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ツイノスミカ  作者: 日丘
10/19

第3話⑶ 重大事故・前半

「退院おめでとう!」


 住吉が食堂のパントリーで昼食の準備をしていると、フロントの方で施設長の山上の声がした。

 するとそれを合図に他にも様々な人達の祝いの言葉が続々と聞こえてくる。


 それからしばらくすると、真理子の押す車椅子に乗った竹本八重子さんがスタッフや入居者達の数々の祝いの言葉を浴びながら照れ臭そうに食堂に入ってきた。

 食堂にも祝いの言葉が飛び交う。

 住吉も隣にいる小佐田と共にパントリーから祝いの言葉を投げかけた。



 竹本さんは今年の夏頃から病院に長期入院していた入居者だ。

 今朝退院し、およそ二ヶ月ぶりに深緑の郷に帰ってきた。

 久しぶりの帰還に施設内はどこもかしこも祝福ムードである。

 ただ本人の様子は二か月前と比べると、ずいぶんと雰囲気が変わっていた。

 入院する以前は毎日体操に参加するなど健康的な生活を送っていて、八十代の女性としては比較的しっかりとした体型をしていた。

 しかし、入院生活を経た今は全体的にやつれてしまい、特に両方の足は枝のように細っている。


 竹本さんは二か月前、施設内での転倒で右大腿骨頸部を骨折した。

 この当時、竹本さんが転倒するということは誰も予想が出来ていなかった。

 それまでの日常生活において竹本さんの歩行はしっかりと安定しており、認知症のためスタッフに色々と尋ねながらではあったが、本人の強い意思もあり自由に日々の生活を営んでいた。

 しかし、転倒したその日、竹本さんは居室で倒れているところをスタッフに発見された。

 この時発見したスタッフが住吉だった。


 竹本さんは自由に生活していたため、居室の中も一般的な家の自室と同じように自分好みに私物を並べたり、床に置いたりしていた。

 普段の竹本さんの状態を考えると、それでも転倒するリスクは低かった。

 しかし、その日はたまたま不注意で、床に置いていた私物の一つにつまづいて転倒してしまった。

 一般的には、家でものにつまづき、ちょっとした怪我をすることなんて珍しい光景ではない。

 しかし、これが骨の強度が弱く、しっかり受け身の取れない高齢者になると大変なことになってしまう。


 二階のフロアでの業務中、何かが崩れ落ちたような激しい音がして住吉が駆けつけると、竹本さんの居室の中では物が散乱していて、その中に顔を歪めた竹本さんが倒れ込んでいた。

 その後すぐに救急車が呼ばれ、病院に運ばれた竹本さんは右大腿骨頸部骨折と診断され、そのまま手術し入院することになった。

 竹本さんが救急車で運ばれていった当時、そのまま寝たきりになってしまうのではないかと危惧されていたことを思うと、退院し無事に施設に戻ってくることが出来たということは嬉しいことだ。

 ただ竹本さんの大腿骨頸部骨折は今もまだ完治しているわけではない。

 しばらくはスタッフの介助のもとリハビリをしながらの車椅子生活が続くようだった。



 竹本さんを食事の席に誘導した真理子がパントリーにやってきた。


「竹本さんのADLだいぶ落ちちゃったらしいよ」


 ADLとは食事や排泄などの日常生活動作のことだ。


「足も以前と比べてだいぶ痩せ細っちゃいましたもんね。それになんか雰囲気もちょっと変わったし」


「そうそう。私も最初見た時ビックリした。前はあんな感じじゃなかったよね」


「以前はどんな感じだったんですか?」


 住吉と真理子が盛り上がっていると、小佐田が唇を尖らせて真理子に向かって尋ねた。

 小佐田は竹本さんが入院した時はまだ深緑の郷に入社する前で、ちょうど入れ違いの形になっていた。


「前は明るかったんだよ。いつもニコニコしてて可愛いお婆ちゃんだったの。今も笑ってはくれるんだけど、なんか影があるっていうか。入院生活で認知症が進んじゃったのかな」


