プロローグ 歓迎会
「ロミオ。あなたはどうしてロミオなの……かしら?」
たどたどしいジュリエットのセリフを口火に、ロミオとジュリエットの名シーンが始まった。
舞台上の住吉圭は最近のハロウィンの仮装にも遠く及ばない年季の入ったみすぼらしい衣装に身を包み、この次に控える自分の台詞を思い起こした。
台本の自分のセリフがある箇所には事前にざっと二、三度目を通している。
(大丈夫。七割は覚えてるはず)
ここからはジュリエットの長台詞だ。
住吉は眼鏡の位置を直すと、心を落ち着かせ、ジュリエットのセリフが終わるのをじっと待った。
しかし、このセリフが本当に長かった。
「お父様と縁を切り、どうかお名前を捨ててください。もし、それが嫌なら……、あっ、もしそれが嫌なら私を愛してると、誓って下さい。えーっと……そうしたら私は……名前を捨てる……」
ジュリエットのハスキーな声は消えいるようにだんだんとか細くなっていき、最後の方のセリフは聞き取れないほどになっていった。
そして沈黙が訪れた。
観客がざわめき始める。
その時、住吉はハッとした。ジュリエットの次のセリフを待っていたが、もしかしたらもう自分のセリフに移っているのかもしれない。
ジュリエットのセリフに関してはそれぞれ最後の一文ずつしか把握していないため、住吉には判断がつかない。
住吉はパッと顔を上げた。そして同じくみすぼらしい衣装を纏って、舞台上に立っているジュリエットの方へと視線を向けた。
そこには、そんなみすぼらしい衣装には不釣り合いなほど形の整った、あどけない顔をしたジュリエットがいる。
しかし今、ジュリエットはそんな端正な顔を耳まで真っ赤に染めて立ち尽くし、今にも泣き出しそうな目で、すがるように住吉のことを見上げていた。
(こんな顔をされたら惚れてしまう)
住吉は思わずそんなことを思ったが、すぐにその思いを振り払った。
それは目の前のジュリエットが女の子だったらの話だ。
目の前でジュリエットを演じる小佐田浩一はその名の通り男だった。男が化粧をつけて女装をしている。
それでも元々が童顔な美少年のため、女装をすると美少女でも通ってしまう。
実際、登壇時には観客から「あら、可愛いねぇ」、「誰の娘さん?」と声をかけられていた。
たしかに可愛いことは疑いようがないが、住吉にはそのような趣向はない。
それにすがるような顔をされても、アドリブで他人のサポートができるほど現状を把握出来てもいない。
住吉は覚悟を決めると、文脈に構わず次に自分が言うはずだったセリフを吐き出した。
「黙ってもっと聞いていようか。それとも声をかけようか」
自分でも驚くほどの棒読みだがセリフは間違っていないはずだ。
沈黙だった中、何をもっと聞いていようというのかは自分でもわからないが。
この次はまたジュリエットのセリフだ。
しかし、ジュリエットは先程の失敗による動揺からまだ立ち直れていないようだった。
「私の敵はモン……モンテスキュー?だけです。……あなたは敵じゃない……」
台本のセリフとはまるで違うはずだが、小佐田の泣き顔がこれで限界だと訴えかけていた。
住吉は淡々と自分のセリフを発する。
「お言葉通りいただきます。そうすれば今日から私はロミオではなくなります」
住吉は覚えてる限りのセリフを吐き出した。こんなセリフだったか、意味が通っているかは自分でもわからない。
「何言ってんのか全然わかんないわよ」と観客席から野次が飛んでいるところをみると、意味は通っていないかもしれない。
それでも住吉はこの時間が早く終わるようにとただひたすらに願いながら、自分のセリフを機械的に吐き出すことに徹した。
その後も赤い顔のジュリエットと機械的なロミオの構図は改善することのないまま物語は進み、それどころか新しい登場人物が出てくるたびにこのグダグダな寸劇は輪をかけて酷くなっていった。
