第3話⑷ 重大事故・後半
午後六時頃、病院に付き添っていた山上が深緑の郷に帰ってきた。
山上によると、竹本さんは頭と手にそれぞれ軽い切り傷があるものの、足に関しては初見では奇跡的に新しく骨折している様子はないという。その点については一安心だった。
しかし、竹本さんの息子家族が病院に到着した時の怒りようは凄まじかったらしい。
謝罪をした山上に対し、掴みかからんばかりの勢いで泣きながら糾弾したという。
施設側のミスで今後寝たきりになる可能性もある大事故を起こしたのだから家族の怒りは当然だ。
その後は山上が土下座して誠心誠意謝罪を続け、なんとかその場を収めたということだった。
山上の黒いスーツの両膝の部分にはしっかりとその時の汚れが残っていた。
それでも山上によると竹本さんが今度もこの深緑の郷に残ってくれる確証はないという。
介護の仕事は、一つのミスがこれほどの大問題に発展することがある仕事だということを住吉は改めて思い知らされた。
事務所の隣にある一階の会議室には山上、鶴見、呉田、そしてサービスリーダーの広岡を含めた事務所組に加え、住吉、真理子、小佐田、ジョアン、アマンダ、カテリーナと、その日出勤していた早番、日勤、遅番の全スタッフが集まった。
通常業務は夜勤勤務の門脇と田島の二人に任せている。
普段は軽口が飛び交うミーティングも、この日ばかりは皆沈痛な面持ちで、室内には厳粛な空気が漂っている。
午後六時半、深緑の郷『臨時ミーティング』が始まった。
まずは山上から改めて竹本さんの現状についての話があった。
結果として今日のところは検査入院することになったという。
頭部の傷は縫う必要があるということだったが、兎にも角にも重傷にならなかったことが唯一の救いだった、という山上の重い言葉で結ばれた。
そしていよいよ議題は本題に移る。
レクリエーションの後、誰が竹本さんを誘導し決められていた対策を怠ったのかということである。
「今回はこうやって大事になっちゃったけどミスは誰にでもあることだし、自分から名乗り出てもらえないかな?」
山上の問いかけに対し室内では沈黙が続き、誰も名乗り出るものはいなかった。
緊張感が漂い、空気が重い。
晩秋の夕刻のうすら寒い空気が身体を一層強張らせる。
おそらくすでに犯人はほぼ確定している。
レクリエーション後に入居者の誘導をするのは業務上二人に決まっている。
こうなると後は二人に一人だった。
それなのに一向に進展しない状況に鶴見はあからさまに苛々した表情になり、住吉の隣に座るフィリピン勢の一団はソワソワしだした。
それでも山上はあくまで自分から名乗り出させたいらしい。
山上の提案で一人ずつその日の自身の業務を振り返ることになった。
そうして、レクリエーション後に誘導を行ったスタッフが住吉とジョアンに絞られた。
その中で住吉は主に一階の入居者の誘導を行っていたと主張し、幸いにも目撃証言もあったことから竹本さんを居室に誘導した犯人はジョアン・サントスに特定された。
「ジョアンさんがやったの?」
その場にいる全員の視線がジョアンに集中した。
山上の問いかけに対し、ジョアンは下を向き唇をへの字に曲げると「私がやた」と白状した。
「なんで自分から言わなかったの?」鶴見が怒気を込めて問い詰めた。
「言える空気違いました」
ジョアンが正直に答えた。
「なんで竹本さんを誘導した後、対策をちゃんとやらなかったの?」
今度は山上が穏やかに尋ねる。
「やり方変わってたの知らなかたです。誰にも聞かなかったですし、誰も私に教えてくれませんでした。他の皆も知らなかた言ってますよ」
そう言ってジョアンは隣に座るアマンダとカテリーナを見た。
二人も頷いている。
「誰も教えてくれなかったってちゃんと記録に書いてあるでしょ?なんのためにあんなに丁寧に書いてあると思ってるの!」
鶴見が怒りを込めて叫ぶ。
するとこれに呼応するようにジョアンも感情を剥き出しにして叫び返した。
「そんないっぱい細かくたくさん書かれてたら、私たちわからない!だからもっとわかりやすく書いてほしいてこの前私あなたに言いました」
住吉はハッとした。そうだったのだ。ジョアンはパソコンが苦手だった。
だからパソコンに書かれた記録をちゃんと見たとしても、しっかり読み取れなかったのだ。ジョアンですらそうなのだから他のフィリピン人スタッフ達も同様だろう。
今回の事故はいずれ起きることが予想出来たものだったのだ。