 真理子は心配そうに竹本さんを見た。


「今のところ控えめなお婆ちゃんて感じですもんね。早く僕も竹本さんの明るい姿が見たいな」


 小佐田はそう言うと、しれっと真理子に寄り添うように近づいた。

 住吉がすぐ傍にいる中でここまで露骨なアピールを見せられると逆に清々しい。

 しかし、真理子の方はそんな小佐田のアピールは特に気にしてないようで、竹本さんについての話題を続けた。


「そういえばさっき山上くんが今の竹本さんの状態と介助方法を記録に残しておいたからしっかり見ておいてって言ってたよ」


「あとで休憩中に確認してみます。以前とはだいぶ違ってるんでしょうね」


「本人の意欲低下もあるし、今はほぼ全介助みたいだからね。リハビリも乗り気じゃなかったみたいだし」


「また前みたいに歩けるようになるといいんですけど」


 住吉はそう言って竹本さんを見た。

 竹本さんは何をするでもなく、ただぼんやりと窓の外を眺めていた。



 休憩が終わる十分前、住吉は業務に戻る前に事務所に立ち寄り竹本さんの記録を見てみた。

 病院での様子や竹本さんの現在の状態が簡単に書かれてある。


 それによると病院では寝たきり生活が続き、真理子が言っていたように竹本さんの意欲低下は顕著らしい。

 また介助に関することでは、食事など手を使う動作は自分で行うが、やはり足を使う動作をする場合はスタッフによる全介助が不可欠なようだ。ただ排泄に関しては、竹本さん本人にトイレで行いたいという強い希望があり、スタッフがトイレまで案内しサポートするようにとの但し書きがしてあった。

 スタッフが支えながらという条件付きではあるが、ゆっくりとであれば立つことは可能らしい。ただし、まだ完治はしていないのでスタッフは十分注意して介助にあたるようにとも書かれていた。

 そして最後に、現状竹本さんも山際さんと同様に自分の足で細かいステップを踏めないため、移乗の際は必ずフットサポートを外して介助するようにと強く念が押してあった。


 後日、これを見た門脇が隣で仕事をしていた小佐田に「こういうの嫌味ったらしいよな」と愚痴ると、「門脇さんが適当に働いてるからそういう風に言われるんでしょ。言う方だって好きで言ってるわけじゃないんですから、言われるのが嫌なんだったら自分が真面目に仕事してくださいよ」と正論で諭されたという。


 このやり取りがあった翌日、門脇はこの事について住吉に「あいつ最近俺に対してウザいんだよな」と不満をぶつけた。

 小佐田が門脇に対して冷たいのは真理子の影響だろう。

 山際さんの事故の検証以降、門脇と真理子の間では今も険悪ムードが続いていて、現場派は内部分裂の危機を迎えていた。

 これだけが原因ではないと思うが最近の深緑の郷には嫌なムードが漂っている。

 住吉はパソコンを閉じると重い足取りで事務所を出た。



 竹本さんの記録は竹本さんの実際の状態がはっきりわかってくる度に、随時更新していくことになっている。

 翌日から、この記録はさっそく更新されていった。


 前日の昼食後、竹本さんはスタッフに車椅子で居室まで誘導されると、スタッフ付き添いのもとで歯磨きや排泄を終え、ベッドに横になって休んでいた。

 だが一時間後、レクリエーションの誘いのため改めてスタッフが訪室したところ、竹本さんは自分で体を起こしベッドの端に腰かけていたという。

 そのすぐ近くには車椅子があったが、今の竹本さんは自分一人で車椅子に乗れる状態ではない。

 その状態で万が一竹本さんが車椅子に乗ろうとしていたら大変だった。

 スタッフが訪室するのがあと少しでも遅れていたら、再び転倒していたかもしれない。

 竹本さんの担当医師からは今度骨折してしまうと、その後再び歩けるようになる可能性は極めて低くなると言われていた。間一髪だった。

 この出来事を踏まえ、竹本さんの対応が見直されることになった。


 やはり以前よりも認知症の症状が進行しているようで、あの時ベッドに腰掛けてその後何をするつもりだったのかは竹本さん本人に聞いてもわからなかった。

 こうなると客観的に色々と推測していくしかない。

 竹本さんの活動意欲は低下しているように見えるが、もしかしたら自室に帰ってきたことで徐々にまた活動意欲が戻ってきたのかもしれない。

 そして認知症の影響で自身の足のケガが完治していないということをはっきり理解できておらず、自分ではもう足を動かせると思っているのではないか、という推測にひとまず落ち着いた。