「お嬢様!」と登場したマッチョで髭面なロミオの乳母は舞台上に姿を現すなり、「もっと女らしくしなさいよ」、「嫌ねえ。品がなくて」と観客席から辛辣な野次が飛ばされた。
この乳母ももちろん男の女装なのだが、小佐田の女装とは違い非常に見苦しい。いわゆる内輪ネタとしての女装だったが、観客に伝わっていないのが残念だった。
そもそもこんな小規模の寸劇の中では存在意義から疑わしい乳母役は、このマッチョな髭面男が女装するために用意された役である。
観客が満足しているかは別にして、彼の違和感満載の一挙手一投足に観客がいちいち反応する様は、企画者が期待していた通りのものだろう。女装した本人もノリノリで楽しそうだが、同じ舞台上でセリフを交わす住吉からしたら地獄のような時間だった。
それでもこの男同士のロミオとジュリエットはなんとか愛を誓い合い、ロミオは結婚式の執行を頼むため、修道士のもとへ行った。
しかし、この修道士もやっかいだった。高齢で耳の遠い修道士は周りとセリフが噛み合わない。
特に周りのセリフに配慮しないロミオとの絡みは致命的だった。
「お願いします。どうか私にジュリエットと結婚させてください」
「……」
「お願いします。どうか私にジュリエットと結婚させてください」
「……」
「……」
「この縁組が両家の仲を取り持つことになるかもしれない」
「ありがとうございます。力を貸していただき恩にきます」
「そこまで固い意志を持っているのならば力を貸そう」
「……」
少しの沈黙を挟み暗転する。
住吉は再び舞台に戻る際、この目も当てられない目の前の寸劇を観客はどう見ているのだろうと気になり、ふと観客席を見た。
観客席と言っても簡易的に椅子がバラバラと並べられているだけのものだ。
そこには小さく笑っているお婆さんもいれば、隣席の人と真顔で文句を言いあっているお爺さんもいる。野次を飛ばすお婆さんもいれば、憐れんだ目を向けるお婆さんもいた。
観客は全員高齢者だ。
その観客席の後ろにはスーツを着た男性や紺色のお揃いのポロシャツを着た数人の女性たちが並んで立見している。彼女たちも観客達と同じように三者三様の反応をしている。
住吉はその中で困ったような笑顔を浮かべて舞台を見ている若い女性に目が留まった。すると住吉の視線を感じたのか彼女もこちらに視線を向けた。
二人の目が合った瞬間、住吉は不覚にも機械的に演じていた集中の糸が切れ、恥ずかしさを思い出した。
(意識しないようにしてたのに……)
頭の中が真っ白になった。
観客席の方から「男らしくしなさいよ」と野次が飛んでいる。もしかしたら顔もジュリエットに劣らないほどに赤くなっているのかもしれない。
ここからはロミオが仮死状態のジュリエットを発見するシーンだ。住吉の一人台詞が続く。
しかし、元々定着していなかったセリフは頭の中から綺麗さっぱり消え去っていた。
ただ心臓がうるさく鼓動する音だけが聞こえる。
この時間が一生終わらないんじゃないかとそんな錯覚に囚われる。
住吉が黙り込んでいる今、会場はどんな状況なのだろう。
視線を感じ足元を見ると、眼下では薄目を開けたジュリエットが仲間に同情するような視線で住吉を見上げていた。
情け無いが、おかげで少し正気に戻れたような気がする。
もう諦めよう。無理なものは無理だ。なるようになれ。
住吉は汗にまみれた手を腰に回し、持っていた小道具の短剣を取ると、それを高く振り上げ自分の心臓部をめがけて静かに振り下ろした。
観客席から悲鳴が聞こえた気がした。
住吉がジュリエットの傍に倒れ込んだ時、彼の驚きで困惑した目が視界に映った。
ロミオが死んだ今、この次はだいぶ前倒しだが仮死状態から回復したジュリエットのセリフのはずだ。
もう死んだロミオの出番はない。
後で劇が終わったら時間がおしてたからだとか言い訳をしよう。
そう思うと、役目を終え安心した住吉は静かに目を閉じた。