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ツイノスミカ  作者: 日丘
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第4話⑶ 死後の世界

 見守り業務のスタッフを除いて、その日出勤していた深緑の郷の全スタッフがハナさんの居室に集まり、安らかに眠るハナさんを囲って黙祷を捧げた。

 住吉もその輪の中に加わり手を合わせた。

 黙祷が始まって少し経った時、住吉は違和感を感じて薄目を開けた。そして静かに周囲を見渡す。

 住吉の隣では小林が漏れ出る声を必死に押し殺しながら泣いていた。

 向かいでは真理子や山上がはばかることなく涙を溢している。鶴見でさえもその頬には目尻から涙が垂れた跡が残っていた。

 その場にいる皆が祈り、悲しみに泣いている。


 しかし、住吉は泣けなかった。

 何故だか理由はわからない。

 ハナさんのことはもちろん好きだった。認知症でコミュニケーションをとることが難しいところもあったが、笑顔の眩しい素敵なお婆さんだった。ハナさんが亡くなってしまい、心の底から悲しいと思っている。そのはずなのに涙が出ない。


(目の前にいる彼らと自分の差はなんだろう?)


 性格の問題だろうか。それとも彼らに比べ付き合いが短いことが理由だろうか。しかし、たしかに住吉はわずか半年ほどの付き合いだが、他の皆もせいぜい数年ほどでそう変わらないように思う。


 黙祷が終わった。

 皆が次々に涙で目を濡らした顔を上げる中、住吉は泣いていなかったことを誰にも悟られぬよう俯いた。

 山上の号令で最後に皆でハナさんに思い思いの別れの挨拶をした。


「ありがとう」


「さようなら」


「天国に行ってもお元気で」


 その時、どこからかボソッと田島の呟く声がやけにはっきりと聞こえた。


「もっと何かしてあげられたら良かった……」


 言葉が出ず俯いていた住吉は思わず顔を上げた。

 田島は住吉の斜め向かいで俯き、涙をぬぐっている。

 それは自然と溢れてしまったような小さな呟きだったが、その場にいる全員の心にはっきりと刺さったようだった。住吉は心が抉られるのを感じた。

 そして住吉は自分の涙が出てこない理由がわかった気がした。


 別れの挨拶を終え、住吉等はハナさんの部屋を退室した。

 廊下に出ると今まで張り詰めていたものが一気にほどけたような感覚があった。そしてこの瞬間、ハナさんの死が自分の日常と繋がったのを感じた。

 すると住吉の目からも自然と涙が溢れ落ちてきた。

 住吉にとって物心ついてから人の死に触れたのは今回が初めてだった。

 心の中がモヤモヤして落ち着かない。

 住吉は周りの人に悟られないように涙を拭うと、まっすぐにスタッフルームへと向かった。



 パソコンを起動させると、住吉はハナさんのアセスメントシートの画面を開いた。

 アセスメントシートには家族構成から既往歴、職歴、性格に趣味や特技まで、その入居者の個人情報がびっしり記載されている。

 住吉はこれまでハナさんのアセスメントシートを見たことがなかった。

 そこに書かれているハナさんの情報は、今の面影を残しながらも全く違う人のもののようだった。

 思い返せば、住吉はハナさんの好きな花も、好きな音楽も、若い頃の仕事も何も知らなかった。

 しかし、アセスメントシートを見るとそれらはしっかり記載されている。

 門脇のように居室担当者として家族と連携を取れなくても、住吉にも出来ることはあったはずだ。

 住吉はハナさんを前に黙祷を捧げた際、田島の「もっと何かしてあげられたら」という言葉に上手く共感出来ない自分を感じていた。

 ハナさんが亡くなったことに対する悲しみは強い。しかし、住吉は介護士として特別なことを何もしてあげられていない。

 田島や小林達のような介護士としての後悔や惜別の涙が出てこないのは当然だった。

 住吉はハンカチで顔を拭うと、スタッフルームを出て業務に戻った。

 やはりもう涙は出てこなかった。



 住吉にとって、ハナさんの死は介護士としての働き方や入居者に対するこれまでの自分の向き合い方について深く考え直す契機になった。

 そしてこの出来事は住吉だけでなく、他の多くの介護スタッフの心にも影響を与えていた。



 翌日。

 住吉が休憩室で一人少し遅い昼食をとっていると、フロアの方からいきなり「誰もなりたくてなったわけじゃねえよ!」と怒気をはらんだ叫び声が聞こえてきた。

 始めは榎本さんかと思ったが、考えてみると声が違った。あれは門脇の声だった。

 門脇は今、真理子や広岡と一緒にパントリーで見守り業務を行っているはずだ。

 まさか入居者に向かって叫んだわけじゃないだろうが、いったい何が起こっているのだろう。

 住吉は休憩を少し早めに切り上げると、真っ直ぐ食堂へ向かった。


 住吉が食堂に行くと、そこはピンと空気が張り詰めていて驚くほどしんと静まりかえっていた。

 そんな中、スタッフも入居者もそこにいる皆がパントリーの方をチラチラと気にしている。彼等の視線の先に目を向けると、そこには足を踏み入れるのも躊躇われるような重苦しい空気が沈澱していた。