 翌日から竹本さんには食後にベッドで横にならず、車椅子に乗った状態で過ごしてもらうことになった。

 ただし自室で一人で過ごしてもらうのは危険なため竹本さんの私物をいくつか外に持ち出し、スタッフが見守ることが出来る共有スペースで過ごしてもらうことになった。


 しかし、これは早々に失敗に終わった。

 竹本さんが自室に戻って過ごすことを強く希望し、今までよりも車椅子から立ち上がる頻度が増えたのだ。

 自室に戻りたいと思った時に車椅子を走らせず、車椅子から立ち上がって戻ろうとするのは、やはり本人は自分が歩けると思っていることの裏返しだろう。


 このことがあり、やはり食後は居室のベッドで過ごしてもらうことになった。

 ただし、これまでの居室環境のままだと危ないため、居室環境をガラリと変えることになった。

 竹本さんがよく使う私物はベッドの周りに集め、車椅子は居室のドア付近に置く。

 そして万が一立ちあがろうとして転んでもリスクが小さくなるよう、ベッドの高さを一番低い位置に設定し、ベッドの脇にはそれまで夜間帯に使っていたマットを日中の食後にもひくことになった。

 この対策がパソコンの記録に更新され、全員が共有し、ようやく万全の体制が整ったかと思われた。

 しかし、この対策を立てた翌日。最悪の事件が起きた。



 ガタンッッ!バタンッ!

 午後四時頃、住吉が一二三号室の水原ヨネさんの排泄介助を行っていると、上の階から何やら激しい物音がした。

 何事だろうかと思わず上を見上げる。嫌な予感がした。

 誰かが何か物を倒しただけならまだいいが、そうでなかったら一大事だ。

 目の前のヨネさんの排泄介助を応急的に中断すると、住吉は確認しに行くためにドアを開けた。


 するとその瞬間、住吉の目の前をもの凄い速さで施設長の山上が駆け抜けていった。

 突然の出来事に住吉がぽかんとして階段の方へと消えていった山上の残像を見ていると、事務所で事務作業をしていたはずの鶴見や呉田も住吉の視界を横切り、必死の形相で山上のあとを追っていった。