しかし、それでも鶴見は負けずに怒鳴る。
「だったら他の人に聞けばいいでしょ!なんで聞かなかったのよ」
「こんなにいつもいつも細かい事たくさん変わてたら、どこが変わたかわからないですよ。それでも私何回もあなた聞きました。あなたいつもそれで大丈夫言ってましたよ!」
「なにそれ。それはこの前の対策の時でしょ!」
「いつが今回の時かなんてわからないよ!いつも私あなたの言われた通りやった。それが間違てたならあなたのせいです!」
「なんでそうなるのよ!」
「だって言ったじゃないですか!」
今では鶴見もジョアンも椅子から立ち上がり、身を乗り出して言い争っている。
しかし、当人同士の主張ではどちらが正しいのかまるでわからない。
さすがの山上も口を挟みあぐねているようだった。
「私もその時昨日いましたけど言ってた!」
「私も、です!」
そこにアマンダとカテリーナまでも加勢し、先程とは打って変わって室内は収拾のつかない喧騒に満たされていく。
「そもそも」
呉田が場を収めるように一際声を張り上げて言った。
「鶴見さんはケアマネだよ」
「だからなにですか」
「現場のことは現場のスタッフ同士でフォローすべきでしょ。なんで周りのスタッフは鶴見さんに任せて自分達でジョアンさんのフォローしないの?」
呉田の目ははっきりと真理子に向けられていた。
「ジョアンがパソコンが苦手だとかそんな個人的なことまで知らないじゃないですか」
「それがおかしいのよ」
仲間を得た鶴見が息を吹き返して言った。
「何でそんなことも知らないの?本来スタッフ同士でもっと連携とっておくべきでしょ」
「連携って」
「おかしいのはあなた!」
真理子の反論を遮ると、ジョアンは鶴見に向かって激昂した。
「私はあなたに聞いた!あなたは前もいつでも聞いて言てましたよ。今も私はあなたが大丈夫言うから他の人聞かなかった。こんな時だけそうやって言うのズルいです!ふざけないでください!」
ジョアンのあまりの剣幕に室内にいる全員が圧倒された。
怒りによるものか恥ずかしさによるものかはわからないが、鶴見の顔がみるみる赤くなっていった。
そして鶴見は下を向いて押し黙った。
もしかしたら泣いているのかもしれない。
呉田もそんな鶴見を心配そうに見るだけで、反論する様子はない。
室内にはジョアンの荒い鼻息だけが響いていた。
そんな中、口を開いたのは山上だった。
「今回の事故が起きたきっかけはだいたいわかりました。ジョアンさんも一旦落ち着いて座って」
ジョアンが素直に椅子に座るのを見届けると、山上はその場にいる全員を見渡して話した。
「今回、直接の原因は鶴見さんとジョアンさんの連携ミスだったかもしれない。もしかしたら鶴見さんが対策を正確に把握出来ていなかったところもあるかもしれない。そこは鶴見さんにしっかり反省してもらいたい」
山上は隣で俯いたままの鶴見を見た。
「ただ、だからといって鶴見さんに今回の事故の責任を押し付けるのは俺は違うと思う。それはやっぱり鶴見さんの仕事はあくまでケアマネなんだから」
山上はそこで一息つくと、その場にいる現場のスタッフ達を見渡して続けた。
「呉田さんの言う通り、本来現場のことは現場のスタッフ同士でフォローすべきだよ。鶴見さんを頼ったジョアンさんが悪いとは言わない。ただ真理子さんはさっき知らないって言ってたけど、ジョアンさんや他のフィリピン人のスタッフ達がパソコンに弱いってことは、普段の仕事の中でいくらでも知る機会があることだよね。それならジョアンさんが鶴見さんを頼るまで放っておくんじゃなくて、皆があらかじめフォローしてあげるべきだったんじゃないかな。僕は今回の事故はみんなが少しずつミスをして、それが重なった結果起きた事故だと思う。だから全員に責任があると思うんだけどどうかな?」
山上らしい当たり障りのない結論でまとめると、山上は室内をじっと見渡して反論を待った。
山上の問いかけに反論する人はその場にいなかった。
「だから今後はみんなが入居者だけじゃなくて一緒に働くスタッフ達のこともちゃんと見て、それぞれの苦手分野をお互いにフォローしあおう。それと今回の件でいえば、鶴見さんには忙しいと思うけど現場の記録も随時確認して把握しておいてもらいたい。そしてジョアンさんやアマンダさん、カテリーナさんには一緒に協力して働く現場の仲間を一番に頼ってもらいたい」
そして最後に山上が「今後は二度とここでこんな事故は起こさないようにしよう」と宣言し、深緑の郷『臨時ミーティング』は閉められた。