 パントリーの右端では先程大声で叫んでいた門脇が今はムスッと黙り込んだまま荒々しく作業をしていた。

 その門脇に叫ばれた相手だろう人物もすぐに判明した。

 パントリー内の門脇と反対の左端では真理子が目に少し涙を溜めながら、こちらも黙々と作業をしていた。

 そしてその重たい空気を作る二人の間の中心でサービスリーダーの広岡がオロオロとあからさまに狼狽えている。こちらは作業どころではないようだった。


 住吉もこの空間には近づきたくないが、この後はパントリー内で夕食の準備をしなければいけない。

 それに広岡をこのまま放っておくわけにもいかない。住吉は重い足取りでパントリーへ向かった。


 門脇は住吉がパントリーに来るのを確認すると、最後に真理子に向かって「世の中お前みたいなやつばかりじゃねえんだよ。何でもかんでもてめえの価値観押し付けてくんな」と捨て台詞を残し、住吉と入れ違いにパントリーを出るとそのまま食堂の外へと姿を消した。

 真理子は門脇の言葉に一瞬ビクッと身体を震わせ手を止めるも、すぐにまた俯いたまま作業を再開した。

 そんな真理子に対し声をかけたものか、そっとしておくべきか判断がつかない。

 住吉は結局声をかけずにそのままパントリー内の業務に取り掛かった。


 パントリーの中はしばらく誰も喋らない気まずい時間が続いた。その間、広岡が頻繁に住吉の制服の裾をさりげなく引っ張って合図をしてきたが、住吉は気づかないフリを通した。

 そうこうしている間に真理子はパントリー内での業務を終えたようで、食堂の外へと出て行った。


 重い空気を生み出していた二人が去りパントリー内に住吉と広岡の二人だけになると、広岡は近くにある椅子に崩れるように座り込んだ。


「大丈夫ですか?」


「うん。なんとか……」


 広岡は相当気を張っていたようで、しばらく胸に手を押し当てている。

 広岡の前であの二人はよほど激しく言い争っていたのかもしれない。


「何があったんですか?」


 広岡の様子が落ち着いてきたところを見計らって住吉が尋ねると、広岡はその言葉を待っていたとばかりにバッと顔をあげて住吉を見た。自分が見てしまった問題を一人で抱えていたのが相当辛かったのかもしれない。広岡は先程会った出来事をツラツラと話し始めた。



 門脇と真理子が揉めた直接のきっかけはパントリーでの先程の門脇の仕事ぶりにあったらしい。

 いつも通り適当に最低限の仕事だけをしていた門脇に対し真理子がちゃんと仕事をするように追及した。

 門脇も最低限の仕事はしていたわけなので、これまでの真理子であったら見過ごしていただろう。

 それをこの日に限って追及せずにいられなかったのは、やはりハナさんの逝去のことが影響しているのだろう。

 昨日の黙祷の際、田島の言った『もっと何かしてあげれる事があったんじゃないかな……』という言葉。それは真理子にも刺さっていたはずだ。

 そしてそんな真理子の注意に対し「やることはやってるだろ」といつも通りのらりくらりと返答する門脇に対し、真理子の堪忍袋の尾が切れた。

「あんたの言うやることって何よ。ハナさんの時だってそうよ。ハナさんのためにもっと動いてあげるべきだったのに」と門脇に糾弾したという。


 しかし、住吉はこの真理子の言葉に対しては少し違和感を感じ広岡に尋ねた。


「でもハナさんの看取りに関しては門脇さんも頑張ってたじゃないですか。あんなに居室環境も整えてたし。真理子さんにとってはあれでも足りなかったんですか?」


 しかし、広岡は首を振った。


「あれやってくれたのって実はほとんどが真理子さんとか小林さんとか瑞紀ちゃんなの」


「えっ。そうだったんですか」


「アルバムとかハナさんが好きな花とかね。みんな自分がやったってことを自分から言わないから勘違いするのも無理ないけど」


 住吉はハナさんの部屋にあるものは全て門脇が家族に連絡をとり用意したのだと思っていた。


「でも門脇さんてハナさんのご家族が来た時、積極的によく話してましたよね」


「来た時はね。でも話してるだけだったみたい。ご家族からしたらそれだけでも安心出来るかもしれないけど、直接ハナさんのケアに繋がるようなことは話してくれてなくて。だからそれについても真理子さんは不満があるみたい。たいして仕事してないくせに人前でしてるフリだけはするって」