 やはりただごとではないようだ。

 施設内の空気もどこかピリピリと張り詰め、住吉がヨネさんの居室に入るほんの数分前の時とはどこか違っているように見える。

 住吉は無意識に山上達の跡を追って駆け出していた。


 住吉が二階への階段を目指し駆けていくと、食堂から慌ただしく出てくる真理子に遭遇した。

 真理子は緊迫した表情で「竹本さんが転倒したって!」と言うと、その勢いのまま二階へ駆け上がって行った。

 嫌な予感が的中してしまった。

 住吉も急いで真理子のあとに続く。今、自分が現場に行ったところで何が出来るとも思わないが、とにかく居ても立っても居られなかった。



 二階に出ると竹本さんの部屋の二二〇号室は開け放たれ、中の喧騒が廊下まで響き渡っていた。

 真理子に続いて部屋の前に着いた住吉は室内を見て息を飲んだ。

 隣では真理子も同様に言葉を失っていた。


 山上らが取り囲む中では、先程までベッドで寝ていたはずの竹本さんが床に倒れ、頭や手から血を流している。

 そしてそんな竹本さんに対し山上や鶴見が必死に声をかけていた。

 竹本さんは目も虚ろな状態だが、山上らの呼びかけにはその都度応答していて意識はあるようだった。

 しかし、次に気になるのはやはり足の状態だ。

 今度また骨折してしまうと再び歩けるようになる可能性は極めて低くなる、という医師の診断内容が住吉の頭に浮かんだ。

 足には出血などはっきりした外傷は見られないが、床に倒れたままピクリとも動かない足は見る人の不安を掻き立ててくる。

 加えて目の前の光景は実際に竹本さんが相当勢いよく転倒したことを物語っていた。

 竹本さんのだらりと投げ出された手の先には車椅子が弾き飛ばされたように倒れていた。


 やはり車椅子に乗ろうとして転倒したのだろうか。

 そうだとしたら、完治していない足の骨が再び折れてしまった可能性は十分ある。

 これは施設としては責任を持って絶対に防がなくてはいけない問題だった。

 そしてさらに問題なのが、この出来事が本来防ぐことの出来た事故だということだ。


 竹本さんはレクリエーションが終わった後、スタッフの介助のもといち早く居室に戻りベッドで横になっていたはずだ。

 それなのに何故車椅子がベッドの近くにあるのか、何故ベッドの高さが高いままになっているのか、何故ベッド脇にマットが敷かれていないのか。目の前の居室環境は問題だらけだった。

 当然これには山上や鶴見も気づいているだろう。言及しないのは今がそれどころではないというだけだ。


 少しして呉田が呼んだ救急車のサイレンが聞こえてきた。

 救急隊員が駆けつけると、山上が付き添い竹本さんは退院してからおよそ一週間で再び救急車で病院に運ばれていった。



 残されたスタッフ達はしばし呆然と立ち尽くしていたが、鶴見の指示でひとまず業務に戻ることになった。

 今回の事故について話し合わなければいけないことは多々あるが、まずは中断している業務を再開することが先決との判断である。

 加えて鶴見は山上が病院から帰ってきたら全スタッフ参加の臨時ミーティングを開くことを通知し、その場は一旦解散となった。



 竹本さんの転倒による救急搬送の件はすぐに施設内の全スタッフと多くの入居者の知るところとなり、住吉らが業務に戻ってからも施設内の空気は重苦しかった。

 住吉が入居者の誘導を終え、食堂の清掃をしていると、パントリーで業務にあたっていた真理子が呟いた。


「竹本さん、無事だといいんだけど」


真理子は竹本さんの部屋を出てからずっと沈痛な面持ちをしている。


「大丈夫ですよ。頭はちょっと怪我しちゃったかもしれないですけど、足はきっと大丈夫ですって」


 小佐田がすかさず軽い調子でフォローし、空気を変えようと努める。

 それでもなかなかいつもの調子を取り戻さない真理子に対し、小佐田は焦って話題を変えた。


「それより問題は誰が竹本さんを誘導したかってことですよね」


 小佐田のいきなりの核心をつく発言に真理子の肩がピクリと反応した。


「ベッド下げないで、マットも敷かないでって何もやってないじゃないですか。また門脇さんじゃないんですか?」


「門脇さんは今日は夜勤だからまだ出勤してないよ」


 住吉が口を挟んだ。


「じゃあ他にも適当な仕事をしてる人がいるってことですか?」


 小佐田が考えるポーズをした時、ナースコールが鳴った。榎本さんだった。

 普段なら無言の押し付け合いになるところだが、この時は住吉が積極的にナースコールに出ると、そのまま対応に向かった。


 疑心暗鬼になった重い空気に耐えられなかった。

 また先日の山際さんのアザの時のような空気になると思うと、この後のミーティングも憂鬱だ。

 しかも今回は最終的に犯人を特定しなければならないだろう。

 それほどに責任を問われる重大事故だった。

 今の門脇の状況を見ると、彼が犯人じゃないということにはひとまず安心出来る。だがそれは裏を返せば、小佐田が言うように門脇の他にもルールを無視していたスタッフがいたということになる。それはいったい誰なのか。

 事故が起きた時間帯がはっきりしている今回の犯人探しは簡単だ。

 しかし、住吉は頭を振ってその思考をリセットした。どうせこの後のミーティングで否が応にも答えが出るのだ。

 住吉は竹本さんの事故の件をひとまず頭の片隅に置いておくと、一〇八号室の居室のドアをノックし、榎本さんの不機嫌な声に迎えられながら室内に入った。

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