「ミーティング内容の記録は広岡さんがしてくれてるけど、今日この場にいないスタッフ達には一応言葉でも申し送りして伝えておいて」
山上は帰り際、住吉達の方を振り向いてそう言いおくと、依然俯いたままの鶴見やそれを慰める呉田と共に事務所に入って行った。
今回のミーティングは山上が穏便にまとめたことで結果的に丸く収まったように見えた。しかし、それは同時にそれぞれの心の中に大きなしこりを残した。
ミーティングが終わった後、住吉は他のスタッフと別れ、一人で業務に戻った。
住吉は後悔を抱えていた。
今回の事故はジョアンが竹本さんの誘導をする際に住吉が一言声をかけていれば防げたものだった。
住吉はジョアンがパソコンを苦手としていることも知っている。
おそらく真理子や小林が住吉の立場だったら声をかけていただろう。
しかし、住吉は全く気にも留めていなかった。鶴見の言った連携に関しても考えてもいなかった。
(こんな中途半端な状態でこの仕事をしていていいのか)
竹本さんや竹本さんの家族の気持ちを思うと、申し訳ない気持ちが込み上げてきた。
翌日、住吉が出勤するとジョアンと鶴見がミーティングで対立したという噂がすでに施設中に広まっていた。
ジョアン本人もこれを隠すつもりはないらしく、事あるごとに「私のせいにされた」と周りにいる人に今回の不満をぶつけていた。
そしてその度にジョアンとシフトが被っていた谷川や真理子がフォローしていた。
「俺たちがちゃんと伝えてなかったのが悪かったんだから、ケアマネの言うことなんか気にすることないよ」
「今度からわからないことがあったら、遠慮なく私達に聞いて。私達からもなるべく声かけるようにするから」
その甲斐もあってかジョアンはだんだんと調子を取り戻していった。
そして業務が終わる頃にはすっかりいつもの調子に戻っていた。
これには竹本さんの足に異常がなかったという検査結果が届いたことも大きかっただろう。
医師によるとやはり奇跡的にということだったが、おそらく車椅子に持たれかかるように倒れこんだため、車椅子がクッションになり足に対する衝撃が緩和されたのだろうということだった。
その代わり頭や手には切り傷やアザが残ってしまい、頭を数針縫うことになってしまったが、明日にも退院出来るという。
そして竹本さんの家族も竹本さんの退去はもうしばらく様子を見てから決めると言ってくれたらしい。
これは山上を始めとした事務所職員の誠意が伝わったのと竹本さん本人が深緑の郷での生活を強く希望してくれたおかげだった。
これらを聞いたジョアンは大喜びすると、完全にいつも通りのムードメーカーぶりを発揮するようになり、レクリエーションでは参加した入居者達に英語講座を開いて盛り上げていた。
これを見ていた多くのスタッフがホッとした表情を見せていたが、田島だけがどこか羨むような目をジョアンに向けていたのが住吉には気になった。
ジョアンの調子が上がるのに合わせて徐々に活気を取り戻す現場の雰囲気とは反対に、事務所にはどこか落ち込んだ空気が漂うようになっていた。
それは鶴見の塞ぎ込んだ様子が影響しているのかもしれない。
鶴見は山上や呉田とはこれまで通り会話しているようだが、現場の介護スタッフに対しては全く話しかけてくることがなくなった。
今後は必要以上に現場に干渉しないと決めたのかもしれない。
おかげで真理子と鶴見の争いも無くなった。
しかし、表面的にはこれで丸く収まったが、この場を収めるために皆が本心を抱え込んで誤魔化しているような、そんな張り詰めた空気が徐々に施設の中に流れ始めたのを住吉は感じた。
住吉が小佐田と並び休憩室で休んでいると、夜勤明けで業務を終えた門脇がやってきた。
そして住吉の目の前に乱暴にドサッと座ると真理子に対する愚痴をとうとうと並び立てた。
山際さんのアザの事故が起きた際、自分のせいにされたことをよほど根に持っているようだった。
隣に座っている小佐田は今更何を言っているのかと呆れ顔でこれを聞いていたが、門脇が今再びこの話題を掘り返したのには理由がある。
「今回の竹本さんの事故の犯人がジョアンで、その原因がちゃんと記録読めてなかったとこにあるんなら、この前山際さんのアザを作ったのだって絶対ジョアンだっただろ」
山際さんの事故があった日はジョアンも遅番勤務で出勤していた。
