

 それがものすごいストレスを伴うものなのは想像にかたくない。もし自分がそうなったらと思うと、とても耐えられそうにない。

 そう思うと榎本さんが普段からところ構わず怒鳴り散らしているのは、榎本さんのストレス発散として自然なものなのかもしれない。

 その有り余ったストレスをぶつけられるものや手段が他にないのだ。

 もちろん小佐田の時のようにスタッフを泣かすまで怒鳴りつけるのは、そうだとしてもやり過ぎだと思うが。


 しかし、介護スタッフの役割はひたすら罵声を浴びて入居者のストレス発散に付き合うことではなく、入居者のストレス発散方法を入居者と一緒に考えることなのではないか。

 これまで様々な事故や看取り介護を経験し、それに対処する同僚達を見てきた今、住吉はそう思った。


 思えばこれまで榎本さんに散々怒鳴り散らされながら、榎本さんが怒鳴りつけることの本質的な背景についてはしっかり考えたことがなかった。

 単にそういう性格の短気なお爺さんなんだと自分を納得させてやり過ごしていた。

 しかし、その人の内側に抱える思いを慮っていくと、その人に対する感じ方が変わってくる。

 面会時間が終わり、名残り惜しい表情で見送る榎本さんを見ていると、なんだか申し訳ない気持ちが湧いてきた。



 その後スタッフルームで谷川と一緒になった時、榎本さんの面会での様子を話してみた。

 すると谷川は「榎本さん、その頃のSFのハリウッド映画が好きなんだよ」と言って笑った。

 そして住吉にアドバイスした。


「ロボコップの話は榎本さんの鉄板ネタなんだよ。俺も前に聞いたことあるけど、そうやって冗談が言えるまでに昇華したんだからすごいよね。ストレス発散の方法を探すのは小佐田くん達のためにも賛成だけど、気にしすぎることはないと思うよ。榎本さん自身は言いたいこととか、やりたいこととかあったら遠慮なく言ってくるし。それに実際榎本さんと話してみると結構ここでの生活を楽しんでるみたいだしさ」


「楽しい……。一日中寝たきりの生活でもですか?」


「それは言ってもしょうがないじゃない。どこにいたってそういう生活をせざるを得ないし、四肢麻痺になってもう十年経つんだ。本人は受け入れて前を向いてるよ」


 普段から榎本さんと談笑して交流している谷川が言うならそうなんだろうと思える。

 住吉は谷川に比べ、榎本さんのことを何も知らなかった。

 まずは榎本さんを始め入居者達のことを知ることから始めよう。

 谷川もこれには賛成した。

 そして、そんな住吉にもう一つアドバイスをしてくれた。

「今度一階の夜勤やったら、巡視の時にそっと和田さんの部屋に入って、寝てるところを覗いてみな。絶対に音をたてたら駄目だよ」



 偶然にも住吉はその翌日の勤務が一階の夜勤だった。

 一階の夜勤には前回のトラウマがあったが、この日はトラブルもなく静かに過ぎていった。


 そして、時計の針がもうすぐ午前一時を指し示そうかという時。

 住吉がスタッフルームでパソコンに記録を打ち込んでいると、暗い廊下の向こうから奇妙な音が聞こえてきた。

 耳を澄ませて聞いてみると、それは女性の声のように聞こえる。


(噂になっていた女性の声とはこれのことか)


 住吉はパソコンを閉じると、声のする方へと足を向けた。



 住吉は和田さんの部屋の辺りで足を止めた。声は依然小さくてはっきりとはわからないが、この辺りから聞こえてくる気がする。

 それに住吉は一昨日の谷川の言葉を思い出していた。

『そっと和田さんの部屋に入って、寝てるところを覗いてみな』

 ここまでの巡視では和田さんの部屋に入ってみても、ぐっすり眠っていて特に変わった様子はなかった。

 住吉は一〇一号室の前に立つと心の中でノックをし、音を立てないようにそっと戸を開けると、中に入って再びそっと戸を閉めた。


 すると先程よりもはっきりと声が聞こえた。

 先程から聞こえていた声だ。

 噂の女性の声は和田さんの声だったのだ。

 もっとしっかり聞き取るために、住吉は常夜灯の薄明かりを頼りに忍び足で和田さんの枕元へと向かった。

 耳を傾けると和田さんのか細い声が聞こえる。


「助けてよぉ。誰か迎えに来てよぉ」


 住吉はドキリとした。

 目の前の和田さんはこうした助けを求める言葉を絶え間なく繰り返している。

 そっと顔を覗くと、薄明かりに照らされた目元には涙がこぼれ落ちた跡が光っていた。

 日中は絶えずスタッフを呼び止め「どうしたらいい」かを尋ねている和田さん。

 和田さんも毎日本当に不安で仕方がなかったのだ。

 考えてみれば簡単にわかるはずのことだが、普段の仕事の際にはそれすらも頭の片隅に追いやられている。


 入居者もスタッフも皆同じように悩みを抱えている。

 住吉自身もそうだ。

 ただその悩みは普段の日常では様々なフィルターがかかっていて、他人にはなかなか気づけない。

 でもそれは、ふとした時に表面化する。

 その表面化したものに対して、どう向き合うのが正しいのかは今の住吉にはまだわからない。

 小佐田のようにひた向きに寄り添っていくべきか、谷川のように達観して観察するべきか。

 もしくは、そもそも決まった正解などはないのかもしれない。


 その中で今回は谷川のやり方が功を奏した。

 ただ何故谷川が和田さんのことに気づいたのか、住吉は疑問に思った。

 日中に見守りをしている時の和田さんは、先程のように咽び泣く様子を見せたことはないはずだ。

 耳が悪く夜勤勤務も行っていない谷川が何故和田さんがベッドで咽び泣いていることに気づいたのか。



 夜勤明け、日勤で出勤していた谷川の姿を見つけた住吉は、和田さんに対するアドバイスへのお礼に併せてこのことについても聞いてみた。

 すると谷川は、和田さんが日中昼寝をしている際にもたまに咽び泣いていることがあることを明かした。

 何も知らなかった住吉はこれを聞いて驚いた。

 谷川は「たまたま気づいたんだよ」と言っていたが、果たして本当にそうだろうか。


 もしかしたら、夜間に一階で女性の声が聞こえるという噂話を聞いて、日中の様子から和田さんが不安を訴えている声なのではないかとアタリをつけていたのかもしれない。

 考え過ぎかもしれないが、そうだとするとやっぱり谷川は人のことをしっかり見ている。

 余計なお節介はしないが、その裏でしっかりとその人のことを理解しようと努めている。これこそが谷川が榎本さんや、その他多くの入居者やスタッフから好かれている理由なのかもしれない。


 余計なお節介だと思いつつも、住吉はこれについても谷川に直接ぶつけてみた。

 すると谷川は「年をとると細かいことが気になってくるんだよ」と頭を掻きながら困ったように笑っていた。

 そして近くを通る和田さんを見ながら「それに……」と言って呟いた。


「ここにいるみんなは俺のそう遠くない将来の姿だからさ」


 どのような意図を持って谷川がそう言ったのか住吉にはわからなかったが、そう言った谷川の顔には珍しくどこか影が差しているように見えた。

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