 住吉も門脇のしてるフリにまんまと騙されたわけだ。

 しかし、ハナさんの逝去に際してハナさんの家族が深緑の郷に訪れた時、その家族達が門脇に対し何度も頭を下げてお礼を言っているところを住吉は見た。

 してるフリだけであそこまで感謝されるものだろうか。

 それに他にも疑問が残る。


「なんで門脇さんはそんなに家族と話す機会があったのに、ハナさんの好きなものとかについては話し合わなかったんでしょう?」


「一応話はしてたみたいだよ。私にもハナさんが好きだったものとか、元気だったころの趣味だとか報告に来てくれたから。でも家族にしても最近のハナさんが何が好きかとか、寝たきりになったハナさんに何が必要なのかとかはわからないじゃない。だから私達はハナさんが好きだったものとか思い出の品とかを教えてもらった上で、あの時のハナさんが喜んでくれるものをこちらから頼んで用意してもらわないといけないと思うの。でも門脇くんの場合は聞くだけで終わりだったから」


 広岡の言った事には住吉も納得が出来た。


 ただ不思議に思うこともあった。


「でもそれなら真理子さん達はどうやってあの時のハナさんに必要なものを選んで用意したんですか?」


「そこで普段からその人の事をよく見ておくことが大事になってくるの。例えばお花が好きってことは家族にしても言われてみればって感じで最初はピンときてなかったんだけど、真理子ちゃんにそれがわかったのは一緒に生活してて、今のハナさんの様子をしっかり見て心に留めていたからだと思う」


 思い返してみると、住吉もハナさんが花を好きだという事実に対し、『言われてみれば』と思った。

 言われてみればよく花を見ていた気がする。

 しかし、ハナさんの好きなものと考えてみて、最初から花を思い出すことはなかった。

 アセスメントシートにも"好きなもの"の欄に"花"と書かれてあった気がするが、何十年も続けていたというバレーボールなど他の目立つものに隠れて埋もれてしまっていた。

 家族もおそらくそういった感じだったのではないか。

 ただ深緑の郷でのハナさんはバレーボールが好きな素振りは全く見せていない。

 テレビで試合中継が流れていても特に関心を示す様子はないし、風船バレーのようなレクリエーションにも積極的に参加することはなかった。


 こういった選別は日頃からハナさんと接し、介護士としてもしっかりと観察してきた真理子だから出来たのだ。

 真理子は家族でさえはっきり把握出来ていないことをしっかりと把握していた。

 住吉はこれが本来の介護士の在り方なのかと思った。

 そして真理子のように入居者に真摯に向き合っている者からしたら、手を抜きながら働いている門脇のことが許せなかったという事も今は理解出来た。


 そしてこれまではそれでも職場の事を考え見過ごしていたのが、山際さんや竹本さんの事故や今回のハナさんの逝去を機に吐き出されたのだろう。

 真理子は「あんたも介護士ならここにいるみんなのためにもいい加減真面目に働きなさいよ」と門脇に訴えたようだ。

 しかし、真理子のこの発言が門脇の琴線に触れてしまった。


 これを言った真理子に対し、門脇は「なんでそこまで指図されなきゃいけねえんだよ。誰もなりたくてなったわけじゃねえよ!」と叫んだらしい。

 それは門脇が介護士になりたくてなったわけじゃないという意味だった。

 思わず口から出たその叫びは、おそらく門脇の心の叫びだっただろう。

 もしかしたら門脇がプロレスラーを辞めた事とも関係があるのかもしれない。

 そうだとしたら今も維持している門脇のマッチョな筋肉は前職への未練なのではないかとも思える。

 いつもヘラヘラしながら適当に手を抜いて仕事し、ちゃらんぽらんに生きているように振る舞っていた門脇だったが、その内では実は強い葛藤を抱えていたのだ。

 住吉はちゃらんぽらんに振る舞っていた門脇の本音の部分を今日初めて垣間見た気がした。

 そして住吉はこの門脇の心の叫びに強く共感した。


 もちろん真理子の言い分は正しい。

 ただ住吉もおそらく門脇も真理子の要求に応えるだけの覚悟をまだ持てていない。

 住吉も真理子の発言に対しては、実際に口に出すかはともかく、おそらく門脇と似たような気持ちを抱いただろう。


 住吉はいまだに諦めきれていない。

 漫画家という夢に相変わらず未練がある。それは今でも絵を描こうとするたびに思い出してしまうほど強烈なものだ。

 住吉は門脇と自分を重ねていた。

 まるで自分が真理子から糾弾されたような気持ちになっていた。

 介護職への門戸は大海のようにだだっ広い。

 住吉は夢破れ、覚悟も持たずに逃げるようにそこに足を踏み入れてしまった。


 しかし、今回のハナさんの逝去があり、今はこんな中途半端な気持ちで取り組んでいい仕事ではないのではないかと考え始めていた。

 死と向き合っている入居者やその家族、そして真理子のような真摯にその入居者達と向き合っている同僚に対して、この状態で向き合うのは失礼な事なのではないかと思った。

 隣で広岡が心配そうに顔を覗いてくる中、住吉はぐるぐると巡る疑問の渦から抜け出せなくなっていた。

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