門脇の指摘する通り、ジョアンが山際さんの介助に入っていた可能性はある。そして記録に書いていた『山際さんの介助の際はフットサポートを外す』ということを把握していなかった可能性もある。
正確なことは本人に聞いてみないことにはわからない。ただ門脇はこの事に思い当たった時点でジョアンが犯人だったと決めつけているようだった。
「人のこと疑ってたくせに、謝りもしないってふざけんなよ」
門脇の怒りは収まる様子がない。
門脇はその後も最近の真理子について散々愚痴を並べたてると、住吉らの休憩が終わる頃になってようやく気が済んだようで帰宅した。
「はぁっ。門脇さんてほんと自分勝手ですよね。自分が疑われることしてるのが悪いのに八つ当たりばっかして」
門脇の真理子に対する愚痴を終始不満顔で聞いていた小佐田が言った。
「自分がルール無視してるのは事実じゃないですか。あんなふざけた人だとは思わなかったなあ」
最近の小佐田は完全に門脇に対し敵意を持っている。
現在の深緑の郷ではあちこちで不満が絶えない。
住吉は対立に巻き込まれないよう、小佐田の言葉に曖昧に応えると足早に業務に戻った。
住吉がスタッフルームに行くと真理子が入れ替わりで出てきた。
笑みを浮かべていて機嫌がいい。
スタッフルームの中には谷川が残っていて、今まで二人で談笑していたようだった。
そういえば谷川は誰とでも仲がいい。なんと言ってもあの榎本さんとも唯一談笑出来る人だ。
谷川は老眼鏡をかけパソコンに記録を打っている。
住吉は谷川の隣に座ると、パソコンを開きながら何気なく谷川に現在の職場の空気について相談してみた。
谷川なら年の功で上手く収めることが出来るのではないかと思った。
しかし、それに対する谷川の答えは「うーん、放っておけばいいんじゃない?」というなんとも素っ気ないものだった。
「門脇くんとか真理子ちゃんが実際どんな風に思ってるのかはわからないけど、そういう時はジョアンちゃんみたいに吐き出す方がいい結果になることもあるよ。俺はミーティングについては参加してないから話を聞いただけだけど、実際あの日からジョアンちゃんとかフィリピンの子達が話しかけてくることも多くなったし。逆に鶴見さんに嫌味言われることも減ったしさ」
そう言うと谷川は老眼鏡を外して隣の住吉を見た。
「住吉くんが心配するほど今の空気は悪くないと思うよ。むしろ俺は徐々に前よりいい方向に向かってると思う。だから俺からアドバイスするとしたら、変に仲介して有耶無耶にするんじゃなく放っときなさいって感じかな。みんなもういい大人なんだし」
谷川は再びパソコンに向き合うと「それでも俺から見たら皆子どもなんだけどね」とニヒルに笑って老眼鏡をかけ直すと記録を再開した。
住吉は谷川の横顔を見た。
そしてなぜだか、パソコンで記録するたびに老眼鏡をかけたり外したりするのは大変そうだな、とふと思った。
そういえば谷川は何でそうまでして働いているんだろう。
金遣いが荒いようには見えないし、お金に困っているようにも見えない。
住吉にとって謎の多い人だった。
「住吉くんて意外とお節介なんだね」
住吉がドキッとして我に帰ると、谷川はこちらを見て笑っていた。
心の中を見透かされたのかと住吉は身構えたが、どうやらそうではないようだった。
「住吉くんがそんなに周りのことについて考えてるとは思わなかったよ」
以前、鶴見からも似たような事を言われた気がする。
やはり普段の中途半端な仕事ぶりはすぐバレるのかもしれない。
「でも住吉くんはこの仕事向いてると思うよ」
住吉は再び谷川を見た。
谷川は慣れない手つきでタイピングしている。
住吉は自分の考えを先回りされた気がした。
そして、やはり谷川は心が読めるのかもしれないと住吉は本気で思った。
翌日、竹本さんが退院して再び深緑の郷に帰ってきた。
今回は前回のように祝福の嵐はなく落ち着いたものだった。ただその分みんな心の中で祝福や謝罪など思い思いの感情を抱いているはずだ。
竹本さんは頭に痛々しく包帯を巻いているが、本人は元気そうで転倒事故の前と変わらない穏やかな笑顔を浮かべていた。
ジョアンが謝罪をした際は、キョトンとした顔で目の前で必死に謝るジョアンを見つめていた。
まだ当分は車椅子生活が続くそうだ。今回は奇跡的に最悪の事態に至らなかったが、そんな奇跡も二度は起きないだろう。
今後はしっかり情報を共有し、これまで以上に事故に注意していかなくてはいけない。
住吉は竹本さんの困ったように笑った横顔にそう誓った。