第9話 ジャイさん的ジャイアニズム
「おはようございます」
ぼんやりとパソコンの画面を眺めながら、ボールペンを手の上で回していた時だった。頭上からの声にびっくりして顔をあげようとした瞬間、ボールペンがコロコロと床の上を転がっていった。
「お、はよう、ございます」
仕事をサボっていたのを見られた。そんな焦りがまじって、声がどもる。意識は頭上の声よりも床に落ちたボールペンに向かっていたから、誰に声をかけられたのか、確認もしなかった。
机の下にもぐりこんだボールペンを拾おうと、椅子から立ち上がる私よりも早く、挨拶をしてくれた男がさっとボールペンを拾ってくれた。
「ありがとうご……」
やっと顔をあげた私の目の前にいたのは、グレーのスーツに身を包んだジャイさんだった。
朝っぱらから(と言ってももう十一時過ぎてるけど)清々しい笑顔なのが、よけいにうさんくさい。
「なんだ、あんたか」
「なんだ、あんたか、って失礼だなあ。はい、ボールペン」
「ありがとう」
差し出されたボールペンをわざと嫌そうに受け取る。
ジャイさんはそんな私の態度を気にも留めず、ニコニコと笑みを浮かべながら、「この後、お時間ありますか?」と問いかけてきた。
「ありません」
ジャイさんとのんびりする時間なんてない。
「冷たいなあ、佐村さんは」
苗字で呼ばれ、はっとする。ついついくだけた口調でしゃべってしまっていたけど、ここは社内だ。私たちの会話を誰かが聞いていたら、変に思われるだろう。
会社でつい先日知り合ったばかりの取引先同士、それが私とジャイさんの表向きの関係だ。
知り合って間もないことには変わりないけど、ある意味で深い仲なのだ。馴れ馴れしくして、同僚に何かあるのかと疑われるのは避けたい。
こほん、とひとつ咳払いをして、態勢を立て直す。
社内では礼儀のある態度を取るのが、社会人ってもんだ。
「システムの件で、お時間をいただきたいんです」
ジャイさんもその辺はわきまえてるのか、慇懃な態度を取ってくる。
私もそれに倣い、ぴしりと背筋を伸ばして、会社用の声色にチェンジさせた。
「かしこまりました。ええと、時間は決まってます?」
「そうですね、昼過ぎだったらいつでも」
「それじゃあ、一時に」
「はい。これ、新しい資料ですんで。見ておいてください」
A4の封筒を受け取ると、ジャイさんは一瞬、にやりと笑った。
爽やかさを撒き散らかすような笑顔(どう見ても営業スマイル)の裏に、こっそり隠してる本性を垣間見たような……してやったりと言わんばかりの笑顔は、飲みに行った時にたびたび見せられたジャイさんの素の顔のように思えた。
「それでは、後ほど」
頭を小さく下げて、ジャイさんはフロアを出て行った。
その背中を見送った後、椅子に体を投げ出すように座って、ジャイさんからもらった封筒をあけた。
十枚ほどの資料の表紙にフセンが貼ってある。
不審に思いつつもフセンだけを取ってこっそりとそれを読んだ。
『お昼、ご一緒しませんか? 穴場を知ってるんですよ』
***
お昼、フセンに書かれていた待ち合わせ場所に、仕方なく行くことにする。
会社の誰かに見られた日には、しばらく噂になるだろうし、そんなくそめんどくさいことになったらたまったもんじゃない。
ここであったが百年目。ばっしっと一言、何か言ってやらないと!
会社の裏にある小さな寿司屋の横を入った路地が、ジャイさんとの待ち合わせ場所だった。確かに人目には付きにくい場所だ。
すでにジャイさんはそこにいて、煙草を吸って時間をつぶしていたようだ。私に気付くと、煙草を携帯灰皿になすりつけ胸ポケットにしまい、にっこりと笑顔を私に向けてきた。
「凛香ちゃん」
「馴れ馴れしく名前で呼ばないで下さいって、この間言ったはずです」
「りんりん、こっちこっち」
「馴れ馴れしいっていう言葉の意味、知ってますか?」
「知ってるよ」
事も無げにそう答えて、ジャイさんは歩き出してしまう。
この間といい、私、どう考えてもこの人のペースに巻き込まれてる。
ものすっごい腹立たしい!
「こんな薄暗い場所に連れ込んで、どこ行くんですか」
狭い路地裏は薄暗く、ビルに囲まれているからよけいに暗さが増す。太陽の光の届きにくいからなのか、なんだかかび臭くて鼻がむずむずする。
「ラブホ?」
「昼から何する気なの! 変態!」
「冗談に決まってるじゃん」
ジャイのやろう……。
「ここ、うまいんだよ」
狭い道をぬけ少し進んだところに、パッと見は普通の一軒家のような佇まいのお店があった。
格子の玄関に『浅木屋』と書いてあるから、なんとかお店だとわかる。
「何屋さんなの?」
「和食だね」
「ふうん」
隠れ家的な雰囲気に、急にお店に対する興味がわいてくる。ジャイさんの後ろにくっついてお店に入って、あたりをきょろきょろと伺う。やはりお店の中も普通の家のような造りだった。
しばらくすると、店員さんが来てくれた。割烹着を着た、どこにでもいる普通のオバチャンだ。
「いらっしゃいませー。どうぞー」
すぐ横の部屋に案内される。すでにお客さんが何人かいて、皆おいしそうにご飯を食べている。
お膳にのった料理はカツ丼だったりうどんだったりだから、本当に普通の和食屋さんのようだ。
ちゃぶ台が並んだだけの畳の部屋だから、田舎のおうちに遊びに来た感覚に近い。
「ここは鶏料理が上手いんだよ。鶏は好き?」
「うん」
ジャイさんと向き合って座り、メニューを見る。鶏料理のメニューが多いから、ジャイさんの言うとおり、鶏がお勧めなのかな。
ランチメニューから、ジャイさんがおいしいと勧めてくれた親子丼を注文して、ふっと一息つく。
ケータイにメールが来ていることに気付いて、ケータイを開いた。
『今週、会える日ない?』
元彼からのメールだ。
深いため息が自然とこぼれる。
昨日来たメールも無視したのに。無視されてるって、気付いてないんだろうか。
「どうしたの? ため息ついて」
「……元彼から。会えないかって言われてるの」
「会わないの?」
「会うわけないじゃない。会ったところで、どうなるってもんでもないんだから」
切れ長の瞳を私に向けて、興味津々だと言わんばかりに目を輝かせてる。
私の恋愛事情を楽しんでんのか?
「会わないほうがいいよ。俺がいるんだし」
「いや、あんた関係ないし」
「凛香ちゃん、つめたーい」
……殴りたい。グーで。